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さらにさかのぼる---見えてくる翼賛体制と55年体制の崩壊---民主党は改憲派 ?
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/711.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 9 月 01 日 08:55:27: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 各党とも脛に傷持つ身なれば、露骨に突っ込めない事情あり。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 8 月 31 日 22:37:21)

時代が似ていると思いませんか?
有事法は民主党も賛成して成立した。
そして既にイラクへ軍隊を派遣(アメリカのイラク侵略に加担)を強行している小泉政権。社民党も自衛隊合憲論。共産党も「右」へならえ。9条を守れというけど自衛隊は容認。今度の選挙では「自衛隊容認」は後景に押しやって「9条守れ」にウエイトを置いているだけ。最近は「よりまし」も言わなくなった。政権の展望がなくなったから。

しこうして国会自体が翼賛議会になってしまっている。郵政民営化も、その本質を見るとこういう事情を反映しています。

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Wikipedia 翼賛選挙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E9%81%B8%E6%8C%99

翼賛選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1. 与党または親与党の候補しか出馬を許されない選挙。
2. 第二次世界大戦中の1942年に実施された衆議院議員選挙。本項で詳述。

翼賛選挙(よくさんせんきょ)は、1942年4月30日に投票された第21回衆議院議員総選挙を指して言う。

既に1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会を除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した政治家たちによって翼賛議員同盟が結成され、太平洋戦争下での軍部の方針を追認する翼賛体制を支える機能を果たした。

折りしも、1942年に衆議院議員の任期が切れ、これを契機に軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化しようと言う機運が高まった。2月23日に、元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者を選考・推薦していった。推薦を受けた候補者は軍部や様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補を断念させられたり、選挙運動で有形無形の干渉を受けたり、選挙としての公正さに著しく欠けるものだった。

協議会推薦の候補者は381人が当選。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、彼らの中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。

翼賛選挙ののちに、翼賛政治会が結成された。翼賛政治会には刑事事件で起訴された8名を除く全ての衆議院議員が参加し、名実とともに1党支配の政治体制が完成された。
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非推薦で当選した政治家

* 正木清(戦後、衆議院副議長)
* 坂東幸太郎(戦後、国務大臣)
* 菊池養之輔(旧社会大衆党所属。戦後、社会党代議士)
* 川俣清音(戦後、社会党代議士)
* 木村武雄(戦後、自治大臣)
* 池田正之輔(戦後、科学技術庁長官)
* 河野密(戦後、社会党副委員長)
* 川島正次郎(戦後、自治庁長官・行政管理庁長官、自民党副総裁)
* 鳩山一郎(元文部大臣。戦後、内閣総理大臣)
* 赤尾敏(右翼活動家。戦後、大日本愛国党を結成)
* 河野一郎(戦後、農林大臣・建設大臣)
* 北ヤ吉(北一輝の実弟。戦後、自由党代議士)
* 三宅正一(戦後、衆議院副議長)
* 薩摩雄次(戦後、改進党代議士)
* 平野力三(戦後、農林大臣)
* 三田村武夫(戦後、自民党代議士)
* 尾崎行雄(元東京市長。戦後、無所属)
* 水谷長三郎(戦後、商工大臣・社会党右派の重鎮)
* 芦田均(戦後、外務大臣・内閣総理大臣)
* 西尾末広(戦後、内閣官房長官・民主社会党を結成)
* 一松定吉(戦後、国務大臣)
* 笹川良一(右翼活動家。戦後、日本船舶振興会で活動)
* 斎藤隆夫(軍部批判で除名。戦後、国務大臣)
* 星島二郎(戦後、国務大臣、衆議院議長)
* 犬養健(ゾルゲ事件で検挙。戦後、法務大臣)
* 三木武夫(戦後、外務大臣・内閣総理大臣)
* 三木武吉(戦後、自民党総裁代行委員)
* 中野正剛(東方会総裁、「戦時宰相論」で弾圧を受け自殺)
* 楢橋渡(戦後、運輸大臣)

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非推薦で落選したが、戦後浮上した政治家

* 赤松克麿(日本国家社会党・国民協会で活動。戦後、日本産業協力連盟理事長)
* 大石倫治(大石武一の父。戦後、自由党代議士)
* 林平馬(戦後、国務大臣)
* 初代・山村新治郎(二代目・山村新治郎の父。戦後、行政管理庁長官)
* 原彪之助(戦後、衆議院副議長・社会党代議士)
* 中村高一(戦後、衆議院副議長・社会党代議士)
* 片山哲(戦後、社会党委員長・内閣総理大臣)
* 益谷秀次(戦後、建設大臣)
* 宮沢胤勇(戦後、運輸大臣)
* 植原悦二郎(戦後、国務大臣)
* 大野伴睦(戦後、衆議院議長・自民党副総裁)
* 森幸太郎(戦後、農林大臣・滋賀県知事)
* 世耕弘一(戦後、国務大臣)
* 林譲治(戦後、副総理・衆議院議長)
* 佐竹晴記(戦後、社会党代議士)
* 富吉栄二(戦後、逓信大臣。洞爺丸事故で遭難)
* 二階堂進(戦後、自民党副総裁)

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Wikipedia 55年体制
http://ja.wikipedia.org/wiki/55%E5%B9%B4%E4%BD%93%E5%88%B6

