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スーダン和平合意の内実 ジェラール・プリュニエ 訳/ジャヤラット好子 (Le Monde )
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/799.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 26 日 06:16:28: ogcGl0q1DMbpk

スーダン和平合意の内実

ジェラール・プリュニエ(Gerard Prunier)
フランス国立学術研究センター(パリ)研究員、
エチオピア研究フランス・センター(アジスアベバ)所長

訳・ジャヤラット好子

http://www.diplo.jp/articles05/0502-2.html

 20年間におよびスーダンを引き裂き、多くの犠牲者を出してきた紛争に、ついに終止符が打たれるのだろうか。2005年1月9日、ハルツームの政権とスーダン人民解放軍(SPLA)の間で調印された和平合意では、権力と石油資源の配分が規定された。しかしながら、その将来性については不確実さをぬぐいきれない。今回の合意からは反対勢力のかなりが除外されており、またダルフール紛争については解決を見ていないからだ。[フランス語版編集部]

 2005年1月9日、ナイロビ(ケニア)で調印された和平合意によって、21年間にわたってスーダンを切り裂いてきた紛争が終結した。この紛争は、150万人近くの死者と400万人以上の国内避難民を出し、隣接諸国に60万人の難民を流出させてきた(1)。不可能と見られていた和平交渉が、2年半という期間で、政治面だけでなく経済面にもかかわる合意へと漕ぎ着けられたことを「国際社会」が喜ぶのは当然のことだろう。

 しかし、気を抜くのはまだ早い。というのは、西部のダルフール地方では極めて暴力的な紛争がなおも続いており、これについてはナイロビ合意に入っていないからだ(2)。それに、キリスト教系ゲリラとイスラム原理主義運動という異質な勢力からなる政権担当者に、今回の複雑きわまりない取り決めを実施させるのは困難だろう。しかも、北部と南部の双方に、交渉に加われなかったと不満を表明する反対勢力がいる。

 南北スーダンの内戦は、文化的・宗教的な側面を合わせ持ち、半世紀の昔にさかのぼる。1955年8月、まだ英国がこの国から撤退していなかったころ、軍の将校クラスを英国人からアラブ人に代えることが発表されたために、黒人兵士からなるエクアトリア部隊が反乱を起こした。この内戦は、1972年2月のアジスアベバ和平合意によって終結するまで、17年間も続いた。この和平合意によって準連邦制が導入され、南部の三つの州には若干の自治権が与えられた。ところが1979年に、南部で油田が発見され、その1年後には、ナイル河の水をエジプトに運び去る巨大な運河の開削(ジョングレイ運河プロジェクト)が始まったことから、ヌメイリ大統領はアジスアベバ合意を一方的に破棄するに及んだ。

 1983年5月、スーダン軍の黒人部隊が再びアラブ人の司令官に対して蜂起すると、戦争が再発した。このとき、ジョン・ガラン大佐が反乱軍の指揮権を握り、スーダン人民解放軍(SPLA)を創設した。ヌメイリ大統領が米国の支援を受けていたため、反乱軍はメンギスツ大佐の支配下にあったエチオピアと、その社会主義陣営の同盟国に支援を求めた。1991年5月、冷戦の終焉とともにメンギスツ体制が崩壊すると、SPLAは大きく弱体化し、敗北に追い込まれる寸前となった。しかしながら1993年以降、ウガンダのムセヴェニ政権が、失墜したエチオピアに替わることになる。この間、1989年に首都ハルツームにイスラム原理主義政権が確立されたことで、SPLAはウガンダ政府ともども、非常に米国寄りになっていった。

 1990年代を通じて、これといった成果もないまま試行錯誤を繰り返したスーダン政府は、9・11を境にして和平交渉に本腰を入れることになった。イスラム主義政権は、アル・カーイダの創設時に支援を与えていたせいで、米国の軍事介入を懸念したのである。こうして2002年、ケニアで交渉が開始された。スーダン政府は、いずれ地政学的な均衡が変われば過大な譲歩をせずに済むかもしれないとの望みのもとに、議論を長引かせた。イスラム主義政権が包括的な合意を受け入れるには、2004年11月(ブッシュ大統領の再選)まで待たなければならなかった。

 そうこうするうちに2003年2月、西部のダルフール地方でも、中央政府に対して暴動が起こった。これにより、スーダンの主要な問題が、ナイル川流域のアラブ系住民からなる少数エリートによる権力の独占であって、宗教問題ではないことが示された。というのも、ダルフールの住民は100%がイスラム教徒であり、2年前から繰り広げられている内戦は、やたらに言われてきたような「アラブ系とアフリカ系の抗争」ではないからだ。全住民がアラブ系であるコルドファン地方へとゲリラ活動がじわじわ広がった事実からも、紛争が宗教的・人種的というよりは、むしろ経済的・政治的なものであることが分かる。

