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『倭人伝』解析  【弥生人の素顔が見える】 
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 01 日 19:45:47: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 夏商周三代の紀年について  【枕流亭/中国史愛好サイト】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 01 日 19:33:19)

【『倭人伝』解析】 


http://homepage3.nifty.com/kodai/yayoi/KAISEKI/INDEX.htm

『倭人伝』解析の前に、まずはその構成構造を整理する。
1.倭の地の沿革。 (後漢代から魏代まで。もと100余国から魏代の30国まで)。
2.帯方郡から倭の地まで。道程・日程と主要各国の概況 (方角・距離・日程、邪馬壹国、伊都国)。
3.その余の傍国。(女王国の版図)
4.敵対する狗奴国の存在。
5.「郡より女王国に至る万二千余里」(道程説明が完結)。
6.倭の地風土記。刺青の習俗(そのルーツ仮説)、服飾、農産物、生物、軍備、気候風土、寝食習慣、葬喪儀礼 (民間墓制)、水人の信仰(持衰)、産物と天然資源、世俗信仰(卜骨占い)、世俗生態(寿命・婚姻制度など)
7.法制・罰則、税制・経済。(大倭)
8.検閲・査察。(一大率)
9.来訪者に対する民間人の対応・態度。
10.女王誕生の経緯。(7〜80年続いた男王たちから「倭国乱れ」まで続く経緯)
11.来訪当時の卑弥呼の周辺状況。
12.女王国の周辺立地。(他の倭種の国など)
13.倭の地のプロフィール。(訪ねた島の周旋は5千里ばかり)
14.倭国の第一回目の朝献。(皇帝の詔書)
15.魏との交流経緯と国内紛争。(詔書・黄幢・檄・告諭)
16.卑弥呼の死とその後。
   おおむねこのように構成されているのだが、ここから重要な部分を抜粋して紹介する。

●倭の地の沿革

 倭人は、帯方郡の東南の大海の中にある山島に住んで、国や集落をなしている。もとは百余国に別れていた。後漢朝の時代に朝見する者があった。現在、通訳を介して中国に使者を派遣するのは30カ国である。

●帯方郡から倭の地までの道程と主要各国の概要

 帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て南下し、さらに東へ向かうと、倭の北岸の狗邪韓国に到る。ここまで7000里余りである。

 狗邪韓国からはじめて一つ海を度(わた)る。1000里余りで対海国に至る。その官を卑狗と言い、副を卑奴母離と言う。そこは絶海の孤島で、周囲は400百里ほどである。その地形は険しく、深い林が多く、道路は獣の小道のようである。1000戸余りある。島には良い田がなく海産物を食べて自活し、舟で南北の島々(朝鮮半島、壱岐、九州)に出かけては、海産物と穀物とを交換している。

 そこから南にまた一つ、瀚海という名の海を渡ると、1000里余りで一大国に至る。官は対馬国と同じく官を卑狗と言い、副を卑奴母離と言う。周囲は300里ほどである。竹林や雑木林が多く、3000ほどの家がある。少しばかりの田畑がある。その田を耕して稲をつくってもなお、島民が食べるには不足で、対馬国と同様に南北の島々と交易して穀物を入手している。

 また一つ海を渡ると、1000里余りで末盧国に至る。4000戸余りある。人びとは、海べりの山肌に沿うように住居を構えて住んでいる。上陸してみると草木が生い茂り、道は人の通った形跡がない。この土地の人びとは魚を捕らえるのが上手く、海水が深い浅いに関係なく、みな潜って取る。

 東南陸行、500里で伊都国に到る。官を爾支と言い、副を泄モ觚、柄渠觚と言う。1000戸余りある。この国の歴代の王はみな、女王国の前身の時代からその統治に属してきた。ここが、帯方郡使が常駐する所である。  

 東南、奴国に至る。100里。官をジ馬觚と言い、副を卑奴母離と言う。2万戸余りがある。

 東行、不弥国に至る。100里。官を多モと言い、副を卑奴母離と言う。1000余の家がある。

 南、投馬国に至る。水行20日。官を彌彌と言い、副を彌彌那利と言う。5万戸ほどがある。 
 
 南、邪馬壹国(邪馬台国)に至る。女王が都とする所である。水行10日、陸行1月。官に伊支馬がおり、次を彌馬升と言い、次を彌馬獲支と言い、次を奴佳テと言う。7万戸ほどがある。  

