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日本が開戦を決意した最大の動機は石油だった。にもかかわらずハワイ作戦の計画の中で石油は忘れられていた
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投稿者 TORA 日時 2005 年 10 月 08 日 14:25:50: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu104.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本が開戦を決意した最大の動機は石油だった。にもか
かわらずハワイ作戦の計画の中で石油は忘れられていた

2005年10月8日

◆山本五十六 昭和海軍とその悲劇3 福田和也 「諸君」9月号
http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/shokun0509.htm

チャーチルは、燃料転換の方針を定めるとともに、海軍省内に石油の供給問題にたいする委員会を設置し、ついでそれを政府の委員会に格上げしている。同時に、国際資本のロイヤル.ダッチ.シェルに吸収されそうになっていたイギリス系石油会社、アングロ・ペルシャの独立をイギリス政府が大株主になることで守った。この件についてチャーチルは、開かれた国際市場などという通念は、お笑い種でしかない、と議会で演説し、帝国海軍は、石油の供給源を所有するか、そうでなくても供給源にたいする、強い影響力を持たなけれぱならない、と力説している。

あれほど、イギリス海軍に憧れ、模倣したとされるわが帝国海軍に、チャーチルのように考え、行動する海軍大臣がいたのか。不勉強のため私は一人の名前も挙げることができない。

.第一次世界大戦の帰趨は、石油が決めることになった。海路、石油を輸入していたイギリスは、Uポートによる攻撃にあって、燃料枯渇の危機にあったが何とかしのぎきった。連合軍は、自動車を多用して前線への兵員、物資の輸送を行い、鉄道への依存度が高いドイツを圧倒した。一九一四年八月、高名なパリ防衛に、タクシーが一役買ったというエピソードは、燃料のパラダイム転換を象徴するものである。戦車(もちろんガソリンで動く)の前線への投入も、イギリスが主導したものである。「ガソリンの一滴は血の一滴」という言葉は、第二次世界大戦下、日本でもスローガンとして流布したが、もともとこの言葉は、石油の供給を求めて、フランスのクレマンソー首相が、ウィルソン米大統領にたいして語ったものであった。

ドイツが最終的に降伏を決意したのは、一九一八年三月、ソビエト.ロシアとの講和によって入手可能になったパクー油田からの石油が、イギリス軍部隊の占領によって途絶えてしまったからだった。これにより、ドイツは継戦能力が画期された、つまり軍事産業の操業が維持できなくなったからである。

こうした、第一次世界大戦の戦訓は、帝国海軍において、どのように考えられていたのだろうか。たとえぱ、ドイツの場合、第二次世界大戦の時に、軍が使用した燃料の半ばは、合成石油だった。日本でも、そうした設備は稼動していたが、供給力は微々たるものにすぎなかった。

海外の石油会社を買収するなり、代替燃料を大量生産するなり、その態勢を整えるために十分な時間が(費用があったかどうかは議論の分かれるところだろうが)第一次世界大戦から真珠湾攻撃まであったにもかかわらず、なぜ、帝国海軍は燃料の確保ができず、その結果として、望まぬ戦いに踏み切らなければならなくなったのか。詐欺師のもたらす「天恵」に一縷の望みを託さざるをえなかったのか。

もちろん、第一次世界犬戦中にイギリス支援のためインド洋から地中海にわたるまで艦隊を運用し、油槽船の払底により原油不足に悩んだ海軍は、あらゆる日本の組織のなかで、石油問題についてもっとも鋭敏ではあった。大正七(一九一八)年、海軍省は、「軍事上の必要に基づく石油政策」を起草した。日本においてはじめての石油政策の提言であったが、閣議決定にはいたらなかった。

海軍は、この政策案で石油会社の官営化、国内石油会社の統合による国策会社化を提案しているが、実施には至らなかった。

石油の確保に関して海軍は、シェル傘下のライジングサン石油との長期契約によりポルネオ石油の購入権を獲得し、ロシア時代から久原鉱業が保持していた北樺太油田開発権に、六十万円の資金を提供し、鈴木商店、三井鉱山などの参加を仰いで、オハ油田の試掘に成功している。

