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唐津市の中原遺跡から出土した木簡に、七―八世紀にかけて九州北部を警護した「防人(さきもり)」を示す「戍人(じゅにん)」の文字が書かれていたことが三十日、分かった。防人の制度は日本書紀や続日本紀などに記されるだけで、文字資料の出土は国内初。東国出身の兵士を九州防衛にあてた防人の歴史を裏付け、壱岐、対馬、筑紫だけでなく、肥前国にも配備されたことを示す貴重な発見となる。
県教委の発表によると、木簡は縦二十七センチ、幅三・五センチ、厚さ〇・三センチほどで、二〇〇〇年九月に出土。国立歴史民俗博物館の平川南教授(古代史)らが昨年、赤外線解析で解読した。文字は木簡の表と裏の両面に書かれ、最初に書いた一次文書と、天地を逆にして再利用した二次文書の二種類があった。
一次文書からは人名の「小長□部□□」と、出身国を示す「甲斐國□戍人」(□は不明)の文字が判明。「戍」は「守る」の意味で、『続日本紀』にも「常戍」「辺戍」といった言葉がみられる。平川教授は防人の呼称が当時、「戍人」だったと推測。甲斐の地名があることから、防人たちは出身国単位で把握されていたとみる。
二次文書は食料支給の文書とされ、「□暦八年」の年代と「日下部公」など五人の人名を列記。年代は「延暦八(七八九)年」と推測され、五人単位で編成された文献資料と合致した。
防人は、倭国が百済復興をかけた白村江の戦い(六六三年)で敗れた後、九州防衛のために置いた兵士。兵役期間は三年で、主に東国出身者を壱岐、対馬、筑紫に配備したとされる。
ただ、肥前国に配備したとする文献資料はなく、平川教授は「議論が分かれている防人の配備地や配備の意義を考える上で、中原遺跡の木簡はきわめて貴重な資料」と話す。県教委は三十一日から、出土した木簡を県立博物館で公開する。
05月31日