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09/29 18:36 日本兵の思い出、鮮明 タイ北西部、国境の町 共同
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投稿者 倉田佳典 日時 2005 年 10 月 02 日 19:45:47: eahs5MlcSyO0.
 

09/29 18:36 日本兵の思い出、鮮明 タイ北西部、国境の町

 第二次大戦中は日本軍のビルマ(現ミャンマー)侵攻の拠点とな
り、戦後はビルマで負傷した五千人もの日本兵が命を落としたとさ
れるタイ北西部のクンユアム。山あいにある国境の町の住民には、
六十年たった今も、日本兵の懐かしい思い出が鮮明に残っている。
 日本軍は大戦中、タイ北部チェンマイからクンユアムを経て、ビ
ルマに侵攻。同時に地元住民を動員して道路を整備した。戦後、日
本兵は同じ道を通って帰還したが、道中、病気やけがにより多くの
兵士が亡くなったため「白骨街道」とも呼ばれた。
 ミャンマー国境までわずか四十キロのクンユアムには、敗戦後ビ
ルマから引き揚げた数万人の日本兵が集結。長い人で数年間、住民
と生活を共にした。「ここはまるで日本の領土のようだった」と、
パッケーオ・チャンターシーマーさん(82)は振り返る。
 パッケーオさんは戦争中、「フクダ」と名乗る日本兵と恋に落ち
た。フクダは戦後、帰国を拒み、地元警察の目を逃れるため近くの
集落に身を隠した。「八年間一緒に暮らしたが、フクダは警察に捕
まった。その時、わたしのおなかには彼の子がいた」
 連行される前、フクダは「日本に送還されるくらいならハラキリ
(切腹)して死ぬ」とパッケーオさんに言った。日本に向かう途中
バンコクで病死したという。
 「お手手つないで…」。兵士から教えてもらったという童謡「靴
が鳴る」を日本語で歌ってくれたのはパーン・タヌーさん(78)

 パーンさんは「ビルマから引き揚げた日本人はほとんどが重傷者
。手や足を失っていた者もいた」と言う。「日本人はとても親切。
彼らが町を離れた時、多くの住民は悲しんだ」
 一九九五年にクンユアムの警察署長に就いたチョーチャイ・チョ
ンタワットさん(63)は、住民の多くが日本兵の銃、刀や身の回
り品などを保管していることに興味を持ち、私費で日本兵の関連資
料を収集。九六年には資料展示のための博物館を開設した。現在、
日本人を含め年間約三千人が訪れるという。
 警察を引退した現在も、資料収集の仕事を続けるチョーチャイさ
んは最近、日本からの寄付金を基にクンユアムの子どもたちに奨学
金を交付する計画にも乗り出した。「わたしの活動が日本とタイの
より良い交流につながれば」と話している。(クンユアム共同=大
熊慶洋)
20050929 1836
[2005-09-29-18:36]

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