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首相「靖国に代わる施設ない」
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/1032.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 17 日 14:32:37: YdRawkln5F9XQ
 

小泉純一郎首相は17日、靖国神社に代わる無宗教の追悼・平和祈念施設の建設について「わだかまりなく追悼できる施設は検討しても良い」との認識を示す一方で「いかなる施設をつくっても、靖国に代わる施設はない」と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 首相の靖国神社参拝問題で韓国の潘基文(バン・キムン)外交通商相は、20日の日韓首脳会談で新たな追悼施設の建設を日本側に要請する方針を明らかにしている。首相の発言は、追悼施設の建設とは関係なく、今後も靖国神社に参拝する意向を示したものとみられ、韓国側の反発を招く可能性がある。

 新たな追悼施設を巡っては福田康夫官房長官(当時)の私的懇談会が2002年に「国立で無宗教の施設が必要」との報告書をまとめている。ただ、その後は政府内で具体的な検討は進んでいない。 (13:50)

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050617AT1E1700F17062005.html

古賀氏、遺族会で説明へ・靖国参拝「近隣配慮」発言
 自民党の古賀誠氏は17日、会長を務める日本遺族会が都内で開く各都道府県代表の会合で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に関して「近隣諸国に配慮し、理解してもらうことが必要」とした11日の幹部会での発言は個人的見解であることを説明する。発言を遺族会の見解と受け取った一部の会員から「首相、閣僚の靖国神社参拝の定着をはかる」としてきた活動方針に反するとの批判があったため、理解を求める。その上で活動方針には変更のないことを確認する見通しだ。 (07:02)

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050617AT1E1600J16062005.html

靖国代替追悼施設、日韓首脳会談で要請・韓国外交相
 【ソウル=峯岸博】韓国の潘基文(バン・キムン)外交通商相は20日の日韓首脳会談について「靖国神社参拝問題で、別の追悼施設を検討するよう強く促す予定だ」と述べ、新たな追悼・平和祈念施設の建設を日本側に要請する方針を明らかにした。与党「開かれた我が党」(ウリ党)が16日、ホームページで公開した。

 潘外交通商相は(1)日韓歴史共同研究委員会の研究内容が日本の歴史教科書に反映されるよう努力する(2)独島(竹島の韓国名)は明らかに韓国領土であり、領有権問題を持ち出さないよう強く促す――とも語った。 (22:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050617AT1E1600Z16062005.html

日韓首脳会談20日開催・韓国側に直前まで延期論
 日韓両政府は14日、小泉純一郎首相と盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領による首脳会談を20日にソウルで開くと発表した。両首脳の会談は昨年末の鹿児島開催以来。首相の靖国神社参拝などの歴史問題、両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題、北朝鮮政策の連携確認などが議題となる。

 訪韓は1泊2日の日程。今回の首脳会談は5月に両国外相が6月下旬開催を確認した後、20日訪韓の日程が固まったが、正式発表が遅れていた。

 日韓関係筋は「韓国の青瓦台(大統領府)の一部に直前まで延期論があった」と指摘する。靖国参拝について首相が「他国が干渉すべきでない」などと発言するなか、韓国内には「日本側の譲歩がないなら首脳会談の意味がない」との意見がくすぶっていた。(ソウル=峯岸博) (21:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050615AT1E1401314062005.html

新しい国立の追悼施設は必要か?

                      小武 正教

2002.8.20 216−2002.9.20 217

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 靖国神社

 二〇〇一年八月一三日小泉総理靖国神社「公式」参拝

 二〇〇一年八月一三日、「何が何でも八月一五日に靖国神社に参拝する」と言いつづけた小泉首相が、「熟慮」とやらを重ねて、二日前倒しして靖国神社に参拝した。堂々とテレビカメラに写りながらの参拝であった。しかしあれだけ自分の信念で参拝するといっていた小泉首相が、その後全国五箇所で訴えられた「小泉首相靖国神社公式参拝違憲訴訟」に対しては、「あれは私的参拝であった」と法廷で主張していることはマスコミもほとんど伝えることがない。

 ともかく、あれほどマスコミを通じて「参拝するぞ、参拝するぞ」と宣伝して靖国神社に参拝した首相は小泉の外にはいない。当然、中国や韓国などアジアの国々からの囂々(ごうごう)たる批判がおこり、二〇〇一年の春から夏はまさに、日本全体が「靖国の夏」であった。

 その批判を受けることを繰り返したくないという思いからか、前々からあった構想ではあるが、具体的に官房長官の私的諮問機関として、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設のあり方を考える懇談会」(平和祈念懇)が二〇〇一年一二月一九日に設置され、ほぼ一ヶ月に一回のわりで、検討委員会を開いている。その議事の内容がホームページに公開されている。それを読むと「とても今すぐにまとまるような話しでない?」という曖昧なもので、二〇〇二年四月二一日の小泉首相の靖国参拝への波紋も考えてのものであろうが、今年六月初め予定していた中間報告を取りやめてしまった。

 施設を作るにあたっては「誰を祀るか」ということが決定的である。ホームページの議事録を見ると、平和祈念懇では、第二次大戦の前後に分け、「それ以前は、日本人の戦没者は、靖国神社に祀られていない原爆や空襲の犠牲者も祀る。諸外国の人においては、例えば『南京大虐殺』の犠牲者も含まれることにするとどうか?」「戦後においては、自衛隊のPKO活動などでは相手のあることだから日本の死没者だけにする」というような、日本の侵略行為で死んでいった相手の立場を全く考えない無茶苦茶な論議である。委員の中では、「窓論」というのがあるようで、記念碑は外を眺める「窓」で、そこから何をながめるかは、めいめいの自由にしようということらしいが、そこまで祀る対象を抽象化してしまうと、「何を祀る施設なのかわからなくなる」と委員みずから語っている。当然国家が戦争で亡くなった人たちを祀る施設ということからもほど遠くなるというジレンマが出てくる(02年第6回議事要旨)。
 
 「平和祈念懇」の検討に対して最も危機感を抱いているのはいうまでもなく靖国神社であり、靖国神社への総理大臣の公式参拝、そして国家護持を求めてきた右派勢力である。靖国神社にとってかわる施設が創られることで、靖国神社の価値は決定的に低下することを極力警戒して、今平和祈念懇へ反対のキャンペーンをはっている。

 「平和祈念懇」で議論される中身をみていくと幾つかクリアーしなければならないハードルが設定されているように思われる。

 ▽A級戦犯合祀問題がクリアーされないと、中国・韓国からの批判をあびる。しかし表だって外すというわけにはいかない。何とかボカせないだろうか。
 ▽国立の追悼施設に「戦没者」を祀るということで、靖国に祀られている遺族の人にも、了解をえられないか。しかしそのためには誰を祀るかということがハッキリとしなければならない。
 ▽戦後の祀る対象として、自衛隊等の活動で死亡した人も祀るということを位置づける必要がある(そこでは新たな戦死者が想定されているがそうとは言えない)。

 平和祈念懇の審議は、右派からの警戒と、中国・韓国など批判の板挟みの中で、落とし所がみつからないというところであろう。しかし、事態はいつ急変しないとも限らない。有事法制との絡みで、仮に日本の戦死者が新たに出る状況になった場合は一夜にして世論は変わると思われる。そして、仮に新たな戦死者が出ない場合でも、靖国の直接の遺族がもう一〇年もたてば激減するという状況も想定しなければならず、無宗教での追悼施設の問題は今後ますます大きな問題となつていくということは間違いない。

 なぜ国家の追悼か

 靖国神社の問題は、「靖国神社」という特定の宗教への国家の関与という「政教分離」「信教の自由」の問題と同時に、個人の生死を国家が意味づけをするという「思想・良心の自由」に深くかかわる問題である。

 国家が「国が感謝と敬意を捧げて追悼・慰霊するのだから生命をささげよ、個人の人権を制限・侵害するのは我慢せよ」という儀礼装置として戦前靖国神社は存在したし、今その役割りを復活させようと右派勢力はすすめてきた。まさに、有事法制によって、「思想・信教の自由が制限されるのはやもをえない」とすることとワンセットである。国家の側より、無宗教の追悼施設をというのは、その正体こそ現れたりというところで、同じ機能を果たすものなら、靖国神社でも無宗教の国立墓苑でも、いや平和祈念館と銘うったものでも何らかまわない、後はその施設が国民にどう受け入れさせるかどうかだけが問題というわけである。要は国からすれば、「国立」かどうか?、「国の意図」を反映できるものかどうか?が一番重要な点となる。