 このように、女王国よりも北の国々については、その戸数や道理を略記できるのだが、その他の各国は、郡使が普段立ち寄ることがなかったり、あるいは遠く隔たっているなどの理由から詳しいことが分らない。従って、以下に国名だけを記載するにとどめる。

●その余の傍国  

 次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次に都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に爲吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。

 ここが、女王の統治領域の境界が尽きるところである。(※この21カ国の最後に登場する奴国については、私には判断のつかないところである)。
  
●敵対国の存在

 その南に狗奴国がある。男性を王とする。官に狗古智卑狗がいる。この国は女王に属していない。  

 帯方郡から女王国に至る総距離は、1万2000里余りである。
  
●民間風土記(刺青の習俗にみる倭人のルーツ)

 (『史記』にいう)越を興した夏の后・少康の子の於越は、会稽の国を与えられて赴任したあと、その地の漁民をサメやワニの害から守るマジナイとして、短髪と体に龍の刺青を施すことを広めた。

 またいう。商(殷)末期に農務長官を勤めた古公・亶父は、三男・季歴の子の昌が並みはずれた人徳を持っているいることから、彼に家督を譲りたいと願っていた。そうした亶父の気持ちを汲んだ長男の太伯は、次男とともに呉の地に隠遁して、断髪して身に刺青を施した。これによって二人は漢民族ではなくなり、家督継承の資格を自らすすんで失うことになった。これを義とした当地の民衆は彼に従ったが、彼の興した国が呉である。

 のちに家督を継承した季歴の子の昌は、聖王と呼ばれて民衆に慕われた。その子の發は、堕落して民心を失なった商王朝を滅ぼして周王朝を興した。

 また『魏略』にいう。倭人の言い伝えでは「自分ちは呉の太伯の末裔である」という。古くから、中国にやってくる倭人の使者はみな、中国の官名の大夫を自称した。
 倭人の男性は、身分の高低にかかわらず、みな顔と体に刺青を施す。(呉越では)のちに刺青を飾りとしたが、倭国の刺青は国によって施す場所や大きさが異なり、身分の高低によっても差がある。いま倭の水人は、潜水して魚やアワビを捕るが、刺青はここでも呉越の逸話と同様に、大魚やサメの害を避けるようだ。

 ……そういえば、倭人の住む山島までの行程や距離を計ると、まさに会稽と東冶(呉越の地)の東にあたるではないか。 

●検閲・査察

 女王国よりも北には、特に一大卒を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。常に伊都国にいて職務あたっていた。国中においては、中国でいう刺史のようであった。女王が使者を京都(洛陽)、帯方郡、馬韓、辰韓、弁韓諸国に派遣したり、諸国の使節が倭国を訪れるとき、伊都国の津(港あるいは渡船場)に臨んでは、みな荷物をひろげて検閲した。国家間の公文書や贈答品などを伝送して女王に届けるにも、手違いはなかった。
 
●女王誕生の経緯

 倭人の国は中国と同じように、もともとは男性を王としていた。男王たちが7〜80年間在位したあと、倭国に乱が勃発し、互いに攻め殺し合って年月が経過した。困り果てた有力者たちの協議によって、一人の女性を王として共立した。その女性の名を卑弥呼と言う。彼女は鬼道に堪能で、そのことによって民衆を魅了していた。

 ※これは卑弥呼が女王になるまでの「倭国と呼ばれていた時代の経緯」である。つまり、107年の帥升から7〜80年間、男王の統一倭国の時代が続いたことを物語っている。したがって、卑弥呼の女王国は統一倭国の後身だということである。これで、歴代の伊都国王が、女王国(の前身)に属してきたという記録の意味とも合致する。

●来訪当時の卑弥呼の周辺状況

 帯方郡使が倭の地を訪問したころには、卑弥呼はとっくに婚期をすぎていたが、夫はいなかった。弟がいて、彼女の政治を助けていた。彼女が王となって以来、彼女の姿を見た者もいるにはいたが、極めて少なかった。

 彼女の身辺には1000人の侍女がいた。宮殿にはただ一人だけ男性がいて、彼女に飲食物を給配したり要件を伝達したりするために、その居所に出入りしていた。女王の宮殿には宮室や楼観があり、周囲には厳重な城柵を設けてあった。城柵の周辺には四六時中人がいて、武器を持って警護していた。

