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陸奥(みちのく)で大和朝廷に刃向かった人たち 【SENKI】
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/587.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 11 日 05:30:23: ogcGl0q1DMbpk
 

陸奥(みちのく)で大和朝廷に刃向かった人たち


http://www.bund.org/culture/20050815-1.htm

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三内丸山遺跡は縄文時代のクニの跡であった

蘇我畔太郎

35ヘクタールの遺跡


6本の巨大な木柱跡  

「これから皆さんを5000年前の世界に案内します」。ガイドさんの後を追って地層を模した壁面のある通路を抜けると、幾つもの竪穴式住居がたち並ぶ縄文時代の集落があった。青森県陸奥湾の奥に位置する三内丸山遺跡である。  

 1994年、野球場建設予定地域からおびただしい量の土器、土偶の破片、住居跡などとともに、直径1メートルを超えるクリ材の柱の跡が発見された。柱は全部で6本あり、縦3本、横2本の長方形の状態に整然と並んでいた。柱の径や柱を立てるために掘られた直径2メートルの穴の状態から、上部にあったであろう構造物の高さは地上20メートルを超えていたという予測が出された。  

 そのような巨大建造物をつくるためには、直接建設労働に従事するだけでも、少なくとも200人の作業員が必要だ。作業員の生活を支えるためには500人近い人口が必要になる。その後の調査によって、この地域には最盛期に百軒もの竪穴式住居が存在したことがわかった。1軒の住居には平均4から5人の家族が生活していた。この点からも人口500人説は裏付けられた。


復元された6本柱のタワー  

 このような巨大集落跡が、今から5500年から4000年前の縄文時代中期の地層から発見されたことは画期的な出来事だった。日本列島における人の定住の始まりは弥生時代から、というのがそれまでの常識だったからだ。コメづくりを始めて食糧の備蓄ができるようになって、初めて大規模集落の形成が可能になる。それ以前の狩猟・採集生活では、人々は食糧を求めて移動を続ける生活をするしかなく、食糧事情も不安定で共同体の規模も50人を超えることはなかっただろうといわれてきた。  

 三内丸山遺跡の規模は縄文時代のものとしては桁外れに大きい。このような巨大集落をどのようにして維持していたのか。暮らしぶりはどんなだったのか。尽きない謎を探るためには発掘の継続しかないという声が高まり、野球場建設は中止になった。  

 遺跡の面積は35ヘクタールと広大であり、10年以上たった今でも発掘作業は継続中である。96年には問題の6本柱の木造建築物と長軸が30メートルを超える大型住居が復元された。現在では発掘作業の手伝いをする「三内丸山応援隊」というボランティアグループのスタッフが、私達のような観光客を相手にガイドとして遺跡の案内もしてくれる。

ストーンサークル

 遺跡の入り口から集落の中心部に向かってのびる一本の道を歩く。杉材のパルプを混入したアスファルトで舗装されているこの道路は、5000年前の太古の道の上に造られているという。道幅10メートル余りの大通りは表土を削り取ったうえに、粘土で舗装処理を施したもので、長さは100メートル以上あった。両脇には墓列が並び集落への来訪者はまず死者達の霊に迎えられたという。

 
 その墓列の中から22基のストーンサークルが見つかっている。それぞれの直径は4メートルと大きなもので、集落の有力者の墓ではないかといわれている。大きな墓はカーストの存在を示す。縄文時代は社会的身分のない平等な世の中だったいう従来の考え方は、このストーンサークルの発掘によって疑問符がつけられるようになった。

北の盛土南の盛土

 太古の道を集落の中心に向かって進むと、両側に高さ2メートルを超える盛土が現れる。それぞれ「北の盛土」「南の盛土」と呼ばれるこの場所から、ダンボール箱にして4万箱分もの土器片が出土した。復元作業は向こう20年間は続くそうだが、大量の土器は、それぞれその場で壊したような状態で出土している。それで復元可能なものが多数あるのが特徴だという。土器片と一緒に土偶も出土しているが、数は1600個以上にもなり、今まで日本全体で発見された土偶の数が3000に満たないことを考えれば、これは大変な量である。


