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市場・貨幣そして貨幣の「他者支配力」
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投稿者 あっしら 日時 2005 年 8 月 04 日 03:40:48: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 利潤、交易、一般貨幣、市場の外部性 投稿者 すみちゃん 日時 2005 年 8 月 03 日 22:37:09)


すみちゃん、どうもです。

[すみちゃん]
「しかし、市場は、それほど表層的なものでしょうか?
市場は共同体に対して外から到来してきたものであり、商人に利潤の機会を与えることによって、利潤と同様に共同体に対して破壊的な作用をもたらすものではないかと思うわけです。」


(あっしら)
「市場は共同体に対して外から到来してきた」という説明を読んで、“市場”とは何かという定義が必要なのかもしれないと思っています。

市場は、(不特定)多数者が貨幣を含むあらゆる財と貨幣を交換する場で、個々の取引で実名を問われることなく交換取引(売買)に参加できるところだと考えています。

市場参加者は“誰”であるかは問題ではなく、非人格的存在である貨幣と財(ある貨幣に換えうるあらゆるモノ)が行き交うことで成立します。
貨幣もしくは財(使用価値)を市場に投じるという行為が人格(思惑)に支えられているとしても、市場において人格は意味を持ちません(捨象できます)。市場参加者の人格は“市場の外”でのみ意味を持ちます。

このレベルで定義した市場であれば、共同体外部に由来するという必要はないし、利潤の発生も予定されているわけではありません。(共同体内の市場であれば、ある特定の市場参加者が利潤を得るとしても長期的にはそれは誰かの損失に負っていると言えます)


[すみちゃん]
「ここで、私は、市場は表層的なものではなく、一般貨幣、利潤、そして共同体間(通貨圏間)交易と深い関係のあるものではないかと考えます。
原初的には、商人が共同体間交易によって利潤を得、その利潤を定着する媒体が一般貨幣であり、そのような交易の場を市場と呼ぶべきではないか?」


(あっしら)
以前にも書きましたが、貨幣を媒介とした交換(売買)の歴史的発生は、共同体内の自然発生ではなく、共同体間交易に起源があると考えています。
そして、遊牧民を代表とする移動生活民が商人の“元祖”であり、貨幣の“祖先”は遊牧民の家畜だろうと思っています。

原初的には、商人(遊牧民)の目的は利潤を得るというより豊かな生活を得るというものだっただろうと推定しています。家畜及び毛皮加工品で穀物・野菜・金属器などを手に入れるために商業活動が行われたと思っています。
その過程で、ある共同体はある財の余剰があり、別の共同体はある財の不足があるという事実を知り、自己のためではなく他者のために商業活動を行うようになったはずです。


商業活動がなくても人々は様々な方法で生存を維持していたわけですから、商人の主要な相手は政治的支配層であったはずです。
ある共同体で余剰物資の処分権を握る支配層が商人の所有する財と交換し、商人はそれで手に入れた財を他の共同体の支配層のところに持っていき・・・という流れです。

商人が相手にする共同体のなかには余剰の金属を持つところもあったでしょう。金属を手に入れても、当初は、金属を欲する共同体のところに持っていくだけ(普通の財)だったはずです。

このような条件であれば、商業活動を幅広く行い才覚もある商人は大量の余剰物資を所有することになります。
野菜・魚・果物といった生鮮品はすぐにダメになります。道具や馬具といった工業製品はかさばりおのおのの財を必要とする相手を見つけなければなりません。
そのようななかで素材のままの金属は、需要者も多く、陳腐化もしにくいという特性があることを発見します。

ここでポイントは、商人が交換の仲立ち者であり財の消費を目的としていない存在だということにあります。
(支配層など商人と取り引きする相手の目的は財の交換であり、手に入れた財を消費します)

このことは、ある財を交換の“媒介物”にすれば、商人が稼いだ利益はその“媒介物”の集積になることを意味します。

商人と取り引きする相手も、その“媒介物”であれば、商人がそのとき持っている財に欲しいものがなくても余剰物資を手離し、その代わりに“媒介物”を受け取り次の機会を待つことができる便宜性を手に入れます。

当初は疑心暗鬼であっても、受け取った“媒介物”が別の機会に使えて欲しい財が手に入るという経験を積めば信頼するようになります。(それを加工して欲しい物をつくれる金属であればムダになることはありません)

商人も、“媒介物”は仕入れ原資(商人にとっても何でも手に入れることができるものという意味を持つ)ですから、それを回収するために支払い先に欲しい財を届けようとします。

“媒介物”が貨幣になるためには、政治権力の介在が必要だっただろうと考えています。
鉱山を支配する政治権力が欲しい財を手に入れるために、“媒介物”として通用している金属の単位重量に名称を付け刻印を押して商人に支払う(受け取りの強制があったかもしれません)ということを契機に貨幣が誕生したと思っています。

これにより、いちいち品質を確認し目方を量る必要もなく、貨幣量で取り引きができるようになります。
貨幣を発行する政治権力が広域で力を認められていれば(そうでなくても品質と重量が維持されていれば)、その貨幣は広域で流通するようになります。

ここでのポイントは、政治権力(支配層)が徴税権を有していることです。
納税を自らが発行した貨幣で行うことを義務付ければ、貨幣の流通拡大に拍車がかかります。
そうなれば、長年の使用で磨耗した貨幣も新品と同じ価値を持つようにもなります。
(強力な政治権力が支配しその領域内で商取引が完結するのであれば、紙切れ(紙幣)でも同じという状況を意味します。商人が他の国家領域でも商売しているのならば、商人は紙幣を受け容れません)

