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Re: 受け手の自立的コミュニケーション云々よりも朝から晩までメディアが小泉礼賛を繰り返したことが問題。
http://www.asyura2.com/0505/hihyo1/msg/460.html
投稿者 南青山 日時 2005 年 9 月 20 日 07:47:03: ahR4ulk6JJ6HU
 

(回答先: マス・メディアの複合影響説(ソキウスより抜粋) 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 9 月 20 日 05:43:11)

「議題設定機能」「沈黙のらせん」「培養効果」などが論じられているが、今回のTVと新聞メディアの偏向報道の問題は、そうした原理的課題云々ではなく、ほぼすべてのマスメディアが何の批評精神もなく「小泉礼賛」「郵政民営化礼賛」を繰り返し、反対する勢力を頑迷で旧弊な集団と決めつけたことにある。
小生は朝日と日経しかチェックしていないが、両紙とも郵政民営化は正しく、反対する勢力は誤っていると主張し続けた。読売と日経は推して知るべしである。
TVでは、日本テレビとフジテレビは言うまでもなく、TBSテレビ、テレビ朝日も、朝のワイドショー、昼のワイドショー、夕方のニュース番組、そして報道ステーション(テレビ朝日)、ブロードキャスター、サンデー・ジャポン、サンデープロジェクトなどでも、番組のトップに小泉とその周辺の動向を伝える映像を置き、小泉礼賛、郵政民営化礼賛を繰り返した。
とくに、朝のワイドショー、夜の報道番組、土日のニュースショー番組での偏向ぶりはものすごかった。
コメンテーターはすべて小泉礼賛派であり(番組中で公言するものもいた)、わずかな機会に反対側が追求しようとすると、司会者が遮るといった横暴ぶりだった。

小泉、郵政民営化とは直接関係ないが、公示前に辻本がサンデー・ジャポンの中継に出た時、5〜6分の質問時間のすべてを政策ではなく、スタジオのゲストによる秘書給与疑惑の倫理的問題の追及で終わった。
選挙後も、同じ境遇にある鈴木宗男は登場させてもらえるが、辻本の発言はほとんど封じられている。

こうした偏向報道の理由を、ほとんどの局が「視聴率が取れるから」「視聴者が求めているから」と説明している。
見ている側からすると、これはとんでもないまやかしである。
追求されるべきは、メディアの大政翼賛化であり、その背後でどのような勢力が、どのようにメディアを支配し、コントロールしたかを明るみに出さなければならない。

そうした意味では、「ソキウス」で紹介すべきは「マス・メディアの複合影響説」ではなく、その前にある「歪められたコミュニケーション」「現代日本の言語状況」「検定済の知識」の方だろう。
長くなるが以下にその箇所を紹介する。

「ソキウス」ー「リフレクション」(著作+制作 野村一夫)
第四章 権力作用論の視圏――反省を抑圧するコミュニケーション
三 ディスコミュニケーション
http://www.socius.jp/ref/16.html

■歪められたコミュニケーション

 信頼できるディスコミュニケーションの理論はまだない。そこでここではクラウス・ミューラーの「歪められたコミュニケーション」(distorted communication)についての研究を参考にして議論を進めていきたい。▼34

▼34 クラウス・ミューラー『政治と言語』辻村明・松村健生訳(東京創元社一九七八年)。
 かれは「歪められたコミュニケーション」として三つのタイプを提示する。第一に、強制指導型コミュニケーション(directed communication)。これは「言語やコミュニケーションの内容を規定しようとする政府の政策から生まれてくる」コミュニケーションのことである。▼35国語辞典まで改訂した、かつてのファシズムや社会主義の国家に見られた、露骨な政治的干渉による統制がこれにあたる。ジョージ・オーウェルのSF『一九八四年』に登場する有名な「ニュースピーク」はこれを皮肉ったものだ。

▼35 前掲訳書三〇ページ。
 第二に、環境制約型コミュニケーション(arrested communication)。これは「個人や集団の政治的コミュニケーションに携わる能力が制約されている場合のコミュニケーション」である。▼36言語は、自分たちがおかれている環境を解読する能力を規定する。したがって、言語能力が限定されたものであると──これを「限定コード」という──人びとは自分たちの環境を的確に認識し利害を表明できなくなり、結果的に現状維持的で保守的な権力支持層になりやすい。▼37

