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死に向かう宿命の共有化への途を辿りつつ...何れまた。
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投稿者 如往 日時 2005 年 7 月 29 日 03:24:19: yYpAQC0AqSUqI
 

(回答先: 訂正(末尾のからの3、4行。文頭につける>が逆になりました。失礼)〈本文なし〉 投稿者 日 日時 2005 年 7 月 27 日 08:35:13)


 日さん、レスをありがとうございます。


 >その時全ての並行世界が一つの世界の中で、同時存在でありながら、自分の過去と現在と未来の姿をも映し出している事になります。わざわざifの世界を空想せずとも、互いに我々は少しずつ違った自分自身を互いの中に見出す事が出来るという事になります。他のあらゆる生物、無機物ですら、少しずつ違った自分自身の成れの果てであります。
 >この事を踏まえ、我々は少しずつ違った自分自身として、その多様性を共に認め合えもすれば、融合も可能であり、過去現在未来という時間ですらが、並行世界として、同時存在しており、類推する観察法によって、ここに見て取ることが出来ると考えます。
 >一つの世界と時間の中にある、無限の並行世界とその時間。故に過去、現、来世、あの世もこの世も、輪廻転生も、隔絶した別世界では無く、未知の世界でも無い。全てこの世界にあるというわけです。見方によって

 何故かSri Ramana Maharshiが説かれた宇宙観が想起されました。15年程前になりますでしょうか、私はどっぷりと浸っていました。

 >科学の視座は自我の視座であり、可視光で見える範囲だけを見ているに過ぎない、客観を旨とする主観の視座ではないでしょうか。対して神の視座は大我の視座です。教義を与えられれば宗教ですが、その視座をこちらから類推、チューニングし、焦点を絞ってゆく事によって得られる絶対主観。これに近づくことこそ、自我から離れた真の客観が不可欠かもしれません。

 Sri Ramana Maharshiの教えに遵じるならば、自我の視座も大我の視座もよく理解できます。

 現時点の私は、ErosもThanatosも、PathosもEthosも、Conatusを構成する諸相に過ぎないと観じています。さらに、このConatusに「聖」性を求むることは可能か、あるいはConatusの「聖」性とはどんなものかと問い続けています。その根底には『複製を起源とする慣性的エネルギーの継続運動に「聖」性はあるのか。換言すれば、それは「聖」なる運動と謂うべきか。』という、更なる問いが潜んでいます。
 斯かる観点ないしは想いから、日さんとの応答をさせていただきましたが、遺憾ながら今ところ充足する局面には到達できなかったと感じています。断じて、これは日さんの事由に帰せられるべきものではありません。どうかそのように御心に収めていただきたくお願い申し上げます。
 そして、「死に向かう宿命の、共有化の途を求めつつ」、その稜線上にて邂逅できる日を楽しみにしています。

 何れまた、会いましょう。

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