また、自前の石油精製設備を持ち、海軍煉炭製造所を海軍燃料廠に改組した。海軍としては相応に、取り組んでいるのだが、イギリスに較べると真剣さ、切実さに著しく欠けているように見えてしまう。チャーチルが笑った、「国際市場」なるものを信じ、あるいは甘えていたように見えないでもない。無論、それは現在も(社会全体のこととして)同じことなのだけれど。エネルギーは、金さえだせぱいつでも買えるといったようなものではない、ということを、私たちは六十年前、痛切な思いで味わったはずなのだけれど。

石油問題について、山本五十六も、盲目だったわけではない。むしろ海軍の将校のなかでは、鋭敏だったといっていいだろう。反町栄一は『人間・山本五十六』において、山本は語学将校としてハーバード大学に留学中、テキサスをはじめとする、アメリカ各地の油田や精製施設を視察しただけでなく、「石油に関するあらゆる文献著書を読破し、毎日米国新聞四十幾種類を閲読せられた。これが為め、睡眠時間は一日平均三時間であったといわれている。/その頃山本中佐を訪問すると、水嚢を頭にして勉強しておられる姿を時々見掛けた、との思出話も、今知友の間に残って居るのである」と書いている。

アメリカの石油事情に通暁した山本は、メキシコ旅行を志す。山本のメキシコ旅行というと、反町が紹介した、旅費がないために水とパンとバナナだけですごした、余り貧しい暮しぶりなのでメキシコ政府から日本大使館に問い合わせが来た、というエピソードが有名で、阿川弘之、工藤美代子の両氏もその山本伝のなかで紹介している。

けれども、一番興味深いのは、当時のメキシコの状況だろう。この時期、メキシコの石油産業は、大転換期にさしかかっていた。二十世紀はじめから、本格的な油田開発がはじまったメキシコは、アメリカ企業の参入により大発展を遂げ、第一次世界大戦中にアメリカからの需要が爆発的に増えたためもあって、世界第二位の原油産出国になっていた。

そのうえ、大正六(一九一七)年、メキシコ革命憲法が制定され、天然資源の国有化が宣言されたのである。当然のごとく、。国際資本からなる石油会社は強硬に抗議し、それをアメリカ、イギリスの両政府が後押しするという展開になった。

最初、メキシコ政府は柔軟であった。所有権をとりあえず名目上確保し、操業は国際資本の好きにさせて、一定の税金を納めるだけでよしとした。けれども、国際資本は、その状態に満足せず、アメリカはメキシコ政府に強く抗議をし、軍事介入も辞さない構えを示した。この間、いや気がさした石油会社が撤退するなどの動きがあり、ついに昭和十二(一九三七)年に、石油産業の完全国有化が行われた。メキシコ革命による石油産業の国有化は、第二次世界大戦後の、中東諸国の油田国有化のモデル・ケースとなった。

つまり、山本が誌れた当時、メキシコの石油産業は、国際大資本から離脱しかかる、大混乱期にあったわけで、もしも、日本政府なり帝国海軍なりが、長期的な視野をもって取り組んでいれば、既存の油田を入手できる可能性がないとはいえない状態だったのである。

もちろん、アメリカがいつでも介入できる近隣の土地では、対米戦争時にはさほど意味を持たない。けれども、アメリカの対日石油禁輸に際しては、一定の補償どなりえたのではないだろうか。

山本が、そこまで読んでいたかどうかは分からない。メキシコ原油の獲得といっても、実際に行うならば、全国家的な取り組みと、後藤新平クラスの人材が必要であって、海軍の石油政策程度の提言が通らない状態では、到底国策化は難しかったろう。一留学生にすぎない、山本五十六には、どうにもできないことだったろう。山本が、兄季八に宛てた絵葉書には、新潟の石油業者がメキシコまで試掘に訪れていたことが記されている。

