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邪馬台国への道・PART1「吉野ヶ里の実像と邪馬台国の人々」(佐賀新聞) ― 高島・金関・松下鼎談(井沢元彦の短文あり)
http://www.asyura2.com/0505/ishihara9/msg/191.html
投稿者 シジミ 日時 2005 年 8 月 06 日 19:24:22: eWn45SEFYZ1R.
 

http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/index.htm

佐賀新聞社は国土交通省国営吉野ケ里歴史公園事務所とタイアップし「新・吉野ケ里学」を提唱、紙面企画やシンポジウム(10月)を軸にキャンペーンを展開する。
 吉野ケ里遺跡が脚光を浴びた17年前、鳥栖市でのシンポジウムで考古学者の森浩一さんは「考古学は地域に勇気を与える学問」と語った。同遺跡保存の道を開いた前国立歴史民俗博物館長の佐原真さんは「考古学は現代のための学問である」という言葉を残した。
 国家形成前夜、朝鮮半島や大陸から先進文化を習得しながら独自の文化を創造し、政治、経済活動の基盤を整えていった人々。その情熱と知恵は、指標を見失った現代人に多くのことを語りかけてくれるはずだ。


http://www.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/index.htm

国特別史跡「吉野ケ里遺跡」と「邪馬台国」の実像に迫る「邪馬台国への道(Road to the Kingdom)―新・吉野ケ里学」。3回にわたる対談の初回は「吉野ケ里の実像と邪馬台国の人々」をテーマに形質人類学と考古学の最新研究から考証。「吉野ケ里人」は渡来系で政治的社会づくりをすでに経験し、吉野ケ里では、より高度な文明と社会的システムを築いていたことが浮かび上がった。金関恕・大阪府立弥生文化博物館長、松下孝幸・下関市立土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム館長、高島忠平・佐賀女子短大学長の鼎談(ていだん)を紹介する。


高度な社会制度構築

高島 邪馬台国について金関さんは畿内説、松下さんは九州説の立場だ。九州、畿内説とも確たる証拠があるわけでなく、今回は弥生人、吉野ケ里人像から論じ合いたい。吉野ケ里遺跡では約3,000の甕棺(かめかん)を発掘、約300の弥生人骨が確認された。最終的な調査結果はこれからだが、吉野ケ里人とは一体どんな人だったのか。
松下 吉野ケ里を含め佐賀平野で出土した人骨は男女とも顔が長く、身長は縄文人に比べ高い。鼻根部と呼ばれる鼻の付け根が扁平(へんぺい)。つまり鼻が低く彫りが浅い。大腿(だいたい)骨や脛(けい)骨は太い。対して縄文人の顔は短く鼻が高く彫りが深い。形質的に全く違う。

高島 志波屋六本松遺跡(神埼町)では170センチを超える弥生人骨が出た。平均身長はどのくらい。

松下 163センチから165センチの中に収まる。縄文人の平均158センチより確実に高い。

金関 形質人類学から縄文人と弥生人を類推するとどうなる。

松下 骨の変化は遺伝と、食べ物など生活様式の変化によるものがあるが、縄文人と弥生人の違いは生活環境の変化では説明し難い。決定的な部分は鼻根部。鼻の高さは縄文人が最も高く、欧州人と変わらない。それが弥生になると一気に低くなる。環境要因でこれだけの急激な変化は考えにくく、遺伝的にグループが違う。つまり違った集団と考えたほうが説明がつく。

高島 金関さんの父親で人類学者の丈夫さん(元九州大教授)が昭和30年代に初めて弥生人渡来説を唱えているが、そう考えていいということだ。

金関 人類学者の清野謙次さん(元京都大学教授)も渡来の影響があると予想していた。だが、そのころの学会は環境変化の見方が大勢だった。

高島 祭祀(さいし)を仕切っていたシャーマンによく見受けられる鳥を模した格好(鳥装)も、弥生人が海を渡ってきた象徴的なものとして考えられる。頭に羽根飾りを付けた人物を描いた鐸(たく)型土製品や土器片が川寄吉原遺跡(神埼町)や瀬ノ尾遺跡(東脊振村)で見つかっているが、そうした風習は当時の中国にも類例があった。

金関 北部九州だけでなく奈良県の唐古・鍵遺跡などでもある。だが縄文時代にはない。弥生時代に外から入ってきたと考えるのが妥当。中国・殷代後期の甲骨には、鳥の格好をした異民族「鳥夷(ちょうい)」の存在を記した文字もある。

