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アブー・マーゼンの担うもの フセイン・アガ(Hussein Agha)他 訳/萩谷良、斎藤かぐみ (Le Monde )
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/800.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 26 日 06:36:38: ogcGl0q1DMbpk

アブー・マーゼンの担うもの

フセイン・アガ(Hussein Agha)
イスラエル・パレスチナ問題専門家、
オックスフォード大学セント・アンソニー・カレッジ上級研究員
ロバート・マーレイ(Robert Malley)
元クリントン大統領補佐官、国際危機グループ(ブリュッセル)
中東・北アフリカ・プログラム・ディレクター

訳・萩谷良、斎藤かぐみ

http://www.diplo.jp/articles05/0502.html

 ヤセル・アラファトの後継者としてパレスチナの機関と民衆に選ばれたマフムード・アッバス(アブー・マーゼン)は、根本的な一点をのぞき、ほとんどあらゆる点で前任者と違っている。アラファトの君臨が今日のパレスチナを形作った以上、その死はそこに大変動をもたらすだろう。アブー・アンマール(アラファト)は、異例の指導者であり、1948年の第一次中東戦争直後にパレスチナ人が直面した現実に、きわめてよく合致していた(1)。当時の彼らは、戦い敗れ、土地を奪われ、散り散りになっていて、自分たちを守る力のある国家がなく、とどまれるような領土なく、結束を可能とする政治的戦略もなかった。家族、氏族、階級へと分断されて、中東諸国、さらにはそれ以外の地域にまで散り、さまざまな野心に翻弄され、あらゆる思惑の餌食にされていた。アラファトは、歴史をくぐり抜けてきた体験と、その個性、カリスマ性、抜け目なさによって、説得と圧力を使い分けながら、強運と同時に刻苦精励もあずかって、パレスチナ人の目にも、世界全体の目にも、全パレスチナ人を代表する存在たることに成功した。

 当初から彼は、民族の統一という目標を最優先とし、それなくしては何事もなしえないと見ていた。彼は、外に離散した者と領土内に残った者、1948年に土地を奪われた者と1967年の占領にあった者、ヨルダン川西岸の住民とガザの住民、老若、貧富をとわず、正直者も卑劣漢も、近代主義者も伝統主義者も、戦闘員も平和主義者も、イスラム主義者も無宗教者もあわせ、パレスチナ人すべてをつなぐ存在だった。国家指導者であるとともに、部族の一員、家族の長であり、仕事を与え、苦しむ人々を助ける者であり、世俗の民族解放運動指導者でありながら信心深いイスラム教徒として、パレスチナの雑多な社会集団の立場が対立あるいは矛盾する場合にも、彼らの卓越した代表者であろうとした。アラファトの手法は往々、批判と嘲笑を買ったが、その地位が問題にされることはほとんどなかった。彼の政治的手法を踏襲するパレスチナ人指導者がほかにいるとは思えない。占領が続くかぎりはないだろうし、さしあたりはありえない。

 アブー・マーゼンは、アラファト同様にまれな人物、真にパレスチナ民族全体を代表しうる人物である。だが、二人の手法には根本的な違いがある。アラファトは、あらゆる政治集団あるいは党派に同化することによって民族のシンボルとなったが、アブー・マーゼンはどこにも同化しないことによってそうなっている。アラファトは地元の問題にいちいち口を出した。アブー・マーゼンは、そうした問題を適当にやり過ごし、民族運動全体に奉仕することを主に考えている。精力の枯渇することない「ご老体」は、まめに足を運び、迫力に満ちた弁舌を振るうことによって支配した。新議長は、口数の少ない目立たない風貌の人物で、華やかな脚光を浴びることを避けながら経歴を築き上げてきた。アラファトの死とともに、パレスチナの政治は、重みがものを言う時代から、軽みの時代に移行したのかもしれない。

 アラファトは、ボルヘス的な世界に住んでいた。そこでは、ある物とそれに対立する物が、同時に同じ場所に存在しうる。語の意味よりも言葉のインパクトが重要であり、神話が事実と混じり合って現実となる。それに比べてアブー・マーゼンの世界は、事物の秩序にかなうと広く認められるような、なじみのある物事に根差している。彼の語ることは受け入れやすく、彼の現実には過去の亡霊があまりつきまとっていない。そこでは両義性の政治は退けられ、冷静で論理的な理性の政治が推進される。

