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エネルギーは誰のために
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投稿者 外野 日時 2005 年 8 月 01 日 23:08:27: XZP4hFjFHTtWY
 

エネルギーは誰のために Hotwired Japan
http://hotwired.goo.ne.jp/original/iida/050802/textonly.html

飯田哲也の「エネルギー・デモクラシー」
最終回 エネルギーは誰のために

 この連載をとおして、自然エネルギーをめぐる欧州と日本との違いを、エネルギー自体にとどまらず政治や社会的な側面も交えて浮き彫りにしてきた。普及量で見れば、統計で明らかなように、風力発電やバイオマスエネルギーなど自然エネルギーは、太陽光発電を除けば欧州の方が圧倒的に普及している。昨年(2004年)の自然エネルギー2004国際会議で明暗が分かれたように、欧州を筆頭に、政治的に高い導入目標値を掲げ、それに向けた積極的な政策を導入している国々が急速に広がっている一方、日本の自然エネルギーは、ますます厳しい状況に追いやられている。一言でいえば、日本は自然エネルギー政策で失敗しているのだ。ただ、これは政策を見直せばよいと割り切れるほど、単純な問題ではない。

 「たかが自然エネルギー」と思われるかもしれないが(そのこと自体が日本の「失敗状況」を反映しているが)、こうした普及の度合いや政策の立ち後れは、背景にある政治や社会のあり方など、もっと社会の根源的なところに原因がある。エネルギーという現代社会を支える根幹の社会システムのあり方やその刷新で、日本は「失敗」しているのではないか。それがこの連載での一貫した「仮説」である。

 日本の「自然エネルギーの失敗」を構成する第1のサブ仮説は、日本は見せかけの「先進国」にすぎないというものだ。モノは作れるが、政策は「発展途上国」並み、民主主義はそれ以下かもしれない、という仮説である。第2のサブ仮説は、日本のエネルギー政策には「利用者本位」の目線が微塵もないというものだ。日本のエネルギー政策は、産業と官の都合で組み立てられ、「市民」はたんに消費させられる存在〜おとなしい消費者〜にすぎない。こうした「仮説」を頭において、自然エネルギーを巡る昨今の状況を眺めてみよう。

●太陽光ショック

 太陽光発電の設置量でドイツが初めて2004年の日本を抜いて、世界のトップに立ったという速報(朝日新聞2005年7月10日)に、関係者の間で衝撃が走った。2004年度の日本の設置量が27万キロワット(累積113万キロワット)であったのに対して、ドイツでは36万キロワット(累積79万キロワット)もの太陽光発電が設置されたのである。累積ではかろうじて日本はまだ「世界一」だが、これも風前の灯火なのである。

 ドイツで太陽光発電が急増した理由ははっきりしている。昨年(2004年)6月の法改正で、太陽光発電からの電力の買い取り料金を大幅に引き上げたからだ。たとえば一般の住宅用太陽光発電の場合、じつに1キロワット時あたり57.4ユーロセント(約77円)という価格水準へと、約3割も引き上げられた。他方、日本では、住宅用の太陽光発電からは電気料金と同じ価格で「余剰電力」を買い上げており、1キロワット時あたり約23円が一般的な価格水準となる。すなわち、ドイツは日本よりも電気料金が2割も安いにもかかわらず、太陽光発電からの電力の買い取り料金は約3倍も高いうえ、これが20年間も保証されるのである。

 それだけではない。日本の太陽光発電市場は、ドイツのような効果的な政策が不在のまま、崩壊の瀬戸際にある。というのも、日本で実質的に普及の原動力となったのは余剰電力購入メニューなのだが、これは、1992年4月に電力会社が分散型電源からの「余剰電力購入メニュー」を自主的に策定したもので、あくまで「自主的」な措置に過ぎず、いつ打ち切られても不思議ではない。政府の住宅用太陽光発電への補助は、すでに1キロワットあたり2万円に下がっており、設備単価(1キロワットあたり約60万円程度)と比べると焼け石に水である。この補助金は、2005年度を持って打ち切りになることが、財務省と経産省との協議で確定しているのだが、補助金の水準から見れば、それ自体は大きな影響はない。