《 石油視察の為めタンピコ市に参り候。一日一井の産額五百余石と云ふ井戸あり、噴出十三年継続と云ふもあり一石の原油一円転出税一円と伝う相場なり。越後あたりでは本当とは受取れぬ話に候。日本石油、宝田石油技師の来ると云ふ太平洋沿岸の地は有望なるも未試掘の地。肝っ玉の太き人に来て貰はずば物.に相成まじく国家的見地から微力ながら推奨申し上候。 》

当時、日本国内の石油資源が、思いのほか少ないことが分かり、有力な石油会社は海外に油田を求めて、海外進出を試みていた。政府の燃料調査委員会の資料「本邦人海外油田利権獲得運動一覧表しによると、大正五年から十五年まで、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、フィリビン、ビルマ、インド、アメリカ、カナダ、メキシコ、ペルー、ポリビア、中国、ソビエト、トルコ、マダガスカルなどで四十五件が記録されているが、形になったものははとんどなかった。

翻って、やはり帝国海軍の「死にいたる病」は、石油戦略が決定的に欠けていたことに求めざるを得ないのではないか。

兵頭二十八氏は、『日本の海軍兵備再考』のなかで、海軍のエネルギー戦略を「陸軍を凌駕したノーテンキ」とし、蘭印の油田に.たいして官民あげて買収交渉をすべきだったのに、肝心要の海軍はまったく関心を示さなかった、と批判し、その後ずっとその課題を、陸軍とともに意識することなく(前述した北棒太は別として)、対米対決まで来てしまったことを跡付けている。昭和十四年二月、海軍陸戦隊は、海南島を占領した。この占領はアメリカにたいする重大な挑発行為だが、挑発するだけでそこから生じるリスクにたいする処置を何もしなかった。

《 もしも海軍が、占領した海南島に特別陸戦隊と根拠地を整備したならば、いつでもそこから、空母の支援を受けつつ、直接蘭印を衝くことができた。しかし海軍には、燃料地政学の見識を有するフィッシャーなく、また蘭印武力進駐が唯一の選択肢であることを確信し、その案行のための絵の描ける"石原莞爾。も欠いていた。 》

文中のフィッシャーは、海軍大臣チャーチルに、軍艦の全面的な石油燃料化をすすめた後に、政府の委員となり、イギリスの、独自の燃料確保のために辣腕をふるった提督のことである。さらに、兵頭氏は云う。

《 西太平洋地域で最大の油田がある蘭印(インドネシア)の宗主国がドイツに占領され、政府と元首が亡命したということは、日本にとって干載一遇の大チャンスだったはずである。この時いきなり蘭印に軍隊を送り込み、強行進駐してしまえば、海軍の問題はすべて解決されたであろう。しかし、海軍人にキンタマは無かった。 》

即時の進駐に踏み切れなかったばかりか、海軍は、蘭印植民地政府と日本政府の、石油供給に関する交渉に際してプレゼンスを示すために近衛首相が懇請した艦隊派遣も断っている、と兵頭氏は指摘している。

兵頭氏の想定は、事態を真剣に考えれば考えるほど、それしかなかったシナリオと思われてくるが、同時に日露戦争以降、艦船燃料が石油に変っていくなかで、ひとたびもその隘路を正面突破しようとしなかった帝国海軍の姿は異様であり、むしろ哀しく思われてくる。

こうした視点から見ると、山本五十六の石油に対する感覚は、多少意識的ではあったものの、海軍全体の趨勢と大差はないのではないか、と思われてくる。ダニエル.ヤーギンは石油争奪を軸とした二十世紀史『石油の世紀』のなかで、真珠湾攻撃について、このように書いている。

《 真珠湾攻撃を発案した山本が、日露戦争での一九〇四年の旅順港奇襲の失敗点として指摘していたのは、攻撃の徹底を欠いたことだった。失敗は真珠湾で再び繰り返された。日本が開戦を決意した最大の動機は石油だった。にもかかわらずハワイ作戦の計画の中で、石油は忘れられていた。山本と彼の参謀たちは、石油に関してアメリカが圧倒的な擾位に立っていることを充分に承知していながら、オアフ島にある石油貯蔵基地の重要性を把握していなかった。・石油基地への攻撃は作戦計画になかった。