 よく諸外国の例としてアメリカのアーリントン国立墓地が引き合いにだされるが、戦死者を賛美する国立墓苑という意味ではアメリカ版「靖国」という言い方もできるだろう。

 平和を祈念する施設の一つの例として、沖縄の「平和の礎(いしじ)」と広島の「原爆慰霊碑」があげられることがある。摩文仁の丘の平和祈念公園には、沖縄戦で死んでいった日本人兵士・軍属、そして沖縄県民、さらには強制連行されて沖縄で死亡した朝鮮人・台湾人・中国人、そして沖縄戦で死亡したアメリカ軍兵士の名が刻んである。とはいっても、旧日本の植民地出身者の所に刻まれた名前はほんの僅かである。「戦没者」ということで一括りにして加害者と一緒に祀ってほしくないという拒絶の意志表示であり、日本の戦後補償や歴史認識の現状をまさに反映した結果でもある。戦争責任の問題が曖昧なままでの「戦没者」の追悼の限界をハッキリとしめしたものであり、それを一気に飛び越してしまった追悼は、国であれ教団であれ、自己満足・自己肯定にすぎないものになっている。

 広島の原爆慰霊碑においても、「平和資料館」に原爆の被害の説明・展示はあっても、加害の展示かないといって、中国や韓国から指摘された問題、そこには「国の政策の間違いが明確に追求できない」という、やはり国が絡むと戦争責任の問題はノータッチにならざるを得ないということがある。

 今必要な論議は、「靖国か無宗教の施設か」ではなくて、「はたして国家の追悼施設は必要なのか?」という視点を中心に据えた論議であるべきだろう。

 「新しい国立追悼施設を作る会」

 今年七月三一日『朝日新聞』の第四面に「新国立追悼施設を」というタイトルで小さな記事が掲載された。

  「ジャーナリストや弁護士らでつくる『新しい国立追悼施設をつくる会』は三〇日、首相官邸を訪れ、小泉首相あてに靖国神社への公式参拝中止と国立追悼施設の建立を求める申入書を提出した。申し入れでは『すべての戦没者を追悼し、非戦平和を誓う象徴的な場をつくるべきだ』と求めた」

 「新しい国立追悼施設をつくる会」は、政府の官房長官の私的諮問機関の平和祈念懇とは全く別の組織である。その「つくる会」の中心メンバーとして浄土真宗本願寺派総長・武野以徳の名前が登場する。総長とは教団行政の最高責任者で、国で言えば総理大臣に該当するポジションである。本願寺派に所属し、靖国神社国家護持法案や中曽根公式参拝靖国違憲訴訟いらい長く靖国問題にかかわつてきた私たちにおいても、秘密裏に会合が進められているらしいとの情報が入ったのは約一カ月半ほど前。「つくる会」は約一年半準備を重ねてきたと発会の時にプレス発表しているが、実は第一回の準備会は今年六月五日、そして第二回七月三日、第三回七月一五日とまさにバタバタのやっつけ仕事で立ち上げた感がある。

 呼びかけ人の欄には次の一二人が名前をつらねている。

 久保井一匡(弁護士・前日本弁護士連合会会長)・三枝成彰(作曲家)・笹森清(全日本労働組合総連合会長)、眞田芳憲(中央大学法学部教授)・下村満子(ジャーナリスト)・武野以徳(浄土真宗本願寺派総長)・寺崎修(慶応義塾大学法学部教授)・ひろさちや(宗教評論家)・松原通雄(立正佼成会外務部長)・武者小路公秀(中部高等学術研究所所長/元国連大学副学長)・湯川れい子(音楽評論家)・鷲尾悦也(全国労働者共済生活者協同組合連合会理事長)

 ちなみに、当初呼びかけ人の先に名前があがりながら、梅原猛やカトリック枢機卿、曹洞宗宗務総長、円応教教主は参加を見合わせ、立正佼成会も理事長から外務部長と二ランク程度もレベルダウンしたものとなったため、「つくる会」では西本願寺総長が宗教教団では一人突出して旗を振るというかっこうになっている。「つくる会」の主張は五点ある。

 ・追悼の対象は、すべての戦没者を対象とした、非戦平和を誓う象徴的な場とする。
 ・追悼対象の戦没者としては、過去(近代以降)にわが国が関わった戦争のすべての戦没者とする(新しい戦死者の受け皿とはしない)。
 ・特定の宗教性を持たせない。
 ・個人・団体がそれぞれの思想・信条・信仰に基づき追悼できる。
 ・靖国神社へのいわゆる公式参拝はおこなわない。

 この五つの理念だけよめば、「すべての戦没者を無宗教で誰でも自由に追悼出来るネらいいのではないか」という世論をつくり出さないとも限らない。官房長官の私的諮問機関「平和祈念懇」と比較すれば「だいぶまし」と、一見そう思う仕組みになっている。

 準備会に名を連ねた本願寺総長に抗議するため広報室長に私が面談した時のことである。広報室長曰く、「こうした具体的対案が、靖国公式参拝の歯止めにもなるし、政府の平和祈念懇への楔にもなる」と。

 はたしてそうだろうか。もっともやってはならない「国立の追悼施設が必要」という政府と同じ土俵に乗ったとたん、「国立追悼施設の必要性」の宣伝に利用されるだけ利用され、「新しい戦死者は入れない」とか「非戦平和の施設」というものはなし崩しになることが予想される。「その時は手を引けばよい」と公報室長は言ったが、その時もはや「国立、国立」と国の露払いをした責任はとりようがない。

 西本願寺総局の暴走

 西本願寺は靖国神社国家護持法案が国会に上程されて以来、他の浄土真宗教団と一緒に真宗教団連合として靖国神社国家護持反対、公式参拝反対を表明してきた。したがって、公式参拝反対への教団内へのコンセンサスはあっても、靖国神社に替わる国立追悼施設を国に求めるという教団内コンセンサスは持ったことはない。確かに三〇年程前に、靖国神社の国家護持への批判として「国立の施設」を真宗教団連合で言ったことはあるが、有事法制が論議され憲法改悪が政治日程に登っている現在では状況が大きくことなっていることは言うまでもない。現に浄土真宗大谷派は、「つくる会」の提案に、「現段階では賛成いたしかねます」と宗教新聞のアンケートに答えている。

 私たち、備後靖国問題を考える念仏者の会は、国や教団が果たすべき責務は、追悼施設や追悼対象を考えることではなく、真相の究明と、事実の開示をふまえた、被害者・遺族に対する謝罪(補償の裏付けをもった)のみだと考える。

 今、国は一方で有事法制を成立させようとするかたわらで、「靖国神社」と「国立追悼施設」を天秤にかけている状況をとことん厳しく見なければならない。

 昨年、小田実が講演会でこういったことを思い起こす。「戦争への道を開くのは、決していかつい右翼ではない。一見野党のホーズをとりながら、修正・妥協を重ねる民主党である」と。

 私たち備後靖国問題を考える念仏者の会も、たとえ頑固な原理主義者と言われても、妥協することなく以下の二点を主張しつづけている。

 一、靖国神社代替施設案など国家による追悼は、私たち一人ひとりの精神に国家の介入を許し、思想及び良心の自由を損なう行為であり、厳重に抗議する。

 二、公的追悼は国民の歴史認識を画一化し国家への帰属意識を煽るものであり、強く抗議する。また教団が同調することは大衆洗脳になりかねず、強く再考を求める。

 靖国神社であれ、その代替施設であれ、遺族の心情を利用し、国家の要人が頭を下げることで遺族を癒しつつ、再び国民の意識を国家に結びつけ、「国のために命を投げ出す」(中曽根康弘元首相)国民づくりをしようとするものだ。それはむしろ平和を願う遺族の思いをも、踏みにじり続けることに違いない。

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おだけ まさのり/備後靖国問題を考える念仏者の会/広島県三次市西善寺住職

http://www.hansen-jp.com/216odake.htm

追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第8回)
議事要旨(速報版)


1 日 時 平成14年12月9日(月) 14:00〜16:00

2 場 所 総理大臣官邸南会議室


3 出席者 


(政府側)
福田 康夫 内閣官房長官
安倍 晋三 内閣官房副長官(政務・衆)
上野 公成 内閣官房副長官(政務・参)
古川 貞二郎 内閣官房副長官(事務)

(委 員)
今井 敬 日本経済団体連合会名誉会長、新日本製鐵株式会社代表取締役会長
上島 一泰 株式会社ウエシマコーヒーフーズ代表取締役社長、元社団法人日本青年会議所会頭
上坂 冬子 ノンフィクション作家、評論家
草柳 文惠 キャスター
田中 明彦 東京大学東洋文化研究所長
西原 春夫 学校法人国士舘理事長、元早稲田大学総長
御厨 貴 政策研究大学院大学教授
山ア 正和 劇作家、東亜大学長