 ところが、この補助金は、電力会社の余剰電力購入メニューを繋ぎとめる「クモの糸」なのである。電力会社としては、太陽光発電だけですでに100億円規模の「持ち出し」となっており、余剰電力購入メニューを一刻も早く見直したいのだが、政府が補助金というメッセージを出している限り、すでに20万件以上も設置者が存在する太陽光発電は、電力会社からは軽々に打ち切りや見直しは言い出しにくい状況にある。そこに政府の方から「クモの糸」を断ち切ろうとしているのである。電力会社内部では、これ幸いと、同じタイミングでの打ち切りに向けた議論が行われているという。政府がもはや補助金不要と判断したものを、電力会社だけが「自主的」に政策の肩代わりをする理屈は成り立たないのだから、当然だろう。

 上記の記事で、経産省は「コストダウンが鍵。住宅向けは標準化が進み、これ以上補助を続けるのは難しいが、住宅以外の分野は補助を続ける。『世界一』は重要だし、太陽光を着実に伸ばしていくためにも、他省庁と連携しながら新たな施策を検討したい」と述べている。「コストダウンが鍵」とは、お粗末な認識ではないか。仮に余剰電力購入メニューが消え去れば、コストダウンどころか市場そのものが消え去るという危機意識が、政府には致命的に欠けている。

●日本の貧しき「エネルギースケープ」

 「第6回:炎を見つめる豊かさへ」 http://hotwired.goo.ne.jp/ecowire/tetsunari/040817/ で論じたとおり、太陽光発電の末路は太陽熱温水器が暗示している。日本の太陽熱温水器も1990年代に入ってから政府が「市場で自立化」したと判断し、補助金が打ち切られたのだが、その後、業界のスキャンダルなどもあって、衰退の一途を辿っている。かつては最大で1700万平方メートルの太陽熱温水器が設置されていた日本だが、拡大どころか更新も進まず、現時点では800万平方メートル程度に縮小していると推計されている。政府は、2010年までに480万キロリットル(6000万平方メートルに相当)の目標を掲げているが、これでは目標達成どころか、日本の太陽熱市場は消え去るのではないかとすら疑われる。かつて世界のトップランナーを誇った日本の太陽熱市場も、今や見る影もない。対照的に、欧州では合計で200万平方メートルを越え、ますます拡大している。これらの対照的な状況を見比べると、日本の政策や市場に致命的な「欠陥」があることは明白だろう。

 まず政策の失敗がある。日本では太陽熱温水器の適切な政策どころか、肝心の「熱政策」が欠落してきた。家庭や事務所などで使う暖房や給湯などの温熱のための政策を「熱政策」という。本来なら、安価でクリーン(大気汚染や室内空気汚染がない)な温熱を、環境負荷の小さい自然エネルギーや廃熱を優先して供給するための戦略が「熱政策」なのだが、日本の役人は「下々」の生活には関心がなく、まったくの無策・自由放任であった。その結果、灯油、ガス、電気というエネルギー業界の「食い物」にされ、とくに昨今のオール電化住宅の攻勢ほど、グロテスクな状況はない。

 しかも日本の役人の発想では、政策といえば「補助金」しかない。この短絡的な思考方法では、自分たちの補助金や裁量行政が市場や社会を歪めていることも理解できないし、政策によって市場のルールや枠組みを作るという思考もできない。これが、「市場で自立化していないから補助金」「市場で自立化したら補助金打ち切り」という、おそろしく単純で粗雑な役人思考の真相なのである。