▼36 前掲訳書三〇ページ。
▼37 前掲訳書六一ページ以下。
 第三に、管理抑制型コミュニケーション(constrained communication)。これは「自分たちの利益を優先させようとして、私的集団や政府機関が、公的コミュニケーションに手を加えたり、制限を加えたりすることができた場合のコミュニケーション」である。▼38政府や企業がしばしばおこなう情報操作や情報非公開がこれにあたる。また、権力の正当性にかかわる重要な問題を表面にださないために、別の問題をキャンペーンするという方法も使われる。このような巧妙な操作によって人びとの知識が限定されると、日常生活とは関連がないと思われるような──じっさいには見えにくいだけでめぐりめぐって自分たちの生活に影響があるにもかかわらず──政府の行為に対して人びとは評価をためらい、 結果的に政治的コミュニケーションに参加することをやめてしまう。▼39棄権はその典型例である。

▼38 前掲訳書三〇ページ。
▼39 前掲訳書一一六ページ。
 ミューラーの三類型は本書序論で「権力のことば」「消費のことば」として問題化しておいたことにほぼ相当する。本書の始発点は「歪められたコミュニケーション」にわたしたちはおかれているということだったのである。

■現代日本の言語状況

 日本の場合、ミューラーのいう「歪められたコミュニケーション」はどのように存在するのだろうか。もう少し具体的に踏み込んでおきたい。

 PKO以前のものであるが、日本の軍事化についての外国人研究者による興味深い研究がある。平和研究(peace research)の研究者グレン・フックは、世論調査の分析を踏まえた上で次のような疑問を立てた。「日本国民の多くは、原理のレベルでは、今なお反軍事化を保持しているのに、なぜ具体的な政策にかんしては軍事化反対の態度を明確に示さないのであろうか。さらに、多くの人びとが反軍事化であるにもかかわらず、反軍事化の運動が現在の日本社会では活発にならないのは、なぜであろうか。」▼40その要因のひとつとしてフックは、軍事化を容認させる言語の役割に注目する。

▼40 グレン・フック『軍事化から非軍事化へ――平和研究の視座に立って』(御茶の水書房一九八六年)二一ページ。
 たとえば本来は「死亡保険」と呼ばれるべきものを「生命保険」と呼ぶように、あるいは「有害作用」を「副作用」と呼ぶように、「聞き手が不愉快なことや怖ろしい事実を正確に把握することを防ぐ」ためにしばしば「婉曲的表現」(euphemism)が使われる。▼41「軍隊」を「自衛隊」と呼び、「戦車」を「特車」と呼び、「侵略」を「進出」と言い換えるのがそれである。また「隠喩」(metaphor)もしばしば政治的に用いられる。一九八一年に訪米中の鈴木首相が発言した「ハリネズミ」、一九八三年に中曽根首相が訪米中に使った「不沈空母」、これがかえって反発を招いたために代わって使われるようになった「保険料」(防衛費のこと)などが挙げられる。古くは「核アレルギー」という隠喩もある。これは朝日新聞が最初に使ったものだが、一九六七年から翌年にかけて盛んに議論され政治的に利用された。とくに当時の佐藤首相は「正しい理解を持つならば、いわゆる核アレルギーにはならない」として、いわば医者が患者を治療するイメージに議論を置き換えた。このメタファーを使用することによって、「異常」なのは核兵器の存在ではなく軍事化反対者の方であること──そしてかれらは「治療」されなければならない──が静かに自明化されるのである。一種の「逸脱の医療化」である。

▼41 前掲書三三ページ。
 これが「権力のことば」の実態である。わたしたちはそれを使用することによって、意識しないうちに特定された政治的土俵に立たされるのだ。

 ところで、フックの指摘する事例で、「進出」などは強制指導型コミュニケーションであろうし、「保険料」などは管理抑制型コミュニケーションに相当するといえそうだが、「環境制約型コミュニケーション」はどうだろうか。この文脈で問題となるのは、社会化のエージェント(担い手)である家族や階層そして学校やマス・メディアである。これらが人びとの言語能力を限定するわけだが、これらのうち学校つまり教育とマス・メディアについて分け入って概観してみよう。