4 議事概要

(1) 討議

○前回の懇談会で、年内の取りまとめに向け起草委員3名を私の方から指名させていただいたが、その後、起草委員にこれまでの議論を踏まえ、報告書のたたき台を作成していただいた。
 まず、起草委員に説明をお願いしたい。

○第1の「はじめに」の部分では、これまでの経緯等を説明したいと考えている。
 ここではまず、これまでの審議の経緯を述べ、次に、本懇談会が結論に到達した場合は官房長官にその報告書を提出することにしているが、その後、国民的な議論を踏まえて最終的には政府の責任において判断をされるべきことだという趣旨を述べたい。
 さらに、官房長官からは、施設の種類、名称、設置場所等についても諮問されているが、この部分は実際に施設をつくるということが決定された場合に検討すべき事項である、そういう意味からすると、これらについて意見を取りまとめるのは時期尚早ではないだろうかと考え、多少の意見を述べるにとどめる、としたい。
 第2の「追悼・平和祈念施設の必要性」は非常に重要なところであり、なぜ今の時点で追悼・平和祈念施設が必要であるかという部分としたい。この点については、前回の懇談会で委員から出された意見を中心として、起草委員で固めたものである。
 しかし、この点についてはそれぞれの委員の、方向は同じであるけれども、違った考え方が混ざっており、ある意味で少し個性が薄れてしまったという感じもある。
 1番目に、なぜ今この種の施設が必要かということを論じたい。大きく分けると、環境が非常に変わったということを挙げている。
まず、国際情勢が変化した。つまり、国と国との関係が非常に密接になってきたので、自国のみの立場に立ってはいられないような状況になってきた。日本は依然として日本であるけれども、常に世界との関係、アジアとの関係、近隣諸国との関係を強く考慮しなければならないような日本になった。これが非常に明らかになってきたということである。
 それから、昨年の9.11の同時多発テロ以来、戦争と平和について日本国民も大いに考えさせられた。こういう中で、日本が平和国家として生きていくべきだというような考え方も次第に強まってきた。こういうことが環境の変化の一つである。
 それから、環境の変化のもう一つは、戦争を現実に体験した世代が次第に少なくなってきて、あと10年ほどで大きな世代交代が起こる。そういう点からすると、今のうちに「平和国家」日本の担い手としての自覚を特に次の世代の人にはっきりさせる必要があるのではないか、ということである。
そういう環境の変化を受けて、日本としては平和国家であり続けよう、平和国家としての貢献もしようというメッセージを世界に向けてすべき時期に来たのではないか。そして、そのためにはやはり過去をきちんと押さえて戦争の惨禍に思いを致し、死没者を追悼し、更に不戦の誓いを立て、新たにした上で平和を祈念しよう。こういうことを世界に向けてメッセージとして発すべき時期が来たのではないか。
 2番目には、なぜ国家がそのような施設を提供する必要があるかということを述べたい。つまり、国家、国というのは国民の意思、意向、願望を表現する主体であると考えると、1番目で述べるような環境変化を前提に、今そのメッセージを出すときではないだろうか。そして、内容として過去と未来を結合する必要がある。言ってみれば、過去の追悼と将来に向かっての平和祈念というものを合体させて、これを明らかにすべきではないだろうか。こういうことを表現したいと考えている。
 3番目には、1番目、2番目のまとめとして、「繰り返しになるが、未来への希望を語るための背景として、過去についての深い思いがなければその希望は薄弱なものとならざるを得ない。したがって、平和の誓いを立てる前提として、過去の戦争の歴史を振り返り、民族・国籍の別を問わず、前述のような死没者に思いを致す必要があろう。」という文章を入れたいと考えている。
 そして4番目には、日本は民主主義国家として、歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない。むしろ国民が多様な解釈をできるような可能性を保障する責任を持つものであり、国民は一人一人の心の中にある個性豊かな「戦争と平和」の思いを国が提供する追悼・平和祈念施設の象徴的施設に赴くことによって改めて認識し直す契機を持つことになる。したがって、この種の無宗教的な追悼・平和祈念の施設をつくる意義がそういうところにもある、このようなことを述べたいと考えている。
 この第2については、様々な意見が混在した結果、やや一長一短の部分があるかと思われるので、委員の意見も承りながら、あるいはもう少し国民に分かりやすい、あるいはもう少しはっきりした形でその思想を出す必要があるのかもしれない。
 第3の「追悼・平和祈念施設の基本的性格」では、これまで懇談会としては理念ということで議論をしてきたが、第2の部分にかなり理念が盛られているので、むしろこの新しい施設はどういうものであるかを明らかにする必要があろうということで、理念ではなく基本的性格を述べたいと考えている。
 1番目には、懇談会の考える施設を一口で述べたい。つまり、この懇談会でこれまで十分に議論を重ね、恐らく全体の合意を得たと思われる部分を文章化したいと考えている。例えばメディアなどで、施設はどういうものだということを記述する場合に、この部分を利用するとなると、「無宗教の」という文言も入れた方がいいのではないかと考えているが、その点も含めて後ほど御意見をいただきたい。
 2番目には、第2の部分でも述べられているが、単に平和を希望する、願望するというだけでは十分ではなく、以下のことが必要であるということを3番目に述べたい。
そこで3番目には、平和祈念のためには積極的な部分を望むことが必要であり、「平和祈念は、当然、将来に向かって平和の実現のために努力するという意志を内容とするものでなければならない」いう文章を入れたい。これは御異存がないと思う。「そのためには、バランスの取れた安全保障政策並びに様々な国際的な平和構築の活動を行うことによって武力行使の原因となる諸要因を除去することに国としても全力を挙げるという決意を明らかにしなければならない」という文章を入れることには、例えば政府にもそれを望むという性格があるとすれば、少し逸脱しているというふうにも考えるが、国民としてはそういうことを希望しているのではないだろうか。
 つまり、バランスのとれた安全保障政策というのは、例えば日本の場合、武力行使というものが完全な自衛的なものとしてはあり得る。したがって、戦争はしないと誓った場合でもそういうものの余地は十分あり得る。
 それから、例えばあるテロ集団があり、その撲滅のためにある外国、あるいはその外国グループが武力を行使する場合に、それは全部だめだというわけにはいかない部分があり、それへの協力が当然必要な部分があるだろう。しかし、完全にそれに乗ってしまうとまたその問題が出てくる。そのバランスというのが大変大事である。したがって、安全保障政策というのは、中身としては武力行使をどういう範囲でやるかということについて全体のバランスをとる必要があるという考え方を含んでいる。
 それから「様々な国際的な平和構築の活動」には非常に多くのものを含んでおり、例えば和平が成立した場合の秩序維持というような活動も入っており、もっと積極的に、例えば対立している異なる民族の子どもたちを集めて今後対立が起こらないように様々な教育をしたり、仕事をするというような活動も含んでいる。国際的な平和構築の活動は安全保障政策とは違うものがある。そういうことを行わなければ、結局武力行使の原因となる諸要因を除去できない。例えばなぜテロが行われるのか、テロをただ撲滅するだけでは究極的な解決にならなく、報復が報復を生むということで更に混乱が続くおそれもある。究極的には、武力行使の原因となる、例えばテロの発生、テロ集団の発生というようなことを除去する活動をしなければならない。日本は平和国家としてそういうことに全力を振るおうという決意がいるし、また、それが今必要な時期に来ているのではないかということである。
 4番目には、平和祈念は日本としては当然過去に日本が係わった戦争の惨禍に思いを致すところから出発する。そして、戦争によって掛け替えのない命を失った非常に多くの人がいるという事実を直視してその死を悼む。これがなければ、平和祈念が単なる願望に終わってしまって浅いものになってしまう。こういうことを明らかにしたいと考えている。
 5番目には、追悼の対象は国のために戦死した将兵はもちろん、その他、空襲や、空襲だけではなく戦争に起因した様々な困難があって、例えば栄養不良になって死んだ人たちも沢山いるわけで、そういう民間人も命を失った。それらの人々がすべて既存の慰霊施設で慰霊されているかというと必ずしもそうではない。そういう人たちが沢山いるというふうに考えてみると、戦死した将兵に限られないで、この種の民間人も対象になるということを明らかにしたいと考えている。
 6番目には、戦争の惨禍に思いを致すという点からすると、その理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も日本人と区別する言われはない。この点については、観点の違いによってそういう人を入れるか入れないかというのは当然出てきてしかるべきだろう。この施設の場合には平和祈念というところに主たる目標があるとすると、やはり過去に起こった戦争の惨禍に思いを致す必要がある。そういう観点からすると、必ずしも日本人と外国人とを区別する言われはないのではないだろうか。このように考え、そのことを明らかにしたいと考えている。
 ただ、追悼の対象は戦前の戦争によって死没した者にとどまらず、戦後、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や国際平和のための活動によって命を落とした者も含まれ、戦後については日本人に限る。もちろん外国人でも、日本のそのような防衛活動や平和維持活動に協力をして亡くなった外国人は追悼対象に含まれる可能性はあるが、そういった活動によって生じた死没者すべてを追悼するというのは必ずしも国民感情に合わないだろう。よく例として出されるように、不審船の攻撃防御の中で仮に相手方に死亡者が出た場合、そういう人も追悼するのかということが当然議論になってくる。この点については戦前と戦後をきちんと分けることができるのではないか。 そこで、戦後について言えば日本は日本国憲法によって不戦の誓いを行っており、日本が戦争をすることは理論的にはあり得ない。例えば、自衛による武力行使ということがあり得るとしても、戦争ということはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり、国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とはならないということを明示したい。
 7番目には、これも懇談会で十分議論をしたように、この施設は「祀る」という性格のものではない。したがって、個々の死没者は出てこない。つまり、死没者一般が対象になり得るにとどまる。例えば、この追悼施設が慰霊施設であるとか祭祀のための施設であるということになると、個人的な者が出てくるが、この施設は本質的に平和祈念の前段階として死没者を追悼するという観点を持っている。したがって、その対象は死没者一般であって、それ以上に具体的な個々の人間が追悼の対象に含まれているか否かを問う性格のものではないということで大体結論が到達したので、そのことを明らかにしたいと考えている。
 そして、魂のないものを祈ってもしょうがないのではないかという意見があるので、「祈る人が、例えば亡くなった親戚や友人を悼むことを通じて戦争の惨禍に思いを馳せ、不戦の誓いを新たにし、平和を祈る場としての施設を考えているのである」ということを付け加えたい。 8番目には、この施設は国が設立する施設、いわゆる国立の施設とする。国が設立するためには憲法の20条3項、89条のいわゆる政教分離の原則があるので、その趣旨に反しないように無宗教のものとする必要がある。しかし、無宗教の施設とし、施設自体の宗教性が排除されても、その施設を訪れる人々の行為が宗教的な性格を帯びても、それは一向に差し支えない。そこで、例えば宗教団体の様々な儀式、方式を使っても一向に差し支えないと考えている。
 第4の「追悼・平和祈念施設と既存施設との関係」では、重要な施設として靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者墓苑等について述べることとしており、懇談会で十分議論をしたように、「決してこれらの施設の存在意義を損なわずに必要な別個な目的を達成し得るものであると考えた。」としたい。その理由については、靖国神社については、靖国神社社憲の前文を挙げ、「國事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行してその「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰する」施設であり、いわば慰霊、顕彰ということが大きな目的だが、新たな国立の施設はそういうものではない。特に慰霊、顕彰をする施設ではないということからして、その趣旨、目的は全く違うということである。
 また、靖国神社の慰霊、顕彰の対象は、主に嘉永6年から先の大戦までに国事に殉ぜられた軍人軍属や準軍属であり、必ずしも空襲その他の戦時中の困難によって死没した人の多くは含まれていないので、ある意味で新しい施設の追悼対象は広い。つまり、新しい施設の追悼対象の中には将兵も、あるいは一般民間人も入っている点からその範囲が広いが、しかし、目的が違う以上、一方が他方を吸収してしまうというような関係にないことは言うまでもない。つまり、新しい施設をつくったら靖国神社の意義が失われるというようなものではないということを記載してはどうかと思っている。
 それから、「靖国神社は宗教法人の宗教施設であるのに対し、新たな施設は国立の無宗教の施設である。この性格の違いは、異なった社会的意義を保障するものである」ということも述べたいと考えている。
 それから、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるための施設であることからすると、やはりその目的が違っているので、両者が両立することは言うまでもないとしてはどうかと考えている。
 第5の「追悼・平和祈念施設をつくるとした場合の施設の種類等」では、第1の「はじめに」で述べたように、まだここで詳細なことを意見として述べる段階ではなかろうということで、懇談会で出た概括的な意見を述べるにとどめるべきと考えている。つまり、大型の建造物ではなくて、むしろ住民が気楽に散策できるような明るい公園風のスペースで、かなり大規模な集会ないし式典ができるような広場があり、その一角に追悼・平和祈念にふさわしい何らかの施設をつくることがいいのではないだろうか。それから、やはり都心あるいはその近くにあることが望ましいのではないか。また、従来戦争や特定の宗教に係わりのあった場所でない方がいい。
 それから、名称についてはここでは全く議論をしていなく、公募したらどうかというような意見も出ていたので、それを述べたい。
 政府主催の式典を行うかどうか、行うとしたらいつがいいかについては、懇談会では決めないことにし、政府で決定することが望ましい。
 第6の「終わりに」では、総括を書きたいということだが、この点については今、説明したようなことについて、懇談会の意見を承った上で、それらを総括する形で文章化したい。これは最終答申の前に原案を全員に送付し意見を承った上でまとめる必要があるのではないかと考えている。 それから、新たな国立の施設についての意見とこれに対する考え方として、これは本文の中に入れることも考えられるが、内容が第3で述べた基本的性格と重なる部分がかなりあるとともに、蛇足のような感もある。しかし、様々な御意見についての考え方は述べておいた方がよいのではないかということでまとめたものを付けてはどうか。これは本文の中ではなく、参考として付け加えるのがよいのではないかというのが起草委員会の意見である。
 また、亡くなった坂本委員の意見を参考意見として付け加えることを考えているが、どのようにまとめるかということと、これを紹介する頭の部分の文章についてもう少し検討したいので、本日は具体的な点についてはまだ示すことができない。載せる方向で考えているということを申し上げておきたい。


