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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?
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投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 26 日 07:26:11: SO0fHq1bYvRzo
 

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?


これは次の阿修羅投稿に続くものです。

http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html
ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで
(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー
http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/389.html
ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで
(2)ゾンビどもの跳梁


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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(3)『負け馬に賭けた』?


●アブラハム以来(?)のユダヤ歴史年表がイスラエルのサイトJewishhistory.orgで作られて公表されている。
http://www.jewishhistory.org.il/
The History of Jewish Pweple

この中からウラジミール(ゼエブ)・ジャボチンスキーの略歴を取り上げてみよう。

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http://www.jewishhistory.org.il/1880.htm#Jabotinsky

1880(10月5日)−1939【訳注:これは1940の誤植と思われる】
ウラジミール・ジャボチンスキー(オデッサ−エレツ・イスラエル)

新シオニスト機構(the New Zionist Organization:1935)、ハガナー(the Haganah、1920)、ユダヤ人部隊(the Jewish legion:1917)、Brit Trumpeldor、ベタール(Betar:1917)、修正主義者党(the Revisionist Party)、イルグン(the Irgun:1937)の創始者。世界シオニスト機構に参加する前には、ジャボチンスキーはトルストイとプーシキンによってロシアの最も有能な作家と見なされた。彼はじきに優れた政治家、言語学者(7ヶ国語を書きポーとダンテをヘブライ語に翻訳)そして優秀な語り手として認識されるようになった。1935年に彼は、生ぬるい敗北主義の政策であると非難して世界シオニスト機構と別れた。彼は90%の移民と10%の政治家からなるイスラエル建設を信じ、同時に唯一の国語としてヘブライ語を使用させる政策を信じた(エスタブリッシュメントたちは彼を非現実的だと見なした)。1930年代には欧州に空軍と海軍の学校を作り、一方で同時に東欧からの完全な避難を呼びかけた。彼の書いた何百ものパンフレットの最後の一つは「11番目の時(The Eleventh Hour )」(1939)と名付けられ、それは60万人のポーランド・ユダヤ人の即時移住を求めていた。彼は誇大な警告者という烙印を推された。彼はニューヨークのハンターにあるベタールの支部を訪問している最中に心臓病で死亡した。

【引用、翻訳、終り】

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さすがにイスラエルで作られている年表だけあって、ムッソリーニのムの字も出てこない。そしてジャボチンスキーを「少々行き過ぎの面はあるが紛れも無い愛国者で欧州のユダヤ人の悲劇を予測して強く警告した人」というイメージで紹介している。「隠蔽と虚構」という大衆支配の原則に忠実に作られているようだ。またハガナーやイルグンなどの「創始者」と書かれているがこれは不正確で、「創設に関与した」という意味だろう。

なお、ハガナー(Haganah:「防衛隊」の意味)は、1909年に創設されたHaShomer(「自警団」の意味)がその前身で、1920年のアラブ人との戦いの時期からHaganahと改名され軍事組織として確立した。そして1948年のイスラエル建国の際に、イスラエル国防軍に変えられた。出身者の中にはイツァーク・ラビン元首相、アルエル・シャロン現首相、モシェ・ダヤン元国防相などがいる。

イルグン(Irgun:「民族軍事機構」)は1937年にハガナーから分離した過激組織で1948年にイスラエル国防軍に吸収される。創設者はAvraham Tehomi。英国はこれをテロリスト組織と見なした。1946年にはエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆弾テロを起こし、1948年のデイル・ヤシン村での大虐殺の中心となる。メナチェム・ベギン、イツァーク・シャミール両元首相、モシェ・アレンス元国防相が代表的なメンバーである。

ベタール(Betar)は修正シオニスト青年運動で、上のイスラエル製の年表では1917年となっているがWikipediaでは1923年にラトヴィアのリガで、ゼエブ(ウラジミール)・ジャボチンスキーによって創設された、となっている。最初は過激な政治運動だったがやがてムッソリーニの協力で正式な軍事訓練を受けることになる。イルグンのベギン、シャミール、アレンスも所属していた。この組織は現在でも存在し、リクード党を支える様々な活動を行っている。

