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通州事件
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投稿者 ルルルン 日時 2005 年 4 月 23 日 20:54:13: si3L7.Y5BxRDo
 

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通州事件 
昭和12年(1937)冀東保安隊による日本人虐殺。

通州虐殺事件
「南京虐殺の徹底検証」東中野修道著 展転社より

『東京裁判却下未提出辯護側資料』第三巻に収録された外務省情報部長の公式声明(八月二日)と同部長談話(八月四日)によれば、事件が起きたのは七月二十九日(昭和十二年)の午前四時であった。三千人ほどの通州保安隊が百十名ほどの日本軍守備隊兵営を包囲し、日本人商店、旅館、民家を急襲した。通州の日本人三百八十名のうち、約二百名が虐殺された。ようやく難を免れたのは、日本軍の兵営に逃げ込んだ百二十名だけであった。

外務省情報部長談話によれば、事件の全貌は次のようであった。
《支那人は婦女、子供をも共に、全日本人を虐殺せむと企てた。婦人の多くは掻きさらはれて、二十四時間虐待酷使された後、東門の外で殺されたが、其処まで連れて行かれるには手足を縛られ、或は鼻や喉を針金で突き通されて、曳きずられたのであった。死骸は近くの池にぶち込まれ、或る者は強力な毒物をぬりつけられて、顔がずたずたになつてゐた。》

これは、戦時国際法にたいする重大な違反であった。外務省情報部長は事件から四日を経て、公式に支那兵の日本人虐殺・強姦・掠奪を批判したのである。東京裁判にも、弁護側からこの公式声明が提出された。しかし、理由の提示なきままウェッブ裁判長は却下している。「通州虐殺」は連合国にとり、触れて欲しくない問題であったからである。

しかし、その却下にもかかわらず昭和二十二年(一九四七年)四月二十五日、レヴィン弁護人は引き続き萱嶋高(元陸軍中将)を証人として喚問した。事件からすでに十年の歳月が流れていた。

『極東国際軍事裁判速記録』第五巻によれば、萱嶋は救援のため通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長で、七月三十日(事件の翌日)午後四時、現地に到着した。次はその萱嶋連隊長の証言である。

《城内は実に凄惨なもので、到る処、無惨な日本人居留民の死体が横たはつて居りまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐へませんでした。》
《その記録は今日ありません。従つて私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。然しそれは余りにも残酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に残つて居ります。》
《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七,八歳迄の女七,八名は皆強姦され、裸体で陰部を露出した儘、射殺されて居りました。其の内四,五名は陰部を銃剣で突刺されてゐました。(略)家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されてゐました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。》
《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が集まつた所でありましたものの如く、大量虐殺を受けてをります。(略)錦水楼の女主人や女中等は珠子繋ぎにされ、手足を縛された儘、強姦され、遂に斬首されたと云ふことでした。》

萱嶋連隊長の証言が終わると桂鎮雄(元陸軍少佐)が証人台に登った。桂は事件に際し救援に通州に派遣された第二連隊の歩兵砲中隊長代理で、七月三十一日午前二時半、現地に到着していた。

《錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くと共に、死体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。(略)次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或はうつぶし或は上向いて死んでをり、ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様でありました。》

《私は一年前に行つたことのあるカフェーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱してをらず、これは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボックスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されてをりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されて居りました。子供は手の指を揃へて切断されてをりました。》

《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱して居りました。》

凄惨な虐殺現場の目撃証言であった。最後の証人としてレヴィン弁護人が喚問したのは、桜井文雄(元陸軍少佐)であった。桜井も七月三十日、連隊主力とともに入城し、虐殺の模様を詳しく垣間見た支那駐屯歩兵第二連隊小隊長である。

《先ず守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横はつて居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這ひ出して来ました。》

《某飲食店内には一家悉く皆首と両手を切断されて居るのを目撃しました。婦人と云ふ婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。》

《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七八名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等、全く見るに堪へませんでした。》

《東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。》

あまりにも残虐な虐殺法であった。しかし、これは古代支那から続く戦法であった。

惨! 通州事件の真相   
中村 粲著の「大東亜戦争への道」より

所が近年になつて、通州事件は冀東保安隊第一、第二総隊の計画的行動であることが中国側資料によつて明らかとなつた。例えば張慶餘(当時冀東保安隊第一総隊長)の「冀東保安隊通県決起始末記」(元国民党将領抗日戦争体験記叢書『七七事変』所載)や「戦火蔓延、平津陥落」及び「冀東保安隊の決起について」(武月星他『盧溝橋事変風雲編』)等である。詳細は割愛するが、要はかうである。