○それでは、順番にこれから御議論いただきたいが、本日欠席している委員から事前に御意見をいただいているので、事務局から紹介していただく。

○(事務局)「これまでの懇談会の経過がよくまとめられていると思う。したがって、この報告書に基づいて答申となることに異議はない」という意見をいただいている。

○報告書たたき台の構成についてだが、「第1 はじめに」から始まり、「第2 追悼・平和祈念施設の必要性」ではなぜ今か、なぜ国家がということについて述べ、「第3 追悼・平和祈念施設の基本的性格」では今まで理念として議論してきたことを述べ、「第4 追悼・平和杵施設と既存施設との関係」で靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者墓苑との関係を言及し、「第5 追悼・平和祈念施設をつくるとした場合の施設の種類等」では、施設をつくる場合の概要を指摘し、それから最後に様々な意見に対して我々の考え方を言及するという構成である。
 まず、全体の構成についての御意見をいただきたい。

○結構である。

○それでは、このような構成でよろしいか。

○異議なし。誠によくできている。完璧だと思う。

○起草委員の方にはよくまとめていただいたと思う。全体の構成の流れはいいが、重複して入っている内容も少しあり、若干起草委員の御意見が唐突に出ているところもある。ただ、全体としては特に異議はない。

○構成に異議はない。

○それでは、「第1 はじめに」から議論していただく。ここでは、国民的な議論を踏まえて最終的には政府の責任で判断するということ、それから国を挙げて追悼・平和を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要だとして、ただ施設の種類、名称、設置場所等については時期尚早なので施設の概要を指摘するにとどめるという構成になっている。何か付け加えることはないか。

○これで良いのではないか。

○次に「第2 追悼・平和祈念施設の必要性」についてだが、なぜ今かという点については、日本をめぐる環境の変化、そして主体的に行動すべきということを世界に訴える好機だという外的要因と、それから国内でも戦争を知らない人が増えてきたので、その自覚を改めて促す節目だということから今だという説明があった。

○なぜ今かというところは、まだ考えがまとまっていないが、少しきれい過ぎるのではないか。なぜ今かというと、近隣諸国といろいろなことがあり、首相の靖国参拝やその部分が全く触れられていないのは、また紛争のもとになるのではないか。これは検討の要素として考えていただければいいので、どこをどうしろということではない。

○「国際社会の中で自ら一人のみで生きる国家という在り方が困難になっている以上、日本は、他国との共生を当然の前提としつつ、追憶と希望の象徴的施設を国家として提供する必要があろう。」という文章を入れることが、そういうことを意識していることを示すのではないだろうか。

○この懇談会の立場として、総理の靖国神社参拝に対して韓国や中国等、近隣諸国から批判があったり、強い意見が出たから新たな施設を検討するのではないという立場に立っている。