それにしても「心臓病で死亡」というのはどうも引っかかる。後にバチカンで、オプス・デイに都合の悪い教皇とバチカン幹部がやはり「心臓病」で急死している。ジャボチンスキーの60才の死は、1930年代に「東欧からの完全な避難」を、「(1939年に)60万人のポーランド・ユダヤ人の即時移住」を求めた後のことだった。何か臭うが今はそれには触れないでおこう。


●次に挙げるのは、ユダヤ人のシオニズム研究家レンニ・ブレンナーの作品である。これはインターネットではデンマークにある次のサイトに納められているもので、
REDS – Die Roten
http://www.marxists.de/index.htm
このHPの最初に次のような挨拶文が書かれている。
『マルクス主義者と社会思想に興味を持つすべての人々を歓迎します』
ここでの“Israel & Palestine”という項目の中に
http://www.marxists.de/middleast/isrpalndx.htm
ブレンナーの2つの長大で精緻な研究成果が記録されている。
一つは“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”
http://www.marxists.de/middleast/brenner/index.htm
そして“The Iron Wall”
http://www.marxists.de/middleast/ironwall/
である。
2つとも膨大な量であり、とても全部をご紹介するわけにはいかない。重要な箇所は数え切れないほどあるのだが、ここでは“The Iron Wall”の中に納められる“8. The Years of Fascism and Terror”
http://www.marxists.de/middleast/ironwall/08-fascter.htm
および“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”にある“10. Zionist-Revisionism and Italian Fascism”
http://www.marxists.de/middleast/brenner/ch10.htm

そのごく一部だけを日本語訳してご紹介したい。ほんの短い紹介なのだが、日本でほとんど知る人のいない「ユダヤ・ファシズム」の問題について、一人でも多くの人が関心を持つきっかけになれば幸いである。

(本文にある出典を示す注釈は割愛するので、興味のある人は本文を参照していただきたい。また以下の訳文中で「・・・・・」と《 》で挟まれた箇所は、著者による他の文章からの引用である。Revisionismという用語に関しては、あまり良い訳とは思わないが、とりあえず最も一般的である「修正主義」と訳しておく。)

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“The Iron Wall”より“8. The Years of Fascism and Terror”

