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中国の政治リーダーたちは手強く、中国は日本よりも建設的な役割を果たしている(ロバート・ルービン元米国財務長官)
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投稿者 TORA 日時 2005 年 9 月 19 日 15:54:30: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu103.htm
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中国の政治リーダーたちは手強く、独立心が強く、圧力に
屈しない。良し悪しは別として、中国は日本よりも建設的な
役割を果たしている(ロバート・ルービン元米国財務長官)

2005年9月19日 月曜日

◆ルービン回顧録 ロバート・ルービン著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532165156/asyuracom-22/ref=nosim/249-2853865-4829165

一九九七年七月、ドルに連動していたタイ・バーツが管理変動相場制に移行すると、経済危機はアジア全域に広がった。その後、経済危機は、数日、数週間きざみで、経済基盤が安定していると見なされていた国々へも広がっていった。数週間後には、投資家が先を争って通貨の叩き売りを始め、マレーシア、シンガポール、フィリピン、香港で通貨危機が起こった。そしてついに経済危機は、南アジアの親西側国家の砦である人口二億二五〇〇万の大国、インドネシアにまで及び、懸念は深刻化した。

一〇月上旬までは、市場は比較的落ち着きを取り戻していたが、再び大混乱が起こった。香港で最も信頼のおける株価指数であるハンセン指数が、一〇月二〇日から四日間で二三パーセントも下落した。これは投資家の警戒感の表れだった。また日本、中国についでアジア第三位の経済大国である韓国にも、危機が押し寄せた。アジア全土が深刻な経済危機に陥ったのは明らかであり、それはさらに広範囲に広がるおそれがあった。

一〇月二三日にはアジア諸国と連動して、ブラジル、アルゼンチン、メキシコの株式市場が下落した。そして、ついに、アメリカ国内でも無視できない現象が起きた。一〇月二七日、ダウエ業平均が五五四ドル下落して七一六一ドルとなり、ニューヨーク証券取引所は業務終了のベルを待たずに取引を停止した。インドネシアの経済問題を討議するために招集されたミーティングは、アメリカ株式市場に対する公式発表の草稿を練る場に変わり、私がその原稿をもとに財務省前で発表を行った。

個人的には、市場の水準そのものよりも、市場の暴落と、金融市場への波及や輸出へのダメージという点でアジア経済危機がわれわれにどのような影響をもたらすかを懸念していた。アジア諸国はアメリカにとって最大の輸出先で、、時わが国の輸出の三○パーセントがアジア地域に対するものだった。カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に限って言えば、五〇パーセント以上を占めていた。アジアの経済が深刻な打撃を受ければ、アジアの輸出先が貧困に陥り購買力が低下して、わが国の経済の主要部門も苦境を強いられることとなるのだった。

数日後の一〇月三一日、アメリカはIMFのインドネシア支援プログラムに加えて、諸外国とともに、国家間で直接融資できる二国間供与を約束した。今回は、外交チームとの論争は少なかった。ダマト法は失効していたので、G7や主要各国と協調し、IMFから資金提供を受け、それが成果を上げた経済計画にのみ使われる「第二防衛線」として、二国問の資金供与を約束される枠組みを設立しようとしたのだ。このふたつの条件によって、議会が為替安定基金の適用に反対する可能性は低くなった。そして、議会は経済危機の広がりを考慮し、為替安定基金を使って信用を高め、アメリカの重要な同盟国であるインドネシアヘの支援を実施する方向に傾いた。

こうした支援にもかかわらず、インドネシアの経済は低迷し続け、より広い地域での経済危機の猛威は弱まる兆しがなかった。この頃までに、金融市場の動向と対応策をめぐる激論に世界中の耳目が集まっていた。アジア地域でさらに危機が飛び火するにつれ、アジアの二大経済大国である日本と中国の対応にもいっそう注目が集まった。

日本はアメリカの五〇年来の主要同盟国であり、世界有数の富裕国になっていた。一方、中国は共産勢力に属し、わが国の戦略に反対することもままあった。しかし皮肉なことに、日本は、みずからが不況から脱却することができなかったこともあり、その政策や慣行が危機をいっそう悪化させていたが、中国の政策は肝心な場面で安定化を促進した。