○しかし、頭の中には皆ある。

○特に近隣諸国との関連というものが非常に緊密になってきたということは考慮しなければならない。だから、批判されている靖国神社参拝問題を解決するというのではなく、もっと積極的なものを日本は考えているんだと。近隣諸国とも戦争はしない。そして、平和国家として生きよう。北東アジアの国々とも手を組んで、世界の平和のために貢献しようということを明らかにすべき時期が来たというのが気持ちの中にある。
 批判が起こったからこういう施設を考えるのではないが、たまたま今そういう平和祈念施設というものを考える必要性、日本が平和国家として生きるということをメッセージとして世界に出す時期に到達した。そのためには、やはり日本人の将兵ばかりではなく、また日本人の民間人ばかりではなく、理由のいかんを問わず過去に起こった戦争のために死んだ外国人をも共に追悼するという立場に立つ。これによって近隣諸国の国民感情も変わるのではないだろうかという気持ちは私の中にはあるが、それをなかなか表に出せないところに難しさがあるように思う。

○これまでの騒ぎが無関係というのもやや不自然な感じもする。したがって、「新たな国際社会形成の動きが見られるようになっている」とか、「自ら一人のみで生きる国家という在り方が困難になっている今日」とかいうことにより幾分かそういうことを込めても、これでは抽象的過ぎるという見解はあると思う。
 そこで、「また、いわゆる9.11テロに見られるような世界平和への新たな挑戦が生まれている現在、平和についての国民の関心も高まっている」とした後、「更に近隣諸国などからも、日本の国際社会における今後の在り方について様々な意見が出されている。」というような文章を一つ入れるのはどうか。日本はどちらに進む気なのか、今まで歴史認識については余り明らかにせずにいろいろやっているが、それでは一体どうするつもりなのかということを言われることはよくあるので、そういうことをワンセンテンスここに入れれば良いのではないか。特にこれを入れたからと言って靖国批判に答えるためにつくるわけではないという趣旨は変わらないと思うが、ただ、そういうコンテキストはそこで出てくるのではないか。

○そうなると、「しかも、もはや今日、国際社会の中で自ら一人のみで生きる国家という在り方が困難になっている以上、日本は、他国との共生を当然の前提としつつ、追憶と希望の象徴的施設を国家として提供する必要があろう。」と書く必要はないのではないか。今の趣旨が入ればいいのではないか。

○この点に関しては、「繰り返しになるが、未来への希望を語るための背景として、過去についての深い思いがなければその希望は薄弱なものとならざるを得ない。したがって、平和の誓いを立てる前提として、過去の戦争の歴史を振り返り、民族・国籍の別を問わず、前述のような死没者に思いを致す必要があろう。」ということにより必要なことは全部書いてあることになると思う。特に国際的なものとして過去や歴史と言ったら何のことだか分かる。それで、ここで未来の希望を語るためには過去について深い思いがなければならない。続けて、そのために民族・国籍の別を問わず戦没者を追悼すると書いてあり、志は非常にはっきりしているので、余り現実的な外交上のレトリックに我々がコミットするのは賛成しない。むしろもしやるならば、どこか適当なところにはめ込むのはどうか。

○戦後生まれの全く戦争にタッチしていない者にとっては、これからの「平和国家」としての新しい教育、また今後の「平和国家」日本の担い手としての自覚を持ってもらうという意味では、例えば広島、長崎、知覧等に行って感じるより阪神・淡路大震災の震災の記録を見た方が、身近で、インパクトが強く、戦争については実際には感受性が全くないような世代が多くなってくると思う。
 そういう中で、一般の若い世代が「繰り返しになるが」で始まる文章をぱっと読んでも、大事な部分かもしれないが、全く具体性がなく抽象的過ぎて理解し難いのではないだろうか。
それから、一番大事な問題だと思うが、もし靖国神社に代わるような施設であったり、または中国や韓国など近隣諸国から言われたからつくるというのでれば、皆猛反対する。そのための施設では全くなく、別の必要性があるので、靖国神社のことに触れることすら本当はおかしい。

○靖国神社については、第4のところで述べようと考えている。

○靖国神社とは全く関係ないところで、全く新しい施設をつくるという意味でなら良い。

○ここでのポイントは、なぜ今、なぜ国家がという、この2点に中心がある。したがって、ここで我々が言いたかったことは、この懇談会の経緯とか、それができたところとは一応離れ、とりあえず考えてみるとこういうことではないか。しかも、ここでは追悼・平和祈念のポイントを平和に中心を置いて、未来を見たときに過去がどうしても必要になるので過去を見てみようという形の論理構成をとった。だから、余り近隣諸国の問題についてここで議論をする必要はむしろないのではないかというのが基本的な思いである。
 したがって、理念として余り防御的にならないように、靖国神社参拝問題との関係、あるいはこれまでの経緯との関係は本文では述べない。つまり、なぜ今か、なぜ国立の施設かというところに議論を絞っていいのではないかという気がする。
 それから第2の3番目の点については、どうしてここに入れようかと考えているかと言うと、「民族・国籍の別を問わず」という部分を繰り返しておきたかったからである。また、未来を語るために過去が必要だということをもう一遍繰り返すことになり、これが少し浮いていることは間違いない。これをどうするか。どこか上の方に入れてしまうか、あるいは、これは取ってしまった方がいいか。

○私の印象としては、本当にこれはディプロマティックで、良いと思う。
 ただ、全体的な印象の中で2点だけ申し上げると、一つは、なぜ今かということを余り強く言う必要があるだろうかということである。これはいろいろなレトリックは可能で、それは確かに戦後50年とも言えるし、もちろんグローバル化時代ということも言え、だから追悼・平和祈念の施設だという論理構成は、一つの文章のあやとしては良いが、論理としてこれを打ち出す必要があるか。
 むしろ、なぜつくるのかと聞かれたら「これまでなかったから」だと。今まで気が付かなかったのはだれかの責任だが、今我々はなかったということに気付いた。特に今ということを強調すればするほど、その論点が弱まってしまうのではないかというのが一つである。
 したがって、確かにこういう時期を選んでこういう施設をつくるのにこれだけの現代文明的意義があるということを言っていいと思うが、ただ、これを論理としてなぜ今かと言うと、反論が出てくるというよりこちらの主張が弱くなってくるような気がする。
 もう一点は、もちろん全体的な印象で後に議論になると思うが、やはり本文中で靖国神社に触れる必要はないのではないか。もし触れるのであれば、別紙に全部移して議論し、反論に答える形にしてはどうか。
 ただ、従来から、外部からの様々な意見に対して一般に懇談会や審議会は反論してこなかったので、この懇談会だけでするのは異例の感じがする。本文を読めば靖国神社と違うことは明確であり、靖国神社に対して損害を与えるものでないことは明らかであるから、わざわざ第4で触れる必要があるのかという気がする。ただ、全体的には非常によく書いていただいたので、このままでも結構である。

○今の御意見は庶民とは大分違うと思う。ここは哲学を論じているわけではない。もし近隣諸国からいろいろ言われなければ、このような施設をつくるということにならないと思う。したがって、なぜ今かということに私たちは飛び付いて見るし、そういうことを考えると本文中に靖国神社のことが入っていないと気持ちとしては収まらない。庶民の声としてここで一言言うと、これだけの違いがあるということだけ分かってもらえればと思う。なぜ今かというのは一番知りたいところである。

○平和祈念に非常に強く軸足を移して、平和祈念の前段階として追悼があるという構成になり、国家として命を落とした人を追悼する義務がある、責務があるという考え方は少し後退させてしまったが、その点はどうか。

○それは、私はあえて持論を主張しない。これで十分結構だと思う。今後これが外へ出ると、当然これは社会的な存在になるので、機会を得てここにいる皆がそれぞれの思いを述べればいいと思う。したがって、これで結構である。
 ただ、官房長官の指示による私的懇談会の名前で外と論争する必要があるだろうかという疑問が若干ある。

○こういう意見を個人として述べている人はいると思うが、大きい意見としては出ていないので、これをやはり国民の議論に付するという必要は非常にあると思う。我々の意見を支持する、賛成する意見もあり、私としてはかなり賛同者はあると思う。したがって、この報告書の目標はどちらかというと、そのような人たちにできるだけそうだと感じていただく、そういう文章にしたいと考えている。
 そうすると、余り言葉を節約したものだと一般の国民には分かりにくいと思うし、ある程度心のこもった、通ったような文章にする必要がある。それから、反対する側では「中国、韓国から批判されているからつくるのはけしからぬ」というのが非常に声高に言われているだけに、なぜ今かという部分がないとその批判がそのまま通用する。一般国民にも理解してもらうためには、やはり今施設がいるということを分かりやすく述べる必要がある。近隣諸国から批判されたからではないということである。
 特に、周辺諸国の政府ではなく、むしろ周辺諸国の一般庶民を前提にすると、新たな施設があるかないかでは違ってくると思う。予測だが、総理の靖国神社参拝が仮に続いても、新たな施設があった上での参拝かどうかというのは違ってくるのではないか。その辺を考えると、なぜ今かという時代の変化、特に世界の流れにおけるアジアとの係わりが非常に緊密になり、またそこに日本の使命が出てきたということを述べておきたい。