【翻訳開始、前略】

ファシスト・イタリアへの一層の接近

1930年代半ばには、システムとしてのファシズムに対する小さな異論を言い続けてはいたが、ジャボチンスキーは次第にイタリアの方に向かっていった。1934年9月にムッソリーニはチビタベッキア【Civitavecchia、訳注:ローマに近い港町】のscuola marittima(海軍学校)にベタールの部隊を作り上げた。そこで134名の研修生たちが有名な黒シャツ隊によって訓練を受け、1936年にイル・ドゥーチェ【訳注:ムッソリーニのこと】自身が彼のシオニストの言葉を論評した。イタリアに学校を作ったことによって、世界は修正主義(Revisionism)に対してファシストというイメージを固めただけだったのだが、傲慢なジャボチンスキーはほとんど気に留めなかった。彼はムッソリーニ政権との交渉を引き受けるイタリア人の支持者の一人に手紙で次のように書いた。我々はどこにでも学校を作ることができたかもしれないがしかし「我々は・・・ イタリアにそれを作り上げることを望んだのだ」と。1935年の4月までには、ジャボチンスキーはムッソリーニの弁護人ともいえるようなものになっていた。そして米国訪問中に、彼はシオニスト英字新聞the Jewish Daily Bulletinに『ユダヤ人とファシズム――いくつかの所見――そして一つの注意』という記事を書いた。
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《ファシズムの他の点についてほとんどの人が何一つ考慮しないにしても、ファシスト思想のイタリア版が、少なくとも人種的平等性のイデオロギーであることは疑う余地が無い。これを大したことでもないというふりをするほどに卑屈にならないでおこう。人種的平等性とはあまりにも些細な考えであって市民的自由の欠如とはつりあいが取れない、などと。これは正しくない。私は出版の自由が無ければ息が詰まってしまうジャーナリストなのだ。しかし私は、市民的権利の尺度の中で、たとえ出版の自由であっても、すべての人間の平等より優先すると言うことは単に冒涜的なだけである、と断言する。平等が最初だ。常に最初だ。絶対に最初だ。そしてユダヤ人はそれを覚えておくべきである。そして、この原則を維持する政権がある状況で部分的に共食いをする動物のようになっても、十分にその欠陥を償うのだということを心にとどめるべきだ。それは批判されるかもしれないが排除されるべきではない。他にも十分に多く呪いのための言葉がある。ナチズム、ヒトラー主義、警察国家など。しかし「ファシスモ(“fascismo”)」という言葉はイタリアが使用権を持つ用語であり、そしてそれゆえに、Billingsgate【訳注:ロンドンの下町にある地区で、そこで話される下品な言葉、という意味で使われている】の練習ではなく、正しい種類の討論のためだけにとっておかれるべきものである。特にそれが非常に有害な姿を表すかもしれないときには。その用語の【訳注:ファシスモの】政府は非常に強力な要素であり、イタリアが持つユダヤへの共感は、たとえば国際連盟の委員会で、多くの攻撃をかわすことになるかもしれない。偶然だが、パレスチナ問題を監督する議会の統治委員会議長はイタリア人である。つまり――私は孤児たち(年齢とは無関係だが)【訳注:ここではユダヤ人を指すと思われる】が警戒の呼びかけに従うことを期待しないのだ――責任ある指導者たちは注目すべきである。》
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「ファシスモ」への弁明は必然的に、イタリアのエチオピアに対する侵略によって相当に印象付けられる。英国はいまや地中海での最強の権力とは言い難く、1936年までに彼は新たな支配地域のために活動する時だと言い含められるようになった。喜んでアラブ人に対する最も厳しい方法を使用する意思を持って、である。「必然的に」と彼は友人に書いた。
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《the Ersatz【訳注:本来は「代用品」などの意味だが、ここでは英国の代わりにシオニズムの保護者となる国を指すものと思われる】はイタリアでも良いし、あるいは他のよりアンチ・セミティズムが少なくユダヤ人の移民に興味を示す国々の共同管理地でも、ジュネーブ【訳注:国際連盟】の直接の委任統治領でも、私が後で述べる第4の選択肢でも良い。6月10日−7月15日の以前に私は他の候補の第一を打ち出した。結論を言うと、まだ機は全く熟していないのだ。》
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ヘルツル(Herzl)の同僚であったジャコブ・デ・ハアス(Jacob de Haas)は1930年代の半ばに修正主義に転向していた。そしてこの老シオニスト戦士は1935年にウイーンにあった新シオニスト機構(NZO)の設立会議に出席していた。彼は米国に戻るとすぐに、シカゴのJewish Chronicleに彼が持っていた毎週のコラムにそのまとめを次のように書いた。『代表者たちはファシストではなかったが、民主主義への忠誠を失っていた彼らはアンチ・ファシストではなかった。しかしながら彼らは極めて反共産主義的であった。』この老人は米国で書いていたのだが、自分自身をファシストとは見なさなかった。ファシストと言う言葉は米国では珍妙であったのかもしれない。そこで彼は自分の同僚を単に反民主主義であると考えるようにした。しかしNZOの資金担当者であり東欧での彼らの外交担当者だったウォルフガング・フォン・ワイスル(Wolfgang von Weisl)が、「修正主義者たちの中には様々な意見があったが、一般的には彼らはファシズムに親近感を覚えていた」とブカレストの外交文書で語ったとき、彼は間違いなくずっと正確であった。彼は質問者に対して「彼【訳注:ジャボチンスキー】は個人的にはファシズムの支持者であり、アビシニアでのファシスト・イタリアの勝利を白人種の黒人に対する勝利として喜んだ」と断言した。このような意見はローマで多くの人気を得ており、後にローマのチーフ・ラビとなるダヴィッド・プラト(David Prato)に次のように語ったのはムッソリーニ自身である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《シオニズムが成功するためにはあなた方はユダヤの旗とユダヤの言語を持つユダヤ人国家を持たなければならない。このことを本当に理解する人物はあなた方のファシスト、ジャボチンスキーである。》
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このようなことが、1936年のアラブ人反乱に直面した運動だったのだ。


