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横浜事件とは 【法政大学大原社会問題研究所】
http://www.asyura2.com/0502/war68/msg/283.html
投稿者 木田貴常 日時 2005 年 3 月 10 日 23:39:04: RlhpPT16qKgB2

(回答先: 横浜事件、高裁も再審開始を支持 【asahi.com】 投稿者 木田貴常 日時 2005 年 3 月 10 日 23:21:45)

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.
第五編 言論統制と文化運動
第六章 出版活動

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http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-223.html


第一節 横浜事件

細川嘉六の検挙と泊事件

 細川嘉六の「世界史の動向と日本」という論文が雑誌「改造」にかかげられたのは、一九四二年の八・九月号の誌上であった。その論旨は「わが国の目指す『東亜新秩序』の建設は、旧来の植民地支配政策ではいけない。民族の自由と独立を支持するソ連の新しい民族政策の成功に学べ」というにあった。筆者自身も、終戦後の一九四五年一〇月九日付の朝日新聞紙上で「この論文は新しい民主主義を主調としたもので、大東亜戦争に突入した日本が、将来いかにしたら悲惨な目にあわずにこの難局をきりぬけることができるかという憂国の至情にかられて筆をとったものです。当局は、論文中にある弁証法とか、生産力とかいう言葉は赤だというて責めあげましたが、誰がみてもこの論文から共産主義的主張がでてこぬことがわかると、こんどは私の友人たちを検挙し、友人たちの口から。細川は赤だといわせようとしたのです」と語っている。

 ところが、内務・情報局の検閲さえもパスしたこの論文が、はからずも軍報道部の忌諱にふれることになった。一九四二年九月、六日会の席上陸軍報道部の平櫛少佐が、この論文は擬装共産主義を煽動するものであるとして次のように弾劾し、これと同時に、谷萩陸軍報道部長も同主旨の意見を「日本読書新聞」に執筆した。


 筆者の述べんとするところは、わが南方民族政策においてソ連に学べということに尽きる。南方現地において、日本民族が原住民と平等の立場で提携せよというのは民族自決主義であり、敗戦主義である。しかもその方式としてはソ連の共産主義民族政策をそのまま当てはめようとするもの以外のなにものでもない。かくてこの論文は日本の指導的立場を全面的に否定する反戦主義の鼓吹であり、戦時下巧妙なる共産主義の煽動である。一読驚嘆した自分は、早速このことを谷萩報道部長に報告すると同時に専門家にも論文を審議させたところ、自分と全く同じ結論をえた。……
 このような論文を掲載する改造社の真意を聞きたい。その返答いかんによっては、自分は改造社に対しなんらの処置を要請する考えである。かような雑誌の継続は即刻取りやめさせる所存である。

 細川論文を掲載した雑誌「改造」は、すでに配本済で読者の手にわたってしまっていたにもかかわらず、発売禁止処分となり、また、大森編集長ほか一名はこのため引責辞職した。

 当の論文の筆者である細川嘉六も、四二年九月一四日検挙された。その検挙の意図はもちろん「世界史の動向と日本」の「共産主義的傾向」を追及することにあった。ところが、細川とは関係なしに進行していた神奈川県特高による満鉄グループと、「泊事件」関係者の取調べの交叉線上に、細川の名前が浮かびあがり、検察と特高の「謀略のピラミッド」の頂点に、細川は立たされることになった。

 一九四二年七月、富山県の東北隅、北陸本線沿いの泊(とまり・今では朝日町の一部)でささやかな宴会が開かれた。泊は細川の郷里で、たまたま法要で帰省する折、ちょうど新著の「植民史」が東洋経済新報社から出版された当座のことでもあり、その出版の記念をもかねて、日頃かれの執筆や研究に何かと力になってくれる若い人たちをねぎらう主旨で、細川嘉六をはじめ、その若い友人八人が集まった。