墓の跡  

 何等かの祭事に使われたであろうと考えられている土偶は、普通はひとつの遺跡から1個出るか出ないかだ。1ヶ所からこれほど大量に出土すること自体珍しいそうだ。糸魚川流域で産出されるヒスイで作られた装飾品も出土した。それでこの場所は壊れた土器の捨て場所ではなく、何等かの祭事の場所だったのではないかとなった。大量の土器を豪快に地面に叩きつけて破砕し、そこに土偶や装飾品なども混ぜて、その上には丁寧に盛り土がされた。土器片と盛り土の層が幾重にも積み重なり、長い年月の果てには2メートルを超えた。  

 断層はそのまま保存されており、見学者はこれを直接見ることが出来る。最古層は今から5500年前のものであり、一番新しいのは4000年前で、なんと1500年もの長きにわたって、このような祭事が繰り返されていたのだ。栄枯盛衰は世の習いだが、このような長期にわたって持続した文明というのは一体どんなものであったのか。千年単位の時間尺度から見れば、あまりに短命な石油文明のたそがれに生きる私たちにとって、このような疑問と向き合うことは、とても大きな興味をかきたてられる。

北の谷

 「北の盛土」の裏手は「北の谷」と呼ばれる泥炭層で、ここからは大量の植物の種子や果実の遺体とともに、魚や動物の骨なども出土した。縄文時代のゴミ捨て場だったと考えられている。出土品の中には体長1メートルの鯛などもあった。  

 「縄文の人々は鯛の刺身を食らいながら酒盛りをしていたと思われます」と、満面に笑みをたたえて我が事のように嬉しそうに語るガイドさんが印象的だった。酒づくりについても長い間、弥生時代に入ってからではないかと言われていたのだ。三内丸山遺跡で見つかったニワトコの密集層が酒づくりの跡ではないかという説が提唱されて、現在専門家の間で熱い論争が展開されている。


2メートルを超える盛土  

 植物の多くはクリなどの木の実で、このクリは花粉のDNA分析から自然林ではなく栽培されたものであることがわかっている。あたりはもともとブナの極性林で、太古にこの地域に集落を開いた縄文人たちはブナの林を焼き払ってクリの木を植え、食糧や建築材にした。このようなクリ林は放置すればもともとのブナの林に飲み込まれてしまうので、間伐や落ち葉かき等、一昔前の里山でみられたような作業が営まれていたようだ。クリの栽培と並んで興味深いのは食糧輸入の可能性である。魚類は鯛の他にブリやサバも見つかっているが、これらの出土品には頭部がない。これは干魚や燻製など何等かの加工がなされたものを、集落の外から持ち込んだためではないかといわれている。動物についても、「北の谷」からはムササビや鳥などの小動物の骨の出土が多く、猪やカモシカのそれはわずかしか出ない。それらの大型動物は干し肉などの形で、三内丸山の縄文人たちの食卓に上っていたのかも知れない。

6本柱のタワー

 2つの盛土と「北の谷」を過ぎて、3棟に連なっている高床式の掘建柱建物の前を抜けて集落の中心部に出ると、そこには「ロングハウス」と呼ばれる大型住居と6本柱の巨大なタワーが復元されている。これらの巨大建築物跡の発見がいかに衝撃的であったかは前述のとおりだが、建設されていた建造物がどのようなものであったかについては今でも議論が絶えない。柱の上には神殿のような建築物があったのではないかという説と、巨大なトーテムポールのようなものだったのではないか(木柱説)という説の議論は白熱して現在でも決着していない。復元された6本柱の建物は両者の折衷案を採用して造られているのだが、それでもその巨大さには圧倒される。地上14・7メートルの6本の木柱の直径は1メートル。このようなクリの巨木は現在の日本では手に入らず、黒海の辺で産出したものを取り寄せたという。杉のように真直ぐに伸びるクリの巨木は自然には生えない。特別な栽培の方法があるという。百年以上もの時間をかけて建材を育てるというのも、千年単位の時間を生きた文明のなせる技であろうか。こういったものとじかに向き合っていると、人間にとって豊かさとは何かということをしみじみ考えてしまう。

円筒式土器文化


広大な遺跡には竪穴式住居が立ち並ぶ  三内丸山に縄文人の集落が栄えていた時代は、バケツを縦長に伸ばしたような「円筒式土器」を使用する文化圏が存在していた。その領域は北は北海道から南は北関東におよび、その範囲内では刃物の材料になる北海道の黒曜石や、糸魚川のヒスイ等が物流していた。最近の研究では、同じ種類の黒曜石がアムール川上流のシベリアにまで伝わっていたということもわかってきた。また5000年前の内モンゴル東部の遺跡から円筒式土器と非常に似た形の土器も出土した。いわゆる円筒式土器文化圏は日本列島の枠組みを越えて、広く東北アジア一帯に広がっていたのではないかという可能性も一部の専門家によって指摘されている。  