【中略】

1938年のベタール会議

メナチェム・ウォルフォヴィッチ・ベギン(Menachem Wolfovitch Begin)は1930年代の修正主義の若き唱導者であった。そして、膨らみつつあったナチの脅威に直面して次第にベタール軍事組織の熱狂的な精神を高めて表現していったのは彼である。彼らの自暴自棄の激情はパレスチナの即座の征服を叫ぶ形をとった。1938年9月11日のワルシャワでのベタール世界会議で、この若い過激主義者は彼らの誓いを修正するために登場した。アルロソロフ(Arlosoroff)暗殺の後、ジャボチンスキーは一つの言葉をその中に挿入していた。『私は防衛のためにのみ私の腕を挙げる』しかしそのときにベギンはそれを次のように修正するように主張した。『私は我が民族を防衛し我が祖国を勝ち取ることのために私の腕を挙げる』ジャボチンスキーは英国を倒すどんな小さなチャンスも無い事を知っていた。1940年にはまだ、パレスチナへの侵攻という包括的な思考は彼の心の中では半信半疑のものであった。(おそらく彼の関心を引いたのは今この場面で武器を手に入れて訓練を行うチャンスだということであったろう。)彼はベギンを責めた。それは悪評を立てるだけだ、と彼は言った。しかしベギンの演説は彼の心に「ドアのちょうつがい無益なきしみ」以上の印象を与えなかった。彼にとっては「軍事シオニズム」はワイツマンの実践的シオニズムの対極であった。彼は聖書の第一行目を自分の手で書きなおした。『最初に神が創造した――政治家たちを』と。『ベギンさん、もしあなたが世界に良心が残っていると信じないのなら、あなたにはVistula川【訳注:ポーランドの中央部を流れる川】の深みに行く以外の選択は無い。』あるいは共産主義者になるか、である。

【後略】


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“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”より“10. Zionist-Revisionism and Italian Fascism”

【前略】

修正主義者たちはファシストとの関係を合理化する

ムッソリーニに対する傾倒は完全な破局に終わった。アラブ人、英国人、そしてユダヤ人の反対者に対して盲目的にハンマーを振るいながら、修正主義者たちは次に何がやってくるのかを見ようとしなかった唯一の者たちであった。エミール・シェキブ・アルスラン【Emir Shekib Arslan、訳注:親ソヴィエト的な汎イスラム主義運動の指導者】からムフティ【the Mufti、訳注:一般的にはイスラムの律法学士だがここではパレスチナのイスラム指導者を指す。】に宛てられた手紙の写真が、親イタリア・プロパガンダの広がりに関するものだったが、1935年にパレスチナの新聞に現れていたし、1936年までにはラジオ・バリがアラブ人たちに反英放送を鳴り響かせていた。その時期までに修正主義者たちはムッソリーニを弁護することに慣れていたので、彼らは彼がthe Muftiやパレスチナ人の運動に協力していたことを認めようとすらしなかった。1938年【訳注:この年の11月にイタリアはドイツに倣って「反ユダヤ法」を作った】になっても、米国の修正主義を代表する幹部のウイリアム・ジフ(William Ziff)が、その著作『パレスチナのレイプ(The Rape of Palestine)』で、イタリアがムフティと共謀していることを軽視しようと努めたのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《反英国謀略と同時に反ユダヤを示唆する麗々しく選ばれた言葉で、英国外務省はイタリアにすべての非難を集中させた。自由主義の新聞全体が水の上に巧妙に撒かれたエサに惹かれる魚のように誘いにのった。狩りの後で熱くなった猟犬の群れのように、マルクス主義者の新聞は攻撃的に叫び声を上げた。》
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修正主義者たちが明らかに負け馬に賭けてきたという事実をよそに彼は続けた。
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《もしも厳格な現実主義者であるムッソリーニが、ユダヤ人たちを英国の影響から引き離すことができていたのなら、彼はそれをおいしい商売と見なしただろうということは疑う余地が無い。彼が友好的な関係であった強力な独立シオンは完璧に彼にふさわしいものであったろう。ユダヤ人たち自身が英国贔屓でがんじがらめになってこの見込みを断ち切ったのである。そしてムッソリーニはシオニズムを、英国政治の他の新設分野と地中海での経済的拡大を単に包み隠すだけのものであると見るようになっていた。このようにしてそれは、ムッソリーニの心の中に反イタリア勢力として立ち現れているのだ。にもかかわらず、イタリアの介入がパレスチナにおける最近のアラブ人反乱の要因であることを証明するための証拠はひとかけらも提示されていないのだ。》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結局のところ、ムッソリーニにヒトラーを援助するように説得したのはパレスチナではなくスペインであった。ムッソリーニは、自分とヒトラーが今やどこであろうと革命を排除するためにまとまらなければならない、そして彼が帝国の拡張を期待できるのはドイツとの協力関係を通してだけである、ということを理解した。しかし彼はまた、ヒトラーと同盟を結びながら自分の党の中にユダヤ人を抱えることが不可能であることも知っていた。したがって彼はラテン化されたアーリア主義(a Latinised Aryanism)を調合した。党と経済からユダヤ人を追放し、戦争に向かって加速をつけた。修正主義者たちは正当な理由のゆえに誤ったと宣言した。
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《長年にわたって我々はユダヤ人たちにイタリアのファシズム政権を攻撃しないように説得してきた。イタリアにおける最近の反ユダヤ法について他の者たちを非難する前に、我々は率直になろう。まず起こったことに責任ある我々自身の過激なグループを咎めることにしようではないか。》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ムッソリーニのヒトラーへの急接近に伴って、修正主義者自身のファシズムはユダヤ人世界の中で信頼不可能となった。そしてジャボチンスキーが1940年8月にニューヨークで死亡したときに、彼らは大あわてでRosh Betarの看板を下ろした。それはファシズムの臭いを漂わせていたのである。彼らは自分自身がファシストであったことを認めようとしなくなる。単にジャボチンスキーの靴を誰も履くことができなくなっただけだが。最近の修正主義の年代記編者は必然的にAchimeirのような彼ら内部のファシストの役割について避けようとする、あるいは過小評価しようとする傾向がある。チビタベッキア【訳注:1934年からベタールの部隊が黒シャツ隊によって訓練を受けた場所】は通常「イスラエル海軍がここで訓練を受けた」と申し訳程度の記述で済まされてしまうのだ。