 ところがその記念に一行中の西尾が全員をカメラにおさめた一枚の写真が、一年もたたないうちに「運命の導火線」となった。四三年五月、神奈川県特高は、西沢、平館の検挙による家宅捜索の際にこの写真を発見し、それを「ネタ」にして、共産党再建準備会としての「泊会議」と、この会議に参加して再建に暗躍する「細川グループ」という一連の物語の構成に自信をえ、五月二六日本村、相川、小野、加藤、西尾の五人を一斉に検挙し、その前すでに検挙されていた西沢、平館ら満鉄グループとの結びつきを、写真の示す「泊会議」という事実によって確認し、両者を合体させて、「細川グループ」をつくりあげたのである。当局のいうところの「泊会議」なるものが、いかにしてつくりあげられたものであるかについては、当時の被疑者の一人であった小野康人の次の手記によって知ることができる(美作太郎外著「言論の敗北」、一〇九〜一一六ページ)。

 

私が治安維持法に違反していると警察で勝手に認定した最も具体的な理由は、私が雑誌「改造」を編集していたということ、および雑誌「改造」の執筆家の一人である細川嘉六を中心に、「細川グループ」という非合法組織を組織し、それの発展として「細川」の郷里である富山県新川郡泊町所在紋左旅館で、日本共産党再建準備会というものを結成したという、まったく根も葉もない、虚構の事実に立脚しているものでありますが、ちょうど二年六ヵ月という長い期間、私は、この根も葉もない理由のために自由を奪われ、あまつさえ、世人のとうてい想像できない、言語に絶する拷問の責め苦に会って、正に死の一歩手前を彷徨させられてきたのであります。私は、自分が、そういう拷問をうける当然の理由があったのなら、今日敢えて、これを言語に絶するなどとは考えないのであります。ところが、彼等検察当局が私に加えた鞭は、まったく虚構そのものに立脚するものであったのでありますから、これは、単なる主義や主張の問題ではなく、人道の問題としても飽くまでも究明すべき問題だと、確信するものであります。‥‥
 先ず第一に述べなければならないことは私が検挙当時抱いていた考え方でありますが、総合雑誌「改造」の編集者としての私は、けっして共産主義を信奉していたものではなく、むしろ日本の軍閥・官僚の恣意によって強行されている大東亜戦争を、本当の民族解放の聖戦たらしめんとする純情から、編集と云う職域によって粉骨していた愛国主義者であったのであります。

 私が細川氏の宅に出入りするようになった主観的な動機は、以上のような私の愛国の熱情に出発するものであって、実に出鱈目の多い世の評論家の中で細川氏が断然勝れ、その所説も本当に国と民族の将来を憂えているところに出発していたからであります。私は、それ故、細川氏のような人の論文を「改造」誌上に掲げることは、私の職域奉公を完遂するものだと確信していたのであります。細川氏も、私のこうした熱意を愛し、単なる雑誌記者としてより以上に私を愛してくれましたが、細川氏から私は、共産主義の何ものをも教えられたことはないのであります。

 従って、泊町に細川氏に招かれて行ったのも、まったく、交友を更めるための宴会以外ではなく、事実、泊町では非常に御馳走になり、楽しい一日をすごして帰って来たのであります。
 ところが、それが、共産党再建準備会となり、さらに、昭和十七年の八・九月の「改造」に掲げた細川氏の論文が、私たちの共産運動の具体的な犯罪事実として詰問されたのであります。彼等が私にこういう無茶な犯罪事実を押しつけた情況を五項目に亘って述べます。

(一) まず、私を自宅から拘引して行った昭和十八年の五月二十六日のことですが、私を拘引に来た警察官は神奈川特高課の平賀警部補、赤池巡査部長、他巡査一名でありましたが、長谷川検事の拘引令状を見せ、三人でどかどか私の家に上がって、まず私を巡査が連れ出して、付近の渋谷警察署の特高室に連れて行き、その後で家中を捜して、押入れから学生時代読みふるした左翼本を百四、五十冊及びその他手紙や原稿の書きふるしを捜し出し、大きな風呂敷包み四個にまとめて、私はこの風呂敷包みとともに横浜の寿警察署に連行されたのです。
 寿署に着くと、最初、講堂に連れこまれて、小憩の後、正午頃平賀警部補が取調べを開始しました。形の如く最初は住所、姓名を訊ねましたが、それが終ると、