 三内丸山遺跡の遺物の多くは、日本海沿岸で活発な海運事業がなされていたことを示唆するものが少なくない。それが大陸にまで及ぶネットワークの一部であった可能性もあるのだ。国家神道と史的唯物論の両者によって、野蛮人の時代として切り捨てられてきた縄文時代の探求は、東北アジア文化の基層に至る道かもしれないのだ。       

(高校教員)

 


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阿弖流為(アテルイ)は岩手県水沢市の誇り

佐久間芳雄

 東北の地に足を踏み入れるのは初めての私にとって、中尊寺は一度は訪ねておきたい史跡だった。隣の胆沢(いさわ)城とアテルイら蝦夷(えみし)の戦いの歴史にも触れたが、東北人の熱い想いの一端を感受することができた。

毛越寺と中尊寺


阿弖流為率いる蝦夷軍が朝廷軍をうち破った「巣伏の戦い」跡の櫓より北上川をのぞむ

  まず毛越(もうつう)寺を見学した。今から850年ほど前、奥州藤原氏の2代基衡が建立した毛越寺には、金銀をちりばめた本堂、伽藍が建ち並び、極楽浄土を地上に表現したという「大泉が池」が造園されていた。続いて初代藤原清衡が造営した中尊寺に移る。有名な金色堂には本尊阿弥陀如来を中心に、11体の仏像が3壇に安置され、すべてに金銀珠玉がちりばめられていた。なぜ、かくも贅を尽くした仏寺が多く造営されたのだろうか? 中尊寺や毛越寺の解説によると「幾多の戦乱を生きた人々の平和への願いであり、戦で亡くなられた人々への供養でもありました」という。これらの「戦乱」は前9年の役からはじまる義経を含めての鎌倉幕府頼朝と藤原家との確執をさすのだろう。金ピカが気に入らない。

蝦夷阿弖流為


毛越寺の大泉が池  

午後から胆沢城や水沢市埋蔵文化財調査センターへ行く。アテルイらの蝦夷軍と坂上田村麻呂らの朝廷軍との戦闘を始めとした、中央政府の支配に対する東北・蝦夷の抵抗の歴史を知った。こっちのほうが性に合っている気がした。  

 水沢市にある胆沢城は、延暦21年(802)年、朝廷軍による東北支配の拠点として坂上田村麻呂が造営した。国道4号線から入った城跡は「政庁跡」などの看板が立ち並ぶだけの、寂びれた田園地帯にあった。近くの水沢市埋蔵文化財調査センターでは、「アテルイ没後1200年」として、「エミシとアテルイの記録」を保存、展示していた。岩手県南部の胆沢地域は昔から水田や陸田が広がる豊かな土地として知られていた。胆沢の穀倉地帯を支配下におきたい朝廷は、8〜9世紀にかけて幾度となく兵を投入した。アテルイをリーダーとする蝦夷軍は、この地とここに住む人々を守るため、13年間にわたって勇敢に戦いを挑み、衣川の戦いでは朝廷軍5万の兵を撃退した。しかし胆沢城造営中の802年、アテルイとモレは降伏し、坂上田村麻呂に従って都に上る。坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、朝廷によって彼等は処刑された。  

 これらの歴史的事実は今、東北・蝦夷の側から捉え返されている。高橋克彦の『火怨』などだ。そこではアテルイたちの「降伏」は、田村麻呂に蝦夷社会の平和を託し、朝貢儀礼として都に上がったのであって、一方の田村麻呂は戦乱で疲弊した蝦夷社会の建て直しの中心にアテルイを据え、東北地方の安定をはかる意図があったとされる。

達谷窟毘沙門堂の悪路王

 近くの達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は801年、征夷大将軍田村麻呂が戦勝を記念して、京都の鞍馬寺から毘沙門天を勧請し、108体の毘沙門天を祀ったとされる。ここでは田村麻呂伝説が残り、毘沙門堂には蝦夷の首領・悪路王(アテルイのこと)がこもっていたと、阿弖流為は悪路王にされていた。  