 アブー・マーゼンは信念の政治家である。言い換えると、いわゆる政治屋のたぐいではない。権謀術数の徒ではなく、行動はほとんどの場合、その性格と気質の自然な発露である。彼の数多くの成功も、また多数の失敗も、ここに発している。深い倫理的感覚と、政治的な機会便乗主義への軽蔑と、理性の力に対する過剰なまでの信頼に拠って立ち、反論や無視にあっても、めったに屈したり争ったりすることはない。論理と道理は己にありと確信し、また、他の人々も論理と道理に従うものと確信しており、人々のものの見方が自分と同じようになるのをしんぼう強く待とうとする。彼にはおよそ、人心操縦家、ペテン師、陰謀家の要素はない。それが、他の人間の人心操縦、ペテン、陰謀をあまり許容できない理由でもあるだろう。アラファトとの、浮沈の絶えなかった関係の秘密も、まさにそこにある。彼は「ご老体」に反対するときには躊躇しなかったから、そのあとは、ことを構えるか妥協するよりも、孤立するほうを選んだ。アラファトは、アブー・マーゼンが(その大方の朋輩とはちがって)機会に便乗しない真摯な人間だと知っていたので、彼に寄せる信頼を失うことはめったになく、つねに彼を許していたのである。

 アブー・マーゼンは、信仰の深いイスラム教徒でもある。イスラムを心の拠り所としつつ、それが政治に介入することを忌み嫌っており、毎日の祈りとラマダンの断食を欠かさないが、そうしたことを公共の場で見せびらかすような真似はしない。彼にとって、宗教は個人の信仰の問題であって、人に見せるものではなく、まして公共の規制の対象ではない。彼はハマスやイスラム聖戦の指導者と頻繁に接触するようになったことで、ひとつ意をつよくすることができた。自分も彼らに劣らずよきイスラム教徒だとの確信から、「イスラム主義」の政治屋に会っても、相手をイスラム主義者としてではなく、単なる政治屋として見るようになったのである。

 さらに重要なのは、彼には、譲歩も放棄もよしとしない一連の原則があることだ。1999年秋、エフード・バラクがイスラエル首相に選ばれたあと、アブー・マーゼンは米国政府高官に対し、最終合意に向けた単純明快な提案を示している。それは、1967年の境界線の内部にパレスチナ国家を作り、東エルサレムを首都とし、難民の帰還権という原則を認めるというものである。このような条件の下でなら、国際法にのっとって、話し合いをする余地がある。一部のイスラエル入植地に配慮するために、小規模かつ公平な土地の交換に応じてもよい。ユダヤ人は、彼らの聖地に支障なく詣でることができるようにする。難民の帰還の実施にあたっては、イスラエルの人口動態上の利害に配慮する。

目的と手段は不可分

 しかし、まずはこうした提案を認めさせることが何より大事だった。それなしには、国際的な正統性も、公正な和平もありえなかった。米国とイスラエルは彼の提案を無視した。以後の交渉は、あらゆる基本原則から切り離され、バザールの駆け引きの様相を呈した。ヨルダン川西岸のうちパレスチナ人に返還されるべき地域の比率は二転三転した。東エルサレムの一部地区に関する主権の認定や、イスラエルが受け入れる難民の数についても同様だった。このような交渉のやり方ほどアブー・マーゼンにとって心外なものはなく、ろくな結果にはならないように思われた。それは、パレスチナ人にとって有害無益であり、イスラエル人に対しても(パレスチナ人の譲歩の範囲について誤った期待をいだかせるだけに)不誠実なことだと感じられた。

 アブー・マーゼンは、2000年7月のキャンプ・デーヴィッド首脳会談までの交渉のなりゆき(2)に心穏やかではなかったが、それに続いて起こった武装蜂起には頑として反対した。久しく以前から彼にとって、暴力は、無益であると同時に理不尽な選択肢であり、あえてパレスチナのいちばん弱い武器でイスラエルのいちばん強い部分に攻撃を仕掛けるようなものだった。彼は暴力の費用対効果を計算する。あまりにも多くのコストが費やされるのに、得られる利益はあまりにわずかだ。イスラエルはいよいよ結束を固め、米国は立場を明確にし、「国際社会」は背を向け、パレスチナ自治政府は瓦解状態になった。