■検定済みの知識

 ミューラーが「環境制約型コミュニケーション」として取り上げていた社会化の問題としてまず教育について指摘しておきたい。とりわけ初等中等教育の問題である。

 日本の教育は「文部省教育」といわれてきた。教育のすべてが文部省によってコントロールされていると考えるのは実態とあわないが、歴史教科書検定の話などを思い浮かべると、相当な政治的配慮がなされてきたと考えてよい。社会学系でも、かつて「高校現代社会」の教科書検定において社会学者の執筆した水俣病の記述などが「問題」とされたことがある。

 このような目立つ側面だけでなく、もっと基本的なところに目を向ければ、現実の教育において提供される知識の傾向に着目すべきだろう。その傾向を一括すれば、第一章で説明した「技術的知識」中心ということができる。それは「客観的」というわかりやすい性質をもっているために、受け入れられやすく、「偏向」と指弾されるリスクもなく、教師の質に左右されにくく、評価もしやすい。もちろん個々の教育現場において並々ならぬ努力がおこなわれているにしても、また、教育理念に「豊かな人間性形成」「自分で考える力をつける」といったことが挙げられているとしても、結果として教育現場を支配している知識はまぎれもなく検定済みの「技術的知識」なのである。

 この傾向にさらに輪をかけているのが受験である。出題者側の事情として「公正」かつ「迅速処理採点」可能な問題でなければならない。だれもが正解可能で、だれもが採点可能な問題。それは検定済みの技術的知識である。受験生の生き方や思想を試すことは、よほどのコストを覚悟しなければならない。これに受験者側が過剰適応する。受験勉強とは、検定済みの知識だけを選択的に学ぶことである。受験に関係のない科目は「捨て科目」として早期のうちにいともかんたんに捨てられる。おそらく少数科目入試の傾向はこれを増幅するだろう。また、検定されていない生々しい同時代のできごとや自分を問うような問題は「試験にでない」として無視されてしまう。「自分の頭で考えてみよう」といったことがらも同様の帰結を踏む。この文脈では塾や予備校が、実態を知らない論者の批判対象になりがちだが、塾や予備校それ自体が問題というよりも、じっさいには受験生の救済制度となっている場合の方が多い。問題なのは受験という社会的文脈のなかで受験生がとらざるをえないこのような選択の方である。

 たとえば、コミュニケーションのあり方を問い、その基本技術を磨く科目である「国語」においても、とうてい現代を生きる上で不可欠とは思えない古典の解釈が重要視されてきた。「現代文」(現代国語)でさえも、たとえば清水義範の短編小説「国語入試問題必勝法」が的確に描写しているように、職人的なまでに技巧的な技術的知識の問題に変換されてしまう。▼42

▼42 清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社文庫一九九〇年)。これはパロディというより、かぎりなく実態に近い小説である。
 こうした教育環境における「勉強」は、学ばれる知識が「自分を問う」ことがないだけに、「勉強」することによって、かえって自分の社会生活や生き方をブラックボックスにしてしまい、反省的回路を断ち切ることになりがちである。結果的にこのような教育環境は、政治的に漂白された知識だけが広く流通するのを助けている。しかしそれはじつに「政治的」なことなのだ。

 検定済みの知識は反省の重圧から解放する。反省を突きつけない。しかし、考えてみれば、同時代の社会について考えたり判断したりするということは、「検定済み」でない領域でこそ必要な能力ではないだろうか。そもそも社会について考えるということは痛みをともなうことだ。死刑囚の人権について考えれば被害者の家族はおこる。公害企業について考えれば企業内の人びとやその家族が傷つく。しかし、だからといって、放置すれば被害者は傷つく。およそ社会的現実とはこのようなものであって、利害調整がうまくいくとはかぎらない。むしろ闘争的・対立的なもの。そこが自然現象や数学について考えるのとちがうところだ。したがって、たいせつなのは傍観者ではなく当事者として自分を社会に位置づける反省能力であるはずだが……。

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