昭和十年十一月に冀東防共自治委員会が成立して河北保安隊が冀東保安隊と改称されるや、第一総隊長・張慶餘は河北省主席・商震に指示を仰いだところ、暫く表面を糊塗すべしと云はれた。十二月、冀察政務委員会が発足して宋哲元が委員長に就任すると、張慶餘は第二総隊長・張硯田と共に哥老会(明代から の秘密結社)の首領・張樹声を通じて宋哲元と面会した(張慶餘・張硯田とともに哥老会会員)。宋哲元は両名の抗日決意を「政府を代表して」歓迎すると述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしつかりやれと命じ、各々に一万元を贈つた。二人が「委員長に従つて国家に忠誠を尽す」旨を述べると、宋哲元「素晴らしい、素晴らしい」と云つた。通州での決起はこの会見と関係がある――かう張慶餘は告白してゐるのだ。

翌昭和十一年春には、張硯田の第二総隊内にすでに中共支部が結成されてゐ た。宋哲元との会見以後、冀東保安隊は第二十九軍(宋哲元軍長)と秘密裡に連携を保つたが、昭和十二年七月蘆溝橋事件が発生すると、張慶餘は河北省主 席・馮治安に指示を仰いだ(宋哲元は北平に不在)。馮は第二十九軍の開戦に呼応して通州で決起し、同時に一部保安隊で豊台を側面攻撃して挟撃の効果を 挙げよと指示すると共に第二十九軍参謀長・張 亭と連絡と連絡せしめ、張越亭は直ちに冀東保安隊第一、第二総隊を戦闘序列に編入した。

他方、張慶餘、張硯田総隊長は、通州特務機関長細木中佐が、第二十九軍の通州攻撃を防ぐために開いた軍事会議の席上、密かに示し合はせて細木機関長を欺き、分散してゐた配下の保安隊を通州に集結させるやう提案した。両名を 信頼してゐた細木中佐はこれに賛成、かつ散在してゐた日本居留民を保護する ため通州に集合させたのであつた。期くして準備が整ふや、七月二十八日夜十二時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断して決起に移つたのであつた。

中国側の最新資料によれば通州反乱に至る事情は大要右の通りである。「誤爆」など何処にも出てこない。通州事件は二年間にわたる隠密裡の計画に基づく日本人襲撃事件だつたのであり、日本機に兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となつて保安隊が起した事件などでは全然ない。

事件は右の如く計画に基づく反日蜂起ではあつたが、保安隊がその計画の実行に踏切つたについては、誤爆のやうな突発事件によつてではなく、別の、もつと打算的な原理によつて動かされたと見るべきであらう。既述の如く、南京 政府は「日本軍敗走」といふデマ放送を流してゐた。「日本軍を破つた」宋哲元の二十九軍が冀東に攻め込んできたら自分達の運命はどうなるのか。この際、冀東政府についてゐるのは甚だ危険である。機先を制して殷汝耕を生けどりにし、これを宋哲元と蒋介石に献上するなら、必ず恩賞に与ることができるに違 ひない。これが南京のデマ放送を信じた反乱者の思惑だつたのである。そして、昨日まで友軍であつた日本守備隊に対し、その兵力の最も手薄な時を見計らつて蜂起、襲撃を敢へてしたのであつた。

殺のために殺を好む

保安隊のこのやうな動機は、信義を踏みにじつても強者につくといふ、権謀術数渦巻く戦乱に明け暮れてきた支那民族特有の叛服常なき性格に根ざすものであり、信義を重大なものと考へる我が国民の到底理解し難いところである。

(注)通州人の特性 通州人は由来、軽佻浮華、軽較の術に長じ、打算的で義侠心がないと云はれる。金、元、明、清各朝の興亡史に「通州陥る」「通州降る」などの文字が見えるのもこのためだと云ふ。通州に昔「渡橋降伏」といふ言葉があつた。敵が八里橋(通州城西門から八華里にある橋で通州八景の一つ)を渡つてしまへば降伏するに如かず、の意味である。

このやうに鼓騒城外に迫れば戦はずして通州人の心胆は氷の如く冷たくなり、忽ちにして腰を抜かしてしまふ性向があると論ずる向きもあるが(中野江漢「事変と北支の風物」、『文藝春秋』昭和十二年九月号)、通州事 件を考へる上で参考になるかも知れない。

斯かる背信行為そのものが許し得ないことであるが、仮に百歩譲つて、日本守備隊に対する攻撃は、保安隊がすでに共産思想に染まつてゐたことからして理解できる面があるにしても、無辜の日本居留民二百六十余名の惨殺は全く殺のために殺を好む鬼畜も所業であり、天人共に許さざる蛮行である。罪なく、抵抗力もなき幼児・婦人に対してさへ、一片の憐れみの情を示すこともなく、ただ日本人であるからと云ふ理由で白昼平然と犯し、掠め、凌辱し、惨殺して行つた彼等支那保安隊は、人身を装ふ悪鬼悪獣と云はずして何と呼ぶべきであらうか。

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