「お前は共産主義を何時信奉したか?」
と問われたのです。
「自分はかつてそういう考え方をしたこともあったが、十年も前からまったく、共産主義からは離れている」。
と答えました。すると、
「うん、なかなか、手ごわいぞ。シラを切っても、泊会議はどうした? 河童〔細川のあだ名〕はどうした? 証拠は十分あるんだ。」
といって、
「まあ、こっちへちょっと来てもらおう」、と、私を同行の巡査と二人で武道場に連れていったのです。すると、従来の態度とはまったく変った、犬殺しのような態度になって、
「やい、てめえは、甘く見てるな」。
と強圧的に私をそこに押し倒し、私が絶対嘘を言ってないと辯解してもきかばこそ、最初竹刀でやたらになぐっていましたが、その中、竹刀をバラバラにほごして、巡査と二人で無茶苦茶に打ちさらに靴で蹴り、言うにたえない悪口雑言を吐いて、約一時間、拷問をつづけたのでした。そしてへとへとになった私の手をとって、その訊問調書というのに、
 (問)お前は共産主義を何時信奉したか?
と書いてある次に
「答」として
「ハイ申し訳ありません」
という一句を自分で入れ、私の名を書かせ、無理やりに拇印を押させたのです。
私は、余りの無茶にただあきれるだけで何とも言いようがありませんでした。
……調べるのではなくまったく拷問に終始しているのに、何一つ言いもしないことを私が白状したことになって聴取書というのに書いてあるのですから、驚きます。たとえば、
 (問)泊で何を話したか?
という問の次に、私はただ、宴会しただけで、色々政治の話なども出たが、何もこみいった話などしない、と答えたのに、
 (答)として
「政治の中核体に就いて色々熟議しました」
と、書きこむのであります。……
 私はもうあきらめました。まったく、話にもなにもならないのであります。万目の見るところ単なる自由主義のジャーナリストにすぎない「山浦貫一」が、唯物史観の立場から執筆していたり五・一五の被告の「橘彦三郎」が執筆していると、右翼思想を利用して民衆の暴動化を企てる意図の下に、その執筆を依頼したことになったのですから、これはまったく狂人でなければ、最初から無茶苦茶に罪に陥し入れようとする意図にはめこもうとしている以外、考えられませんでした。それで私もあきらめて、もう言うなりになってしまったわけです。
 「日本共産党再建準備活動」という手記を書かせられ、平賀がこれを調書に書きあらためて検事局に廻して、刑務所に昭和十九年四月六日に送られ、起訴されたのです。
 その間、六日ほど、私は昭和十八年の十二月末から二十年の一月初にかけて、長谷川検事の取調べを受けましたが、まだ警察にいる時だったので、全面的に否認したら何んな拷問を受けるか知れないという恐怖から、原則的に共産主義は肯定しました。しかし、共産党再建だとか、山浦貫一が共産主義者だとかいうことは否認して来ました。
 そして拘置所に移ってからは、川添という検事に取調べを受けましたが、この時は全的に否認したにも拘らず「山根検事」によって起訴され、一年二ヵ月まったく取調べがなく、独房で餓死の一歩手前まで追い込まれ、さらに予審廷では、「石川予審判事」の取調べを受けて、全的に否認し、判事が、
「被告はそれでは何故警察で認めたか」
と詰問したのに対し、以上の如き拷問の事実を挙げて、彼らが勝手につくった事件であることを強調して来た次第です。ところが予審決定書を見ると、まったく私の陳述は無視されて、検事の公訴状がそのままの決定書となっているので、法廷ではさらにこれを反駁して否認したのでありますが、昭和二十年九月十五日、八並裁判長より懲役二年、執行猶予三年の判決を言い渡されたのであります。これが私の二ヵ年半の事件の詳細でありますが、まったく虚構以外の何ものでもないこういうでたらめによって、真剣に働いていた国民をかくの如く言語に絶する状態に置くことが果して出来るものかどうか、いや、事実出来たのであります。私は単なる私憤からではなく、彼等を徹底的に究明することを希望するものであります。


