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江戸時代初期の対外遠征  (本と古本を買う日記)
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投稿者 ルルルン 日時 2005 年 7 月 14 日 20:10:19: si3L7.Y5BxRDo
 

江戸時代初期の対外遠征


江戸時代初期、日本人は対外的にはかなり積極的に活動していた。朱印船貿易によって東南アジア各地に貿易に出かけ、ヨーロッパ諸国とも貿易を行っていた。
 貿易だけではなく、日本人は対外的には戦争を仕掛けることも度々行っていた。

1603.2.12 江戸幕府開設
1609.2.26 薩摩藩主島津家久、家臣樺山久高を琉球に出兵(琉球出兵)
1609.4  肥前有馬藩主有馬晴信、台湾視察のために家臣を派遣
1609.4.23 樺山久高、琉球首里城を攻撃し、国王尚寧らを生け捕る
1609.7  幕府、島津家久に琉球を与える
1609.12.9 有馬晴信、長崎港でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を拘束し、後に撃沈する(マードレ・デ・デウス号事件)

1614〜15 大坂の陣

1616.1.23 長崎代官村山等安、子の秋安を台湾に派兵(台湾征伐)。
1628〜1632 台湾事件
1630.11.11 島原藩主松倉重政、ルソン征伐のために偵察を派遣 11.16 松倉重政死去。ルソン征伐中止
1637 幕府、ルソン征伐を計画するが島原の乱発生のため中止
1646 明の遺臣・鄭成功、幕府に対して度々援軍を要請。将軍・徳川家光は乗り気だったが、尾張藩主の「外国の戦争に介入することはよくない」との意見を入れ拒否する。

 今日は、台湾との関係について。
 慶長14年(1609)に、肥前有馬藩主有馬晴信は大御所・徳川家康の内意を受けて、晴信の家臣千々石采女を偵察として派遣した。
 そのころの台湾は、日本からは「高山国」などと呼ばれていて、人跡未踏の秘境で、どこの国の支配も受けていなかった。しかし日本側は台湾には一応「国」があって支配者がいるはずだという認識だった。

 幕府宿老−後の老中−本多正純から有馬への通達によると、近年、カンボジアなどの遠隔地からの貿易船が長崎に入港しているが、日本から近い台湾からは何も日本に通商してこないのは「曲事」(くせごと)であるので、軍兵を派遣して征伐すべし、ということだった。

 そのためにまずは家臣を派遣して台湾と交渉をしなければならない。台湾に行ったら向こうの支配者に、日本への来貢を行えば幕府は台湾の要求する物を与える用意があること、台湾の国の使者を日本に連れ帰ること、台湾の良港を探し出すこと、明と日本との貿易の仲介を行うこと、台湾の国の地理を詳しく調査すること、特産物を調査することなどを幕府は命じた。

 有馬晴信の家臣、千々石采女は台湾に渡っていったが、原住民に隊士を殺害されてしまった。千々石は原住民数人を捕虜として日本に連行し、駿府の家康の下まで連れて行った。家康は原住民に台湾の地理を聞き、物を与えて台湾に帰らせた。
 尤も、千々石は台湾の誰と交渉をして何をしたのか史料がないのでさっぱり分からない。台湾の原住民は部族単位で活動していて、「国」なんてものは存在していないので、多分そこらにいた部族の酋長と会ったりして、話が通ぜず騒動になったのだろう。

 元和元年(1615)〜同2年(1616)にかけて、長崎代官村山等安が3000〜4000人の軍隊を台湾に出兵。村山軍は、台湾に強固な砦を築いたが、援軍が来なかったため原住民に敗北、引き上げた、という。家康の内意を受けていた、というがこの事件は宣教師の史料にばかり載っていて日本側史料では確認が出来ない。

 村山等安とは、貿易商人で豊臣秀吉・徳川家康から長崎代官に任命されていた。これとは別に長崎奉行も同時期に存在していて、この二つの役職がどういう関係にあったのか全く分からない。

 多分、台湾征伐とは言っても、幕府の許可ぐらいは受けていた可能性はあるが、村山が個人的に浪人をかき集めて台湾に向かわせた、のだと思われる。幕府の意向ならば、必ず江戸城に古文書が残っているはずだ。

 この村山等安自体も出自が不明。秀吉と謁見した時、彼は「村山安等」と名乗っていた。秀吉は間違えて「等安、等安」と呼んだ。これを聞いた村山は「太閤様から御名を賜った」とあちこちで触れ回り、以後「等安」と改名したという。真偽が不明な話だけど、こんなエピソードが残っているのを思うと、多分要領の良い人物だったのだろう。

 その等安の最期は、豊臣氏滅亡直後の元和2年、豊臣秀頼に武器・弾薬を売却したとの罪で刑に処せられている。
 後に長崎代官は、これも貿易商の末次平蔵に任命されている。

 台湾に史上初めて支配権を持ったのは、オランダである。
 オランダ東インド会社は台湾に1623年、台湾とその周辺を制圧した。1620年代後半にはスペインも台湾に貿易の根拠地を構築。オランダとスペインが台湾の領有権を争って1641年にオランダが台湾の支配権を再び確立。しかし、1661年、明の遺臣鄭成功が台湾からオランダを追い出して大陸の清への抵抗活動の根拠地とした。明残党を滅ぼした清は台湾を、名目上清朝の領土にしてはいるが、現代と同じで支配権は貫徹出来ていなかった。それに明の遺臣を滅ぼした後は、清は興味もなかったようだ。それで再び、人跡未踏の島に戻っていた。 

 それで話は戻って、1624年。オランダは突如、台湾に渡航する朱印船に関税をかけ始めた。1628年、長崎代官で朱印船貿易商でもある末次平蔵の朱印船の船長浜田弥兵衛(はまだ・やひょうえ)が、オランダの台湾長官ピーテル・ヌイツと争うという事件が発生(台湾事件)。幕府は平戸オランダ商館を閉鎖したが、交渉の結果1632年に日蘭貿易を再開した。この事件は史料が豊富で研究が進んでいた。今はやり尽くされたのか論文は出されていないようだ。
 これは日蘭貿易の最大の危機だった。幕府は交渉が成立しなければ、オランダ船来航停止措置を継続していただろう。

 最後にルソン征伐に関して。
 1630年、松倉重政は幕府に対してルソン征伐を献策している。松倉が言うには、ルソンはキリスト教宣教師の根拠地の一つであるから、そこを攻めればキリスト教の日本への影響はなくなるというものだった。松倉はこれが成功すればルソンを自分の領地としたいと願い出ていた。幕府はこれを許可した。松倉はまずは偵察隊を派遣したが、直後に松倉が死去したので偵察だけで終わってしまった。

 1637年、幕府はルソン征伐を計画。これは誰が言い始めたのか分からないようだ。理由はキリスト教の根拠地を攻撃すること、スペインがルソンに貿易の拠点を持っていて、そこから琉球との密貿易を行っているらしいのでそこを叩くこと、だった。特に後者の理由が主要な気がする。
 今回の計画は、スペインと競合していたオランダの協力を得ることが出来、オランダ船2,3艘が幕府軍のルソン輸送に宛てられることになった。しかし島原の乱がまもなく勃発してそれどころではなくなったので中止になってしまった。

 江戸時代初期は、幕府は割りと海外へは遠征を計画したり、大名には承認を与えたりしている。

参考文献
辻善之助『増訂 海外交通史話』内外書籍 1930.5

 
http://plaza.rakuten.co.jp/ebe123/diary/200506060000/

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