アジア経済危機のはるか以前から、アメリカは日本経済の弱さに注目していた。しかし一九九七年の秋、アジア地域での経済危機波及への懸念が増大するにつれ、日本の景気対策の失敗がアジア地域に与える悪影響が悩みの種となった。日本は明らかに、周期的な景気下降局面にあるのではなく、深刻な長期不況に陥っていた。にもかかわらず、それに対処しようという政治的意思に欠けていた。

日本の通貨政策と財政政策は厳しすぎ、そもそも経済成長の大きな妨げになる厳格な規制が官民を問わず存在していた。深刻な課題のひとつが問題山積みの銀行に対する措置だった。日本政府は債務超過の銀行を閉鎖しようとせず、帳簿上の不良債権を処分するよう指示も出さなかった。同族企業や関連銀行からなるいわゆる「系列」システムによって、債務超過した企業に、その場しのぎの融資が行われていた。そして銀行の資産がそうした企業とつながっていたので、生産的な目的に融資が使われることが大きく妨げられていた。

アジア経済危機を救うため、日本に何よりも求められていたのは、自国の経済秩序を立て直すことだった。日本の経済成長は目に見えて低下しており、一九八○年代末に三万九〇〇〇円まで上昇した日経平均株価は、一九九七年一一月には一万五〇〇〇円程度まで落ち込んでいた。

統計によると日本はアジアのGDPの三分の二を占めていたので.日本の深刻な不況はアジア諸国の景気回復を大きく妨げ、経済危機拡大の危険をはるかに増長した。また、日本はアジア諸国にとって主要マーケットであり、ドルに対して円安が進むと、輸出に依存している新興市場国にも連鎖的な悪影響が及んだ。さらに、日本の銀行は資金調達元としても重要だった。しかし日本の銀行は、タイ、インドネシア、韓国から資本を引き揚げようとしていた。

新興市場国なら、IMFは少なくともそれらの国が、条件を満たしていて融資を受ける必要がある場合、その国の経済政策に影響を及ぼすことができる。しかし富俗な先進国は、G7のようなフォーラムやさまざまな国際会議での外交や意見交換を通じて、健全な経済政策のために相互に影響を及ぼすことしかできない。

G7会談では公式・非公式に膨大な討議がなされ、この点において有益である。有名な首脳会談(サミット)とは別に、主要先進七カ国の蔵相と中央銀行の総裁が、年に何回か顔を合わせる。マスコミには内部統制された発言しか公表されないが、こうした経済会議は、助言を交換し合いプレッシャーをかけ合う場として有効活用されている。しかし、先進国同士の政策に対する影響力は依然として非常に限られている。

一九八○年代後半から一九九〇年代前半にかけて、アメリカの財政赤字について日本から非難を受けた際、ブッシュ.シニア政権のなかには、不快の念をあらわにするメンバーもいた。しかし私に言わせれば、わが国の財政赤字は国際経済に悪影響を与えていたのだから、日本の非難は筋の通ったものだった。したがって、今度はアメリカが、日本の不況が諸外国に悪影響を与えていると指摘しても何ら差し障りはないはずだった。

一九九七年から一九九八年にかけて、G7各国は、日本に国内の経済問題をもっと自主的に解決させる手段はないものかという思いをしばしば抱いた。相互依存している国際社会でよく見られる国家主権と多国間問題の対立である。アメリカは、失策の影響が国境を越えて拡がる国々には圧力をかけたいと考えているが、自国の政策への外部からの介入は認めない。もちろん、特定の状況のもとでどの政策の選択が最もふさわしいかについて、白熱した議論を要するのは当然のことだ。

アメリカは、経済問題に焦点を絞り、公式、非公式の会談で日本に影響を及ぼす道を模索した。非公式には日本との二者会談で、具体的な経済対策が必要だと強調した。時には大統領にも協力を要請し、政府の各レベルの意見統一を図ったうえでのことだった。G7などの多国問協議の席上でも、諸外国やIMFから日本に圧力がかけられた。アジア経済危機の最中、ロンドンで開催されたG7会議では、アラン・グリーンスパンが信望厚いドイツ連銀総裁のハンスニァィートマイヤーに協力を呼びかけ、ともに日本への懸念を表明した。