 彼によれば、目標とすべきは逆に、イスラエルの諸勢力との関係を回復し、米国政府に理解できる言葉で語り、世界をパレスチナの大義に結集させることだった。そのためには、パレスチナ人は、情勢を安定させ、域内の秩序を回復し、武装民兵を取り締まり、透明で集権的な機構を確立し、そして何よりもイスラエル人に対する攻撃をやめなければならない。彼の目には、目的と手段は不可分である。闘争を行う仕方が、闘争そのものに対する評価を左右するからだ。パレスチナ側が自制すれば、国際的な支持は高まり、彼らの理にかなった要求をイスラエル側も受け入れやすくなるはずだ。

 多くのパレスチナ人にとって、圧力より説得を優先させるというのは、危険な賭けである。彼らはアブー・マーゼンの見解に反対する。対立を軍事化してきたのは自分たちではなく、イスラエルである。第二次インティファーダの最初の数週間、犠牲者の大多数はパレスチナ人で、イスラエル人ではなかった。非公式に停戦が試みられたとき、それを妨害したのはイスラエルだった。それに、もしパレスチナ人が闘争をやめたとしたら、それは一方的な武装解除に等しく、圧力を行使する手段が一切なくなってしまうではないか。

 アブー・マーゼンの見方は、長年にわたるイスラエルとイスラエル人に関する経験によるものである。かつて1970年代に、彼はアラファトとハリール・アル=ワジール(アブー・ジハード)(3)の三人で、対イスラエル交渉を担当していた。最初は、イスラエル社会ではあまり影響力のない反シオニスト活動家が交渉相手だった。その後、接触の範囲が少しずつ広がって、イスラエル国内のアラブ系市民、シオニスト左派、穏健派の元軍人、そして労働党員も含むようになっていった。1993年夏のオスロ秘密合意で中心的役割をはたした彼は、それ以後、さらに歩を進めた。一見あまり交渉相手になりそうにないが、しかし彼の見るところ決定的に重要な勢力、リクードと正統派ユダヤ教徒との対話を始めたのだ。

 彼はこうした交渉の経験から、複雑に入り組んだイスラエル社会の望みが、そのくせあっけないほど単純なこと、つまり安全に平穏に暮らすことに帰すという判断に達した。彼の信念によれば、大多数のイスラエル人は、もしそれを提案されれば、ゆるぎない公正な和平に必要な譲歩をする気になるはずだ。パレスチナ人の中には、これをお人好しもいいところ、と片づけたり、あまりに現実主義だと見る者も多い。

 忠実な信奉者をもたないアブー・マーゼンには、ほんとうに対立する勢力もできなかった。彼が比較的、支障も反対もなく権力の座についた理由はここにある。4年間にわたって死に物狂いの破壊的な闘争を続け、唯一の歴史的指導者を失ったパレスチナ人は、衝撃と不安と疲労のうちにあった。パレスチナの市民社会も組織集団も、後継者争いを望んではいなかった。アブー・マーゼンを意中の候補として担ぐつもりのあった党派はひとつもなかったと思われる。ただ、諸党派のいずれにとっても、彼は無理のない選択肢ではあった。実際、全土的に知名度があって、歴史的正統性を備え、真に民族全体を代表して語ることのできるパレスチナ人は、もはや彼をおいてはいなかった。ほかのいかなる指導者を選んだとしても、長期にわたり、多くの犠牲者を出し、骨肉相はむような争いが起こることは避けがたかった。今回の選挙は、彼に正統性を与えたというより、彼の正統性を確認したにすぎないといえる。

奇妙な見解の一致

 たくさんの、相異なる利害関心が、彼を軸として重なり合った。アラファトの死がこれまで以上の混乱を招くことを恐れたパレスチナ人は、アブー・マーゼンのうちに、個人の安全と集団の安定の心強いシンボルを見た。多くの者はインティファーダとイスラエルの報復に、ただただ疲れ切っていた。彼らは、アブー・マーゼンこそ、少しばかりの平穏をもたらし、ことによると生活状況を改善してくれることもできる唯一の人物だと見ている。イスラエル当局の追及を受けている戦闘員たちにとっては、特赦を交渉して正常な生活を取り戻させてくれるかもしれない存在である。実業界と特権層は、彼なら自分たちの要求がわかっているし、より自分たちの利益にかなう空気を作り出してくれると考えている。自治政府の発達から生まれた官僚層は、インティファーダによって失われたかつての特典を取り戻すという悲願の達成に、アブー・マーゼンが役立ってくれるだろうと期待している。