石油収入の配分

 2005年1月9日の和平合意は、一つの合意ではなく、いくつかの合意の総称である。これらは2002年夏以後、個別の問題に関し、それぞれ別々の日に調印されている。2002年7月に調印された最初の合意は、調印地となったケニアの小都市の名前から「マチャコス議定書」として知られる。これは、6年間の暫定期間を経たのち、スーダン南部で自決権に関する住民投票を行うというもので、暫定期間の前にさらに6カ月間の暫定準備期間が設けられ、合わせて6年半となる。敵対勢力は2003年9月には、「治安の取り決め」について合意に至った。北部の部隊が南部から撤退し、SPLAが北部から撤退し(3)、「合同部隊」が創設されることになる。員数はおよそ4万人、SPLA出身者と正規軍出身者と半々で構成される。この部隊は南部の三つの州、およびSPLAが部分的に占領する南北境界地域(アビエイ地帯、ヌバ山地、青ナイル州南部)に駐屯し、合同司令部が設けられる。SPLA側も政府側も、合同部隊のほかに、それぞれ南部と北部で独自の軍事力を維持することが認められる。

 2003年12月には、「富の配分に関する合意」が成立した。そこでは、土地問題の決着、財務省の運営、北部のイスラム銀行(4)と南部の一般銀行からなる二重銀行制度の確立、税関の管理と税制などが定められた。なかでも重要なのは、莫大な石油収入の配分に関する規定である。というのも、1999年にヘグリーグ=ポートスーダン間でパイプラインが完成し、以後この国は中規模の産油国となっているからだ。国際相場からすると、1日の産油量39万バレルは、1年で19億ドル近い収入となる。エネルギー省は、2005年末までに1日50万バレルにまで引き上げるという生産拡大プランを打ち出している。原油価格が保持されれば、向こう1年間に配分すべき石油収入は、25億ドル以上にのぼる(5)。富に関する合意によれば、オイルマネーは南北間で均等配分されることになっている。

 2004年5月には、さらに三つの合意が調印された。第一の合意が最も重要で、政治権力の共同行使が規定されている。合意文書によれば、バシール大統領が留任し、ガラン大佐は大統領の決定に対する拒否権を持った副大統領に就任する。6カ月の暫定準備期間中は、現行の単独与党である国民会議(NC)が52%、SPLAが28%、北部の反政府派(6)が14%、SPLAに属さない南部の軍事勢力が6%という構成の共同政府が組織される。6カ月の期間内に憲法委員会が、これまで暫定的あるいは独裁的な基本法しか持ったことのないスーダンの新憲法を作成することになる。

 2年後には国勢調査が実施され(最後に行われたのは1982年)、暫定期間の折り返し点となる3年半後に予定された総選挙実施の下地を整える。2004年5月に調印されたもう二つの合意文書では、バハル・アル・カザール地方とコルドファン地方の境界にあるアビエイ地帯、ヌバ山地、および青ナイル州南部の暫定地方行政が規定された。これら三つの地域は、アラブ系とブラックアフリカ系、イスラム教徒とキリスト教徒が混在し、北部にありながら内戦中はSPLAの侵入を受けてきた。2004年12月31日、ケニアのナイヴァシャで最後に調印された二つの文書では、2003年9月の治安合意について、また過去の合意文書すべての実施日程について、様々な修正が加えられた。

30%程度の代表性

 これらの合意の第一の弱点は、調印者の性格そのものにある。ハルツームの政権は、1986年4月に行われた最後の自由選挙で約7%の票を獲得したイスラム原理主義組織、民族イスラム戦線(NIF)の後身である。仮に、この政権にいわば「平和の配当」が認められるとしても、有権者の15%以上を代表しているとは考えがたい。他方のSPLAは、この政権の唯一の政治的パートナーであるとされているが、南部全体を支配しているとはとても言えない。1986年当時に活動していた南部の様々な政党は「隠密裏」に維持されていて、侮れない勢力となっている。また、長いことハルツームの政府を利用してきた反SPLAの民兵集団は、地元に根ざしていない「対敵協力組織」と片付けられるようなものではない。主にボル地方のディンカ人を基盤とするSPLAは、大民族のヌエル人の間で、とりわけ赤道地帯の部族の間では、ほとんど支持されていない。南部の人口が、難民と国内避難民を含めても総人口の25〜30%でしかないことを考え合わせると、ナイロビ合意の調印者は、スーダン人の合計30%程度しか代表していない。残りの70%の国民の立場はどうなるのか。まさにこれが、次期総選挙の最大の未知数だといえる。