○なぜ今かということと靖国神社について触れないのであれば、追悼は要らないと思う。その方がすっきりするのではないか。追悼が付いているから、近隣諸国がどう、靖国神社がどうのということを言いたくなるので、追悼を付けるならばそれは入れるべきだし、平和祈念の碑にしてしまえば、新しいものをつくるわけだからなぜ今かなどと言われない。今までなかったものをつくるのであれば平和祈念の碑の方がいい。追悼を入れると、やはりなぜ今かということと、靖国神社のことが重なってくる。
 私はそう思うが、起草委員でこの中間点のような考え方があると思うので、お考えいただければいい。

○要するに、靖国神社があるから追悼のための新しいものは要らないというお考えか。

○追悼・平和祈念施設と書いてあるから、私は靖国神社にこだわるし、近隣諸国にもこだわるし、靖国神社参拝にもこだわるということである。もしそのようなこととは関係なく、今までなかったものをつくるというのであればすっきりするが、その場合には追悼というのは外してしまった方が趣旨にかなうのではないか。

○しかし、国として無宗教の追悼施設はなかったのではないか。

○平和祈念の中に追悼が含まれると私は解釈した。

○であるから、ここで追悼と平和祈念は両者不可分一体のものと考え、それはやはりイコールであり、これは両者なくては成り立たないものだと我々は考えている。

○含まれてはいけないのか。追悼と別枠で平和祈念を設けなければいけないのか。

○おそらく追悼と平和祈念は不可分一体であるという言い方にあるように、どちらがどちらに含まれるという形ではなくて、両者を一緒に議論しなくてはいけない。

○論理構成で言うと、第2の1番目でなぜ今かという理由を述べて、2番目でなぜ国がやらなければいけないのかを述べ、3番目は新しい考え方のコアのまとめのようなものである。追悼と平和祈念を一緒にして考えるというのは、つまりこういう未来への希望を語るためには過去について深い思い入れがなければいけないんだということで、3番目で1番目と2番目で述べることをまとめようと考えている。したがって、3番目はもう少しはっきりと鮮明になるような書き方にすれば良いかもしれない。

○なぜ今か、なぜ国家が施設をつくるのかについては、今までそのような施設がなかったからというよりも、平和への誓いを内外に発信するために、平和祈念の前段階として追悼する象徴的施設を国家として正式につくる必要があるからだという論理に変わったということか。

○それも文章上の書き方の問題かもしれないが、おそらく本来はこれよりも前に、国というものは国立の追悼・平和祈念施設というものがそもそもなければいけないものだということがあり、しかしながら今までの日本にはなかった。それを、今あえて我々はつくろうと提案している。そこで、あえて蛇足かもしれないけれども、なぜ今つくるか、なぜ国家がつくるかという理論的な説明を加えておきたいという論理的な順序になっていると思う。

○今の意見が100%私の主張である。しかし、それはこれを読めば分かるのであえてそれ以上は述べなくても良い。

○ただ、そもそも一番最初にそういう施設が必要だと書いてしまうと、その後どう続けたらいいのか難しい。この問題について新聞などを見ていれば、大方の人からは何で今ごろこのようなものをつくるのかという意見が出てくるが、それは通例考えれば、やはり靖国神社のことがあるからつくろうとしているのではないかと言われているわけだから、私はどちらかと言えばそういう意見に対してそれなりにこたえる形で報告書をつくった方が親切であるという感じはする。

○それで大変結構である。

○先ほど言われていた、「いわゆる9.11テロに見られるような世界平和への新たな挑戦が生まれている現在、平和についての国民の関心も高まっている」とすることに続けて、「更に近隣諸国などからも、日本の国際社会における今後の在り方についてさまざまな意見が出されている。」という文章があった方が、一人ひとりが読んだときに胸のつかえがとれないままということにならないと思う。この懇談会はこういう名前が付いているが、多くの人には「靖国問題の懇談会ね」というような認識が非常に一般的にあり、背景に靖国神社参拝問題があると思っているので、やはり先ほどの一文をここに入れた方が分かりやすいのではないかと私も思う。

○なぜ国がという点については、今まで日本は戦前の来し方、戦後の行く末について、国内外に対して必ずしも十分なメッセージを発してこなかった、そこでこういう施設をつくって国家として平和の誓いを内外に発信すべきだとなるが、この辺の構成から理念に入っていくわけである。要するに、平和祈念が平和の誓いの発信だが、追悼と平和祈念は不可分一体だからすべての死没者を追悼して、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いをやり、そして日本の国、世界の平和を祈念すると、こういう内容が繰り返し書かれているわけである。

○若干くどいという感じはするが、場合によるとこういうくどい文章にも効用はあるのではないかという気がする。

○そういう趣旨を強調しているわけである。

○もう少し場面場面で具体的なことを言えば繰り返しにならないと思うが、それを抽象的なことに全部置き換えているから何となく繰り返しが多い感じがする。ただ、外へ出すときにはこのくらい繰り返しておいた方が私はいいのではないかという気がしてそういうふうにしたいと考えた。

○第2の4番目の点は非常にいいと思う。

○重複も良い面と悪い面と両方あるので、その辺も考えながら、この部分の修文について、もう少し努力をしてみたい。

○第2の4番目の、国家として歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない、国民による多様な解釈の可能性を保障する責務を持つ、だから一人ひとりが死没者を悼み、戦争の惨禍を思い、平和構築への思いを新たにすると、非常にいろいろな問題をこれで解決している気がする。

○それでは、この第2はこのような内容にさせていただきたい。

○では、第3の基本的性格の意見をうかがいたい。

○第3の1番目をぱっとマスコミが使う可能性があるとすれば、そこで言いたいことを全部言ってしまうと、つまり特色を全部明らかにするとすれば、後のものと重複になるかもしれないが、「無宗教の」国立の施設としておくと、これで全部尽きるかなという気がする。
 それで、例えばこれを支援するいろいろな仏教方面の方などは、無宗教というのが大変気に入っているらしく、その点については一般国民もそれがあるからどうということはないので、これはぱちっと入れておいた方がいいという気がする。

○私は全体的に大賛成だが、4番目の「このような平和祈念は、日本人としては当然過去に日本が係わった戦争の惨禍に思いを致すところから出発するが、その中で最も重要なのは、戦争により掛け替えのない命を失った非常に多くの人がいるという事実を直視」すること、これは繰り返しとなるのではないか。

○どちらかというと、ここは将兵の軍人軍属の死没者をまず頭に出すというような考え方になるように思う。もっと詰めて言えば、戦争の惨禍に思いを致すと書こうとされている。戦争の惨禍とは何かというと、掛け替えのない命を失った人がいるということではないだろうか。

○それだけではなくて、やはり財産も焼かれたり、文化財も焼かれたり、いろいろなものが破壊された。一家離散ということもあった。そういうこと全部を惨禍と言って、その中でしかし一番大事なのはやはり命を失うことじゃないかという見方である。したがって戦争の惨禍の中には人の死亡を含むけれどもそれだけではない。平和祈念というのは、そもそもそこから出発するわけである。戦争があるとこんなことになるよと。

○最初から追悼をするということを繰り返し繰り返し述べてきて、追悼と言えば物を追悼するはずはないので家屋、財産のことでないことははっきりしているのではないか。

○追悼から出発する前に、戦争というのはこんなひどい、むごたらしいものだというのがまずあって、その中に含まれるのではないかと思う。これが私個人の考え方だとすると皆の御意見も承りたいと思うが、戦争というのは本当にいろいろなことがあるわけで、人の命も失われるけれども財産も失われ、いろいろなことになる。運命が変わってしまう人もたくさんいる。こういうのはいけないというのが一番奥底にあるのではないだろうか。それがあるから平和祈念の方へ結び付いていく。人の追悼、人の死というのがやはりその中にあるから、それを追悼して不戦の誓いを立てて平和祈念という流れになるというのが私の頭の中にある。

○これ以上くどくは申さない。

○第3の6番目についてだが、将来を見越して今、若い人が将来大きくなってくるからこういう施設が大事だということを今まで冒頭の方で述べていて、日本は日本国憲法により不戦の誓いをとあるが、憲法が変わったらどうするのか。変わる動きというのは近いような気がする。

○不戦の誓いは書くはずである。我が国は戦争をする国家であるという憲法は、まずどこの国でもつくらないだろう。

○集団的自衛権などというのが仮に規定されても、それは平和のためのものだから、日本から20世紀的な戦争を仕掛けるということでは、まず憲法は変わらないのではないか。

○そうすると、憲法は9条も何も全部あのままか。

○それは分からないが、どこの国の憲法でもこれから戦争をするぞと書くことはないと思う。

○これから憲法が仮に改正されるとしても、おそらく国連憲章を否定はしないと思う。国連憲章を守るということは戦争をしないということだから、それは通常は問題にはならない。