 栄華をきわめた奥州藤原氏は蝦夷の末裔だった。アテルイの時代以降、東北地方は朝廷支配に組み入れられ、俘囚や夷俘として差別される蝦夷の歴史が始まった。地方豪族の安倍氏と清原氏、朝廷の3者が争ったのが「前9年の役」「後3年の役」だ。戦後の東北地方をまとめあげたのが、源義家の軍事行動を助けた藤原氏の初代清衡だ。奥州藤原氏は産金による強大な経済力で平泉文化を残すが、藤原三代は蝦夷の系譜を引く東北人だったのだ。  

 金銀で宝飾された中尊寺は奥州藤原氏の権力の強大さの象徴だが、胆沢城跡や水沢市埋蔵文化財調査センターでのアテルイら蝦夷の系譜を辿って、朝廷と都のマネなどしないで独自の文化をさぐることはできなかったのだろうかと思った。      

(設備管理士)


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田舎館村で2千年前から続く稲作

風間紀之


水田アート  

田舎館村は青森県弘前市の東にある人口9000人の村だ。津軽平野のほぼ中央に位置する。見学に行った歴史民族資料館に大昔の田んぼが展示されていた。1956年、耕地整理で道路を作ろうとした際大量の土器と一緒に、200粒以上の炭化米が出土した。以後垂柳遺跡と名づけられ本格的な発掘調査がおこなわれる。はじめは炭化米しかなかったが、発掘作業が進むにつれてプラントオパールや水田が発見された。いくつもの水路と畦道で囲われている田んぼは10平方メートルという。現代の田んぼよりもかなり小さいサイズの田んぼで米を作っていたのだ。時代は2000年前、弥生中期だ。日本の水田稲作としてはもっとも古い時代にあたる。しかも北緯40度を超える寒冷地で水田稲作がおこなわれていたということだ。  

 寒冷地での最古の水田に驚きを感じつつも、気になるのは田んぼのサイズだ。なぜ小さかったのか。現代のように食べるものに困らなくなった時代は戦後からだ。巨大な都市を形成した江戸時代でも、ぎりぎりの食料のなかで人々は暮らしていた。  

 私はサイズが小さいのは、各家庭の働き手の数に応じて田んぼを分けていたからなのではないかと思った。資料館にはそう思わせる農具や、江戸時代に書かれた屏風が展示してあった。農具は平安時代から使われていた「籾摺り(もみすり)」や、籾殻を取る「するす」という道具、江戸時代から昭和初期まで「籾摺り」の次の作業で玄米と籾殻を分けるときに使っていた「千石・万石通し」と呼ばれる道具などだ。  

 屏風は「田舎館百姓農作業四季絵屏風」という12枚の屏風に興味を持った。稲作の田おこし、代掻きなどから始まって、稲刈り籾摺りを通して俵に詰めて、蔵に収まるまでの、すべての作業が細かく描かれていた。家族総出で稲作に関わっていたことがわかる。  

 2000年前の弥生時代には、病気や怪我などで平均寿命が今よりももっと低かったと思う。稲作は人々にとって今よりもずっと重い、重要な仕事だったろう。稲作に働き手を多く出している家庭が、相応の米をもらえるルールがあったのではないか。  

 稲作を子々孫々とつないでゆこうという村の取り組みもわかった。垂柳遺跡の発見された周辺には今でも田んぼが広がっている。田舎館村では2000年前の炭化米と同じDNAを持つ「赤もろ」、黄稲、紫稲などを試験的に作付けしている。  

 広大な水田と古代米を交互に見ていくと、2000年前どのような風景だったのかが想像できる。数千年続いている稲作を維持し未来に残そうという思いが、田んぼを通じて伝わってくるのだ。  

 村役場前には「水田アート」があった。城をテーマにデザインされている村役場は、天守閣にあたるところが展望台になっていて「水田アート」を見ることができる。写楽の「浮世絵」の下には「いなかだて つがるロマン 思いやる心」と、紫稲の下地に黄稲で字を描いていた。一本一本手で田植えをした「水田アート」は、今年で13回目を迎える。数千年の時を経て、今もなお稲作文化の歴史の継承に傾ける村の人たちの熱い思いを感じた。        

(会社員)


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『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)をめぐる真贋論争