公式の場では、かなり手厳しく日本の経済問題を批判した。こうした私の発言は、常にきわどい外交問題に発展した。日本はアメリカの緊密な同盟国であり、非難にきわめて敏感な傾向があった。しかし次第に、公式発言を通じてインパクトを与えるほうがよいとの確信を強めた。

なぜなら、日本政府は各国からの助言を拒否する姿勢を見せていたが、日本の景気回復は国際経済全体にとってますます重要になってきたためである。こうした拒絶反応は、ゴールドマン・サックス時代にもよく目にしていた。日本政府の態度は、トレーダーが含み損の回復を祈る態度に似ていた。しかしそのような場合には、冷静に状況を再評価し、適切な修正を受け入れるしかないのだ。

政権内では、日本に対する今後の方針をめぐる議論を重ねた。クリントン政権のメンバーの大半がそうであったように、私も日本に対して強硬論者だった。しかしアル・ゴアはさらに強硬だった。閣議室でミーティングを開催し、経済を安定させるよう日本側を説得する手段を話し合ったときのことだ。

クリントン大統領の向かいに座っていた副大統領が、語気を強めて大統領に進言した。「何としても日本の危機感を喚起し、プレッシャーを与えるべきです」。副大統領は日本側の頑なな態度を変えさせる説得力のある戦略を提案した。そのなかには、東京にアメリカの識者を送り込み、景気回復の重要性を国民に訴えるという案まで含まれていた。それは真剣な提案というより、論点を協調するための発言だったのかもしれないが、先進同盟国の経済失策のせいでみなが苦境に追い込まれているのだというわれわれの苛立ちを反映してのことだった。

一九九七年四月の出来事は、いまも記憶に鮮やかに残っている。橋本龍太郎総理が就任後初めてクリントン大統領を訪問したときのことだ。サマーズと私は首脳会談に備えて、大統領に要点をかいつまんで説明し、日本に現状を認識させることが肝要だと念を押した。大統領は日本の総理大臣を脅すような態度を取ることにあまり乗り気ではなかったが、プレッシャーは重要であると割り切り、実際にプレッシャーをかけた。

橋本総理は、クリントン大統領から経済問題を突きつけられるだろうとあらかじめ覚悟していた。大統領が経済の件を切り出すと、橋本総理は手持ちのグラフを取り出し、目本の経済は回復寸前のところまで持ち直してきていると、まことしやかに示した。そして景気回復は目前だと述べた。また橋本総理は、同席していた「ルービンとサマーズ」が公の場であれこれ言及しているが、すべて事実に反する、と苦情を述べた。

結局、日本の景気回復を見ないまま、国際経済危機は何とか収まった。しかし、日本経済の脆弱さが回復の足を引っ張り、アジアの経済不安を増大させたという見解は正しかったと、いまでも信じている。そして日本経済の弱さは、経済の安定に重要な役割を果たした中国とは対照的だった。もし、日本が不況に陥ったとき中国が別の選択をしていたら、二国からの影響が重なり、アジア経済は決定的なダメージを受けていただろう。当時の中国は主要輸出市場ではなく、アジア諸国に多額の投資もしていなかった。

しかし、輸出市場での競争力はあり、中国政府のなかには、人民元の平価切り下げを行えば輸出品が安くなり、中国の利益につながるとの意見もあったようだ。しかしもし、そのようなことになっていれば、アジア全土で新たな平価切下げ競争が引き起こされただろう。クリントン大統領や私を含めた政権幹部との何回かの会談の席で、江沢民主席と朱鋳基首相は中国通貨の平価切り下げは絶対に行わないと強調した。そして実際にその言葉を守った。

こうした会談を通して私の中国観が固まり、今日に至っている。中国の政治リーダーたちは手強く、独立心が強く、圧力に屈しない。良し悪しは別として、アメリカや世界各国から、中国は日本よりも建設的な役割を果たしていると見なされると、大いに満足していた。しかしその国家としての誇りは、アジア経済危機の間、建設的な経済支援に貢献したが、中国の政治指導者たちの心がそこに向いていなければ、国際的な圧力をかけても無駄だっただろう。