 いずれ再開される対イスラエル交渉で自分たちが顧みられないのではないかと恐れている難民や離散パレスチナ人にとっては、アブー・マーゼンが、今ではイスラエル領となっているサファドの町の出身であること、帰還の権利を支持すると繰り返し言明してきたことが、いささかの安心材料となっている。さらに、多数のパレスチナ人が、いまや重みのある唯一の大国となった米国の支持を得ていると考えられる人物のまわりに結集した。彼らの選択は、ある意味で、他者の選好だと思われるものを反映しているのである。

 パレスチナの現状は、奇妙な見解の一致を生み出している。ヨルダン川西岸の住民(近々実施されるはずのイスラエルの撤退によってガザとのつながりが絶たれることを懸念)とガザの住民(ヨルダン川西岸住民がイスラエルの撤退を全力で妨害するのではないかと懸念)の間の不信は、増大する一方である。しかし、双方ともアブー・マーゼンという選択では一致している。いずれの味方でもないと思われており、双方にとって脅威とならないからである。一部のパレスチナ人は、ファタハの新世代が反逆を起こすことを期待していた(4)。しかし、指導者交代の時期は彼らにとって早く来すぎた。すでに分裂を深めていたファタハの指導層に挑みかかるのは、あまりに危険だった。そのため、未来のパレスチナ指導者を自任する者たちは、アブー・マーゼンならば、特定の政治的結びつきをもたず、体制の継続性を保証し、そしてとりわけ、過渡期を担い、近いうちに跡を襲う者のために地ならしをしてもらうには理想的な人物だと考えた。その一方で、古参の忠実なアラファト支持者で、自分たちの特権と地位を守ろうとする者たち(第一にファタハの中央委員)もまた、新興勢力のあまりに性急な野心に対する最後の防波堤として、アブー・マーゼンにしがみついている。

 ハマスとイスラム聖戦の場合、自分たちのプログラムがアブー・マーゼンのそれとは相容れないこと、とりわけ彼が暴力、武力による混乱、武装民兵の存在を拒否することを十分承知している。だが、彼らはすでに彼を相手にしたことがあり、抑え込むのではなく自分の側に取り込むという彼の流儀を合点しているつもりでいる。彼らはイスラエルが彼に成功の機会を与えることはないと確信しており、必要とあらば戦火が再燃するまで忍の一字で待つかまえでいる。米国、イスラエル、欧州、アラブ世界にとってはどうかといえば、アブー・マーゼンは、彼らが切望している諸目標(武力攻撃の終結、パレスチナの諸機構の強化、法の支配)を象徴すると同時に、それらを実現する可能性を備えた唯一の指導者なのである。

 こうした内外の広範な支持勢力には、彼の政治構想に全面的に賛同する者は少なく、いずれ彼が自分たちの意見に同意するようになるだろうと思っている者が多い。とはいえ当面のところ、アブー・マーゼンには比較的自由に語り、行動する余地がある。その余地は彼自身が期待していたよりも、また多くの人々が予想していたよりも、かなり大きい。彼らのほうがアブー・マーゼンに接近したのであって、その逆ではないだけに、かつてアラファトに圧力をかけては懐柔策を引き出していたパレスチナの諸勢力も、ここはおとなしくしている。以前は中心的な位置を占めていた諸勢力は活動停止状態に陥っており、組織的で有意義な対抗勢力を形成する力も意欲もないようだ。アブー・マーゼンがこうした立場を手に入れたのは、第一に、パレスチナの現行指導者の誰にもまして、民衆が今すぐ何よりも求めていることに同調していたからだ。それは安全であり、イスラエル軍やパレスチナの暴力集団による攻撃の心配のない正常な暮らしを取り戻すことである。生活水準の向上と、経済活動の再開である。道路封鎖や外出禁止令をはじめとする屈辱的な仕打ちを受けることなく、移動する自由を回復することである。ここに究極の逆説がある。パレスチナ人は自らの蜂起の前夜の状態、まさに蜂起の原因であったはずの状態に戻ることを望んでいるのだ。彼らの目には、誰よりもそれを実現できるのがアブー・マーゼンだと映っている。

