投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 10 日 23:22:28: tV9DFzLB7Zpg6
(回答先: ジャンさん、ワヤクチャさん返事が送れて申し訳ありません 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 5 月 10 日 14:15:49)
縄文ビトさん お身体を大切になさってください。
私も、高脂血症、脂肪肝、肥満、血圧の下のほうも先週測ったときは108もあって、
頭痛がしてました。
病院にいくのが億劫で、酢をのんで塩分を中和したり、納豆をたくさんたべて血をさらさらにしたりとがんばってきましたが、最近は、メザシを買ってきて1日2匹ずつ食べています。
「イワシの頭も信心から」で、健康食品オタクも宗教のようなものかもしれませんが、イワシのカルシウムがいいのか、最近は調子がいいです。
さて、ご指摘の「脱労働社会主義」は、ソ連崩壊後の社会主義学者の動揺の現れで、結局、市民主義へ向かうという感じで、見ましたが、ソ連崩壊は、それまでスターリン批判をしていた新左翼をもゆすぶったのだなという気がしました。もちろん、その一方で、以前からソ連を国家資本主義や遅れた商品生産社会とみなしていた党派は、そのことで何の影響もうけなかったのですが、ソ連崩壊の2次的影響として多数の文献が明らかになり、エンゲルスの修正や訳語問題など、またレーニン主義の評価など、さまざまな問題があったのだと思います。
商品生産社会の矛盾を止揚した社会として社会主義社会を考えるのか、商品生産社会を前提とした社会のままで社会主義社会を考えるのか 資本論などから考えると原則は、おそらく前者であって、後者は改良主義とか市民主義とかいうことになるように思います。
そして、その二つの考え方は、革命を目前に控えたような社会情勢下では、革命に向かって進むか、革命から遠ざかる方向に進むかぐらいの開きがあり、お国柄によっては暴力や粛清で決着しようとすることすらありうるでしょう。でも、そのような政治情勢にならないうちは、呉越同舟といわれようが、統一戦線の野合といわれようが、個々の事象に対する意見の違いは相対的に小さいものとなるでしょう。だから、通常の場面では、モデルの違いという議論はたいした問題ではないともいえます。
しかし、ファシズムや戦争の勃発が近いような危険な状況の中においては、そうした野合や統一戦線はことごとく失敗してきたのであり、真剣に革命を考えるならそういう妥協は排除せねばならないでしょう。
ここ数年は、ヘブライの館などの陰謀論サイトや帝國電網省などの国家主義的サイトをみてまわっていたくらいの私にとって、こういう議論は、これ以上は、あまり意味があるように思えません。縄文ビトさんとワヤクチャさんとの議論に、特段の決着が必要だとは思えないのです。
ただ、社会主義というものは、古典的には、こういうモデルが本当なのだけど、今は、違ったモデルをもってきて社会主義だといったとしても、それはそれで自由かなと思います。ただ、古典的意味では違うのだということさえおさえていればですけど。
そういう違いをおさえたうえで、それぞれいろんな事象に対して、いろんな見方をしていけばいいと、そういうふうに思います。
阿修羅を利用して、何かをしようなどという考えもありません。
時がたてば、矛盾したことをいっているかもしれませんが、思ったことを思ったままに投稿するのみです。
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