戦略的失敗だった。ハワイの石油はすべてアメリカ本土から運ばれていた。日本軍がアメリカ艦隊の石油備蓄基地と貯蔵タンクを破壌しておけば、アメリカ太平洋艦隊のすべての艦船は行動不可能に陥っていたはずである。被害は真珠湾で撃沈された軍艦にとどまらなかった。石油は数千マイル離れたカリフォルニアにしかなかった。真珠湾攻撃の後、アメリカ太平洋艦隊司令長官となったチェスター・ニミッツ提督は、こう語っている。「日本軍の攻撃を受けた当時、艦隊の燃料はすぺて地上のタンクに貯蔵されていた。その量は四五〇万バレルに達していたが、タンクはどれも機銃掃射で燃え上がるような代物だった“もし日本軍が石油基地を破壊していたら、戦争はもう二年長く続いていたかもしれない」 》
(『石油の世紀上』日高義樹、持田直武共訳)

真珠湾攻撃については、日本のなかでも多様な議論のあるところで、その点からすれぱ、ヤーギンのきめつけにたいして異論はあるかもしれないけれど、石油を中心として現代世界の歴史を見ている著者の、「石油基地への攻撃は作戦計画になかった。/戦略的失敗だった」という一言葉は、かの奇怪な実験を想起すると、いや増して重い。(以下次号)


(私のコメント)
9月21日の株式日記で「太平洋に消えた勝機」という本を紹介しましたが、日本帝国海軍の間の抜けた戦いぶりは不思議というほかない。もっと真剣に作戦を立てて、徹底的に敵をたたくという行動が見られなかった。それは真珠湾攻撃から始まっており、一次攻撃で作戦を終えて帰ってきたしまったのは不可解であり、帝国海軍は本当にやる気があるのかと思うほどですが、たぶん臆病風に吹かれたのだろう。

二次攻撃ともなればアメリカ軍も待ち構えているから大損害を恐れたのでしょうが、燃料タンクなどは動くものではないから戦闘機の銃撃だけでも大爆発を起こして使用不能になっただろう。その反面、軍艦などは被害を受けてもすぐに引き上げられて修理して復帰したから、真珠湾を奇襲攻撃した戦果は大成功というほどでもない。

帝国海軍が備蓄していた燃料は、一年も動き回れば尽きてしまうことがわかっていながら、燃料の確保に死に物狂いになったという形跡が見られない。政府が決断しなければどうにもならないことでしょうが、燃料がなければ戦争も出来なくなり負けるとも言えなかったのは無責任だ。代替燃料の開発なども研究はしていたのでしょうが、泥縄式の研究だった。

巨大な戦艦や空母は燃料がなければ動かないのだから、いくら軍艦を建造しても燃料がなければ無意味なのだ。開戦当初から確保したインドネシアの石油は日本に運ぼうにもタンカーがアメリカの潜水艦にやられて来なくなり、護送船団を組んで物資を運ぶという発想も帝国海軍にはなかった。フリゲード艦という護送船すらなかったのだ。

日露戦争のときのような艦隊決戦を夢見ていたのでしょうが、それならどうしてガダルカナルまで進撃してしまったのか、自分で自分の首を絞めるような作戦ばかりしている。いずれにしても石油がなければ戦争も出来ないのだからルーズベルトから石油禁輸された時点で勝敗はついていた。ならば海軍首脳はなぜ戦争に最後まで反対しなかったのだろう。だから最初から負けるとわかっていたから真珠湾攻撃のときから一次攻撃で引き上げるやる気のなさだ。

考えてみると武蔵大和などの巨大戦艦は、現代に当てはめると公務員たちの公社公団のようなものであり、実際何の仕事をしているのかわからないが、国から予算をもらうために戦艦を作り自分たちの職場にしていた。しかし巨大戦艦は燃料がなく大東亜戦争でもたいした戦果を挙げることもなく、燃料がなければ存在そのものが無意味だったのだ。

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