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Re:日本の大メディアの堕落ぶりはGHQ占領時のCIE(民間情報教育局)のメディア検閲状態と同じ
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/261.html
投稿者 World Watcher 日時 2005 年 9 月 21 日 16:44:52: DdDUJ9jrxQIPs
 

(回答先: 佐藤晃著 『太平洋に消えた勝機』 東京裁判のA級戦犯で帝国海軍の軍人がいないのは米国に内通していたのだろう 投稿者 TORA 日時 2005 年 9 月 21 日 15:54:19)

日本の大メディアの羞恥心の欠片も無い堕落ぶりの真相はGHQ支配下のCIE(民間情報局)の影響が大きかった。
2002年5月14日に”正常だった頃”の田原総一郎氏の個人情報保護法の危険性を指摘する外国人記者クラブでの会見で現在の日本大メディアの堕落は、GHQ占領時のCIEの検閲の総括をしなかった要因もあると指摘している。(前日の13日の週刊誌編集長たちの共同記者会見
ちなみに小泉独裁政権は今後『人権擁護法案』『共謀罪法案』と本丸の”憲法九条改正”を行うでしょう。前に成立させた個人情報保護法や盗聴法もすべてリンクしているとみて間違いないと思います。未だにこの国はアメリカの占領下だ(笑)


メディアの現場:戦後60年の原点 従軍記者の証言

 太平洋戦争では、新聞社の多数の記者やカメラマンが、従軍記者として軍と行動をともにし、取材した。1945年夏、新聞記者としての戦争責任を理由に朝日新聞を辞め、戦後は郷里の秋田県で地域紙「たいまつ」を発刊したむのたけじ(本名・武野武治)さん(90)もその一人だ。むのさんの証言から、戦時中の検閲をくぐり抜けて報道しようとする記者らの苦労や、敗戦後の占領下にGHQ(連合国軍総司令部)が地域紙にまで目を光らせた実態が浮かび上がる。【臺宏士】

 ◇検閲、かいくぐり−−元朝日新聞記者・むのたけじさん

 「バタビヤ市長 塚本榮氏決(きま)る」

 そんな見出しの無署名の特派員電記事が、42年7月3日の朝日新聞朝刊に掲載された。

 太平洋戦争の開戦以降、日本軍は南方各地の占領地に軍政を敷いた。オランダ植民地のインドネシアもその一つ。記事は、その中心地のバタビヤ(現在のジャカルタ)の市長に、三菱商事南方課長からジャワ軍政部の嘱託となった日本人が内定したことを伝えるスクープだった。

 朝日新聞記者だったむのさんは、42年3月にジャワ島に上陸した日本陸軍に従軍し、現地に開設された支局の特派員として軍政取材にあたった。

 「日本は欧米の植民地となっていたアジアを解放することを戦争目的に掲げていた。しかし、その中心都市のトップに日本人を起用するというのはおかしいと思った」

 むのさんは、軍関係者から「商社マン」の市長起用をこっそり聞き出した。戦時下の外地での取材・報道活動にあたって、軍は記者が本社に記事を送稿する前に原稿の検閲を行っていた。市長起用の正式発表はなく、内定の段階では、軍の事前検閲はパスしそうにない。そこで一策を講じた。原稿を軍に出す前に、支局員が検閲の担当者と酒を飲み、酔いが回ったころに検閲に持っていくことにしたという。秘策は奏功し、無事に検閲済みのお墨付きをもらい、本社に特ダネとして打電することができた。

 軍の検閲をいかにくぐり抜けて報道するか、戦時下でも記者は知恵をめぐらせたエピソードの一つだが、軍側は「誰が書いたのか」と脅し、名乗り出たむのさんの日本への送還をちらつかせた。むのさんによると、情報を提供した軍関係者の処分に及び、軍に傷が付くのを懸念したためか、結局それ以上の追及はなかった。

 「軍に囲い込まれて本当のことが報道できず、悪かったなという悔いはいっぱいある。だが、本当のことが伝わるようには書いたつもりだ」

 このスクープは12行のべた記事だった。しかし、記事に対するアジア地域での反響は大きかったという。

 「日本軍が誰を市長にするかを他の占領地の人々は注目していたようだ。現地人であるべきなのに結局、日本の民間出身者だったことで大きく失望したのではないか」

 ◇「読者裏切った」と辞職

 45年8月12日。むのさんの所属した朝日新聞東京社会部にも「日本降伏」の情報が伝わってきた。社会部では、東京にいた30人ほどの部員が、今後どうするかについて灯火管制の中、その夜から話し合いを始め、議論は3日続いた。むのさんは新聞記者の戦争責任の取り方として、全員が会社を辞めることを主張した。

 「うそをつくつもりはなかったが、軍の発表を建前として、それに合わせた戦災状況の記事を書かざるを得なかった。結果として読者を裏切ってしまった。そのけじめはつけなければならない。そうでないと将来、同じ過ちを再び犯してしまう。建物も輪転機も社会に寄付して、一度、新聞社としてピリオドを打つべきだと思った」

 しかし、結論は出なかった。むのさんは「本来は会社の幹部が方針を示すべきだ」と思ったが、何一つ示されなかったという。むのさんの主張に同僚の一人は「妻も子供もいる。会社を辞めたら食べていけない」と本音を語ったという。