 「市場」の側にも問題がある。日本では、「汲み置き式」の太陽熱温水器がほとんどだ。汲み置き式は水を直接利用するために衛生上の問題があり、凍結など水回りのトラブルの可能性もある。使い勝手も悪く、屋根にとってつけたように乗せた姿は景観上、美しくないし、貧乏たらしい。これを「途上国型」と呼ぶ。建築家にも評判が悪く、そもそもエネルギーとエコロジーの知識が乏しい建築家が大部分を占める日本では、はじめから選択肢に入ってこない。

 これに対して、欧州の太陽熱温水器は、強制循環・熱交換型のクローズドシステムであり、温水供給に統合されて使いやすく、住宅に美しく統合されたスタイルがほとんどである。このところ悪質な住宅リフォーム詐欺がメディアを賑わしているが、ここから窺い知れるのは、驚くほどお粗末なリフォーム工事に代金を支払う消費者が少なからずいるという現実である。そこにつけ込む業者の悪質さの方に重大な問題があるとはいえ、一般の消費者がいかに住まいまわりの知識に疎いかを証明している。こうした知識社会から立ち後れた市場環境が、日本で「途上国型」の太陽熱温水器がはびこっている原因なのである。

 このように、見た目も使い勝手も貧相な汲み置き式の太陽熱温水器は、日本の「熱政策」の貧しさも象徴している。こうしたエネルギーに関連した、見た目と知識社会面での「景観」を、ランドスケープにちなんで「エネルギースケープ」と呼ぶとすると、他にも、乱れたクモの巣のような雑景を町並みに与える電線と電柱、郊外の風景を切り裂く送電線、水力発電ダムで川を枯らした「大井川砂漠」、美しい海辺に林立する原発群などのように、あまりに貧しく醜いエネルギースケープが日本中に広がっているのである。

●「風車は真水に毒」という電力会社

 「第4回:送電線は誰のものか」 http://hotwired.goo.ne.jp/ecowire/tetsunari/040413/ で論じた系統連系問題も、その後、ますます倒錯した方向に向かっている。北海道電力、東北電力、四国電力、九州電力と、つぎつぎに「系統の安定性」を口実に風力発電の閉め出しが広がっている。これに対して政府は、小委員会を設けて風力発電の系統連系問題を議論してきたが、最終的な結論は、「解列」と蓄電池であった。

 解列とは、電力需要が小さい季節や時間帯に発電中の風力発電を一方的かつ全面的に停止することをいう。要は、いくら風があっても発電せずに風車を止めろ、ということだ。クリーンで再生可能な自然エネルギーの中でも、もっとも経済的な風力発電は、世界的に飛躍的な普及が期待され、かつ現実に急増しつつある。その風力発電を最優先して系統から切り離す・・つまり発電させないなどという発想は、海外ではおよそ例を見ないし、想像だにできないのではないか。なお、大規模な洋上風力発電ファームで一定規模の出力抑制をしている例はあるが、全面的に切り離す解列とは事情が異なる。

 ましてや日本では、ドイツ、デンマーク、スペインのように風力発電が電力供給で大きな割合(それぞれ約5%、約20%、約10%)を占めている国々とは違って、わずかに0.2%程度に過ぎないのである。電力会社は「系統への影響がある」と強調するが、これもすでに論じたように、根拠ははなはだ怪しい。

 最近、電力関係者から聞いた話がある。電力会社では、風力発電のことを「真水に入った毒」だと言うのだそうだ。系統(=周波数)を乱すという意味なのだろうが、石炭火力や原発の環境汚染は、彼らに取っては「毒」ではないらしい。電力会社の職員がすべてそうだとは思わないが、こういうおよそ社会的に見れば非常識としか思えない「電力会社の異常識」が、解列という倒錯した発想を生むのだろう。

