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【関連:キリスト教における勧誘文句の例】「救われた」について【随想 吉祥寺の森から】
http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/810.html
投稿者 一市民 日時 2006 年 4 月 27 日 07:14:01: ya1mGpcrMdyAE
 

(回答先: 若者の生き血を吸うカルト教団のトンデモ勧誘手口 [ゲンダイ] 投稿者 white 日時 2006 年 4 月 25 日 10:47:08)

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50555939.html
「救われた」について

 新学期が始まって1ヶ月近くが経つ。新人の勧誘はそろそろ初期の攻防を終え、二段階目のケアで固める時期に入ってくる。この連休はいわゆる「新歓合宿」など、新人勧誘のイベントでいっぱいになっているはずである。五月病という言葉もあるが、この時期には新しい環境に適応しきれず人によっては精神的に弱ってくる時期でもあり、そういうところへ新興宗教やカルトの勧誘は積極的に滑り込んでいく。

 日本のおけるキリスト教ということを考えると、福音主義派やペンテコステ派は相対的に新しいものであり、歴史的にはまだ浅い。「新興宗教」ではないが、そのスタイルにおいて新興宗教的な面を色濃く持つ面も多く持つ。その多くが北米様式、つまり、煎じ詰めればアメリカ的なやり方(欧州のそれではない)を持ち込んだものが圧倒的である。

 それは言葉遣いにも非常によく現れる。こういうことを書くと一部の人たちには非常に嫌われるであろうが、しかし、あえて申し上げると、用語の言葉遣いには気をつけた方が良い。迂闊に使ってしまうことで思いもよらぬ事態を招くことや、予想もしない受け取られ方をすることがある。自分たちのイメージだけが普遍的なものであると思ってはいけない。

 例えば、私が強い違和感を感じる言葉の一つが、

 「救われた」

 という言葉について。

 「証し、お証し(あかし、おあかし)」という自分の宗教的、信仰的体験談を話したり書いたりすることがキリスト教教会ではしばしばある。この中で良く、
 
 「私が救われたのは・・・」

 「こうして僕は救われました。」

 という人たちがいる。率直に申し上げて、この様な言葉遣いそれ自体が非常に気持ち悪いだけでなく、キリスト教的に見てもあまり客観性があるとも思われない。

 自分が「救われた」かどうかということは、「最後の審判」を神が為される時に決まることであり、今、生きている自分自身がそれを勝手に判断することはできない。例えば、ブッシュJr.やコンドリーザ・ライスも「信仰心の厚い人」と言われているし、厚かましくそう自称してもいるが、彼らがさて、キリスト教的に見て「救われた」のであろうか。
 
 心に安心感が広がり、喜びながら人生を楽しむことができるようになったという意味で「救われた」と言っているのであればまだそれは間違ってはいないのであるが、どうも私が聞いているとそういう意味で使っていない人が多いように思われる。

 私は19歳の時にシアトルのノースウェストカレッジに行ってキリスト教の海外のユースキャンプに参加したことがあるが、これが私の人生でももっとも惨めな経験となった。あれ以来、福音主義派、ペンテコステ派の悪夢は私にとって耐え難いものとなった。あまりにそういう雰囲気に慣れていなかったので、そういう私を見ていた20数人の同行者と馴染めず、あまつさえその中の一人に、

 「あなた、自分が救われたっていうそういう実感がある?」

 と私の目の前で私を気色ばんでなじった女の人がいた。そのようなことをいちいち他人にとやかく言われる筋合いはないのであって、彼女こそいったい自分が何様だと思っていらっしゃったのであろうか。
 
 こういう手合いが少なからずいるので気をつけたほうがいい。いずれの宗教であってもそうだと思うのだが、このように他人の信仰心の領域にずかずかと土足で、礼儀を知らぬまま入り込んでくる人は普通、強く嫌われて浮いてしまうことが多い。
 
 ちなみに、キリスト教徒にならなければ救われない、などと言っている人が非常に多いのであるが、それは完全な間違いである。キリスト教徒になってもまるで「救われて」いない連中は多くいる。逆にとても立派な仏教徒やイスラム教徒、宗教を持たない人も多くいる。

 キリスト教においては、キリスト教徒になること(洗礼を受けること、堅信をすること)はたいへん喜ばしいことであり、恵まれた幸運だと考えることはその通りであるが、それ以外の全てを退けてしまうことはない。また、ただそれだけによって他の全てが伏せられたまま「救われる」わけでもない。有史以来、キリスト教のことをまったく知らずして人生を終えた人類は何億人にもなるのである。その人がただ、慈愛に満ちた人であったか、善をなして生きた人であったか、謙虚な反省の心を持った人であったかということが、重要な点である。

 ある30歳代の男性が、

 真剣なクリスチャンほど人格がおかしい

 と書かれていたが、そのことは私もよくわかるし、また、こういうことは決して極端に珍しいことでもない、と思う。

mediaterrace at 05:07 │Comments(0) │TrackBack(0) │キリスト教について

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