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「ポトマック川戦線異状なし」 政府やマスコミは弱腰であるとして軍の態度を叩きに叩いた。煽るマスコミが一番悪い。
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/221.html
投稿者 TORA 日時 2005 年 7 月 04 日 09:56:59: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu98.htm
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「ポトマック川戦線異状なし」 政府やマスコミは弱腰である
として軍の態度を叩きに叩いた。煽るマスコミが一番悪い。

2005年7月3日 日曜日

◆ポトマック川戦線異状なし  小川寛大 武道通信かわら版
http://blog.mag2.com/m/log/0000036568/106118441?page=1#106118441

「西部戦線異状なし」という映画がある。映画史に残る不朽の名作として非常に有名なものなので、今さらそれについての解説をここで書く気はない。ただこの映画の原作は、そもそもドイツ人が書いた小説(原題「Im Westen nichts Neues」)だったというが、そうするとこのドイツ語作品に「All Quiet on the Western Front」なる翻訳を当てたのはどういうアメリカ人だったのか。この 「西部戦線異状なし」の内容と照らし合わせても、非常に的を射た名訳と言わざるを得ず、感心することしきりである。

「○○戦線異状なし」という言葉は、今の日本では学生の就職活動や政治情勢等を表す際に非常に良く用いられ、完全に手垢の付いたものになっている感がある程だが、そもそもの起源はアメリカ南北戦争にある。  

1861年7月21日に起きた第1次ブルラン川の戦い。南北戦争初の本格的大規模 会戦となったこの戦は、一応北軍の負け、南軍の勝ちと言う結果に終わったが、 その内容と軍の損害には、双方の指導者とも顔を青くした。新開発の雷管式ラ イフル銃は、それまでのフリントロック式滑腔銃とは比べ物にならない威力で 兵士たちをなぎ倒した。また民兵団の伝統に則って、ろくに正規軍を養成して こなかったつけが一気に噴出し、南北双方とも、その軍は統制というものがま るで取れない烏合の衆であることが露呈されたのである。  

必要なのはまず訓練だった。双方ともが開戦前に叫んでいた、「3ヶ月で敵 の首都に踊りこむ」などという威勢のいい文句は完全に消え失せ、南北両軍は、北の首都ワシントンと南の首都リッチモンドを隔てるポトマック川を挿んでにらみ合いをしつつ、必死に練兵に励んだ。またブルラン川で猛威を振るったライフル銃の威力は、両軍将校の心に一種のトラウマとなって染み付いた。軽々しい接敵、開戦は、自部隊に甚大な被害をもたらしてしまう。これがもとで南北戦争中の将校には、異様な程に及び腰で消極的な人物が多数出現することになる。  

以上のようなことが影響して、1861年の夏以降、1862年の3月に至るまで、 南北戦争の最重要戦線といっていいポトマック川流域では、両軍がにらみ合ったまま全く戦闘が発生しないという奇妙な状況が展開されることになる。軍幹部にとっては必要な時間だったが、政府やマスコミは弱腰であるとしてこうした軍の態度を叩きに叩いた。やがて新聞には、この奇妙な戦争を揶揄する言葉としてこのような文字が躍ることになるのである。「All Quiet Along the Potomac(ポトマック川戦線異状なし)」。 

確かに当時の軍上層部は、少々臆病風に吹かれていた部分があった。南部の 北ヴァージニア軍は、もっぱら専守防衛的な思想で固まっていたし、北部のポ トマック軍司令、ジョージ・マクレランは、「グズグズ病患者」などと陰口を 叩かれるほどに行動の遅い、弱腰な男だった。しかしそれはあくまで「上層部」 のこと。ポトマック川流域の警戒線で歩哨に立つ一般兵たちにとって、「にら み合い」はそのまま「殺し合い」に転ずる恐れを秘めたもので、そこは「異状」 大ありの容赦なき戦場だったのである。  

1861年の秋の事というが、ポトマック川流域で、南軍の騎兵隊員ジョン・ム ーアなる人物が、警戒線で北軍兵に撃たれて死亡した。ムーアの親友だった、同じく南軍の騎兵隊員ラマー・フォンテーヌは、戦争の悲惨さを歎いたけれども、新聞を見れば友の死など気にもかけず、相も変らぬ「ポトマック川戦線異状なし」の語。フォンテーヌは悲しみの中で、「All Quiet Along the Potomac Tonight」という一篇の詩を書き上げる。

  人は「ポトマック川戦線異状なし」という。
  けれど最前線の話は知ってるかい?
  俺の友は警戒中に、敵に撃たれて死んだんだ。  

この様な感じで始まるこの詩は、やがて新聞に載り、いつしか曲が付き、全 戦線の兵士たちに好んで歌われるようになった(もっともこの歌の成立事情については他の説も幾つかあるが、ようするに「詠み人知らず」の歌ということであり、いずれの例をとっても実情に大差はあるまい)。  

話し戻って映画「西部戦線異状なし」だが、これはご存知の通り、戦争の悲 惨さを鋭くえぐった、映画史に残る反戦映画の傑作として知られる作品である。製作元はユニバーサル映画会社だったが、原作に非常な感銘を受けた社長カール・レムリは、自身でドイツ入りして原作者エリッヒ・マリア・レマルクと映像化の交渉にあたったという。時に1930年。南北戦争で「All Quiet Along the Potomac Tonight」が書かれてから約70年を経て、アメリカ人はそのかつて経験した恐ろしい内戦の記憶を脳裏に思い浮かべながら、この新しいこのドイツ人の悲劇に当ったのである。  