非生産者である政治権力者は、商人と似ていますし、商人を超越した経済的権能を持っています。
それは、自分が発行した貨幣を使って財を手に入れるだけではなく、徴税権を行使して支払った貨幣を回収することができることを指します。(穀物などで徴税した分は余剰を商人に売りますが、効率性を考えて貨幣納税を押し付けるようになっていきます)
徴税権は、反対給付がないまま貨幣を手に入れることを意味します。(公共事業をやるといったことは絶対的義務ではないからです)

このような商人と政治権力者の在り様は、密接な関係を持つとともに競合関係にも立つことを意味します。
商人にしてみれば、政治権力者が所有している貨幣をいかにして自分のものにするかが大きなテーマになります。
贅沢でそそることもあれば、戦争に駆り立てることもあります。

商人は輸送業務や営業を行っている分、政治権力者よりも有利な立場にあります。
政治権力者は欲しい財を商人に依存するしかないからです。

戦争に打って出れば、手持ちの貨幣が底をつき、商人(その変型としての金融家)から貨幣を借り入れなければならなくなることもあります。
ここでの商人の強みは、政治権力者に貸した貨幣は財を売ることですぐに回収できるということです。(現在の日本と米国の関係にも似ています)
元々自分の貨幣ですから、その回収で利益を手にするわけではありませんが、貸し付け元本を失うという最悪の事態は避け、次なる商業活動に使うことができます。
政治権力者は、財の入手から金融までを商人に依存していますから、いかに政治権力があろうとも借金を踏み倒すという暴挙はできません。そんなことをすれば、商人と手を組んだ他の政治権力者に攻め滅ぼされることになります。

商人と政治権力者のこのような関係は、商人と金融家の分化を促すことになったはずです。
面倒な商業活動を媒介とせず「貨幣で貨幣を稼ぐ」金融家が跋扈する時代の始まりです。


ここの終りのほうで書いたことは、すぐにわかるように現在進行形の話でもあります。


すみちゃん:「このような見方をすれば、近代経済社会を、経済生活の広い側面を市場取引が包括するようになった社会であると見ることは可能であると考えます。
ただし、このような見方の「有用性」は別です。 これは別に検討する必要があります。」


近代経済社会が市場取り引きの総和的連関として動いていることは確かですから、「経済生活の広い側面を市場取引が包括するようになった社会」と言うことはできます。

それ故に、経済学ないし経済論理の体系的説明が成立します。

しかし、それでもやはり表層的な見方であることは変わりません。

全面的市場経済の成立には、活動力(労働力)を販売して生活する“人種”が多数を占めているという条件が不可欠であり、そのような“人種”を買い入れて供給活動をすると判断させる経済条件(そうすれば儲け=利潤を得られる)が不可欠であり、それで行われる供給活動の成果がほぼ全量売りに出される必要があります。

余剰物資の交換では全面的な貨幣経済に至ることはありません。
全面的貨幣経済に至るためには、貨幣を使うことなしでは生存を維持することすらできない層が社会を広く厚く覆っており、生産活動の目的が自家消費ではなく市場への供給でなくてはなりません。
そのような経済社会においてのみ「労働価値」説が成立します。

余剰物資の交換があるという程度の経済社会では「労働価値」説は成立しません。
余剰物資を支配している人と余剰貨幣を支配している人の思惑が財の価格を決定するウエイトが高いからです。(腐敗しやすい財は腐らすよりもましということで安くても売られます。贅沢品はお金をたっぷり持っている人なら高くても買われます)

活動力を貨幣で買って行われる供給活動が広く厚く存在し、供給成果が市場で売買されるという現実が「労働価値」説が有効性を持つ基盤です。

[すみちゃん]
「「他者支配」といったあたりは、飛躍があるようで理解が難しいので、更なる説明か、あるいは関連投稿の指示をお願いします。」


どんな財でも手に入れることができる手段である貨幣は、より豊かにより楽しく生きていきたいと思っていなくともただ生き続けたいと思っている人が多数であるならば、貨幣を“余剰”に所有している人に他者を支配する力を与えます。

「貨幣史」は、余剰貨幣所有者が持つ“他者支配力”を増大させていった歴史でもあります。

近代のように、自己(家族)がただ生きていくためだけの“自然”さえ占有していない人が圧倒的に多い経済社会は、貨幣を手に入れるために命以外の犠牲を捧げて生きる人を数多く輩出します。

このような現実を余剰貨幣所有者(金持ち)のほうから見れば、自分の欲求(金儲けでも豊かな生活でも..)を実現するために他者を支配できる条件があるということになります。


貨幣が交換の媒介物であるということは、強弱は経済社会の歴史性によって異なりますが、他者の活動を多少でも支配するということです。

交換の本源的意味は、財の交換ではなく、活動力の交換です。

生産活動の主体の座を失った人が多数で自分の活動力を他者に売るしかない人で満ちている経済社会は、活動力の交換さえできずに他者の支配に甘んじるしかない人で溢れかえっていることを意味します。

他者の支配に置かれている人は、それで得た貨幣で束の間の“娯楽”を買ったときにようやく主体性を手に入れるとも言えます。


近代貨幣経済社会は、継続的な貨幣媒介取引であるがゆえに、実質である“奴隷制”が見えにくくなっているだけです。

豊かな生活だと思うことと生きる(活動する)主体性を失った“奴隷”であることとは両立するのです。


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