○第3の基本的性格の前半では平和について述べ、後半で戦争により命を失った人について述べることとしている。そして命を失った人の追悼というのは、論理的には平和祈念の前段階のものであり、それのみが目的ではないから、いわゆる「祀る」という性格ではなく、死没者一般がその対象になり得るにとどまり、祈る人が、例えば亡くなった親族や友人を思い起こすものであるので、個人の心の問題だということで良いか。

○それでよければ構わない。

○第3の8番目では宗教性を排除するということをずっと言いたいのか。

○無宗教の施設だが、祈る行為は宗教的で一向に差し支えないということである。

○平和が中心だが、ここで過去に命を失ったいろいろな人を追悼して、そして戦争の惨禍に思いを致すということがずっと書いてある。それは宗教心はなければいけないけれども、宗教施設ではないと。

○ここのところは個人的に完全に賛成だが、ちょっと議論しておく必要があるかと思うのは、各自がこの施設で自由な立場から追悼・平和祈念を行うことが保障されていなければならない、というかで、ここで例えば某宗教団体が借り切って、その宗派のおまつりを行う。これは私は理論的には許してもいいと思うのだが。

○平和祈念が目的であれば、であろう。

○それはそうだろう。戦争をしようと集まる人はまずいないと思うが、とにかく私の言いたいことは予想されるものである。そういう場合、これを各自の自由だということにしておくか。私はそれでいいと思う。同じ場所でキリスト教の人が集まってやってもいい。無宗教という意味は、要するに無ではなくて超宗教だというのがここの立場であろう。ただ、了解事項として確認はしておかなければいけないと思う。

○限度の問題というのはどこかに出てくるかもしれない。だから、公共の秩序を乱さないというような限度は多分出てくると思うが、その範囲内で言えば宗教的行為をどこからどこまでは良くてどこからどこがいけないというのは言いにくい。だから、ここへ数珠を持って行ったらそれだけでだめだと言うことはできないはずである。そこで十字を切ったらいけないということは言えないわけである。
 ただ、そうなるとそういう宗教的なある種の儀礼はどこまでだったら許されるか。そこのところに大舞台をつくって大きな彫像みたいなものを引きずっていって、そこで大音響を立てて何かやり始めたらどうかというようなことはあり得ると思うが、その辺は公共の秩序との関連で制約するという話にしかならないと思う。

○そういうことは使用細則で決めればいい。

○それでは、まだ修文その他はあるかもしれないが、第3の考え方はこれでいいか。

○第3の3番目で、「そのためにはバランスの取れた安全保障政策並びに様々な国際的な平和構築の活動を行うことによって武力行使の原因となる諸要因を除去することに国としても全力を挙げるという決意を明らかにしなければならない。」というように、政府に何とかせよと言っているところはこれでよろしいか。

○願望にとどまらないで行動を起こせと。国として全力を挙げるという決意を新たにする。

○それはいいのではないか。

○こういうのが出て困るということなのかどうかである。これは国民の願望でもあり、政府としてもそれを基本方針にしても一向に問題はない。

○それと、平和というのは祈念しているだけでは絶対にこないもので、実際にいろいろな具体的な努力をした上で、かつ祈念するわけだから、これは付けてくれた方がいいと思う。

○全然関係ないかしれないが、例えばイージス艦の派遣などというのは同じ意味なのか。

○これがバランスである。

○この文章だけの解釈を見たときに、である。
○集団的自衛権とか、そういう難しい問題は別にして、武力行使の原因となる諸要因を排除することでやっている。武力行使の原因というのは、アフガンだからテロであるが、そういうふうな行動だと考えていいのではないか。

○しかも、これは武力行使の原因となる諸要因を除去すると言っているわけだから、この表現では控え目に言ってもピース・キーピング・フォースにまだ入っていない話であろう。だから、これは是非書いておかないといけないと思う。

○もっと積極的に、ということであろうか。

○この懇談会ではこの辺りについては余り議論をしてこなかったのに書こうということで、確認していただければというつもりである。

○やはり書いていないと意味がないから、これで結構だと思う。

○第4に移る。第4を入れるか、別紙にするかということは、さっき本文に入れるという意見、外した方がいいという意見があったが。

○これは、答申としては、別紙にしてしまうというのも一つのやり方かもしれない。

○この点については、委員の中でも考え方が違っているので、それを統一して本文中に書くというのはなかなか難しい。様々な意見があったということを坂本委員のお考えも含めて別紙で表明するというのはどうか。

○それはこのような意見があるけれども、懇談会ではこう考えるという部分も全部取ってしまった方がいいということか。

○第4を別紙とするというのであればいい。別紙を付けるということについては、亡くなった坂本委員に意見を付けると約束した。亡くなった方への約束は守らなければいけない。したがって、これははっきり我々が聴取した限りにおいて、坂本委員意見を書くべきである。

○別紙にするかどうかは置いておいていただきたいが、坂本委員の意見については参考意見として、現実にこの懇談会に提出したもの、それから我々が今日やってきた論点に関連して彼が実際にこの懇談会で話した要旨をきちんと最後に載せるということで大体意見は一致している。

○委員会が外の意見に対して応答するということは非常に異例なことで、例えば今、議論が沸騰しているが、公聴会を開いていろいろな意見を聞くというのならばまた別だが、それ以外には外と論争しないのが普通である。

○ただ、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑というのはすぐ思い浮かぶ施設であって、したがってそれについては第4で最低限言及をしておくことが親切ではないか。つまり、ほかのところには一切我々はそれを入れなかったわけだが、最後に来てやはり、この新しい施設を考えたときに一番念頭にあるのはこの2つだろうから、それについてこれと両立するものだというところまでの議論はしておいた方がいいということでここに入れた。さらに、それ以外の問題、つまり新たな施設に関する様々な意見とこれに対する考え方については、別紙という形にくくり込んではどうか。別紙を最終的にどうするかという問題はまた議論になると思うが、ある程度は述べておいた方が良いのではないか。

○坂本委員の意見を本文に付けるということになるのか。

○坂本委員の意見は「終わりに」の後に、参考意見という形で入れる。だから、別紙にすることとは全然別だということである。

○本文の一部分を構成すると考えてもいいのか。

○そうである。本文の一部になるであろう。

○それが付くとなれば、第4はあった方がいいと思う。坂本委員の意見が参考意見として付くわけだから、全体の意見として既存の施設との関係というのは本文の中にあった方がいいのではないか。それで、それが靖国を無視するとか、軽んずるとか、冒とくするとか、あるいは新しい施設にだれが行くかとか、そういうような意見に対しての考え方は別紙で書いたということで、これは本文を構成しない。

○第4のところで既存施設との関係を淡々と書くことも必要ないか。それからもう一つは、別紙において論争をする必要があるか。私はどちらかというと、第4のところで既存施設との関係は淡々と書き、違うというふうに言い、論争するようなものは付けないというようなことが一つの考え方ではないかと思う。

○坂本委員はこういう新しい施設は必要ないということを一貫して主張した。靖国神社がある以上、新しい施設は必要ないとはっきり言っており、それを参考意見で出すつもりである。そうすると、新しい施設は靖国神社とは両立し得るという議論がここに淡々と入ってくるのはいいと思う。むしろ私も基本的に議論するようなものはやめた方がいいかなと思っているが、これはまた別の問題だろう。

○我々はこの懇談会が終わった途端にそれぞれ個人になって発言の自由を得る。ここに座っている人間はたまたま皆、発言の場を持っているから、考え方を述べるのはその個々人の名前でやればいい。

○坂本委員の意見は参考意見として本文の終わりに付けるわけだから、靖国神社とは別だということだけは書いておいた方がいいのではないか。新しい施設は靖国神社とは別だということしか書いていないのだから。

○坂本委員の意見をどう出すかはなお検討しなければならないが、例えば坂本委員の意見の中にも非常に我々が影響したところがある。あるけれども、しかし坂本委員の意見でまとまったわけではないというのをやはりどこかに書いておかないといけないだろう。

○靖国神社と別であることは全体を通じて主張されているという印象はあるので、私は第4は要らないと思うが、あることに反対するというほど強くもない。ただ、我々がポジティブにある仕事をする場合に、何かに対してネガティブである必要はないという気がする。これをつくればおのずから批判は退けられる。

○ただ、第4のところを全部書かないということになると、靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に言及しないということになる。坂本意見の中にはそういう内容が出てくるし、懇談会としてはそのことについての関連は本文を読んでみれば明々白々だろうからそういうふうに本文を読みなさいと言うわけか。