日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


第一節 横浜事件(つづき)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-226.html

事件の拡大と編集者の大量検挙

 満鉄グループと泊事件関係者を追求することによって、「細川グループ」をつくり上げた神奈川県特高は、このグループの人的なつながりをたどり、一九四三年七月一日になって、細川嘉六の著作上の仕事を手伝っていた中央アジア協会の新井義夫を捕え、たまたまかれが昭和塾に関係していることがわかると、検挙の手はさらに昭和塾方面に伸び、七月三一日には浅石晴世(中央公論社)が、ついで一〇名が検挙された。

 「泊会議」の出席者のうち一名は中央公論社、二名は改造社の編集者であり、また昭和塾関係検挙者のうちの二名も中央公論社の編集者であった。そこで、神奈川県特高の目は自ずから編集者グループの上に集中した。そこには、わが国の言論の進歩的な面を代表し知識階級に広範な影響力をもつ総合雑誌の発行所と、社会科学や思想の領域ですぐれた書籍を送り出してきた出版社が浮かびあがってきた。さらにまたそうした各社の編集者を横につないで活動しはじめている日本編集者会がある。この種の経営と組織に対する軍部の攻勢が日ましに強まった時点に立って、神奈川県特高は今や雑誌社、出版社の編集中枢に向けて探索と追求の手をのばしたのである。

 中央公論社関係――一九四四(昭和一五)年一月二八日、小森田一記(当時日本出版会)、畑中繁雄、青木滋(当時翼賛壮年団)。藤田親昌、沢赳の五名、前に検挙されていた木村享、浅石晴世、和田喜太郎三名を加えて計八名。

 改造社関係――同じく四四年一月二八日、小林英三郎、水島治男、若槻繁、青山鉞治(当時海軍報道部)、一ヵ月おくれて三月一二日に大森直道(細川嘉六の論文掲載の責任をとって退社、上海満鉄支局に在勤中、現地で逮捕護送さる)の五名。前に検挙されていた相川博、小野康人を加えて計七名。

 日本評論社関係――四四年一一月二七日、美作太郎、松本正雄、彦坂竹男(当時退社日本出版会勤務)。翌四五年四月一〇日、鈴木三男吉、渡辺潔計五名。

 岩波書店関係――四四年一一月二七日、藤川覚、翌四五年五月九日に小林勇の二名。
 朝日新聞社関係――四四年六月三〇日、酒井寅吉。
 また、神奈川県特高の描いた構想の一環として、愛国労働農民同志会、政治公論社関係の事件があり、一九四三年八月頃田中正雄がつづいて一〇月二一日に広瀬健一が検挙されている。以上で総数四八名であった。逮捕された人たちは横浜市所在の各警察留置場に拘禁され、そこできびしい取調べをうけた。その取調べについては次のごとく述べられている(前掲書、一二一〜一二三ページ)。

 第一に、各編集者の所属する各出版社内での雑誌と書籍の編集出版の仕事が、共産主義の偽装された宣伝活動であるとされた。

 このため「中央公論」、「改造」、「日本評論」などの各雑誌の毎号の論文と出版された書籍の編集意図の中に共産主義立場からの反戦・平和・自由と革命の要素が追求された。社内の幹部会、理事会、編集会議、研究会、懇親会、喫茶店その他での事務上の打ち合わせはもちろん、ハイキングや社内の同好雑誌までが「共産主義的意図」によるものとされた。