 イスラエル・パレスチナ紛争の今回の局面はシャロンの得点に終わった。シャロンがかねてから狙っていたのは、パレスチナ人が民族闘争に倦み疲れることだ。彼らを貧困や絶望に追いやるのは、それ自体が目的ではなく、目標の達成につながるからだ。疲れ切って、どうにもならなくなれば、パレスチナ人とて政治的な問題を考えるのをやめ、日々の差し迫った関心事で頭がいっぱいになるだろう。


単純明快な賭け

 事態はどうやらシャロンの狙いどおりに進んでいるようだ。アブー・マーゼンが当初から武装蜂起に反対していたのも、この事態を見越していたからだ。パレスチナ人が闘争に嫌気がさすようになったのは、二人のいずれにとっても好都合ではあるが、彼らがそこから思い描くものは大きく異なる。シャロンにとってこの現状は、パレスチナ民族運動を非政治化する好機である。アブー・マーゼンにとっては逆に、これまでよりも健全な新しい基盤に立って、パレスチナ民族運動を再政治化するために必要な一段階である。

 パレスチナ議長は、シャロンとの間で最終合意に達することはほとんど期待していない。隔たりはあまりに大きい。イスラエル首相が持論とするのは長期に及ぶ部分的な暫定合意であり、そこでは国境や、イスラエルの地位、難民の運命といった厄介な問題は先送りにされる。となると、目下は二者間合意の時期ではなく、一方的決定の時期ということになるだろう。つまりイスラエルはガザとヨルダン川西岸北部から撤退し、パレスチナは域内に秩序を回復する。

 アブー・マーゼンはあくまで長期的な和平を協議することを最終的な目標としているが、イスラエルにその態勢が整っているとは思っていない。パレスチナの諸機構と民族運動そのものを立て直し、武装闘争をきっぱりと放棄し、国際関係を修復し、パレスチナ人の譲ることのできない不変の要求を明確に表明する。そうすればシャロン政権後の状況に備えることができ、それまでの間に民衆は、待ち望んでいた平穏をようやく享受できるようになる、というのが彼の考えだ。

 これは間違いなく、大胆な賭けである。現在アブー・マーゼンに寄せられている支持は、広範であると同時に心もとなく、彼個人とそのプログラムへのストレートな賛同というよりも、特殊な状況から生み出されたものだ。現在の恐怖心、不安感、疲弊感はいずれなくなる。その時になれば、パレスチナ人捕虜の解放、入植地の凍結、占領の終結といった政治性の強い要求が再浮上することは確実だ。時間が経つにつれ、選択はさらに難しくなり、公然と敵対する者も増えてくる。

 いま口先で支持を唱えている者の一部は彼を見放し、組織的で有意義な反対勢力が株を上げ、武装闘争への回帰を呼びかける声がつよまるようになるだろう。アブー・マーゼンは、その時までに安定、秩序、生活状態の改善、移動の自由といった目に見える成果をあげておけば、すぐには底をつかない政治的資本の蓄えができると考えている。言い換えれば、一部の集団の支持を失っても、その分は別の集団の支持によって補えるという目算だ。

 アブー・マーゼンの成功は、「国際社会」の支持、特に米国の肩に大きくかかっている。彼はパレスチナのために、暴力の終結と制度改革の実現という宿願を、なんとしても追求するだろう。そこには副次的な効用もある。ブッシュ大統領に自分がした約束を突きつけて、後に引けないようにするという効用だ。米国大統領は一度ならず、パレスチナ人が武装グループを統制し、体制を民主化したあかつきには、存続可能な主権国家をもてるようになるだろうと言明している。アブー・マーゼンの賭けは単純明快だ。パレスチナが約束を守れば、米国も約束に従ってイスラエルに圧力をかけ、パレスチナ議長が是非とも必要とする政治的な歩み寄りを行うように仕向けざるをえない、と踏んでいる。

 アブー・マーゼンはイスラエルにこれから起こる変化にも期待をかけており、平穏が戻ればイスラエル市民も現状維持に甘んずるより包括和平を求めるようになると見る。こうした変化が比較的短期間で起これば、民衆の焦りを抑え、武装闘争への回帰を避けられるだろう。要するに、彼が必要としているのは、パレスチナの民衆が現状に嫌気がさしたあげく自分にも嫌気をささないよう、イスラエルと「国際社会」から十分な動きを引き出すことである。彼は、2003年4月29日から9月7日までの短い首相在職中にも同じ賭けを試みて、失敗に終わっている。だが、当時と比べて少なくとも三つの条件が変わっている。アラファトがいなくなったこと、パレスチナ人の間で彼にチャンスを与えようという気運が高まっていると思しきこと、そしてイスラエルと米国が先の失敗から教訓を学び取る時間があったことだ。