【引用、訳出、終り】

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●もちろん上の訳出部分はレンニ・ブレンナーの膨大で精緻を極めた研究の中でほんのかすった程度の部分に過ぎない。忘れてならないことは、ムッソリーニと手を結んでいたのが決してジャボチンスキー率いる「修正主義者(レヴィジョニスト)」だけではなかったという事実なのだ。(もちろんブレンナーも他の研究でこれに触れている。)シオニズム創始者のチャイム・ワイツマンや主流派幹部のナウム・ソコロウなどは、もちろん自らを「ファシスト」とは見なさなかったが、ジャボチンスキーの以前に積極的にファシスト党に接近していたのである。イタリア在住のシオニストたちも1938年まではファシスト党と蜜月の関係にあったのだ。

確かに現在のシオニストたちはジャボチンスキーのことを詳しく語りたがらないようだ。またファシスト直系に近い現イタリア・ベルルスコーニ政権と彼らとの極めて親密な仲、およびベルルスコーニとADLフォックスマンの肝胆会い照らす友情の一方で、彼らは双方してシオニズムとファッショ・イタリアとの関係を覆い隠すのに必死の様子である。ジャボチンスキーを洗い始めると、「修正主義者」だけでは済まなくなり、その他の関係までボロボロと姿を表してくるからかもしれない。

そしてここに一つの重大な疑問が残る。先ほどのブレンナーの研究によると、1938年にムッソリーニが「反ユダヤ法」を制定した後で、特に1940年のジャボチンスキーの死後、「修正主義者」たちの評判と権威は地に落ちた・・・・かのように見える。しかし彼の後継者たちによる本当の意味の「ファシストらしさ」が発揮されるのは実はこの後なのだ。これはどういうことなのか? 彼らは本当にブレンナーの言うように『負け馬に賭けた』のだろうか?