●女王国の周辺立地

 女王国の東へ海を渡ること、1000里余りでまた別の国がある。そこの住人もみな倭種である。

●倭の地のプロフィール

 このように倭の地を訪問してみたが、陸地の途絶えた大海の中の洲島の上に在る。
 あるいは互いに途絶え、あるいは連なったりしており、その周囲は5千里ほどである。

●倭国の第一回目の朝献(年次を景初2年として展開)
 景初2年6月。倭の女王が大夫の難升米らを帯方郡に派遣し、天子に拝謁して朝献したいと申し出た。郡太守の劉夏は部下に命じて、京都・洛陽まで使者に同行させた。

●皇帝の詔書 
 同年12月。倭の女王に報(こた)えて、明帝じきじきの言葉を文書にしていわく。  
 「親魏倭王卑弥呼に、文書を作成して申す。帯方郡太守・劉夏が、部下に命じて汝の大夫難升米、次なる使者の都市牛利を送り、汝が献じるところの男生口4人、女生口6人、斑布2匹2丈を奉じて京都に到らせた。汝がいるところは京都から遥かに遠い。それにもかかわらず使者を派遣して貢献した。このことは、私に対する汝の忠孝として、私は汝を大いに慈しむ。

 いま、汝を親魏倭王とし、その爵号を刻んだ金印紫綬を假す(与える)。(完成した暁には)これを装封して帯方太守を通じて假授す(授け与える)。汝も、国の種人を大切にし、今後も努めて魏国家に恭順であるように。

 汝が使者難升米と都市牛利は、道々の長きにわたって働き努めた。いま、難升米を卒善中郎将とし、牛利を卒善校尉とし、それぞれに銀印青綬を假し(与え)、引見してねぎらいの言葉をかけて帰国させる。

 いま、絳地交龍の錦5匹、絳地シュウ栗のケイ10張、センコウ50匹、紺青50匹を、汝の国への贈答とする。

 また、特に汝には、紺地句紋の錦3匹、細斑の華ケイ5張、白絹50匹、金8両、5尺刀二振り、銅鏡100枚、真珠と鉛丹おのおの50斤を賜り、みな装封して難升米と牛利に委ねて持たせる。

 彼らが倭国に帰り到らば、目録と品物を受取り、これらのことごとくを国中の人に示し、魏国家が汝と親密であることを分からせるが良かろう。そのために、汝の好物を丁重に賜るものである」。
 
●魏との交流経緯と国内紛争 

 正始元年。帯方郡太守の弓遵が、建中校尉の梯儁らを使節に立て、明帝の詔書と金印紫綬を奉じて倭国を訪問させた。使節は倭王に拝假し(授与式を通じて授け)、同時に、新帝・斉王芳じきじきの言葉を伝え、金帛、金ケイ、刀、鏡、采物などを賜った。倭王は、新帝・斉王芳の言葉に対する謝意を述べた上表文書を、帰国する使節に委ねた。

 その4年。倭王はまた前回と同じように、大夫の伊聲耆、掖邪狗ら8人を派遣して、生口、倭錦、絳青のケン、綿衣、帛布、丹、木拊、短弓、矢を上献した。掖邪狗らに、善中郎将の印綬を壹拝(臺拝)した(授与式を執行して授け与えた)。

 その6年。皇帝じきじきの命で倭の難升米に黄幢を賜り、これを帯方郡に委ねて假授す(授け与えた)。

 その8年。(韓族鎮圧戦で戦死した弓遵の後任として)玄菟郡太守だった王キが帯方郡太守に着任したとき、倭の載斯烏越らが帯方郡を訪問した。彼らは、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は素より不和であり、互いに激しく攻撃する実情を王キに説明した。(一大事とみた王キは、800里加急の駅伝を洛陽に走らせた)。報告を受けた魏政府はことの重大さを察知し、さっそく軍事専門家の張政らを派遣した。張政は、皇帝から委ねられた文書と黄幢を倭国に持参し、難升米に拝假し(授与式を執行して授け)、檄文書を作成してその内容を告げ諭した。

●卑弥呼の死とその後

 卑弥呼がすでに死亡したので、大きな塚(封り土の墓)を作った。直径が100歩。殉じて葬られた奴婢が100人。卑弥呼の後任に男王を立てたが、その男王に国中が従わず、さらに誅殺し合った。このとき、まさに1000人余りを殺した。

 また同じように、卑弥呼の一族の女性で、13歳になる壹與(臺與)を立てて王とした。これでやっと、国中の騒乱が治まった。張政らは、文書をもって壹與に告げ諭した。

 壹與は、倭の大夫・卒善中郎将の掖邪狗を団長に20人の送迎団を結成し、帰国する張政たちを送って魏本国まで同行させた。掖邪狗たちはその足で洛陽の宮城に赴き、男女生口30人、白珠5千孔、青の大勾珠2枚、異文雑の錦20匹を献じた。