高島 ところで弥生人にも地域差はあったのだろうか。

松下 山口県の土井ケ浜遺跡でも300体近くの人骨が出土しているが、弥生人全体の特徴は同じ。ただ細部を比べると手足の太さに違いがある。全体的に吉野ケ里が屈強で上肢より下肢が大きい。土井ケ浜は逆。これは生業の違いと考える。漁労中心の土井ケ浜は櫓(ろ)をこぎ手が強くなり、農耕で鋤(すき)を踏んだ吉野ケ里は足腰が鍛えられた。

高島 いずれにしても吉野ケ里人は渡来系ということで意見は一致するようだが、人骨からは社会構造も見えてくる。吉野ケ里遺跡の北にある花浦遺跡(神埼町)では、同じ墓壙(ぼこう)の2つの甕棺に女性2人が埋葬されていた。時期は弥生中期前半(紀元前1世紀中ごろ)。親子か姉妹と予想していたが見事に外れた。

松下 あれは成人女性と15、6歳の少女だった。2人の腕にはシャーマンの証しである多数の貝輪が着装されており、シャーマンが世襲か、特殊能力で選ばれるか注目された。
 DNA鑑定で血縁関係はなしとの結果が出た。父親との関係が分からず軽々に判断できないが、どうもシャーマンは特殊能力を重視して選ばれたようだ。当時は集団の方向性を決める重要な役割を担っていた。単に世襲で継がせるわけにはいかなかったはずだ。

金関 卑弥呼が女王に選ばれたときも、能力を重視したと推測できる記述が魏志倭人伝にある。それは「共立」という文字で、高句麗と扶余の条にもあり、1つは長男ではなく、優秀な二男を王位に就けたとき。もう1つは庶子を王位に据えたときだ。いずれも世襲ではなく能力を重んじたケースで使われた。何らかの能力、恐らくシャーマンとしての霊能力が重要視され、卑弥呼も女王に推挙されたのだろう。


吉野ヶ里人は渡来系

高島 ほかにも当時の社会を知る手だてはないだろうか。

松下 抜歯の有無から社会の成熟度合いを推測できる。土井ケ浜は抜歯が多く、吉野ケ里の人骨にはない。抜歯は恐らく血縁を重視した共同体の証しで、佐賀平野はもうその段階は過ぎていた。中国では既に国家が成立しており、吉野ケ里の主流はそうした大陸でも社会的に進んだ地域からの渡来。片や土井ケ浜は中国北部の少数民族がルーツではないだろうか。

金関 一概にそうとも言えない。土井ケ浜は弥生前期末、吉野ケ里はその後の成立。日本定着後、抜歯風習が消えたとも考えられる。ただ、これには佐賀平野で前期の人骨と抜歯の風習が確認できなければいけない。

高島 形質人類学や考古学の観点から弥生人、吉野ケ里人のルーツは見えてきた。では、どのような渡来系弥生人が絡み、吉野ケ里に象徴される北部九州の「クニ」と呼ばれる社会をつくり上げていったのだろうか。

松下 多元的であり多様的だと思う。弥生人には地域差があり、その由来は日本列島だけを見ても分からない。ところが中国をみると、広い国土にさまざまな民族や文化を持った人々が暮らす。そうした人々が入ってきたはずだ。

高島 多様な系譜、形質を持った人たちが日本に入ってきたのは間違いないだろう。ただ、地域によって絡み方がそれぞれ違い、異なる社会、文化となったと考えたい。その証拠が吉野ケ里遺跡を代表する環壕(かんごう)集落。北部九州は祭祀・政治・市など機能が分化し、それが団子状態にくっついているが、近畿は中心に祭殿や祭祀の場を設け、同心円的に広がる。また近畿に多い銅鐸、北部九州の銅矛、銅剣など副葬品や祭器などが異なることも、渡来弥生人の絡み方の違いと考えることができる。

金関 縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入ってきたと考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

高島 金関さんは邪馬台国九州説に傾いた時期がありましたよね。

金関 近畿説の1つの理由は近畿にある大集落が九州にはなかったことだった。しかし吉野ケ里の出現で根拠がなくなり、判断が揺らいだのは事実。ただ今はその後の研究などから近畿の可能性が高いと考えている。
 池上曽根遺跡(大阪)の大型建物確認に加え東大寺山古墳(奈良)から出た中国後漢の年号「中平」(184〜190年)の銘が入った鉄刀が近年、まれな遺物であることが分かったからだ。
 私が発掘したが、同じ金象嵌(ぞうがん)の銘文の刀は中国でも例しか確認例がない。貴重な刀が近畿に存在するということは中国がこの地域を重視していた証拠だし、「中平」は卑弥呼が即位した同年代。きっと中国に使いを送って後ろ盾を得たのだろう。

