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ヤマトタケルの東国遠征は鉄戦争だった。
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投稿者 hou 日時 2005 年 8 月 13 日 12:14:09: HWYlsG4gs5FRk
 


http://members.jcom.home.ne.jp/nishiwaki3/page002.html
ヤマトタケルの東国遠征は鉄戦争だった。

 私はこの説を神奈川新聞に投稿した。概略 次のとおりである。

 神奈川県松田町に寒田神社がある。タタラ跡がある。前に古代の工業用水も流れている。
神社には タケルが使ったという古代の木のお椀が社宝として 大切に保存されている。

 神社の前を流れる酒匂川には 伝説が残っている。ヤマトタケルが川の水を飲んだ。水はお
酒の匂いがした。それで、酒匂川という名前になったのだ ということである。これは タケルが

水の味に関心を持っていたということを示している。タケルは鉄の産地を探していたのだ。

 古代の戦争は、大群を率いて攻めていくのではない。少人数で行き、味方を作り戦うのであ
る。松田にいた部族はタケルに味方した。敵は 平塚にいた部族である。三角縁神獣鏡を残し
た真土古墳群も 今完全に失われている。祭る部族が滅ぼされてしまったからである。平塚・
前鳥神社は相模川から小さな工業用水を引き、鉄を作っていたのである。

 ヤマトタケルは横須賀・走水から 命かながら海に逃げた。川崎市幸区白山古墳の勢力と挟
み撃ちにあったのだ。川崎にも鉄に関する地名が多い。千葉に逃れた後、捲土重来 川崎と
平塚を滅ぼした。川崎市高津区に橘樹神社がある。

   二人目のタケル登場

 平塚四之宮・前鳥神社の祭りは少しかわっている。神輿の宮入りの様子が違う。氏子青年が
土下座して迎える中、タケルのお面を付けた神官に導かれ 静々と宮入りするのだ。霊の鎮魂
の儀式である。倭建命が亡ぼし、日本武尊が鎮魂したのだ。二人目のヤマトタケルは約50年
後にやって来た。平塚では 細々と鉄生産は続けられていた。日本武尊は平塚の復興に協力
し、地元の人に尊敬された。前鳥神社の祭神は ウジノワギイラツコ、応神天皇の皇子だ。天
皇の皇子 即ちヤマトタケルなのだ。

 ウジノワギイラツコを祭神とする神社は、関東では二つのみ。栃木県藤岡町・野木神社。渡
良瀬川遊水地周辺は寒川郡(サンガワ)と呼ばれた。「サ」音は古代韓国語で、鉄を意味す
る。サカワ川・サムタ神社・サガミ・サンガワ。野木神社の近くに大前(オオサキ)神社がある。
ここにタタラ跡が発掘されている。鉄を作っていたのだ。そして 辺りの小字名は磯城宮(シキ
ノミヤ)。野木神社の伝承では、イラツコの骨を持って来て祭った ということだ。

 二人目のヤマトタケルはシキノミヤに腰をすえ、武器を作りながら 東国の鉄生産地を服属さ
せていった。古事記にあるタケルの歌問答。答えたのは 火タキノオキナ。「新治筑波を過ぎて
幾ヨかネつる」「ヨには九のヨ ヒには十かを」  この問答は二重歌になっている。ヨというの
は、夜の意味の他に 泉・タタラ場という意味もあったのだ。ネは寝るの意味の他に獲得したと
いう意味。ヒは鍛冶場という意味もあったのだ。二重歌で答えたオキナは その知恵を褒めら
れ、東国造(アズマノクニノミヤツコ)に任命された。

 埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣の金象眼の文字に、自分は ワカタケル大王がシキ宮にいた時
第一の部下であった とある。私は ヒタキノオキナが古墳の主だと考えている。稲荷山古墳と
大前神社・磯城宮は直線距離にして約20km。利根川をはさんで線対称の位置にある。野木神
社にタケルゆかりの品を奉納した人は、シキ宮で共に暮らした人であったと思われる。

 ヤマトタケルは十ヶ所の鉄生産地を従えた という。それはどこなのか。東国全体を一人で調
べることは 私にはできない。古代のタタラ場遺跡を探してほしい。タタラ場は水が必要なの
で、川の近くだ。砂鉄が多く採れる所。炭をたくさん使える所。しかし 鉄生産を止めた後は、
農地に転用されてしまうのだ。水が来る場所は 田んぼに適しているからだ。遺跡としては残り
にくい。でも 地名で残っていることがある。小字名は 古い時代の痕跡をとどめていることが
よくあるのだ。もう一つの手がかりは 川の近くの神社だ。余りにも川に近い時、タタラ場?と
疑ってみることが必要だ。

 地名に鉄・刀剣に関する漢字がある時、鉄生産と関係していることがよくある。しかし それ
は、中世以後であると思われる。古代は サシスセソのS音で表わされていることが多いのだ。

  みなさん、東国の鉄産地を見つけたら、私に知らせてください。お願いします。       

 & 万葉仮名表記とは何か?どういう性質のものだったのか?正しく認識されていな
い。言葉遊びに「なぞかけ」がある。「うぐいすと掛けて何と解く?」「お葬式と解く」その心は? 
「ナキナキ ウメに行く」      鳴き鳴き梅に行く   泣き泣き埋めに行く  という 二重の
意味を込めるのだ。表音文字を使ってする遊びだ。万葉仮名も表音文字として 同じ利用がな
される。しかしそれだけではない。古代 日本語が未成熟であった頃、一つの漢字に対して よ
みかたが幾つもあったのだ。韓国風よみ、日本風よみ、音読み、訓読み。従って 漢字が二つ
並んだ場合、よみ方は8以上考えられることになるのだ。出来上がった音声のうち 意味を持
つのが複数あれば、二重の意味を込められるということだ。

 雪という漢字を知っていながら 雪の字を使わず、万葉仮名で表記する。それは、雪の意味
の他に 別の意味のユキ、(弓矢の矢の入れ物のユキ、着物の裄)を二重に表わしたかったか
らなのである。

 表面的には平凡な叙景歌なのだが、裏に全く別の意味が隠されている。それが万葉仮名な
のである。万葉集等から二重の意味を読み取り、古代の政治抗争を明らかにしようという研究
が 民間研究者により進められている。本が出版されている。

★三角縁神獣鏡の時代 小林惠子氏の説による

 高句麗本紀には 東川王は248年に死んだ、と記録されている。実際は列島を目指したの
だ。彼が九州を攻めた頃、ヒミコは北九州伊都国に本拠を置いていた。三世紀中頃、ヒミコを
殺した。しかし国は落ち着かず、ヒミコ一族の「とよ」を手に入れ、東遷した。岡山県鬼ノ城伝説
はこの時代の様子を伝えている。東川王は大和に入り、列島は安定した。「とよ」はヤマトモモ
ソヒメとして箸墓に葬られている。三角縁神獣鏡は 東川王が配った鏡である。「神武」天皇の
話に投影されている。

 ヤマトタケルが東征し、平塚と川崎を亡ぼした。平塚真土古墳も川崎白山古墳も 三角縁神
獣鏡を有していた。四世紀前半においては 大和と仲が良かったのだ。             
 その平塚川崎を亡ぼしたヤマトタケルは垂仁朝のヤマトタケルと呼ばれた。四世紀中頃であ
る。

 その約50年後、景行朝のヤマトタケルが東国にやって来た。五世紀始め頃である。     
 王朝が交替する度に、各地を平定する必要があったのだ。王朝は万世一系などではなかっ
たのである。 

   

古代・東国の鉄戦争



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