※「津に臨んで」について。私は、伊都国は九州の内陸部にあったという見方を採っている。したがってこの「津」とは、有明海北部の湿地帯の渡船場か河川の渡船場ではないかと考えている。多くの場合は船に乗り降りする目的で津に臨むわけだから、「津に臨んで」は「船に乗り降りする場合に」と読むことなる。つまり、邪馬台国へ向かうには伊都国から渡船場を使う(津に臨む)必要があって、そこで、(女王の都へ向かうときに)渡し船に乗る場合と、(女王の都から諸外国へ向かうときに)渡し船から降りる場合は必ず、(女王関係の)荷物や文書類をひろげて一大卒が検閲した」。この「津に臨んで」は、すなわち「渡し舟を使うことを意味した表現」であると解釈する。 

※「到官」について

 現代の辞書をみると「官庁に出頭する」という意味もある。そこで私は、「太守王キ到官」を「王キが洛陽の官庁に緊急連絡に飛んで行った」と解釈していた。ところが古文に詳しい中国人のR氏に、到官は、中国の古語では到任・到府・到庁と同じく「着任の意味である」と指摘された。文字ヅラ的にどうしても官庁に出頭する意味に見える「到庁」までもが着任の意味なら、きっと「到官」も指摘の通りなのだろう。また、「卑弥呼以死」の以は中国の古語用法で、「すでに」と読むとのことである。

 これを受けて、正始8年のいきさつを整理しておこう。張政らが倭国に到着したときは、卑弥呼はすでに死亡(戦死)していた。そこで張政は、倭国ナンバー2の難升米に詔書と黄幢を渡した。この以(すで)には已(すで)にと同じで、「残念ながら」という意味合いの用法だという。したがって、魏の緊急支援が間に合わず、「張政らが倭国に到着したときは残念ながら卑弥呼は死んでいた」という解釈になる。

※狗奴国との抗争期間について

 記録として現れている限りをみても、狗奴国と女王国勢との確執は、景初2年から正始8年までの10年間にわたる。卑弥呼が女王になる前の内紛も「倭国乱れ…年を歴る」とあることから、現代のように決定的な破壊兵器や戦法を持たなかった時代のことだから、実際にはその前から後までダラダラと長く続ていたいたのかも知れない。

※假・假授・拝假の使い分け

 「假す」は与える、 「假授す」は授け与える、「拝假」は授与儀式を伴って授け与える。このような使い分けがされているようである。
1.「假す」と「假授」が登場する記録。
  「汝をもって親魏倭王となし、金印青綬を假える(ことを宣下し)、(完成後に)帯方郡太守に委ねて假授す」。帯方郡太守は中継者だから、授与儀式を伴わない假授になっている。
2.「假(あた)え」が登場する記録。
  「難升米と牛利には銀印青綬を假え、引見して労いを賜り還し遣わす」。ここでは、「銀印青綬を假え」だけで授与儀式を意味する拝假ではないが、「引見してねぎらいの言葉をかける」と述べているから、皇帝が接見して儀式めいたことがあったことを連想させる。それが、拝假とか臺拝という言葉が省略されている文章の妙だと理解する。
3.「假授」が登場する記録。
  「詔して難升米に黄幢を賜り、郡に委ねて假授す」。授与儀式を伴うのは皇帝の詔書と封爵儀式を兼ねた金印の授受だけのようで、黄幢の場合は假授すになっている。いずれにしても、この一文は「皇帝の命令、郡に委ねる、難升米に假授」という作業が完結していると読む。これにしたがえば、この時の黄幢は難升米に渡っていることになる。
4.「拝假」が登場する記録。
 「詔書・印授を奉じて倭国を詣で、倭王に拝假す」。「張政らを遣わし、彼れらに委ねて詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝假す」。とくに授与儀式を伴う「拝假」は、詔書の授受と金印授受のシーンに使われているが、この両者の重みは別格だったようである。
 ※私がコンタクトした研究家の中には、「倭国は後漢時代から中国に服属してきた」、あるいは「魏に服属していた」と考えている人がかなりある。私は、「天子を頂点とした社会形式上の上下関係はあったとしても、それは建て前でしかなかった」と考えている。こうしたスタンスの違いで、『倭人伝』の解読も細部が異なってくるので注意したい。なお、倭国が中国に服属していた事実がないことは「中国と倭国の関係」のパートで立証しているので、そちらを詳しくご覧いただきたい。

