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Re: 小泉構造改革の失政が明らかになるにつれて、最近はふたたびケインズ主義への転向者が続出している。
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投稿者 NOVO 日時 2005 年 5 月 20 日 02:29:23: HZxSGQbJJGXxg
 

(回答先: 小泉構造改革の失政が明らかになるにつれて、最近はふたたびケインズ主義への転向者が続出している。 投稿者 TORA 日時 2005 年 5 月 17 日 14:31:40)

何故「経済学」は無力なのか?

経済学者の予測は片端から外れ、提言に従うとひどいことになる。これは今に始まった訳ではありません。だから一時は経済学を学ぶ学生のなかにも、「そもそも経済学は実用の学ではない」などとイジケル人が居ました。今はそう言う声も聞こえないから、問題意識自体がなくなったのかも知れません。

今の経済学は「近代科学」としての体裁を整えるために、幾つかの基本的な仮定(数学で言えば公理)を置いた上で論理的な矛盾無く(出来れば数学的な数式表現を使って)組み立てられて居ます。

現代の主流派である広義の新古典派経済学では、次の基本的な仮定を置きます。
A.生産と消費は(個別財の数量で見ても、グロスの金額で見ても)等しい。
B.経済成長は常に望ましいことである。

C.人は、自分の経済的な利益を最大にするように合理的に行動する。
  (homo economicus の仮定)
D.作ったモノは、市場を通じて需要を見つけることが出来る。
  (セーの法則)
E.市場を通じた均衡は、即時に達成される。
F.価格と需要量の関係は(特殊な例外を除き)右下がりである。

以上の仮定を受け入れれば、近代経済学の壮大な理論には矛盾がありません。

Aは熱力学の第一法則(物質とエネルギーの保存則)と同じで、Bとともに前提として受け入れて良いと思います。

新古典派経済学が「新古典派」である特徴はC、DとEです。AとDは一見同
じに見えますがそうではない。この差は非常に重要です。

Dを明示的に経済学の基礎に据えたのはリーカードです。この立場に立つと、一国の経済規模は、「生産力だけ」で決まります。ここから出発すると、経済を成長させるためには、「(何を犠牲にしても)生産力を高めることが重要である」とする、サプライサイド重視の基本姿勢が出てきます。

他方で、これを明示的に否定したのがマルクスとケインズです。ケインズ理論の核心は評判が悪い「裁量的財政政策」ではなくて、この「セーの法則の明示的な否定」からくる「需要サイド重視」だとする考え方に、私も賛成です。

この立場にたつと、実際に生産される量は(生産力を超えない範囲で)有効需要があった分だけだから、経済規模を維持し大きくするには、先ず有効需要を維持し、大きくする必要があるとします。

これが言える前提は、「もし生産力が有効需要より小さければ、生産力は速やかに追加可能で、それに必要な資本や技術はすでに蓄積されて居る」と言う条件が満たされて居ることです。私見によれば、日本を初めとする先進諸国は、この条件を十分に満たして居ます。

Cの「homo economicus 経済人」の仮定は、明快な理論を構築する基礎としては有用な仮定ですが、生身の人間は決して「経済人」ではない。経済における理論と現実の乖離の大きな源泉です。しかしこの種の原因にによる「理論と現実の乖離」は、数学以外の全ての科学に存在します。

最大の問題は、この「homo economicus 経済人」の前提が、理論構築のための公理的仮定に止まらず、現実に経済の中で行動し生活する人間に100%「経済人」として行動することを要請する「規範」にすり替えられることです。
ことある毎に持ち出される、(スタート時点での不平等や、情報の非対称性を無視した)「自己責任」の強調もその一部です。

E.の仮定で、理論は静学的に扱うことが可能となり、非常に単純化されますが、現実の経済現象はこの意味で静学的ではありません。ある政策の効果が現れるには有限な時間が必要で、その時定数は現象毎に大きくことなる。概して金融政策では時定数が非常に小さく日単位で影響が出るが、財政政策の効果は少し時間(月単位)を要する。とくに投資の効果は年単位で、制度や構造を変えるには通常もっと時間がかかり、社会的規範の大きな変化に及ぶのは少なくとも数十年が必要です。

ところが新古典派経済学は、この「時定数の違い」を明示的に扱う枠組みを持たないので、ここでもまた大きな「理論を現実の乖離」が生じます。

以上は理論経済学レベルの問題点ですが、いま跋扈している「新自由主義」「市場原理主義」「サプライサイド理論」には明確な価値的な主張が含まれて居て、これを正当化するには、更に次の仮定が不可欠です。

G.(金融資産を含め)資本は常に希少財である。
E.貨幣一単位で得られる「厚生」は、全ての人にとって等しい。

Gを最もストレートに主張して居るのはハイエクで、ここから彼の「企業の自由な活動を制約してはならない」と言う「新自由主義」が出てきます。逆に彼の最大の論敵であったケインズの「需要サイド決定論」は、暗黙に「成熟した産業国家では、資本蓄積はむしろ過剰である」ことを前提にしないと成立しません。

E、ピグー以前の経済学では、暗黙に「同じ一万円でも、大金持ちと貧乏人では有り難み(効用)が違う」と言う、我々の素朴な感覚にも合う常識的な仮定を受け入れて居ました。不勉強でピグーの大著「厚生の経済学」は読んで居ませんが、上記の常識的前提をベースにして居るようです。

この常識的前提に立つと、簡単な算術計算でも判る話ですが、「累進的所得税と福祉的支出の組み合わせ」を通じた所得の再配分の結果として、国全体の「厚生」は増すことになります。

しかし此の結論は税金を沢山とられる高額所得者にとっては面白くない。

此処で登場したのがLSEではハイエクの同僚で、共に反ケインズ・反ケンブリッジの闘士だったロビンズです。「1万円の効用や、リンゴ10個の効用を、どうやって科学的・客観的に測定するのか?」と言う、尤も至極な疑問をぶつけて、世に出て間もないピグーの大著を粉砕してしまいました。

この結果、それまでのミクロ経済学が前提として居た「限界効用低減則」が使えなくなり、代わって登場したのが「リンゴ5個とミカン10個のどちらを採るか」は、「少なくともある個人に関しては客観的に測定可能な筈だ」と言う前提にたった「序数的効用」をベースにした、回りくどいミクロ経済理論です。
しかし実際のミクロ経済学の教科書では、例えば「生産者余剰と消費者余剰の合計を社会的経済厚生(Social Economic Welfare)と言う」と書いている。つまり「所得と厚生は単純に比例する」のを当然のように前提としている。

言い換えると、ロビンズが粉砕した筈の「基数的(加減乗除が可能な)厚生」を、裏門から「所得に比例する値」の形で持ち込んだとしか言えません。

そしてトドメは「パレート的最適」の要請です。「現状の変更を求める或る政策が『良い』と言えるには、その結果として損する人が居ない時だけである」と言う話になる。そんな都合の良い政策なぞ在るわけ無いのは、アローの「不可能定理」を待つまでもなく、当たり前の話です。

以上の事は政策的含意からすると大変なことであるのはお分かりだとだと思います。つまり社会的厚生の増大は所得の極大化と同義になり、本来の「厚生経済学」の居場所は無くなったと言えます。

以上が「構造改革論」のベースにある新新古典派経済学の理論的根拠ですが、こんな手前勝手で浅薄な根拠で現実にリストラされた人々は救われませんね。

NOVO

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