沼田昭介

 岩手県水沢市では、阿弖流為や母礼が郷土のヒーローとして取り上げられている。それを見てふと思ったことがあった。  

 『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、古代における東北地方の歴史が書かれた古史古伝である。東北には大和朝廷とは別個の古代国家が存在したということで話題になった。アラハバキ王国である。青森県五所川原市在住の和田喜八郎氏が自宅で発見した文書群を、青森県津軽郡市浦村に提供したものとされる。昭和50年(1975年)から52年にかけて『市浦村史 資料編』(上中下の3部作)として刊行された。内容は三輪山、生駒山に本拠を置く邪馬台国王の安日彦・長髄彦が、日向族の侵攻に破れて北辺の東日流に逃れ、先住の阿蘇辺、津保化両族を荒吐族として統合、アラハバキ王国を樹立したというものだ。語り部文書とされる。  

 しかし「『東日流外三郡誌』は偽書である」と、産能大学の安本美典教授が言い出した。そこから研究者や大学教授らによる真贋論争がはじまった。古代史研究家の古田武彦氏は安本氏の偽物説に反論し本物説を展開した。  

 二人の論争はNHKテレビや『サンデー毎日』でも取り上げられ、今なお続いている。偽物説の根拠となっているのは、「東日流外三郡誌」の発見者である和田喜八郎氏の筆跡と、「東日流外三郡誌」の筆跡が大変よく似ている点だ。「東日流外三郡誌」と和田喜八郎氏の筆跡には、いくつもの同じまちがいが多数あるというのも問題になった。例えば「陽」の文字のつくりの横棒を一本落として「易」のように書いているなどだ。  

 書かれている記述にも、現代的な言葉遣いがあるなど疑問点が多い。谷川健一氏は『東日流外三郡誌「偽書」の証明』の中で次のように徹底的にこきおろしている。「文章も文法も滅茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りを尽くしている。偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。その絵も同然である」  

 92年10月21日には、大分県在住の野村孝彦氏が『東日流外三郡誌』の発見者和田喜八郎氏が、自分の写真盗用および論文剽窃をしたと青森地裁に訴えた。  

 野村氏は奈良県生駒市や和歌山県新宮市那智勝浦町の「猪垣」といわれる古い石垣に関心を持ち、それが古代の遺跡である可能性をも考慮して本格的調査が必要だと唱えていた。1976年頃、市浦村版『東日流外三郡誌』のことを知った野村氏は「所蔵者」たる和田氏に、所有する文書の中に猪垣関連の記述がないかを書簡と電話で問い合わせた。和田氏は当初、関連する記述はないと返答していたが、その際、野村氏に猪垣の写真の提供を求め、野村氏はそれに応じて猪垣の写真六枚と日本経済新聞掲載論文を送った。  

 ところが1983年から刊行が始まった北方新社版『東日流外三郡誌』で、新たに増補された文書の中に明らかに野村氏の写真および論文に基づいて書かれた記述や図版が収められていた。

 それらは野村氏の調査をはるかに遡る、江戸時代の寛政年間に書かれたということになっていた。 しかもそれは、野村氏が苦心して調査した熊野・大和の猪垣に関してではなく、津軽山中の「耶馬台城」なるものの描写に翻案されていた。また和田氏自身の著書である『知られざる東日流日下王国』には野村氏の撮影した写真が掲載されていた。

 野村氏はこの事実を知って以来、数ケ月にわたって和田氏に事実をただしたが埒が明かず、民事訴訟を起こしたのだ。  青森地裁の判決では、写真盗用については著作財産権侵害および著作者人格権侵害を認め、和田氏に慰謝料20万円の支払いを命じた。しかし『東日流外三郡誌』真贋問題については判決はくだされなかった。  

 この裁判の過程で古田武彦氏が和田氏側に付き、けんけんがくがくの論争が行われ、真贋論争は混乱を極めた。朝日新聞が和田氏に有利な記事を掲載したことから、『正論』などの雑誌が反論を展開。「日本の歴史を歪曲するな」とのキャンペーンがはじまった。  

 「東日流外三郡誌」が発見された経緯(古文書が天井裏から落ちてきたとされる)や、江戸時代に書かれたという原本が見つからないことから、「東日流外三郡誌」は偽書であるという説が強くなっている。  

 しかし天皇史観に基づき、古代大和王朝以外に地域の歴史を認めないという史観にも反発を感じる。「東日流外三郡誌」が偽書だとしても、東北独自の歴史が何もないということにはならない。日本にはそれぞれの地域に独自の歴史や文化があったのだ。最初から全て天皇制国家の下に統一された「日本」なるものがあったわけではないのは常識だろう。  