○私としてはそうである。

○ただ、それは読者としてみると難しいかもしれない。

○私はやはりそれは肩透かしになると思う。だから、かえってそこは逃げたのか、あるいはそこのところは忖度しろと言って本文を読めと言っているけれども、本文にはっきりそれは出てこないからやはり変だとか、私はそういう議論が出るだろうと思う。そこでこの第4が入っていれば、そこを読んでください、このとおりですと言えるのではないか。おそらく最初のところだけ読めというふうな言い方をしたとき、絶対肩透かしだという感じを持たれると思う。それで良いという立場もある。それで良い、肩透かしなんだ、そう思うならばそれで良いという立場もあるが、やはりこれだけそういう議論をしてきて最後に靖国神社に全然触れないでというのは、逆にそこに作為があるように感じられるという気がする。

○やはり公平に見てこの第4のタイトルは、この流れの中で極めて自然ではないだろうか。既存施設との関係というのは当然あるべきだと思うし、いろいろな声が寄せられたということからも、やはり第4は付けておいた方がバランスがとれているのではないか。

○私がもしこれを付け加えるとしたら、最も顕著な違いは、片方は国立で片方は私立だという、それですべてだと思う。

○だから、最後に「靖国神社は宗教法人の宗教施設であるのに対し」と書いてはどうか。

○それですべてで、そこに入っている中身がどうのこうのという必要もないわけだし、いちいち違いを言い立てて議論をする必要があるのか。

○そうすると、「靖国神社は宗教法人で宗教施設であるのに対し、新たな施設は国立の無宗教の施設である。この性格の違いは、異なった社会的意義を保障するものである」というだけか。

○もし第4を付けるのならば、その内容とこちらの施設は祀る施設ではないということをもう一度繰り返す。

○ただ、そう考えてみると、祀る施設ではないというのは前にいっぱい書いてあるわけで、靖国神社の公式の見識は奉慰・顕彰であるということをここに書いておいた方が読者には親切かなという感じはする。

○新たな国立の施設についての意見とこれに対する考え方については、先ほど意見があったように、この報告書に付ける必要は私もないと思うが、この第4の関係については基本的なことは触れておくのは必要なのではないか。

○皆、この点はない方がいいという意見か。

○これをおまけというふうな取り方をすれば、これもあってもいいのではないか。

○私も、第4は入れておいた方がいいなと思う。私の仲間でも皆誤解して、何で靖国に代わるものをつくるんだという人が多く、政治家の中でもこの施設の趣旨を誤解して議論されている方もいるのではないか。

○今まで国の施設がなかったからという論理が、議論の中で、そこよりもやはり平和祈念に触れ、その前段階として追悼があるというように、始めの理念のところから若干軸足がシフトしたという感じがする。したがって、国として無宗教のものがないというのを余り強調したくない。だから、やはり靖国は靖国、それと全く違うということをここで言った方がいいのではないか。

○でも、それは同じことであろう。私は第4を入れることに反対はしないが、なるべく相手方の定義あるいは形容については簡略な方がいいのではないかと思う。要点さえ書いてあればそれでいいと思う。

○では、そのところをお考えいただきたい。
次に、第5にいきたい。5は冒頭に書いたように、これは単なる概要の指摘だということで、こんなものであったらいいなということを付記して、具体的には政府の御判断にお任せするということでよろしいか。この前の懇談会で出た意見をほとんど全部書こうとしているわけだが、そういう親しみやすいの性格のものということでよろしいか。


(異議なし)


○「第6 終わりに」というのは書くのか。

○もう要らないような気もする。

○では、新たな国立の施設についての意見に対する考え方のところを少し説明する。
 靖国こそ唯一の慰霊施設ということに対して、これに代わるという意見を述べた人は一人もいなかったということ。それから、靖国は対象範囲が限定され、神道によるけれども、こちらの方は空襲その他、多数の死没者に配慮したと述べたい。それで、決して代替施設ではない。矛盾なく存在する。靖国の意義が低下したり、形骸化したりするような存在とは思われないというのが第1である。
 その次は靖国で会おうという散華した将兵にとって違う施設をつくるのは冒とくではないかということだが、しかしこれは靖国を否定していない以上、将来の平和を祈ることは戦没者の死の意義を将来に生かすゆえんでもあり、国として国民にそのような行動を期待する意義のあることだと考えられる。したがって、それが冒とくになるとは思われないと述べたい。
 3番目は、総理の靖国神社参拝を望む者にわだかまりが生じるという問題について述べたい。しかし、新たな施設は靖国神社と両立し得ると考えており、この性格が正しく理解されればこの点に関し、新たなわだかまりが生ずるとは思われない。
そして、外国からの批判で新たな施設をつくるのは本末転倒だという意見については、外国からの批判をすべて内政干渉として無視することは許されないほど国際関係が緊密になっていることを承認せざるを得ないが、それはそれとして、そのような批判とはかかわりなく、平和国家としての日本の立場を内外に明らかにすべき時期が今であり、その形式としてこのような施設の設置が望ましいと考えたことを述べたい。

○委員に席を連ねた以上、懇談会として出した文章については、あらゆる機会においても反対意見を述べるわけにはいかないから、なるべくこの問題について細部の議論は避けていただきたい。お互いに手を縛ってしまう。

○そうすると、ここは付けないということか。

○私はそう思う。要するに、靖国神社についての解釈、それから今の世論の在り方等々、について我々として理解できるという部分もあるが、その理解を共有したくないとか、いろいろあるわけである。さきほど第4章を残すことになった上で申し上げている。

○スマートな答申にしようと思えば要らないと思う。

○ただ、確かにこういうものでも答申を構成するから、拘束されるという点はある。

○ここのところはやはり論争的なので、全員がすべてのセンテンスに同意できるかというと苦しい面があると思う。

○しかし、やはりこれがあった方が親切は親切だから、この部分には委員は拘束されないような書き方はないものか。委員の一人ひとりを拘束するのではなくて、流れとしてこういうふうなことがありましたとか、ここからこちらを別枠として。

○やはりこれを書くと、皆、それを見てしまうだろう。それを見て、何だ要するにそういうことでやっているのかという形で論争が始まると、せっかくこちらが前の部分でいろいろ言っていることがどこかにすっ飛んでしまうので、そこがちょっと気になる。

○かなりの人にとってみると、このような考え方を書いておいた方が分かりやすくなるという面はあるだろう。ただ、これを出すということになるとこちらだけで論争になる可能性がある。ここの部分は、終わってからメンバーが個々別々にこれに類するものを書いた方がいいのではないか。それぞれ自分の分析で書いた方が責任は取りやすいと思う。

○趣旨はほぼここに書こうとすることでいいのだろうが、いろいろな論の立て方とか、そういうのは少し違ってこよう。

○この部分は書かないというのが大体の意見のようなので、それでよろしいか。


(異議なし)


(2)閉会


○本日出された削除や訂正などといった意見について、起草委員に考えていただき、改めて皆の意見をうかがった上で最終報告に向け作業を進めていきたい。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai8/8gijiyousi.html

2005年05月25日
靖国に代わる追悼の場を…金大中・前韓国大統領が講演(25日の日記) 「ニュース(22238)」 [ ニュース ]
来日中の韓国前大統領・金大中氏は都内で講演し、かつて日本が約束した靖国神社に代わる追悼施設の設置検討を実施すべきと発言したことが、24日の読売新聞に報道されています。記事によると、

 金大中・前韓国大統領は23日、東京大学で開催されたシンポジウムで講演し、2001年10月に上海で行われた日韓首脳会談で、「日本は、靖国神社参拝について『世界中の人々が負担なく参拝できる方案を検討するという立場』を約束した。この約束は実践されなければならない」と語った。
 この首脳会談では、当時の金大中大統領が、小泉首相に「内外の人がわだかまりなく祈りをささげる場ができることを希望する」と述べたのに対し、首相が懇談会設置を表明。同年12月に発足した「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(今井敬座長)は、翌年12月、「国立で無宗教の追悼・平和祈念施設が必要」とする報告書を福田官房長官(当時)に提出していた。
 金大中氏は、講演で、「最近、日本政府と与党の指導者を含むかなりの人々が過去の侵略行為を正当化している」と語った。

私は無宗教の国立追悼施設に賛成です。無宗教とすることで、内政的には首相が参拝しても違憲となることはなく、外交的にも被害国の国民感情を傷つけることがなくなります。

http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/200505250000/

無宗教の追悼・平和祈念施設
http://www.google.com/search?q=%E7%84%A1%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%83%BB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%A5%88%E5%BF%B5%E6%96%BD%E8%A8%AD&hl=ja&lr=&start=0&sa=N

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