このシリーズの第1回目でも触れたことだが、ヒトラーとムッソリーニの仲を取り持ったスペインのフランコが数万人にのぼるユダヤ人たちをスペイン経由で逃がし、「修正主義者」たちの望みどおり、英国の意向を無視して直接パレスチナに送り込むことすら行っていたようである。(送り込んだ、ということは「すでに合意され双方で確認された受け入れ態勢ができていた」という意味なのだ。)これは「公式な歴史」の中では決して触れられない。表向きは1938年の「反ユダヤ法」でつながりが切れたことになっているファシスト陣営とシオニストとの間に、実際には何があったのか?

そしてあれほどナチズムとファシズムが非難され排除された(はずの)大戦後にも、ベタールが失われることはなかった。またハガナーから袂を分かった(とされる)イルグンを率いたメナチェム・ベギンやイツァーク・シャミールなどのジャボチンスキーの後輩たち(彼らはチビタベッキアで黒シャツ隊から直接の訓練を受けていた!)は、ユダヤ人の移住をコントロールしようとする英国に対してテロ攻撃を仕掛け続け、なおかつ決してつぶされるようなことはなく、むしろ勢力は拡大した。さらにその政治部隊はヘルート党を経てリクード党に続き1977年にはついにベギンが首相となる。その間イスラエルはジャボチンスキーの「鉄の壁」ドクトリンを実行し続けていたのである。

私はこういった「修正主義者」の活動が、強大なパトロン無しに、彼らの思想と意思と情熱だけで達成されると信じるほどお人好しではない。「修正主義」の流れが英国に潰されずむしろ強大になっていったのは、ダブルスタンダードの英国が一方の手で彼らを支えていたか、英国も黙るほどの巨大なパトロンが控えていたか、あるいはそのすべてが茶番劇であり各関係者同士の「了解事項」として進められていたか、の、いずれか以外には考えようが無いのではないか。

確かにムッソリーニ個人は『負け馬』に違いない。いや、もっと正確に言えば『負け馬の皮』ではなかったのか。脱ぎ捨てられ放り投げられた『皮』は間違いなく『負け馬』であろう。しかしその本体は? イスラエルの一方でイタリアでもファシズムが消えることは決して無く、バチカン(オプス・デイ)や英米諜報部と密接につながりながら、公開されない部分で実力は十分に維持され拡張すらされてきている。シオニズムとイタリア・ファシズムとの関係は、本当のところ一体何だったのか?


●この第2次大戦前のシオニストとムッソリーニとの関係については、ジャボチンスキー自身からちょっと離れて他の方面からも眺めてみなければならない。しかしその前に、今現在、西アジアと欧州から米国にまたがって、茶番劇の舞台裏で世界を操るユダヤ・ファシストの影を追ってみたい。


【追補】

もう一人の『負け馬』であるヒトラーに、ロックフェラー、ブッシュ爺、ハリマン、フォードなどを含む米英資本のパトロンがちゃんと控えていたことは周知の事実であろう。どうやらシオニストもヒトラーと「浅からぬお付き合い」をしていたようだ。しかし彼もまた『皮』に過ぎなかったであろう。本体であるドイツ大資本およびそれにつながる米英大資本は、びくともしないばかりかますます繁栄を極めている。さらに「バチカン・ラットライン」からも明らかなように諜報組織にもツーカーの連絡網があった。このドイツの極悪人は、生きて利用する価値が無くなったときに捨てられて、その後にはそれぞれの立場で都合の良いようにその悪名を利用される「偉大な役」を、そのパトロンからおおせつかったとみえる。

ヒトラーを「悪の権化」に祭り上げておいて人々の怒りと警戒をそこに集中させ、その陰で好き放題に悪事をはたらく一枚上手の悪党どもが多いようである。コイツらは必ず「ホロコースト」を持ち出す。ネオコンの教祖レオ・シュトラウスとブッシュの一党はもちろん、このシリーズの(2)に登場するイタリア・ネオ・ファシストとイスラエルの直系ユダヤ・ファシストなど、格好の例だろう。(ベルルスコーニやフィニがヒトラーへの悪口を上手に利用していることは有名。)当然だが、コイツらはヒトラーのパトロンやってた連中と直接・間接の豊富なつながりを持っている。

ところで『勝ち馬』の一人となったスターリンはどうだろうか。スターリンとシオニズムの関係は、いろんな資料はあるのだが、本当のところを探るのには少々面倒なようだ。これは後年の課題としておこう。

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