 ところで、風力発電の変動を蓄電池でカバーするというのは、シロートにはいかにも分かりやすい。しかし、そのシロート談義を、あろうことか風力発電事業者が提案し、それがそのまま「国の委員会」で通用するのだから、呆れ果て、情けなくなるではないか。言うまでもないことだが、一つ一つの風車に蓄電池を付けるような、費用効率が悪く、児戯的な施策をマジメに行なおうとしている国は、研究開発を除けば、日本以外にはない。系統は一種の「公共財」、コモンズなのだから、風力発電や自然エネルギーの出力変動は、系統全体の中でカバーすべきだし、また十分カバーできる。出力調整の能力を増強すれば、系統全体に恩恵があるのだから、その費用負担も系統全体で負うべきであり、その方が圧倒的に社会的に見て合理的だ。この「風車に蓄電池」は、この国の自然エネルギー政策の水準の低さをマンガ的に象徴している。

 第4回で紹介した「バカなネットワーク理論」によれば、ネットワークは「バカ」、つまり緩やかな基準であればあるほど、その両端(ピア)でイノベーションが生まれる。ところが日本では、解列といい、蓄電池といい、これでは、「バカなネットワーク」どころか「おバカなネットワーク政策」ではないか。あまりに過剰な対応をピアに要求する「おバカなネットワーク政策」がゆえに、予想外のイノベーションが生まれるのかもしれない・・・と、ため息混じりの皮肉を言うしかないのである。

●歴史の過ちを繰り返す「ムラ社会」

 自然エネルギー以外で見渡しても、この国のエネルギー政策の「おバカ」ぶりは、まだまだ続く。6月28日には、日本が青森県六ヶ所村に誘致していた国際熱核融合実験炉ITERの誘致合戦に敗れたとの報道があった。このITER誘致交渉の背景にも、日本のエネルギー政策の「宿痾」(しゅくあ)が何層にも重なって見て取れるのである。

 そもそも、エネルギー政策とはまったく無関係のITER誘致自体がナンセンスなのである。推進者自ら認めるように、少なくともこの先50年は発電することはあり得ず、おそらくは「永遠に発電しないエネルギー」となる。他方では、年率20%で成長する自然エネルギーを筆頭に、技術と市場と社会のベクトルが小規模分散型のエネルギー市場社会へと急速に向かっている現実がある。50年もの将来を見通すまでもなく、わずか10年・20年先の変化ですら想像を絶するものがある。仮に50年先にITER実証炉が出来たとしても、もはや時代遅れの「遺物」になっていることは明らかではないか。

 にもかかわらず、ITERを自作自演で評価した総合科学技術会議や原子力委員会など、「国」の時代錯誤と非合理性は目を覆わんばかりだ。背後には、青森県と自民党の土建政治もある。六カ所再処理工場が完成し、土建業の旨みがなくなった青森県にとって、本体だけで5000億円、総事業費で1兆円を超えるITERは格好のタマである。科学と未来の「匂い」のするITERは、核のゴミ捨て場というレッテルを張り替える上でも有効だ。核燃料サイクルを「人質」にとって原子力政策と電気事業の急所を握る青森県の要望は、電力政治に支配された自民党と民主党にとって最優先事項となる。かくて、ITERの六カ所誘致が国民の知らないところで「国策」となる。

 幸か不幸か、日本政府の構造的な外交交渉ベタのおかげで、六カ所誘致は「失敗」した。納税者として喜ばしいことだが、この誘致失敗によって、青森県の「見返り交渉」が始まることが必定だ。ちょうど、オリンピック誘致に破れた名古屋が、代償として万博を誘致したように。そして、青森県の要求する代償は間違いなくMOX燃料工場であることが何とも悩ましい。

 また、5月30日には、高速増殖原型炉「もんじゅ」の原子炉設置許可処分の無効確認を求める行政訴訟で、原告敗訴の最高裁判決が下った。今回の判決は、最高裁の数多くの「誤審」「迷審」のなかでも最悪クラスの誤審なのだが、この裁判の行く末はどうあれ、遅かれ早かれ、もんじゅは廃炉になる。推進側ですら、誰も「もんじゅ」がまともな技術開発だとは考えていないはずだ。