 ここでもまた、アラファトとの違いは歴然としている。アブー・マーゼンが現在の立場にあるのは、民衆の感情と同調しているからだ。アラファトの場合は、民衆の感情に寄り添おうとたゆまず努力を重ねた結果、かくも長期にわたって自分の地位を保つことができた。パレスチナ社会のあらゆる勢力と絶えず接触を保つことにより、状況に左右されない地位を確立した。アブー・マーゼンは諸派の紛糾に対して超然とかまえていることにより、かえってそこに絡め取られて動けなくなるおそれがある。彼が手にしている権力は、アラファトに比べて絶対的であると同時に一過的である。あらゆる要求に応える必要を免れていることからすれば、裁量の余地は大きいように見える。だが、民衆の感情が変化したり、米国がイスラエルに圧力をかけず、あるいはイスラエルが期待通りの譲歩を示さない場合には、アブー・マーゼンという人物を中軸とするコンセンサスは、形成されたときに劣らず急速に崩れるだろう。

厄介な政治的駆け引き

 アブー・マーゼンはさらに二つの相互に矛盾する課題に直面している。彼の権力は民衆の信望よりも国際的な信認によるところが大きく、パレスチナ世論は、米国がイスラエルを動かすための(パレスチナにない)手段をもっていると確信している。したがってパレスチナ人は、アブー・マーゼンに対してアラファトにもまさる成果を期待することになるだろう。他方、彼に寄せられた支持の最大の理由が民衆の疲弊感にある以上、状況の改善に成功するほど、支持は逆に低下しかねない。

 二つの大きな難題が浮上しつつある。一つ目は、予定されているイスラエル軍のガザ撤退である。これに反対するわけにはいかない。イスラエルがパレスチナに領土を返還し、紛争開始以来はじめて、パレスチナ領内の入植地から撤退することになるのだから。イスラエル軍の存在から解放されたガザは、再建され、他の占領地の先例となるだろう。とはいえ、この撤退を熱烈に歓迎するわけにもいかない。多くのパレスチナ人は、この撤退によって国際的な関心がガザに集まれば、シャロンがヨルダン川西岸でもエルサレムでも入植地を新設し、分離壁の建設を続行するのを助けることにならないかと恐れている。これらの行為は、勝手に境界線を押しつけ、ヨルダン川西岸を小地区に分断しようというイスラエルの計画の一環だからだ。アブー・マーゼンは、こうした両面を比較考量しながら、ガザ撤退をロードマップ(5)の枠内でのパレスチナ側の成果として位置づけ、イスラエルとの協調を最小限に抑えつつ、国際的な関心をヨルダン川西岸に引きつけようと努めるだろう。

 第二の難題は、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部地区に暫定的な国境を定めたパレスチナ国家の樹立というイスラエルの提案である。一歩前進という考えにつられ、新しい機構の確立に躍起になっている米国と欧州連合(EU)は、これを承諾するようにとパレスチナに圧力をかけてくるだろう。なんとしても情勢を安定させ、なんらかの前進の兆候を自国民に示したいと望む一部のアラブ諸国も同様の態度に出るだろう。だが、イスラエルの譲歩と見るむきもあるこの提案は、アブー・マーゼンの目には罠と映る。紛争を稀薄化し、その感情的な特質を失わせて、単なる国境問題に還元してしまい、それによって包括的な最終合意を遅らせるもの、と映っている。パレスチナ議長は、こうした確信を捨てないまま、なおかつ「国際社会」の機嫌を損ねないように行動するだろう。とはいえ、今のところ具体的な方策は彼自身にも見えていない。

 権力の行使は、それを試みる者の例にもれず、アブー・マーゼンにも有害な影響を及ぼすだろう。アラファトの名を高めた雄弁や人間的な接触は、アブー・マーゼンもすでにものにし始めている(あるいはそのように見せている)。そればかりでなく、彼が政治生命を保つためには、これまで軽蔑して「ご老体」任せにしていた厄介な政治的駆け引きにも没頭しなければならないだろう。目先の成果を優先しつつも、政治的な問題もおろそかにはできない。米国とイスラエルの信頼を保ちつつも、ハマスやイスラム聖戦の信頼を失うわけにはいかない。武装民兵には、対決を避けながら規律を課していく必要がある。ファタハの古参勢力に庇護を与えつつも、若年層の期待に背いてはならない。民族運動の統一を保ちつつも、それに手足を縛られてはならない。アメリカの期待に応えていく必要があるが、唯々諾々という印象を与えるわけにはいかない。暴力を終わらせる必要があるが、イスラエルに屈するのであってはならない。そして、言うまでもなく、アラファトの遺産については距離を置きつつ、無視しないことである。

