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百済最後の王・余豊章は、武王の子か?百済滅亡時の義慈王の子か?
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投稿者 あっしら 日時 2005 年 8 月 06 日 00:22:30: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: Re: 初の百済史ドラマ『薯童謡』【書紀は百済王武を「舒明」とし⇒楽しみです! 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 8 月 05 日 22:27:36)


ODA ウォッチャーズさん、どうもです。
百済の最後の都があった全羅道は、「後百済」の蜂起以後高麗・李氏朝鮮から冷遇され続けてきた“政治的被差別地域”ですね。
そのような地域からキムデジュン、ノムヒョンと続いて韓国大統領になったのも時代性を感じます。

全羅道南部(全羅南道)は6世紀中頃まで倭人の領域といってもいいところですから、百済と日本は深いつながりを持つべくして持ったと思っています。


推古の次に舒明を持ってきたのは、8世紀前半ではなく「日本書紀」最終編纂時(たぶん9世紀前半)の可能性もあると思っています。


百済王武は、新羅から47もの城塞を奪って領域を拡大した英雄(百済支配層にとって)です。百済は、新羅が6世紀中盤の加羅・安羅の滅亡で手に入れた地域の多くを奪ったようです。
逆に言えば、そのような百済伸張が、新羅を唐に泣きつかせ百済自身の滅亡につながったわけです。

新羅の国力が伸張したから朝鮮半島を統一したというデタラメな説明もされていますが、百済に攻められ高句麗にも睨まれ倭も機を窺っているという四面楚歌に滅亡の危機を感じた新羅が唐に救援を求めたら、唐が朝鮮半島への影響力拡大の絶好機と考え乗ってきたというのがほんとうのようです。
(現在の韓国や北朝鮮の価値観に照らせば、そのような新羅は、外国勢力を引き入れて同族を滅亡させた“民族の敵”であり“民族の恥”ということになります(笑))

もちろん、最後は金春秋と金ユ信の主導で唐を追い払い統一を達成します。金春秋が王になるまえは女王が2代(善徳・真徳)続きます。このあたりも日本書紀の内容に影響を与えていると見ています。


百済王武はそのような歴史的位置付けにあるので、「白村江の役」後に渡来した百済系勢力が日本の史書にその“痕跡”をとどめたかったという気持ちは理解できます。
それ以上に、ある時期以降の百済系王権の正当性を歴史的に記述するという側面が強いのかもしれません。
「天智」を日本書紀に持ち込むためにはその親である武王を先行して持ち込んだほうがスムーズであり、そのついでに簒奪者である天武もその血統にしてしまえば収まりがいいと考えたのでしょう。


引用していただいたデータから、

>* 3年 (631年) 3月1日 百済王が王子の豊章を質として送る

韓国及び日本の歴史学界では、「豊章」は武王の子ではなく武王の子であり「白村江の役」に倭を導く百済滅亡時の王である義慈の子というのが通説のようです。
(「白村江の役」のとき、義慈をはじめ百済王族は唐の都で軟禁されていました)

「豊章」が通説のように義慈王の子というのなら、書記のこの条は嘘ということになります。

「豊章」については、百済から人質として倭に送られたのか、百済内部の政治問題で亡命してきたのか不明です。

631年頃であれば新羅を牽制するために倭に質を送ってよしみを通じる策を採る可能性もありますが、この時期から滅亡直前までの百済は隆盛期ですから、倭の政権に対して人質政策を採る必然性はあまりありません。

個人的には、「豊章」が倭にやってきた時期は武王が死んだ後だろうと推測しています。
それが631年に倭に来たことになっているのは、中大兄皇子(後の天智であり「豊章」そのもの)が舒明天皇の葬儀でしのびごとを奏するかたちにしたかったからなんだろうと思っています。

「豊章」は、たぶん兄である義慈王と不仲か、取り巻きが「豊章」を王にするような動きを見せたかで倭に行くハメになったのでしょう。(この説だと「豊章」=ギョウキ(同時期に倭にいた別の百済皇子)ということになり、百済王子は一人だけ倭にいたということになります。ギョウキは皇極紀に頻出する人物ですが、百済滅亡に際しても登場してこないという不思議な人物です)


>* 11年 (639年) 7月 詔して、百済川のほとりに宮を造らす
>* 12年 (640年) 10月 百済宮に遷る
>* 13年 (641年) 10月9日 死去

ここまで明示的に書いてあるのに歴史学者のほとんどが、百済王武を疑うことなく、百済宮は奈良(大和)十市郡にあったと考えているようです。

(当然ですよね。“正史”に百済史が混入しているなんて考える歴史学者は、その職になく「陰謀論者」になっているはずですから(笑)。政府発表や権威ある大手メディアが言っていることは“真実”とは限らないという構えがない人が史料を扱うと、その史料のプロパガンダに加担するだけの結果に終わってしまいます)

別に、百済宮で死んでいるから百済王だと決め付けているわけではありません。

このちょっとあやしげな舒明紀の知識を持ちながら、次の皇極紀の百済関連記事を読むと、なあ〜んだ舒明って武王のことじゃんとわかる仕掛けになっています。


ちなみに、百済武王が死んだのは「舒明」と同じく641年です。


もちろん、武王は百済の王であって倭に来たことさえないはずですから、倭の最高政治権力者であった「舒明」は別の人物であり、舒明紀の記載事項もその人物に関するものです。
倭の大王である「舒明」は、日本書紀の登場人物としては蘇我蝦夷で、1941年以降も生きていて1945年頃に死んだ可能性が高いと思っています。


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