松下 私は魏志倭人伝にある「女王国の南に侏儒国(しゅじゅこく)あり」という記述に注目している。侏儒というのは体が小さいという意味で、いま出土している人骨から類推すると南九州や沖縄にしかない。この符合を考えると邪馬台国は北部九州の可能性が大きい。

高島 当然、その中には佐賀平野も入ってくる。吉野ケ里遺跡は今も調査が続いている。専門家の立場から、今後どのような情報が欲しいか。

松下 吉野ケ里と周辺遺跡との関連をもっと知りたい。以前、熊本市の南(白藤遺跡)で吉野ケ里遺跡と同じような巨大甕棺が出てきたが、これは佐賀平野から来たと直感的に思った。吉野ケ里の集団はどれぐらいの力を持っていたのか興味は尽きない。佐賀平野で吉野ケ里がどんな位置にあるのか。盟主なのか。邪馬台国に収れんしなくても、弥生時代の政治・支配体制が見えてくる。

金関 考古学資料と同時に、当時の自然環境資料も綿密に調べていくことが必要。発掘調査は産業開発のための緊急調査で、そういう点がなおざりにされていた。デンマーク、スウェーデンなど北欧や米国は進んだ調査をやっているので参考にしてほしい。



エッセー・井沢元彦(作家)

吉野ケ里遺跡発見は、やはり日本考古学史上、いや日本歴史上画期的な大発見といっていいだろう。
 
 いま「解体移築(?)」で話題の高松塚古墳も、あれだけ見事な壁画が見つかったということで画期的だが、飛鳥という、ほかに古墳が多数ある中での発見であって、それほど衝撃的ではない。

 また青森の三内丸山遺跡も「縄文人も定住していた」という新しい定説を確実なものにしたことで画期的だが、衝撃的ではない。「へーえ、そうなのか」という感じなのである。ところが吉野ケ里は違う。「凄(すご)い」の一言である。

 何が「凄い」のかといえば、中国の史書「魏志倭人伝」の記述が決していい加減なものではなく、そこに描かれている「クニ」というものが確かに存在したことが証明されたことだろう。

 それも「何もない(失礼!)」佐賀の平野のどまん中からだ。

 「魏志倭人伝」の著者とされる陳寿は明らかに日本列島には来ていない。日本に来た使者たちの報告書を読んだか、直接話を聞いたのか? おそらく前者だろう。当然それは実際の経験ではないから、中国的(漢語的)表現に偏り、ちょうど「ハリウッド映画が描く日本」のような印象を与える。だからこそ考古学においても歴史学においても、「倭人伝」は今一つ信頼の置けない書であった。少なくともそういう印象はあった。

 ところが吉野ケ里の発見はそれを吹き飛ばしてしまった。意外なほどに「倭人伝」は正確ではないかということになった。

 環濠、楼観、そして宮室。まるで龍宮城のように華やかだが具体性の乏しいイメージと違い、吉野ケ里はまさに日本列島の「クニ」である。となれば、倭国大乱も女王卑弥呼も具体的なイメージをもって、われわれに迫ってくる。

 おそらく九州にも、大和にも、出雲にも、吉備にも、こうした「クニ」があったのだろう。その争いの中から、最後に、「ヤマト」が覇権を握った。これは間違いない。

 ここからは私の独断と偏見だが、いや必ずしも偏見とはいえないことをまずいえば、邪馬台国を「ヤマタイ」と発言するのは本当はおかしい。陳寿の時代、「台」は「ドゥ」(中国音なので正確には表記できない)に近い発音だ。「ヤマドゥ国」であり、明らかに「ヤマト」であろう。「邪馬台国」と「大和朝廷」は同じものだ。

 しかし、まったく同じではない。1つ考えられるのは、「邪馬台」は「大和」の前身であって、後に飛鳥・難波で発展した大和朝廷の原形であろうということだ。

 私は、九州にあった邪馬台国がその原形だと思う。吉野ケ里ではない。時代が合わないし(吉野ケ里の方が早い)、何よりもこの地が「故郷」として大和朝廷の神話や伝承に残っていないことだ。やはり吉野ケ里は出雲と同じように、大和朝廷のライバルであり、それゆえにずっと歴史の闇の中に葬られてきたのではないか。私にはそう思えてならない。

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