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

55年体制(ごじゅうごねんねんたいせい)とは、1955年に成立した体制で、日本において与党の自由民主党と野党の日本社会党が二大政党として君臨し、政治を行っていた体制。1993年まで続いた。
目次
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* 1 体制成立の背景
* 2 日本社会党の衰退
* 3 自由民主党の失墜と体制崩壊
* 4 保守二大政党体制へ

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体制成立の背景

戦後成立した日本社会党は、方向性の違いから左右に分裂した。しかし、「改憲と安保」の問題で左右は一致した意見として、『護憲と反安保』を掲げ、1955年再統一され、規模としては日本の政党では、最大になった。これを危惧したのは、保守派の政党グループであり、彼らも合併して自由民主党を作り(保守合同)、日本社会党に対抗することにした。こうして、二大政党が出来上がりこれ以降、1993年まで与党の自由民主党、野党の日本社会党という役割が定着し、この与党と野党がひっくり返ることの無い政党制がスタートしたのである。
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日本社会党の衰退

自由民主党は「自主憲法制定」を党是に定めた。1958年の第28回総選挙では互いに過半数を上回る候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女普通選挙になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。その結果、定数467で自由民主党287議席(他、追加公認 11)、日本社会党166議席(他、追加公認1)となり、二大政党の公認候補だけで、97%の議席を占めた。これは総選挙最高峰の記録である。しかし、議席数は追加公認を含めると、自由民主党が1議席を減らしただけの圧勝であり、日本社会党は、7議席を増やしたものの護憲に必要な三分の一の議席を確保したに留まった。

このように、二大政党制といっても選挙と国会での比率では、自由民主党と日本社会党の勢力比率は2:1であった。そのため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれる。「保守」と「革新」が2:1の比であったのは、1947年、保守分裂のため社会党が第一党になった第23回総選挙で既に現れていた。

1960年代に入ると国民に新憲法が定着し、自由民主党議員も改憲にはこだわらない議員が主流となった。憲法調査会(第一次)が終了したのも、その流れであった。こうして保守本流と呼ばれる、安全保障面をアメリカに依存し、国防費の分を経済政策に当てることにした政策が採られることになった。これによって、『護憲と反安保』を掲げる日本社会党は糾弾相手の陰が薄くなることになってしまった。国民も「安保」体制を受け入れ始めた1960年代にあって、日本社会党はイタリア共産党に端を発する構造改革論を導入し対応しようとしたが、議会を軽視し、社会主義革命にこだわる左派によって葬られた。左派主導の元、『護憲と反安保』にこだわり続けることでその支持基盤を失っていった。その上、日本社会党は支持基盤を労働組合に絞るようになり、1960年代末期以降、総選挙の度ごとに候補者を減らす消極策を取るようになった。こうして政権獲得の意欲を失い、選挙の度ごとに勢力を衰退させたことから「長期低落傾向」と呼ばれるようになった。さらに、野党はその後民社党・日本共産党の伸張、公明党の結成と無数に分裂し始め、自由民主党に対抗出来る政党は皆無となった。自由民主党の勢力はかげりを見せ始めたが、日本社会党も歩調を合わせるかのように議席を減らした。さらに、共産主義の現実が現れ始め、社会主義への国民の期待感は地に落ちたこともその勢力減退に拍車をかけた。
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自由民主党の失墜と体制崩壊

このまま、自由民主党の一党独裁的な政治が続くかに思えたが、汚職が続出し政治不信を招き始めた。さらに、派閥間勢力の均衡が田中角栄元総理によって崩され、自由民主党自体が混乱していった。さらに、バブル崩壊とそれにともなう経済不振に、なおやまない政治不信が自由民主党の支持を低落させた。日本社会党は土井たか子ブームなどにより一時的に勢力を回復したが、やがて長期低落傾向に復する。自由民主党の失墜と、にもかかわらずそれに取って代わる実力を持たない日本社会党の不振は、体制への不満と無力感を著しく高め、無党派層、そして政治そのものへの無関心層の増大を生んだ。

1993年の衆議院選挙で、自由民主党は大量の脱党者を生み、その結果大幅に過半数を割り、与党の座を明け渡すに至った。また、日本社会党も惨敗した。それに続き自民党脱党者による新生党・新党さきがけ、細川護煕の新党日本新党などによる反自民・反共産連立政権の成立を以って異色の二大政党制たる「55年体制」は崩壊した。社会党は連立政権に参加したが、もはや主導権は握れなかった。
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保守二大政党体制へ

その後、日本社会党・新党さきがけが新生党などとの対立で連立与党を離脱し、自由民主党は一時的に両党と組むことで与党に復帰。1994年、新生党は日本新党・公明党・民社党・社会民主連合などと合同で新進党を結成し、新たな第二党となったが、3年であっけなく崩壊した。現在、自由民主党は連立相手を公明党に変え、引き続き与党第一党として政権の座にある。また、第二党の座は、新党さきがけ・社会党離党組によって結成され、旧新進党系の保守・民社系議員などが合流した民主党が占め、社会党から改称した社会民主党は弱小政党に転落している。

この結果、自由民主党は保守本流に代わり、再び改憲派が主流となった。また、民主党も保守政党色を強め、改憲を打ち出したこともそれを後押ししている。国会で保守派が圧倒的となり、「保守」「革新」の対立構造が、完全に崩壊したことを意味していると言えよう。

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