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懐良親王 ( かねよししんのう)九州南軍の黄金時代
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/642.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 27 日 09:31:03: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 中世における八女点描(2)---ホリエモン、ようぐ見ろ!お前のふるさとだじょ。潔くハラ切れ! 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 27 日 08:54:06)


懐良親王 ( かねよししんのう)

九州南軍の黄金時代
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n172.htm

?−1383 九州南朝の征西将軍宮。 後醍醐(ごだいご)天皇 の皇子。従前は懐良を「かねなが」といっていたが、現在では「かねよし」と訓読している。
〈九州上陸の苦難〉
 延元元年(建武3、1336)10月、後醍醐天皇は 足利 尊氏(たかうじ) の講和を受け入れ叡山を下りたが、この時に諸皇子を各地に分遣し再挙を図ろうとした。九州には幼年の懐良親王が、派遣されることになった。その時期については、延元元年 同3年 同4年などの諸説がある。五条 頼元(よりもと)以下12人を補佐役につけ、京都を出発。紀伊から瀬戸内海を通り、讃岐(さぬき)を経て、伊予の忽那島に着き約3年間在島。当時の北部九州は幕府方の勢力が強く日向を経て、興国3年(康永元、1342)5月1日に薩摩に上陸し、谷山隆信の居城谷山城に入った。九州上陸は熊野や瀬戸内海の水軍の協力なくしては、到底不可能であった。
〈菊池氏を頼って九州制圧〉
 正平2年(貞和3、1347)に谷山城を出発、肥後 葦北(あしきた)を経て、翌年正月宇土に着き、次いで 益城(ましき)郡御船城を経て 菊池武光(たけみつ) の本城に入り、ここを九州経営の拠点とした。親王が菊池氏を頼ったのは、九州における有力な 南朝支持者であり、強力な軍事力を保持していたからである。早速、筑後征討にのぞみ、幕府方の 鎮西管領(ちんぜいかんれい) ( 九州 探題(たんだい) ) 一色範氏(いっしきのりうじ) と一進一退を繰り返した。貞和5年に 足利 直冬(ただふゆ) が九州に入り、九州は宮方(南朝方) 幕府方(北朝方) 直冬方(佐殿方)に分かれ、 三巴(みつどもえ)の熾烈(しれつ)な抗争が展開された。正平7年(文和元、1352)11月に直冬は長門に逃走、10年10月一色範氏も九州を退去した。14年(延文4、 1359)には 少弐(しょうに)(武藤) 頼尚(よりひさ) を敗り、16年筑前から少弐氏を駆逐、ついに律令時代の九州統治のための政庁がおかれていた 大宰府に入った。親王が九州に上陸から19年目にして、ここに懐良親王を首班とする 征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生した。以後、11年間に及ぶ南朝勢力の全盛時代を迎えるのである。親王は大宰府の在庁組織を把握し、菊池氏の軍事力を背景に、所領の 安堵(あんど) 行賞 訴訟裁断など、公家の奉行人を通じて執行した。
〈大友氏攻略と宇佐〉
 正平10年(文和4、 1355)懐良親王は豊後国攻略のため10月2日に日田へ向けて出発、玖珠 由布 狭間を経て豊後 府中 (大分市)に入り、速見郡大神(おおが)から豊前国宇佐 城井(きい)、筑前国殖木を通り博多に侵入した。この時、 大友 氏時(うじとき) や 宇佐 大宮司(だいぐうじ) らは親王軍に降参。11年8月15日以前に、 宮成公居 は南朝方に請い大宮司に 補任(ぶにん)された。13年(1358)2月、懐良親王は 宇佐宮に 白鞘(しろさや)入剣 (国重要文化財)を奉納。その銘文に「為将軍宮御代官□□□奉施入八幡宇佐宮権少僧都信聡 正平十三祀戊戌二月日」と陰刻されている。大友氏時は間もなく離反し 高崎城 に篭城(ろうじょう)、親王は菊池武光とともに延文3年(正平13年)12月筑後から豊後に入り狭間を攻め、高崎城を攻略した。大友軍救援のため大野荘志賀村(朝地町)の 志賀 氏房(うじふさ) が駆けつけて背後を襲撃し、高崎山の西麓赤松で奮戦。親王軍は退却し、大友軍は玖珠郡八丁辻(はっちょうつじ)まで追撃した。翌年、親王軍は志賀村の 志賀 頼房(よりふさ) の城を攻め、高崎城も攻撃した。康安2年(1362)菊池武光が豊後府中に攻め入り、高崎城を攻めたが落城させることはできなかった。応安4年(建徳2、 1371) 今川了俊(いまがわりょうしゅん) の子 義範(よしのり) が高崎城に入ると、菊池武光は 伊倉宮(いくらのみや) を奉じて、8月6日から翌年正月2日にかけて百余度も当城を攻めたが、陥落させることはできなかった。懐良親王の関係文書が、南朝方の宇佐大宮司到津公連(いとうづきみつら) によって建立された、 大楽寺(だいらくじ) (宇佐市)にある。正平17年(1362)5月23日付けの令旨(りょうじ)で、懐良親王は 大宰少弐(だざいのしょうに) 頼澄(よりずみ) に大楽寺領の豊前国上毛郡節丸名以下散在田地の武士の押妨(おうぼう)を止め、寺家に返えするよう命じた。しかし、実行されず翌年5月23日に再度、同地での垂水宮内大夫入道 大塚孫次郎 荒巻新兵衛入道柳田兵庫入道 原孫太郎等の違乱を停止し、大楽寺に返付するよう 少弐頼澄 に指示している。
〈衰退した南軍〉
 懐良親王が大宰府に入った年に、将軍 足利 義詮(よしあきら) は 斯波氏経(しばうじつね) を九州探題として派遣した。彼は豊後の大友氏を頼ったが、南朝軍の勢力に圧倒され京都へ引きあげた。貞治4年(1365)、渋川義行(しぶかわよしゆき) が九州探題に任命されたが、九州に上陸せず京都へ引き返した。建徳2年(応安4、1371) 今川 貞世(さだよ) が九州探題として九州へ下向、彼は慎重な作戦をたてながら北朝勢力の回復をめざし、次第に大宰府包囲網を形成していった。文中元年(応安6年)8月菊池武光の軍勢は撃破され、ついに大宰府は陥落した。武光は懐良親王とともに筑後 高良山(こうらさん) へ退き、さらに菊池へと撤退した。了俊のすぐれた戦略により、南朝勢力の衰微は決定的であった。親王は征西将軍職を退き、筑後矢部(福岡県八女郡矢部村) に隠退、弘和3年(永徳3、1383)3月27日、親王は50余歳でこの地に没したという。
 参考文献 『宇佐宮大楽寺』
[乙・ 政已]

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