 日本の原子力政策には、高速増殖炉の実用化計画はなく、「もんじゅ」は進化の袋小路に入った恐竜と同じ道をたどることになる。唯一の「成果」は、今回の最高裁判決のおかげで「敗訴をしなかった」という「国」のメンツを保つことができたことと、しばらくは(無意味な)試験をすることで、原子力ムラのアリバイ工作ができることくらいだろう。その後は、原子力船むつと同じように、ひっそりと廃炉になる運命は明白だろう。その「国の弱み」につけこんで、福井県が新幹線誘致の条件交渉までするところまで、青森県と相似形になっている。

 歴史は繰り返すというが、これほどバカ正直に過ちを繰り返す「国」も珍しいのではないか。戦艦大和の「2つの過ち」(技術選択の過ち、失敗が確定した後の政治判断の過ち)を繰り返したのが六ヶ所再処理工場とすれば、高速増殖原型炉「もんじゅ」は、原子力船むつの過ちを性懲りもなくそのまま繰り返している。なぜか。

 名著「失敗の本質」の指摘するとおり、組織的な問題構図が共通していることが最大の原因であろう。旧日本軍は、日露戦争の203高地と日本海海戦で勝利したときの戦略(陸軍の「白兵銃剣主義」と海軍の「艦隊決戦主義」)の成功体験が神格化されて、環境の変化(第一次大戦で登場した近代戦)に対応して組織が自己革新する契機を失ってしまった。また、「起きたことは蒸し返しても仕方がない、二度とこのような事態が起きないように・・・」として失敗の分析も反省もないまま、「失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していた」。まさしく原子力ムラも、旧日本軍と同様に、「自らの行動の結果得た知識を組織的に蓄積しない組織」であるがゆえに、歴史の過ちを繰り返すのである。

●見かけだおしの「先進国」

 自然エネルギーを含め、こうした一連の「エネルギー劇場」を見ると、この国は本当に民主主義と市場経済を軸とする先進国なのか、という疑問が生まれてこないだろうか。あきらかに不合理であるだけでなく、論理的ですらない核燃料サイクルやITERなどの政策が平気でまかり通る。説明責任どころか、「風車は毒だ」とうそぶきつつ、「系統への影響」という巧妙な「ウソ」がねつ造され、それがまかり通る。市民や「外部」からの批判は取り上げず無視する。

 在日カナダ人ジャーナリストのベンジャミン・フルフォードの仮説を借りれば、これは法治国家を偽装した「人治国家」であることから来ているのではないか。ただし、フルフォードの言う「人」は、国民の全てではなく、政治家や官僚など一部の、しかも本来なら責任を取って牢獄に入るべき「人」を指す。同氏は、日本の出口のない不況の真の原因は、無能で臆病な権力者たちが、内側ではヤクザと結託し、外側ではただひたすらアメリカに盲従して、国民の資産を食いつぶしているからであるとの鋭い論陣を張っている。すでに400兆円もの国民の資産が失われ(アルベルト・安藤ペンシルバニア大学経済学部教授)、このまま行けば、日本社会は奈落の底に落ちかねないにもかかわらず、そのような無能で臆病な権力者たちがいまだに責任を問われるどころか、のうのうと利益を貪っているのは、同じように臆病で権力と馴れあった大マスコミが真の構造的な原因を追及せず、国民にも知らせず、警察と司法が「法の正義」をまったく果たしていないからだと指摘しているのである。法が機能せず、闇の支配者を含む権力者による非公式の差配でものごとが決まる。法の下の平等も正義も紙に書かれただけのタテマエに過ぎず、法治国家ならぬまさに(泥棒)人治国家となっているのである。

 エネルギー問題も、まったく同じ構造だ。こちらは、電力会社を中心とする既得権益の「歪んだフィクション」に沿って、政治も行政もメディアの論も含めてものごとが進められるから、「電治国家」というべきか。論理性も合理性も欠落した、その「歪んだフィクション」に現実を従わせようとするから、理解しがたい理不尽がまかり通る。総合資源エネルギー調査会を「エネルギー一家の家族会議」と評した吉岡斉九州大学大学院教授も同じような認識と思われる。ただし、総合資源エネルギー調査会などの審議会は、カミシモを着たタテマエの世界であり、真の「家族会議」は、深く静かにウラ舞台で行われる。