 たとえばだれかが社内の編集会議をすませた二次会の席上、一杯機嫌で軍の竹槍戦術を批評し、「あんなことをしていたら日本は敗けるよ」。といったとする。するとそれは共産主義的敗北主義の発言ということになるのだった。この追求が極端になると、それは不合理どころか滑稽でさえあった。たとえば、その頃日本評論社が出版していた「新独逸国家大系」の翻訳は、ナチス・ドイツの公認のもとにナチズムを体系的に解説宣伝しただけのものであり、それは戦後出版界の戦争責任による追放が起こったとき、該当書の筆頭にのぼったファシズム文献であったのであるが、戦時下神奈川特高の猜疑と無知は、この翻訳ものをすら被疑事実の中に数えたてたようなありさまであった。

 第二に、日本編集者会が共産主義者を指導分子とする左翼的大衆組織であるとされた。検挙された各社の編集者は社内の仕事で最も活動的であったように、この編集者の団体に対しても―とくにその結成と活動の初期に―それぞれ「新体制」への期待を抱きつつ最も積極的であったが、そのようなかれらの影響力はすべて「共産主義的」であったのだから、したがって編集者会もいきおい「共産主義的」とされねばならなかった。

 第三に、同盟通信社をバックとする新出版社設立の動きが、共産主義宣伝のための新しい足場固めと認められた。日本編集者会の結成と前後して、伊藤愛二(千倉書房)がその伯父に当たる同盟通信社長古野伊之助に新しい出版社の設立意図があることを小森田一記(中央公論社)、藤川覚(岩波書店)、美作太郎、彦坂竹男(以上日本評論社)に告げ、かれらの協力を要請したとき、一同はみな賛成した。そのためには各人の所属する職場との関係を清算して、自由に活動できる態勢をとる必要があったので、かれらはそれぞれ理由を構えて退社手続をとり、さし当たり同盟通信社の出版部所属として「日本出版社」の設立活動に従事することとなった(美作だけは日本評論社をやめず、したがってこの計画から幾分遠のくこととなった)。これは遂に設立を見ずにおわったが、この計画に参画した編集者の意図は、日毎に追いつめられてちぢこまっている既成出版社内の雰囲気にあきたらず、古野伊之助という人物の力のもとに、もっと時代に即応した、指導的な出版事業を開始し、国家的な危機を幾分でも正しい方向にそって解決したいという「善意」にほかならなかったし、それだけにまた「新体制」への甘い期待に促がされた、御多聞に洩れない心理と通じるものがあった。そしてただそれだけのものに、特高はあえて、「共産主義的」という烙印を押したのである。

 第四に、警察権力の狙いは、単に個々の編集者を断罪することに限られていず、かれら編集者を抱擁するそれぞれの雑誌社・出版社の経営主体に向けられていた。中央公論社の嶋中雄作社長、改造社の山本実彦社長の二人は、その思想と行動において「共産主義的」であるか、あるいは少なくとも共産主義に親近しこれを幇助する者として、検挙までには至らなかったが常に攻撃目標とされていた。「お前たちのようなけしからん編集者を雇うておく社長のことだ、ろくでもない奴にきまっている」というのが特高の放言であった。この点において、神奈川県特高は中央公論社、改造社、日本評論社、岩波書店などが「共産主義的傾向ある反時局的出版社」であるという権威づけられた凡説を当時の世間に流しただけでも、これを暴力でつぶしにかかった軍部ファシズムの下僕として、実にけなげな忠勤をはげんだわけであった。


日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


第一節 横浜事件(つづき)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-228.html

判決と被疑者の釈放

 終戦時、横浜事件の犠牲者のうちで、一九四四年(昭和一九)初めまでに検挙された人たちのほとんどは、もう刑務所で、二、三年にわたる未決拘留生活を送っていたし、同年夏以後に捕えられた人びとの多くは、警察の留置場に止められたまま、栄養失調と衰弱の極に連していた。前者の大半は、書類の体裁を調えるためだけの予審終結決定をうけ―それも裁判所に出廷せず、未決監の中でごく短い時間に書類をつくられた者も多かった―邪魔もの扱いで釈放された。その後、裁判は一九四五年九月から一〇月にかけて行なわれ、懲役二年・執行猶予三年から四年の判決をうけている。そして一〇月六日以降の裁判は、治安維持法廃止のために、解消してしまった。ここで、その間の事情について、泊事件の一関係者(前掲手記と同一人)に関する判決文を掲げておこう。