 ガラン大佐は賭けに出ている。彼は、南部で失うものを北部で軽く取り戻せると考えている。というのは、一大勢力だったスーダン共産党が消滅し、非宗教左派には組織力がないため、選挙行動に「ブラックホール」が生まれているからだ(7)。ガラン大佐とSPLAは、これらの「アラブ系」有権者に対して自分たちが「ブラックアフリカ系」であるという文化的な違いをぬきにして、彼らの票をかき集められると考えている。だが、それ以前に、だいたい総選挙の開催まで漕ぎ着けられるのだろうか。

 第一の暗雲はダルフール紛争の長期化だ。犠牲者が7万人を優に超えていることは、「国際社会」も認めざるを得なくなってきた(8)。ハルツームの政権にもSPLAにも代表されていないと感じる人間集団を考慮に入れてこなかったことが、この危機的状況によく表れている。ダルフールは、アラブ系(ナイル川流域のアラブ系住民とは異なる)とブラックアフリカ系を合わせたイスラム教徒が全人口を占める地方であり、過去一世紀にわたり、南部と同様の社会・経済的、政治的な疎外を受けてきた。だが、自分たちはイスラム教徒であるとの意識から、ダルフールの住民は忍従に耐え、約束した見返りを決して与えようとしないアラブ系の支配集団の言い分を呑んできた(9)。2002年、SPLAが20年間の内戦から具体的に利益を引き出しつつあるのを目の当たりにした彼らは、交渉テーブルに近付くには暴力しか手段がないと考えて蜂起した。彼らは相変わらず除け者にされており、おそらくは交渉の場に入ることを許されるまで戦闘をやめないだろう。

 南部にしたところで、はたしてハルツームの政権が、求められるような透明なやり方で、石油収入の一部を渡すと考えることができるだろうか。また、SPLAには中央政府の内部で立場を確保できるほど修練を積んだ幹部クラスがいるのだろうか。南スーダンの統治を認められたSPLA政府と中央政府との関係はどういうものになるのか。さらに、もし事態が予定通りに展開しなかったとして、非常に長い暫定期間に不信感を持つ者も多いSPLAの将校たちが、自決権をめぐる住民投票が予定された2011年7月までおとなしく待つだろうか。富める北部と疲れ果てた南部という不平等な分断国家スーダンが、ほんものの平和に至るまでの道のりはまだ長い。

(1) ジェラール・プリュニエ「スーダン和平はまだ遠い」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年12月号)参照。
(2) ジャン=ルイ・ペニヌ「ダルフールの見放された紛争」(ル・モンド・ディプロマティーク、2004年5月号)参照。
(3) 「北部」と「南部」という言葉は、1920年代に英国植民地政府によって定められ、1972年のアジスアベバ和平合意でも認知された国内境界線を基準としている。
(4) その大きな特徴は、利子を付けないことである。イブラヒム・ワード「イスラム金融の現代的発展」(ル・モンド・ディプロマティーク、2001年9月号)参照。
(5) これに関して、欧米系の石油企業はまったく関与していない。生産の90%をナイル石油会社という企業連合が押さえており、その構成比は、中国天然气集団公司が50%、マレーシア企業ペトロナスが30%、インド国営企業ONGCヴィデッシュが25%、スーダン国営企業スダペットが5%である。トタル社(フランス)、ソナトラック社(アルジェリア)、さらにロシアや日本の様々な企業の得たライセンスは、20年間凍結状態にあるか、または生産段階にない。
(6) スーダンの古株の政治家で、民主統一党(DUP)のオスマン・アル・ミルガニ議長に率いられ、エリトリアに退避している国民民主同盟(NDA)が、反政府派を多少なりとも組織化している。
(7) 旧来の民主政党(DUPとウンマ党)は宗教色が強いうえに、うまく機能したとは言いがたい数年に及ぶ政権入りによって擦り切れている。
(8) 25万人に達するとも見られる死者数は、治安が悪化していること、世界食糧計画(WFP)が避難民に食糧を届けられずにいることから、増大する一方である。
(9) 一例をあげれば、フランスほどの広さを持つダルフール地方には、2002年の時点で舗装道路が総計170キロ、医者は住民15万人あたり1人。

(2005年2月号)
All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Okabayashi Yuko + Saito Kagumi
http://www.diplo.jp/articles05/0502-2.html



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