 エネルギー政策を非公式に「人治」しているのは、原子力ムラ、エネルギームラ、産業ムラの「長老たち」である。彼らは、巨大科学技術、産業主義、地元や業界の利益や秩序といった、時代遅れでグロテスクな価値観を共有し、論理や合理ではなく腹芸でコミュニケーションをする。日本の環境エネルギー政策は、そういう「長老たち」に支配されていると考えれば、第1のサブ仮説のとおり、今日の日本が、知識社会から遠くかけ離れた、見かけだおしの「先進国」である謎が氷解する。

●「社会の質」再論

 ここであらためて、第1回 http://hotwired.goo.ne.jp/ecowire/tetsunari/030924/ で触れた福井県敦賀市の「風景」に立ち返ってみたい。北欧と対比して、いかに貧しい「風景」であるかを論じ、「社会の質」が違うと述べた。ここでいう「社会の質」とは、表面的な「景観」だけでもなく、生活の質というパーソナルな生活環境だけでもない。いわば知識社会の水準という意味で使っている。もちろん、こうした「知識社会の質」はエネルギーだけで決まるものではなく、むしろ一要素にすぎないが、社会を構成する他の要素〜交通、都市計画、金融など〜もエネルギーと同じような構図を持っていることが容易に推察されるため、エネルギーを眺めることで知識社会の水準を測ることはできる。

 じつは福井県敦賀市は、その極端な例なのである。というのも、敦賀市には、「もんじゅ」「ふげん」を持つ核燃料サイクル機構、2基の原発を持つ日本原子力発電、市内にこそ原発は持たないが若狭湾に11基もの原発を持つ関西電力、そして本来の供給地域である北陸電力と、4社もの原発事業者がひしめいている。そのため敦賀では、「すべてのカネは原発に通じる」との揶揄が誇張でないほど、巨大ハコモノ事業の見本市である。おそらくは日本唯一と思われる「全天候型ゲートボール場」があり、もちろん屋外ゲートボール場も併設されている。その隣には、「プロも呼べる」という触れ込みで建設された、「プロの来ない」立派な野球スタジアム。市立敦賀病院は、若狭湾地域の中核病院であり、現在、電源三法交付金と日本原子力発電からの匿名寄付金を当て込んで、73億円もの費用をかけて増築中なのだが、金沢大学医学部が派遣している常勤の内科医6名を引き上げると通告している。「リサイクル研究開発促進交付金」という名目で電源三法交付金約26億円をつぎ込んで高速道路沿いに2002年に建設された敦賀市営の温泉施設「リラ・ポート」は、設計ミスと手抜き工事だらけで、例によって赤字垂れ流し施設であるばかりか、使い勝手の悪い設計のため脱衣場から浴場まで裸のまま長く歩かなければならないことから、別名「アウシュビッツ浴場」と呼ばれている。

 ことほどさように、膨大な金をつぎ込んでも、「知識社会の質」は上がらない。むしろ、原子力ムラの「長老たち」のグロテスクな願望を次々に実体化していくのであるから、かえって下品になり、社会全体の「風景」も「心性」も荒廃するのである。程度の差こそあれ、日本中、いたるところに同じような「風景」が広がっている。戦後高度成長期以来、モノ的な成長を希求してきた日本社会が行き着いたのは、そのような「第2の焼け野原」ではないか。

 ただしこの「焼け野原」は知識社会の平面で起きているため、日本社会を「人治」する長老たちの目には、「焼け野原」ではなく「発展」と映るのであろう、なおも焼き尽くそうとする政治的な慣性は大きい。しかし、多くの日本人にはすでに「焼け野原」が見えており、大きな転換の必要性を感じていると思われるのである。