 主 文
 被告人を懲役弐年に処す、但し本裁判確定の日より参年間右刑の執行を猶予す
 理 由
 一、犯罪事実
 被告人は大正十四年三月東京都神田三崎町大成中学校第四学年を修了し昭和三年四月法政大学予科に入学昭和六年三月同大学予科を卒業したる後一時実兄□□□□の営む□□業を手伝い居りたるが昭和十年四月同大学英文学部に入学し昭和十三年三月同学部を卒業するや直に東京都芝区新橋七丁目十二番地改造社に入社し同社発行の雑誌「大陸」、「改造時局版」、「改造」並に改造社出版部の各編輯部員として昭和十八年五月二十六日検挙せらるる迄勤務して居りたるが前記法政大学予科に在学中当時の社会思潮の影響を受けエンゲルス著[社会主義の起源」マルクス著「賃労働と資本」「労賃価格及利潤」等の左翼文献を繙読したる結果終に昭和五年末頃には共産主義を信奉するに至り昭和七年初頃日本「プロレタリヤ」作家同盟東京支部員に推薦せられ左翼文化運動に従事したる経歴を有するものなるところ「コミンテルン」が世界「プロレタリアート」の独裁による世界共産主義社会の実現を標榜し世界革命の一環として我国に於ては革命手段に依り国体を変革し私有財産制度を否認し「プロレタリアート」の独裁を通して共産主義社会の実現を目的とする結社にして日本共産党は其の日本支部として其の目的たる事項を実行せんとする結社なることを知悉し乍ら孰れも之を支持し自己の職場の内外を通して一般共産主義意識の啓蒙昂揚を図ると共に左翼分子を糾合して左翼組織の拡大強化を図る等前記両結社の目的達成に寄与せむことを企図し
 第一、昭和十七年七月中旬頃開催せられたる雑誌「改造」の編輯会議に於て相川博が細川嘉六執筆に係る「世界史の動向と日本」と題する唯物史観の立場より社会の発展を説き社会主義の実現が現在社会制度の諸矛盾を解決し得る唯一の道にして我国策も亦唯物史観の示す世界史の動向を把握してその方向に向って樹立遂行せらるべきこと等を暗示したる共産主義的啓蒙論文を雑誌「改造」の同年八月号及九月号に連続掲載発表を提唱するや被告人は該論文が共産主義的啓蒙論文なることを知悉しながら之を支持し編輯部員青山鉞治と共に、八月号の校正等に尽力して該論文(昭和一九年地押第三七号の二四の八頁乃至二九頁同号の二五の一六頁乃至四七頁)を予定の如く掲載発表し以て一般大衆の閲読に供して共産主義的啓蒙に努め

 第二に、前記細川嘉六が曩に発表したる「世界史の動向と日本」と題する論文等により昭和十七年九月十四日治安維持法違反の嫌疑にて検挙せらるるや同年十月二十日頃西尾忠四郎より細川嘉六家族の救援に資する為出捐ありたき旨要請せらるるや即時之を快諾し同月二十五日頃東京都赤坂区葵町「満鉄」東京支社調査室に於て金二十円を西尾忠四郎に依託して細川家の救援に努めたる等諸般の活動を為し以て「コミンテルン」及日本共産党の目的遂行の為にする行為を為したるものなり

 二、証 拠
一、被告人の公判廷に於ける供述
一、被告人に対する予審第二、二四回訊問調書の記載
一、本件記録編綴の相川博に対する予審第四回被告人訊問調書謄本の記載
一、被告人に対する司法警察官第十六回訊問調書の記載

 三、法律の適用
 治安維持法第一条後段、第十条刑法第五四条第一項前段第十条 第六十六条 第六十八条第三号 第七十一条 第二十五条

  昭和二十年九月十五日
        横浜地方裁判所第二刑事部
         裁判長判事  八並 達雄  印
         判   事  若尾  元  印
         判   事  影山  勇  印

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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