クリントン政権がスタートしたばかりの頃、大統領が、アメリカ市場への参入と人権問題の進展を取引材料に圧力をかけるよりは、貿易政策によって中国を国際経済に引き込む戦略に出たほうがよいのではないかと提案した。大統領はそれを裏づけるために中露対立を歴史的な例として挙げ、中国は国力が劣っていた時代でもロシアの要求に応じなかったほどなので、大国となったいま、アメリカが圧力を強めたところで屈することはないだろうと説明した。

私自身、交渉の最中、中国政府の手強さを何度も目の当たりにした。たとえば、アジア経済危機を緩和するためには、多額の外貨準備高をさらに増やすのではなく、投資と輸入を加遠するべきだ、と中国を説得したときがそうだった。またのちに、WTOに参加する要件として貿易障壁を緩和するよう中国と交渉したときも手強かった。

中国でビジネスをしようとするアメリカ人が次第にわかってきたように、中国は動くかもしれないが、それは要求に直接応じるとか、他人の思惑に沿って動くといった結果ではありえない。いずれにしても、二一世紀中に、中国は恐るべき一大勢力となるはずであり、友好関係を築けば双方にとって有益であろう。両国の関係には摩擦も起こるに違いない。たとえば、貿易問題では対立も予想されるが、両国の共通の利益が、そうした間題を乗り越えさせてくれるだろう。
(P300〜P306)

◆ルービン回顧録 7月26日 梅田望夫
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050821/p1

「ルービン回顧録」についてのネット上での言及があまり多くない。いい本なのに、渋くて、手堅すぎるからだろうか。
この本の読者層と、ネット上で何かを書く人の層がずれているのかな。

僕の場合、ビル・クリントンという人物に深い興味があり、クリントン政権に関連する本はいずれ読むためにほぼすべて買い込んでおり、この本も「いずれ読む」の棚に入りそうになっていた。しかしパラパラと読み始めたら、このルービンという人物に引き込まれて通読することになった。何が面白かったかといえば、ルービンの人生を、「蓋然的思考」(Probabilistic thinking)という一本の筋が貫いているところだった。

冒頭でこの本ができたいきさつが書かれている。共著者のジャーナリストがルービンのところにやってきて、ルービンがニューヨークタイムズ・マガジンに寄稿した「自らの思考法と人生観」についての記事を読み、この記事を発展させて本を一緒に書かないかと提案してきたというもの。

そう、この本は確かに「ルービン回顧録」に違いないのだが、原書タイトルの「In an Uncertain World」
のほうが本質的なのである。つまり、ルービンの人生観と思考法と意思決定と行動のちょっと美しすぎるほどの一貫性が、彼の仕事の歴史を通じて描き出されている本なのである。

ルービンは1960年代半ばにゴールドマン・サックスに入り、裁定取引の仕事を始めて頭角を現すわけだが、彼は自分の生来の気質とこの仕事がしっくりと親和した話を詳述する。そして、自伝にはつきものの両親、祖父母の生い立ちの記述にいく直前にも、こんなふうに書いている。

《 裁定取引が、蓋然的にものを見るという私の本能を強めたことは間違いない。しかしこの本能は、私がゴールドマン・サックスに入るずっと前から身についていた。同社で学んだ裁定取引ビジネスは、私の人生観と一致していた。つまり、人生とは絶対とか証明できる確実性などがない世界で、いろいろな確率を秤にかけるプロセスということだ。この人生観は、私の基本的な気質に根づいており、さまざまな師や友人たちから受けた知的影響によって形作られた。あの時点までの私の人生を振り返れば、有能な裁定取引人の精神的プロセスと気質がどのように出来上がったか、たどることができるだろう。(p71) 》

ルービンは自らのキャリアを振り返り、蓋然的思考についてこう語る。

《 ビジネスの世界でも政府にあっても、私は、確実だと証明できることは何もない、という根本的な世界観に従ってキャリアを重ねてきた。このようなものの見方をすれば、当然の結果として、蓋然的な意思決定(Probabilistic decision making)をするようになる。私にとって蓋然的思考とは、ひとつの知的概念であるばかりでなく、私の心の働きのなかに深く根づいた習慣や規律でもある。この知的概念は、1950年代末、懐疑的な姿勢を尊ぶハーバード大学の学究的環境のなかで初めて身につけた・・・(略) (p18) 》