 むのさんは14日夜、「明日からもう来ない」と言い残して会社を去った。翌15日の敗戦を前に去った社会部記者はむのさん一人だった。その後退社した記者も数人いたという。むのさんから見て、3日間の議論が活発でなかったのは、なぜなのか。

 「45年以前の日本のインテリは自己検証できるだけの力を持っていなかった。戦時下では周囲の監視が厳しく、戦争についての議論を蓄積することができなかったからだ。新聞社でも例外ではなかった。だからこそ普段からしっかりと戦争問題について議論していないといけない」

 ◇GHQに怒り、再びペン

 48年2月2日。秋田県横手市でタブロイド判、表裏2ページの地域紙が誕生した。週刊紙「たいまつ」。むのさんは社長ではなく、編集トップを指す「主幹」を名乗った。「たいまつ」は、77年11月30日に休刊するまで780号を数えた。記者としての経歴は、報知新聞(1936〜40年)、朝日新聞(40〜45年)と比べ、「たいまつ」が最も長い。

 一度は捨てたペンをむのさんが再び持とうと決意したのは、GHQの占領政策への怒りだという。ダグラス・マッカーサー総司令官が官公庁の労働者による47年の「2・1ゼネスト」の中止を命じたことに大きな衝撃を受けた。

 「米国の政策は、それはひどいものだった。『たいまつ』を始めたのは、アメリカの政策がうそっぱちだったからだ。憲法は飾り物だということも分かった」

 日本のメディアは45年10月からGHQの検閲を受けるようになったが、表現の自由を保障し、当局による検閲の禁止を盛り込んだ日本国憲法が47年5月に施行された後も、検閲制度は49年10月まで続いた。「たいまつ」はGHQに黙って創刊したが、1週間もたつとGHQから手紙が来た。「3日以内に紙面を送れ」とあった。

 GHQの検閲当局は、GHQ批判をはじめ、経済政策でも占領への不満を引き起こしそうな記事に目を光らせた。「たいまつ」は占領政策の是非を論じなかったが、農業をはじめ地域が抱える問題を、現場の視点から切り込み、目を付けられる。

 むのさんによると、創刊から半年過ぎたころ、地元の検察庁から、むのさんに「GHQが来て、たいまつの発行を禁止するかどうかについて調べている。少し考えたらどうか」との電話があった。それ以降、仙台市にあったGHQのCIE(民間情報教育局)の2人の担当官が「指導・援助」と称して毎月、横手市まで来たという。米国視察を持ちかける懐柔もあった。結局、52年に占領が終わるまで発行停止処分は受けなかったが、むのさんは覚悟をしていた。発行禁止処分を受けたら、次の日には「たいまつ」から「まっくら」という名前の新聞を創刊しようと決めていた。

 「米国が憲法を押し付けたと言う人がいる。しかし、最初にその精神を踏みにじったのは米国だ。憲法に命を吹き込み、その精神を受け継いできたのは日本の民衆だ」

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 ◇軍部、うそばかり言った−−元毎日新聞写真部・納富通さん

 毎日新聞写真部の元カメラマン、納富通(のうとみみち)さん(83)は戦時中の1943年と44年の2回、千島・樺太の守備担当をしていた北部軍に従軍した。北東方面は終戦直後のソ連上陸まで動きが少なく、比較的静かだったが、寒さなどで厳しい日々が続いたという。

 納富さんは42年9月、東京日日新聞(毎日新聞の前身)に入社した。最初の従軍は43年6月。北部軍に徴用され、報道班員として北千島の占守(シュムシュ)島に入った。野戦料理作り、入浴シーンの撮影など、まだのどかな雰囲気だった。釣りも楽しんだという。

 2回目の徴用は44年4月で、やはり北千島に入った。この時、北部軍から示された従軍心得を、納富さんは後に原稿用紙に日記風に記録している。「現地部隊の統制に服す」「最高度の防諜(ぼうちょう)(スパイの侵入・諜報活動を阻止・監視すること)」「軍の一員として行動態度を慎む」などの言葉が並ぶ。「配属部隊所定将校の検閲を求める」ともある。

 「写真を撮るのに制限されたという記憶はない。ただ、諜報関係は(気をつけないと)まずいなと思った。軍旗を立てた行軍の写真を撮影した記憶がある」

 納富さんは、当時の状況を後にこう書いた。「厳寒で、着てきた服装では耐えられない。師団司令部で軍服上下、戦闘帽、長靴を借りる。兵隊の服装に毎日新聞社の腕章を巻いて、前線守備隊の取材行である」

 北千島は広い。各社から集まった報道班員は、くじで担当場所を決め、4地区に分かれて駐在した。2回目の従軍は約半年続いた。

 「軍部はうそばかり言っていた。南部で壊滅的な打撃を受けているのに、北部に伝わる情報では、転進作戦だと説明していた」

 納富さんは45年に毎日新聞東京本社に戻り、写真部員として勤務した。8月15日、東京本社編集局内で、昭和天皇の玉音放送を聞きながらこうべを垂れる記者らを、納富さんは撮った。

 「泣いている人もいた。デスクから撮ってくれと頼まれてシャッターを押したが、フラッシュが届かなかった。何か実感がわかなかった」【伊藤正志】

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 「メディアの現場 戦後60年の原点」へのご意見や情報をお寄せください。〒100−8051(住所不要)毎日新聞編集局メディア取材班。ファクスは03・3212・5176、Eメールはt.media@mbx.mainichi.co.jpです。

毎日新聞 2005年9月20日 東京朝刊

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/media/


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