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小泉政治の曖昧さと乱暴さについて指摘する。
http://www.asyura2.com/0505/hasan40/msg/650.html
投稿者 hou 日時 2005 年 6 月 10 日 21:40:01: HWYlsG4gs5FRk
 

(回答先: 1987年に制定された総合保養地域整備法(リゾート法)は、17年を経過した今、誰の目にも破綻が明らかとなっている。 投稿者 hou 日時 2005 年 6 月 10 日 21:11:32)

●せめてこれぐらいの、反論がほしいよ。
独り相撲もつかれます。
もう少し、考えて投稿してほしいものです。
http://www.geocities.jp/toto2000bbc/sub11.htm

9月3日 書評『成長経済の終焉』(佐伯啓思)
 われわれ日本人は、物質的には満たされているけど精神的には満たされていない。著者の佐伯はこの感覚を次のように表現する。
 
 われわれはまったく満たされ、もはやあらゆる局面で快適に生活しているかというとまったく違っている。われわれは私的な領域ではモノをありあまるほど手にしているが、それを有効に使うシステムは持っていないし、さらに健康の維持、他人との交わり、ゆったりとした時間、歴史的なものとの出会い、介護や医療のケア、こうしたことを可能とするシステムを持っていない。そして、そうしたものに、われわれは飢えている。
 
日本の失敗ーー三つの要因

 こういった状態から抜け出すためにわれわれはどういう政策を支持するべきなのか? 小泉首相の進める構造改革路線、あるいは抵抗勢力が掲げる反構造改革路線なのか?
 その前に現状の社会分析に耳を傾けてみよう。まずは世界的なデフレについてである。
 
 今日の先進国全体の状況は、むしろ生産能力の過剰に、市場がすなわち消費者の欲望がついていかない点にあるといったほうがよいだろう。これが、市場を求めて、世界的に過剰な競争状態を生み、世界的なデフレ傾向となっている基本的な理由だ。
 
 次に日本の不況についてである。現在日本が直面している不況は、一)バブル崩壊以降に起きた不況に対して有効な政策をとれなかったこと、二)アメリカ主導のグローバル化や情報化への対応を誤まったこと、三)日本社会が大きな転換を図らねばならなかったのに、それが出来なかったことーーの三つの要因が相互に絡み合ったものである。
 そして、われわれが直面している不況を「従来の循環的不況とは様相を異にしている」と捉え、「循環的な問題」ではなくて「構造的な問題」として理解するべきだと考える。ただし、「構造的な問題」だからといって、小泉政権の進める「構造改革」を支持しているわけではない。
 佐伯は小泉政治の曖昧さと乱暴さについて指摘する。曖昧さとは、将来の社会の方向が示されていないまま、「構造改革」という言葉が時と場合によって異なったニュアンスを帯びることに起因する。将来の国の方向がはっきりしない以上、何が「構造改革」で何が「構造改革」でないのか、「構造改革」が進んでいるのか「構造改革」が進んでいないのかーーというようなことが国民には分からない。
 
今日の「構造改革」は、先が見えないゆえに可能性を与え、それが人々に期待を与えているが、まさに同じ理由で将来に対する不安を掻き立てているのである。

 乱暴さについて、たとえば、従来型の公共事業を見直すことは確かに必要である。中央から地方へお金をばらまく建設、土木型の開発主義が時代にそぐわないのは明らかだ。しかし、重要なのは公共事業を削減することではなくて、見直すことであるはずだ。「官」から「民」へ資金を流せば経済が再生するというものではない。「今日ほど、公共資金(パブリック・ファンド)の、適切で有意義な利用が求められている時代はない」。こう佐伯は言う。
 
成長信仰を捨てろ

 前述したように、佐伯は現在の不況を「循環的な問題」ではなく、「構造的な問題」として理解するべきだと考える。同様に、この不況から一刻も早く脱出し、再び成長経済に向かわなければならないとするのは時代にそぐわないと考える。経済成長率というのは経済の一つのファクターに過ぎず、問題は経済活動の「中身」だという。
 
 こうした成長信仰こそ、いま、捨てなければならない。実際、日本経済は、今後、長期的に低成長経済に移行せざるをえないし、それでよいのである。少々極端にいえば、ゼロ成長経済をもはや「異常事態」ではなく、当然の前提と見なさざるをえない時代に入りつつある。「長期停滞」を異常事態と見なすか、あるいは、「定常経済」への移行過程として、それなりに正常なものと見るかはまさしく見方の違いだ。見方の違いを生みだすものは、思考様式の違いだ。その意味で、今日、われわれは思考様式を大きく変革しなければならない。そして、この変革は日本社会の直面している状況の変化を見れば、ほとんど必然的なもののように思われる。
 
 自民党内の「構造改革派」にせよ、抵抗勢力と呼ばれる「景気対策派」にせよ、あるいは民主党や自由党にせよ、経済成長をもう一度という点において、従来の思考の延長線上にあるのだ。佐伯が言うように、「問題は成長率ではなく、いかなる社会を作り、生活の内実をいかに豊かで充実したものとしてゆくかにある」のである。この事実をはっきりと認め、次なる社会の方向性を示せている政党は残念ながらないと私は思う。
 
市場には任せられない

「豊かな社会」が実現すると、そこで暮らす人々は経済的価値よりも非経済的価値を求め始める。経済的価値とは言うまでもない。ごくごく単純に言ってしまえば、モノとお金である。一方、「非経済的価値とは何か」という問いは簡単ではない。それは「新たな豊かさ」を定義し直すことであり、新たな価値を創出することである。
 問題は、そういった新たな価値を創出できるのは何かということである。佐伯は次のように言う。
 
 この新たな価値の創出は、市場競争によって自動的に出てくるものではない。「グローバル・スタンダード」を導入すれば実現するものでもない。・・・市場は自由な選択を実現するというが、われわれは決して、われわれの住みたいような社会を、市場によって自由に選択できるわけではない。
 
 結局のところ、いかなる社会空間をつくるかということは、いたずらに市場に委ねるのではなく、われわれの手でによってなさねばならないということになる。そういうなか、公共投資が中心的な役割を果たさざるを得ない。念のために申し添えておくが、著者のいう公共投資とは、従来型の公共投資ではない。それは、国民が求めている「非経済的な価値」を明確にした上で、それを実現するための公共投資である。
 
日本人にそれが出来るのか?

 本書の前半部分に日本人とアメリカ人の国家に対する考え方の違いが述べてある。結論だけ言うと、アメリカ人は自分たちが国に対してしっかりと責任を果たそうと考えている一方で、国にはそれほど多くのことを期待していない。日本人は逆で、進んで国のことを考え、国民としての責任を果たそうとはしないくせに、国家が国民にサービスを提供し、生活の安定をはかることを要求している。国に対する責任は回避しながら、国家には依存するという精神構造が強いのである。
 さて、そういう国民に果たして「新たな豊かさ」を定義し直し、新たな価値を創出することできるのかという問題が浮上してくる。
 
 グローバル経済の時代には、国家や国民の観念が無意味になるのではない。むしろその逆に、その国民の持っている「国民的特性」がかつてなく試されるのである。守りまた作り出すべき文化、育てるべき風景、都市と田園への想像力、豊かな人間関係や日常生活、こうした広い意味での「国民の文化」への愛着と責任感だけが結局、このグローバルな時代の耐久力ある豊かな社かを作り上げることを可能にするだろう。つまり、国家やコミュニティへの責任の意識、言い換えれば「公」の意識こそが、グローバルの時代に強く求められているということである

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