アメリカの政治や経済政策に興味のない人でも、ルービンという人物を通して、人生観や基本的思考法と、意思決定や行動がどう結びつけられ得るのか、何かを学び、学んだことを実践に移すというのはどういうことなのか、といったことを考えるきっかけを与えてくれる本だと思う。

一般に、この蓋然的思考が骨の髄までしみこんだルービンのような人というのはとても少ないように思う(日本は特に弱いかも)。それは「失敗に対する姿勢」というところに顕著に現れる。ルービンは、自ら裁定取引で大きな失敗をしたあとに、こう総括する。

《 しかし重要なのは、結果は悪かったにせよ、投資の判断は必ずしも間違っていたわけではないということだ。交渉が決裂したあとで、私たちはいつもこれを吟味しなおし、見逃したかもしれない手がかりを探した。しかし大きく痛い損失であっても、何か判断ミスをしたとはかぎらなかった。保険数理的ビジネスもそうだが、裁定取引の本質は、確率を正しく計算すれば、大部分の取引で、そして取引全体の総額でも儲けが出るということだ。六対一のリスクを冒せば、七度に一度は予見できたリスクが生じて損をする。 》


つまり蓋然的思考、蓋然的意思決定こそが、「リスクを取る」という組織の行動姿勢に直結するのである。こういう論理性が組織のトップに存在しなければ、ほぼ確実なことにしか手を出せず、トップが口では「リスクを取る」と言っても、組織として「リスクを取る」ことは絶対にできなくなる。

ルービンほどの大人物の場合、普通は回顧録に「"Robert Rubin and Jacob Weisberg."」というクレジットは入れず、単独著またはWeisbergを協力者程度の小さな扱いにするだろうけれど、そうしないで、ルービンはちゃんと周辺の人々にクレジットを付する。そこにルービンの強みがあり、そういう彼の姿勢が、彼の周囲に世界最高レベルのスタッフを集めたのだと分析している。

(私のコメント)
この二・三ヶ月は選挙戦で、郵政民営化問題について書き込みをしてきたのですが、選挙結果も出て、私の郵政問題に対する問題点の指摘は、ほとんど反映されそうにない。ネットにいくら書き込んだところで読者の数は微小なものだし、マスコミがB層に対する猛烈な宣伝戦を仕掛けられては大衆はまんまとその罠に嵌ってしまう。大衆は時間をかけて期待が裏切られる事に気がつくだろう。

この期間も様々な本を読んだのですが、紹介する機会がなかったので選挙が一段落したので紹介します。「ルービン回顧録」は7月末に買って読んだのですが、梅田氏が指摘するようにネット上ではこの本への言及が少ない。アメリカ政府の元高官が書いたものだから資料的にも一級資料であり、金融関係者なら必読の書なのですが、あまり読まれていないのだろうか。

ネット世代はあまり本を読まないし、読書世代はほとんどネットをしない。ネット世代はネット情報だけで十分と思ってしまうし、読書世代はネット情報を信用しない。読書しながらネットもするとなるとサラリーマンでは時間がない。私は読書世代でもあるしネット世代でもあり自営業者なので時間も恵まれている。だからネットと読書世代の橋渡しのような感じで書評などをネットで紹介している。

「ルービン回顧録」は90年代のアメリカの金融政策の最高責任者であり現在でもオブザーバー的な役割をしているロバート・ルービン氏の回顧録ですが、私が一番興味を持つのはルービン財務長官の在任中の記述だ。株式日記ではルービン財務長官を天敵として糾弾しているのですが、この回顧録でどのような考えで対日交渉をしていたのかがわかる。

本の中から6ページ分ほど紹介しましたが、日本に対してはかなり手厳しい。それこそ日本の当局者をぼろくそに非難しているが、日本だってアメリカに対して双子の赤字などの指摘にだいぶ頭にきているようだ。1998年7月5日の株式日記では「ルービン経理課長はクビか」と題して書きましたが、私自身もルービン財務長官をぼろくそに書いている。


◆ルービン経理課長はクビか 1998年7月5日 株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu6.htm

ルービン米財務長官はウォール街出身の人間であり、ウォール街からしか世界が見えない人間なのでしょうか。「強いドルは米国の利益」との発言を繰り返し、ドル高を煽ってきました。それはルービン長官自身がウォール街の危うい状況を一番知っているからでしょう。ドル高で維持された株式市場や債券市場が崩れてしまう事を恐れるあまりの口先介入だったのでしょう。