 長期的に見れば、自分にかけられた数々の期待をうまく調整し、往々にして対立する諸勢力の心もとない支持から、彼個人とその政策に対する確固たる支持を導き出すことが、彼の中心的な課題となるだろう。この意味で、彼の立場は選挙結果が示しているより強いと同時に弱い。6割を超えた支持票は、必ずしも堅固な支持者のものではないが、その一方で、対立候補に流れた3割以上の票も、組織的あるいは統一的な反対勢力を形成しているわけではないからだ(6)。

 今は答えのないままの一連の疑問がある。もしアブー・マーゼンがイスラエルと米国の期待することを達成できず、ブッシュとシャロンが彼の求めるものを与えないとすると、どうなるだろうか。アブー・マーゼンがハマスとイスラム聖戦から合意を得ることができなかった場合や、アル・アクサ殉教団を治安部隊に組み入れるとの合意が守られず、あるいは合意が守られてもイスラエルが戦闘員への攻撃を続けた場合には、何が起こるだろうか。彼を支える政治的コンセンサスが崩れたり、内戦が勃発した場合には、どのような将来が待ち受けることになるのか。

 目下のところ、アブー・マーゼンには、実に多くの、少なからず矛盾する望みがかけられている。庇護と救済を与える者、過渡期を担う人材にして、過ぎ行く世代の最後の希望でもあり、悪魔のように見る者もいるが、ほかに比べればまだましだとも言われる。パレスチナ人の目には、現在アブー・マーゼンが、こうしたすべてをいちどきに体現すると映っている。彼は行くべき道に思いをめぐらすにあたり、折に触れてこう自問してみるべきだろう。いま自分に期待をかけている諸々の勢力はどこから出てきたのか、どれぐらいの時間があと残されているのか、この扱いにくい同伴者の大群にとって意義ある存在でいるために、自分はどんな成果をあげてきたのか、と。


*本稿は『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌に掲載された論文をもとに、著者自身が翻訳・改稿をほどこしたものである。

(1) アラファトの略歴については下記を参照。http://www.monde-diplomatique.fr/dossiers/arafat/
(2) アラン・グレシュ「エフード・バラクの『真の顔』に迫る」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年7月号)参照。
(3) 1959年にヤセル・アラファトとともにファタハの創始者となったアブー・ジハードは1988年、第一次インティファーダを指揮していた際、チュニジアでイスラエル軍に暗殺された。
(4) グレアム・アッシャー「袋小路に陥ったパレスチナ抵抗運動」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年9月号)参照。
(5) 2003年4月30日にカルテット(国連、米国、ロシア、EU)によって採択されたロードマップは、国連の諸決議、1991年のマドリード会議の文書、パレスチナとイスラエルの間で交わされた諸合意、2002年にベイルートのアラブ首脳会議が発表したプランに基づいて、2005年までに「民主的かつ存続可能なパレスチナ独立国家」を樹立しようというものである。そのための条件として、暴力とテロの終結、パレスチナ自治政府の民主改革、2000年9月28日に再占領されたパレスチナ領からのイスラエルの撤退が掲げられている。
(6) 2005年1月9日の議長選挙の確定結果によると、アブー・マーゼンの得票率は62.35%である。以下、独立候補のムスタファ・バルグーティが19.80%、パレスチナ解放民主戦線(DFLP)のタイシール・ハーリドが3.5%、旧共産党のパレスチナ人民党(PPP)のバッサーム・サールヒが2.69%、米国で自宅軟禁となっている独立系イスラム主義者のアブドルハーリム・アシュカルが2.68%、独立系イスラム主義者のサイイド・バラカが1.27%、アブドルカリーム・シュベイルが0.67%と続く。登録有権者の約7割が投票に行ったとされる。

(2005年2月号)
All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Hagitani Ryo + Watanabe Yukiko + Saito Kagumi

http://www.diplo.jp/articles05/0502.html

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