今年は第2次世界大戦終結60年の年。支那事変から数えれば、大体日本は70年 位前に戦争に突入したことになろうか。その記憶を踏まえつつ、今に生きる日本人が後世にどんなものを残していけるのか、よく考えねばならぬ年でもあるのだと思う。

◆「米の東亞侵略史」(朝日新聞昭和16年12月9日特別版(8日発行)より
http://asapy.asahicom.com/02/asapy_story1115.htm

●見よ劫略の魔手 飽くなき搾取の數々

火蓋は切られた! 東亞諸民族の福祉と世界平和のために陰忍に陰忍を重ねて來た帝國は、その福祉と
平和の破壊者米、英に對して断固膺懲の鐵槌を下すべく立ち起ち上ったのだ。
東條首相が喝破した ”十億のわが大東亞諸民族の犠牲において私利私欲を充たさんとする敵性歐米
諸國家”の飽くなき搾取劫略の魔手を芟除し、呪うべき鐵鎖を斷ち切るべく、いまこそ我々は戰ひ抜かなけ
ればならない。         人類の名誉に賭けて−−−。

         ⊂二⊃ 

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      (6      つ  | <朝目新聞はは信用ならないyo.  
      |     i||||||||||i |  \___________ 
       \ /  Д  ./    
         \____/
        ‖_≧≦‖
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      /|  | 東 ・ 条  __|]つ
      | |  |    ・  ┤「
      / |   |_ _・
     | \__||つ


(私のコメント)
今日のサンデープロジェクトでも田原総一郎が「なんで戦争を始めたのか」と言っていましたが、東條首相の孫娘がテレビで時の流れを止められずに、東條首相は自宅で号泣したそうですが、戦前の日本は戦争へのムードが高まり、だれもそれに水をさす人もいなかったようだ。アメリカと戦争をすれば負ける事は軍部が一番よく知っていた。

国会でも斉藤隆夫が昭和15年に「反軍演説」をしていたくらいだから、戦争反対運動が有ってもおかしくはなかったのに、なぜそのような国民運動はなかったのか。戦前の日本国民はなぜ戦争には反対しなかったのか、国民の間でもアメリカと戦争をしたら負けるというぐらいの認識はあっただろう。それとも負けることを覚悟で戦争を始めたのか。

止むに止まれず戦争を始めたと解説する人は多いが、戦争に負けたらどうなるかとまでは考える人はいなかったのだろうか。よく憲兵や特高警察が怖かったと言いますが、戦争に反対する人が何万人もいたら憲兵や特高警察だって取り締まりきれるものではない。

現在80歳以上の人で私は戦争に反対だったと言った人はいない。敗戦後になって初めて戦争はしてはいけないと気づいた人がほとんどではないかと思う。戦前戦中には日本は神国だから負けないとかいった馬鹿げた言葉が氾濫した。幕末の混乱時期から年月が経って戦乱の恐ろしさを知らない人がほとんどになって、反戦気運が薄れたのだろう。

そのような戦争気運を煽ったのが新聞のようなマスコミだ。戦後になって国民から「新聞は嘘ばかり書いていた」と批判されるようになりましたが、新聞は大本営が発表するよりも誇大に戦果を発表した。だから終戦間近になっても日本が戦争に負けているとは気が付かなかった人が多い。

B29が空を覆い、敵の艦載機が日本の空を飛びまわっても「神国日本は負けない」と言うくらい日本人は戦争に負けるということを信じていなかった。大空襲になって初めて日本国民も戦争が大災害をもたらす事に気が付き始めた。帝都が空襲されるなど帝国陸海軍の面子は丸つぶれになり軍部に対する信用はなくなった。

東條首相の孫娘もテレビで”戦時中”から住民から虐められて住まいを転々としたそうだ。戦争を始めた張本人の家族だからと言うことでしょうが、東條首相自身が時代に流されただけに過ぎない。ではいったい誰が強硬に戦争を始めたのか、日本国全体が戦争気運が盛り上がり開戦時は作家なども気分がすっきりしたといった日記を書いている。

しかし戦勝ムードは空襲が始まって吹っ飛んだようだ。小川氏の記事でも南北戦争で銃器の発達で戦前の3ヶ月で終わるといった楽観気分は吹き飛び、戦場はとんでもない惨劇となった。しかし一般市民はそんな事は知らないから新聞なども強硬なことを書き続ける。軍人の本音はこんな戦争はもう止めたいと思っても国民やマスコミが強硬なら止めるに止められない。

戦前の日本もそんなムードだったのではないだろうか。私は「株式日記」で日本も核武装せよとか空母や原子力潜水艦を持てとかタカ派的なことを書いていますが、戦争をしないためには核武装すれば戦争できなくなるから主張しているのだ。本来から私は反戦主義者でアメリカのイラク戦争にも反対した。アメリカも勝てないだろうし勝てない戦争はすべきでは無いからだ。

日本が大東亜戦争の総括がなかなか出来ないのも、日本のマスコミが朝日読売毎日と戦前からの新聞社がそのまま生き続けている。大東亜戦争を総括する事になると自分の新聞も戦争協力者として断罪せざるを得なくなる。だから出来ないのだ。いずれこの調子だと朝日新聞も戦争を煽るような記事を書くときが来るかもしれない。60年経っても戦争の反省をせず、戦前と正反対のことを書けば許されるというものではない。新聞社の資質が問われているのだ。


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