●「幸福」のためのエネルギーへ

 さて、エネルギーは誰のため、何のためなのだろうか。
 これまでの論で明らかなように、また欧州各国での歴史や石油を巡る戦争・紛争を見ても、エネルギー政策はリアルな政治そのものである。政治とは価値観を巡る対立と調整である。日本のエネルギー政治を支配する「電治政治」を腑分けすれば、国策的価値と市場的価値という2軸の対立を見ることができる。ただし、環境主義や市民社会的な価値に対しては、一致して排除する方向で共謀できるのは、かれらが20世紀型の産業主義的な価値を共有しているからだろう。

 また、「電治」(人治)している人々自身が、エネルギー政策がリアルな政治であることをよく理解しているがゆえに、それが政治化することを避けて、できるだけ非政治的な装いを凝らすのである。政治的に議論すべきエネルギー政策に対して、「長期エネルギー需給見通し」という専門性を「振りかけ」にした偽装が長く行われてきたのもこのためであろう。ただし、ここ数年、エネルギー基本法(2002年)やエネルギー基本計画(2003年)、核燃料サイクル(2004年)を巡る議論で、エネルギー政策への政治の関与が強くなってくると、自民党や民主党の「電治」議員が露骨に動くことが目立っている。これこそが、エネルギー政策がリアルな政治であることを証明している。

 また「人治」に正統性がないことをよく理解しているがゆえに、形式が過度に重んじられる。情報公開や審議会の公開、パブリックコメント、審議会への批判派の招へいなど、形式的には民主主義的に開かれた手続きを偽装しているが、実態はいかにも空疎である。しかも形式を偽装するがゆえに、実質の決定はますます「電治」(人治)に閉じられ、ますます水面下に潜っていく。こうして、日本のエネルギー政策は、産業と官が、自分たちの価値観で自分たちのためだけに都合よく組み立てたもので、市民の生活、さらに言えば市民社会といった価値は毛頭もない、という第2のサブ仮説も成立しそうである。

 このような「電治」(人治)に基づくエネルギー政治は、非公式な手続きであるため、まずはこれを正統な政治手続きの中に回収していくことが必要だろう。ブルーノ・S・フライらによれば、「人々がどれだけ幸福か、あるいは不幸かは、経済・社会の本質的な質を示している。経済の状態は人々の幸福に強い影響を及ぼしている。だが、長期的に見て経済以上に重要なのは、政治体制が幸福の追求を促進するか阻害するかという点である」と指摘している(「幸福の政治経済学」ダイヤモンド社)。

 また、「幸福は、経済・社会がどのように組織されているかに決定的に左右され、政治プロセスにおいて個人の選好がより強く反映される社会では、人々の幸福は増大する」とも指摘している。そして彼らの研究に依れば、日本の幸福度は、たとえば北欧と比べると、実に低いのである。とすれば、どうやら、エネルギー政策は、たんに自然エネルギーの導入や原発を廃止するといった施策の次元にとどまらず、その政治プロセスを根底から見直す必要があると考えるべきだろう。

 21世紀型の市民社会・知識社会に脱皮するためは、予防原則や汚染者負担原則など今日的な環境原則を織り込んだ社会システムや社会制度の構築が必須である。これは、ユートピア論でもイデオロギーでもなく、同時代的でリアルな政治認識である。そのためには、根幹となるエネルギー政策のパラダイム転換は、もっとも重要かつ急がれる。エネルギー政策を、地域自立的で開かれた方向に変え、分散型の自然エネルギーや省エネルギーを分権的に進めていく。なかなか大掛かりで長い道のりだろうが、楽しい仕事ではないか。そうした「エネルギーデモクラシー」の先にこそ、持続可能なエネルギー社会、すなわち私たち自身と社会にとって「真の幸福」を与えてくれるエネルギー社会が開かれていることが、おぼろげながらも見えているのだから。


飯田哲也の「エネルギー・デモクラシー」 Back Number
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