 蝦夷・アテルイの時代から続く反抗の歴史は、朝廷側にしか資料は残されていない。東北のアイデンティティを求めようとしたとき、東北人によって「東日流外三郡誌」という偽書が生み出されたのだ。そう考えると「東日流外三郡誌」も東北の一つの歴史に見える。     

(デザイナー)


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遠野はカッパのいそうな民話の里だった

中村正明

 7月18日、東北旅行の途中で岩手県遠野市に立ち寄った。柳田国男の「遠野物語」で有名なあの遠野である。明治時代の末頃に、遠野の人から柳田が聞いた民話を収集したのが遠野物語だ。娘が山に連れ去られた話や、ザシキワラシの話、オシラサマという神様の話など、たいへん豊かな昔の日本の農村の面影を伝える貴重な物語がたくさんある。今の遠野にもそんな様子が残っていることを期待して出かけた。


カッパ淵  

 ガイドブックを手に、民話のふるさとらしい風景を求めて、「山口の水車」というところへ行った。町からはずれた、車で農村の中をだいぶ行ったところにそれはあった。小さな駐車場があるのだが誰もいない。水車は勢いよく回っていた。水車小屋は茅葺きの建物で古いものらしいが、水車自体はかなり新しい。小屋の中を覗いて見た。水車は回っているだけで何の仕事もしていない。昔は脱穀や製粉に使われていたという小さな掲示板だけがあった。周囲は田んぼが広がっている。舗装された道が通っている以外は「遠野物語」のころと同じ風景に違いない。  

 次は「カッパ淵」に行ってみる。「遠野物語」にも河童が登場する。馬を水に引きずり込もうとして、逆に厩に連れ込まれてしまった馬鹿な河童である。馬を引きずり込もうとしたところが「カッパ淵」であるという。「カッパ淵」の傍に常堅寺というお寺がある。そこには河童の頭をした「カッパ狛犬」の像があった。火事の時に河童が頭の水を使って消してくれたという伝説があって、それを記念して作られたそうである。お寺の左右にも木造の河童の像がある。お寺の裏にまわると「カッパ淵」がある。  

 小川が流れていて周囲は林である。なるほど河童はこんなところに住んでいるのか。天気は晴れ、気温は高いが、そよ風がふいていて清々しい。河童ではなくても、こんなところで水浴びすれば最高だろう。河童が引きずり込もうとした馬も、暑いので水浴びにつれてこられていたところだという。すぐそばには畑が広がっているのだが、「カッパ淵」の周囲だけは森の中の雰囲気である。河童はこんなところに住んで、いたずらをしたりして人間と交渉を持っていたんだな。  

 「外の地にては河童の顔は青しといふやうなれど、遠野の河童は面の色赭(あか)きなり」と遠野物語にはある。それでか「カッパ淵」の脇にある河童の顔は赤く塗られていた痕跡がある。色はだいぶはがれてしまっているが。その隣の小さなほこらの中にも河童の像がたくさんあった。記帳簿が置かれていて、河童を訪ねて北海道から来ましたという学校の先生が描いた河童の絵もあった。日本には河童ファンがけっこういるんだな。  

 「カッパ淵」を後にして市立博物館に向かう。博物館では映像で遠野に伝わる民話を紹介していた。その映像がなかなかいい。人形を使った静止画を入れ替えながら、物語をゆっくりと語る。  

 別の部屋に行くと遠野の歴史が見られる。戦争直後までは馬の産地として栄えていたようだ。家と馬小屋が接続しているL字型の曲り家がたくさんあった。北上山地は馬で有名だったのだ。戦争中は軍馬としてずいぶん使われた。こんな田舎でも戦争とは無縁ではなかったんだなあと思った。  

 遠野から遠望できる標高1917mの早池峰(はやちね)山は、北上山地の最高峰である。かつては山伏が修行し山麓の人々の信仰の場だったそうだ。「附馬牛(つくもうし)の谷へ越ゆれば早池峰の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとく、また片かなのへの字に似たり」と「遠野物語」の序文にある。今回は登らなかったが、もう1回行って早池峰へも登ってみたい。  

 柳田国男が遠野に行ったころは、交通も不便でたいへんな田舎だったろう。今は電車も通っているし道路も整備されている。でも町なかから1歩はずれると、のどかな田園風景が広がる。今でも河童の出てきそうな雰囲気を満喫できたさわやかな旅だった。

(システム・エンジニア)


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(2005年8月15日発行 『SENKI』 1187号4-5面から)

http://www.bund.org/culture/20050815-1.htm

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