しかし口先介入も、先月半ばの議会証言で「介入は短期的な効果しか持たない」と発言するや、日本だけのみならずアジアを通じて、ウォール街までもがその発言に驚き暴落してしまいました。そればかりでなく、今まで「人民元の切り下げはしない」と国際公約して信頼してきた中国政府までもが、アメリカの為替政策に批判を始めた事です。これはルービン長官の計算外の事だったのでしょう。

さらに訪中を控え、政治問題化する事を恐れたクリントン大統領の方から協調介入の指示が出され、それが劇的効果をもたらし、為替相場のみならず、世界の株式相場は大歓迎をして急騰しました。これでルービン長官の口先介入のやりすぎが証明されました。つまり世界はこれ以上の円安を望んでいないと言う事がはっきりと証明されたのです。


(私のコメント)
当時の株式日記を読むと昨日書いた長銀問題にも連日触れていますが、瑕疵担保条項をつけるのなら住友信託と合併した方がよかった。このように毎日日記に記録しておくと当時はどのような様子であったかが良くわかります。当時はサマーズ財務副長官が日本に怒鳴り込んできて銀行を潰せとわめいたいて事がわかります。それは長銀をリップルウッドへ売れと脅迫していたのだ。


◆銀行は不良債権の金額を公表せよ 1998年6月23日 株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu6.htm

今日の長銀株は昨日の空売りの買い戻しが入り高くなっています。しかしすでに長銀債の発行は事実上不可能だろうし、その反面債券の解約は、いくら政府が保証すると言っても増え続けるでしょう。受け皿銀行が出来るまで生命維持装置で長銀は命を長らえる事になるようです。大蔵省筋では「すでにいろいろとメニューを渡してある」として長銀自身の判断に委ねてあるようです。

先日来日したサマーズ米財務副長官は政府・党首脳に「ハード・ランディング」という言葉を使い、日本政府が主導して銀行の整理・再編を進めるように迫りました。しかし昨日の政府の対応からすると銀行の選別は市場の淘汰に任せるつもりのようです。それまでの間はさまざまな憶測情報が流れ、不良債権の情報開示が進まぬまま第二の長銀を探す動きが続くでしょう。もっともまずいやり方です。


(私のコメント)
「ルービン回顧録」はルービン本人が書いたものだから、本人に都合のいいことしか書いてありませんが、株式日記と読み比べれば当時の様子が良くわかるだろう。「ルービン経理課長はクビか」と書いたのも「ルービン回顧録」を読むと「1998年中に辞めるつもりだった」と書いている。前年の97年から始まったアジア金融危機はルービン長官の政策ミスから起こされた可能性が高い。だから私がクビか?と書いたのですが、当の本人はとぼけている。

当時は日本円が147円まで安くなり東南アジアの輸出競争力がダメージを負いましたが、中国が元を切り下げなかった事をルービン長官は絶賛していますが、そもそもはクリントンのジャパンバッシングのために米中が日本に対して仕組んだ経済戦争がアジアの金融危機を招いてそれがロシアや中南米にも広がっていってしまった。

中国は元をドルに連動していましたが、95年4月の79円から98年8月の147円まで動いたのだからドルと円との協調が取れていなかったのですが、ルービン長官の口先介入が影響している。79円の円高で日本の輸出産業を締め上げクリントンの目論見は成功したのですが日本経済はガタガタになり銀行まで倒産して円が売られて147円の円安でアジア諸国が悲鳴を上げてしまった。特に韓国が一番影響を受けて韓国経済はクラッシュしてしまった。

「ルービン回顧録」を読むと韓国の経済危機については詳しく書かれているが、ルービン自身しか知らない事が書かれている。韓国の経済危機はまったくの不意打ちだったらしい。一時は韓国を封鎖して防波堤を考えるほどだったという。詳しい事は本を買って読んでほしい。私はルービン長官が日本の東南アジアや韓国や中国への経済的影響力に気がつかずにドル円相場で日本を締め上げようとした結果が招いたものだと思う。だから私はルービン長官はクビだと書いたのだ。


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