※詔書・黄幢・檄・告諭

 ここ一連の記録に登場する黄幢について、「魏の黄色い軍旗」という解釈は、もはや死語の世界へ去ってしまったようである。  
 
 黄幢を携えてやってきた軍事顧問の張政は、これを難升米に授与したあと檄という啓発文書をつくって、それに基づいて何かを諭している。檄とは何か。倭人兵士に対する戦法教示なら書面はいらない。実地訓練が妥当なところである。もう一点は、当時としては中国の書面を読める一般の倭人は、敵対する狗奴国軍も含めて皆無に近かったろう。だが、魏からやってきた兵士たちなら檄文を読めたはずである。

※詔の重み

 皇帝じきじきの詔(みことのり・言葉)とはどんな重みがあったのだろうか。端的にいえば現人神の言葉ともいえるだろう。そうしたことを伺い知る良い逸話が『史記』に記録されているので紹介する。

 周の武王のあとを継いだ成王が、実弟の叔虞(しゅくぐ)と戯れているとき、桐の葉で圭を形づくって与えるふりをしながら、「汝に唐を封える」といった。これを聞いた張りつき太史の史佚(しいつ)が、「佳(よ)い日を選んで儀式をとり行ないましょう」といったところ、「冗談でいったまでのこと」と、成王はとり合おうとはしなかった。史佚は一歩も引かずにいった。「天子の言葉に偽り戯れがあってはなりません。天子がひとこと発すれば史官が記録し、礼をもって成し遂げ、楽でもってそのことを歌うのです」。「天子たるものは…」と史佚に説かれて成王も逃げることができず、発言どおり叔虞に唐を与えている。

 また中国には、紫色の兎の毛でつくった紫毫(しごう)の筆という希少な筆があって、年ごとに天子に献上する慣習があった。中国の古典詩に、「紫毫の筆をもって天子の詔を偽って記録することなかれ」と、天子張りつき太史の職務の重大さと筆の貴重さとをかけて詩ったものがある。

 天子の公式発言は、それほどに特別な意味と重みをもっていた。ご承知通り、その公式発言を文書にしたのが詔書である。

※詔と黄幢の関係

 さて、黄幢は皇帝の詔(みことのり・じきじきの言葉または命令)と密接な関係でつながっている。皇帝じきじきの言葉があって授けられた黄幢とは、一体何だったのだろうか。

 実は、後漢の初代・光武帝が、前漢朝が外戚たちに良いようにされて滅びた苦い経験から、それまで「割り符」をもって将軍に預ける習わしだった軍事指揮権を、皇帝の直轄にした。これ以降、軍の出動命令を出せるのは皇帝だけになっているのである。このことから察すると、斉王芳じきじきの命令で倭国にやってきた黄幢とは、黄幢軍すなわち魏軍の代名詞で、「軍と呼ぶほどの大軍に満たない数の援軍兵団」を意味するのではないかと私は判断する。

 中国人のR氏によると、「黄幢は軍事指揮権の印しではないか」ということだった。だが、軍事指揮権や軍旗は、兵士を伴ってこそ機能するものである。指揮権や旗だけやってきても女王国側の実質的な戦力強化にはならないから、一緒にやってきた援軍兵士の軍事指揮権と考ええれば理屈が通る。そう考えると、張政は帯同してきた黄幢軍(援軍兵士の)指揮権を難升米に渡した。そして援軍兵士に対して、「天子の詔によって、これからは倭国の率善中郎将の命に従うよう」と、激で説明したという解釈が成立する。あるいは激は、援軍兵士に対する戦術指示だった可能性もある。 

※臺與への激について

 魏が軍事介入するほどに激しい狗奴国との戦争が継続している最中に、狗奴国そっちのけで王位継承の殺し合いを展開するとは考えられない。そうしたことから、後継争いの内紛と臺與の共立は狗奴国との決着がついた後のことだろう。張政の彼女への激と告諭も、その後に、王としてのあり方や新しい政治手法などについて、個人教授をしたのではないかと考えている。

 張政たちが倭国へやってきてから帰国するまでの時間的経過は分からない。少なくとも数カ月、多ければ数年というところだろうか。特筆すべきなのは、彼らが帰国するときの送迎団が20人と異例にも多いことである。そこから判断すると、『倭人伝』がいちいち記録していないだけで、援軍につぐ援軍で相当な人数にのぼっていたのかも知れない。


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