★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK13 > 787.html
 ★阿修羅♪
禿同!
http://www.asyura2.com/0505/senkyo13/msg/787.html
投稿者 デラシネ 日時 2005 年 9 月 09 日 00:11:52: uiUTTMWMO8Vq6
 

(回答先: Re: 多分全く違うと思っている層もいるのでしょうが 投稿者 佐藤巧 日時 2005 年 9 月 08 日 23:21:11)

以下は、いわゆる「黄色いアメリカ人」によって書かれたものでしょうし、大半が「日本人に対する悪意」の発露と見ていますが、一面の真理を含んでいるのも確かですので、敢えてご紹介します。
それに、「こう考えている人々」も、この国にはわんさかおるのでしょう。

小生自身も、このグローバリゼーションの流れは止められないと見ていますが、小生の考える「良き社会」とは、人々が多様な価値観をもってそれぞれに生きていくことができる「住み分け社会」なので、この著者の主張には怖気すら覚えます。

日本民族という単位で言ってしまえば、我々日本人は、グローバリゼーションがそぐわない民族なのでしょう。
誰しも心の中では、「のんびり、おだやかに」生きていきたいと思っているのでしょうが・・。

-------------------------------------------------------------------------------


http://www.nakajima-msi.com/mzbox/mz068.htm##1

 ◆ 臥 龍 通 信 第68号 ◆
   21世紀の日本人と日本社会
21世紀の日本人と日本社会

私が日本社会と日本人との付き合いはそろそろ50年になりますが、日本人や日本社会が以前より問題だらけの国家になったと感じるのは私だけでしょうか。

最近は「日本に暮らす日本人ということ」を真剣に考えています。若い人が「日本のオリジナリティ」などと言うと、急に気になって「日本のオリジナリティ」を真剣に考えてしまいます。

日本のオリジナリティとしての日本語を考えても、漢字は中国のもので漢字を使わない日本語がありえないのを考えると「漢字」は中国から拝借し、「ひらがな」も「カタカナ」も漢字から作り出したもので、日本語のオリジナリティはどこにあるのかと考えます。 最近はカタカナ語が氾濫していて、IT業界など漢字が欧米語のカタカナ語に駆逐される勢いです。政治や社会制度は近世までは中国の模倣と言ってもよく、近代になってからは欧米の政治や社会制度を拝借してきました。

日本人の宗教を考えても、誕生すれば神道の神社に「御宮参り」をして、12月にはキリスト教の「クリスマス」で家庭や商店街やデパートが盛り上がります。「大晦日」には「初詣」で「神道の神社」や「仏教の寺院」にお参りに行きます。「七五三」の御祭りには「神道の神社や仏教の寺院」にお参りに行き、結婚式は「キリスト教の教会」や「神道の神社」で結婚の誓いをします。死んでしまえば、「仏教の御坊さん」に葬式の念仏と戒名をお願いして無事「仏教の来世」へと旅立ちます。日本人の宗教概念はどうなっているのか、外国人には理解できない現象が日本にはあります。宗教的な信仰の神聖さなど何処にあるのかと言わんばかりの雑多ぶりです。

日本人のオリジナリティはまさに「模倣のオリジナリティ」ではないかと思うくらいに、日本は歴史的な文化模倣を繰り返してきました。

また、民族性も日本人は「農耕民族」といわれますが、天候に左右される作物にたより、運が悪ければ「運が悪いとあきらめと幸運を待つ」の民族性があるかもしれません。 欧米やアジアの肉食の狩猟民族は、運に任せた「あきらめと待ち」の民族性ではなく、自分の能力を信じて「努力し挑戦する」の民族であると考えれば、現在の日本の経済状況も理解できるような思いです。
「あきらめと待ち」の民族経済と「努力と挑戦」の民族経済では、民族間経済戦争の勝敗は明らかです。 日本人の多くは「あきらめと待ち」の国民性があると考えるのは急ぎすぎた結論ですが、運に任せた「あきらめと待ち」の気持ちは確実に「努力と挑戦」の気持ちを失わせます。 自分の努力や挑戦では左右できない天候の恵みによる農耕生活は、豊作の時の「神に対する感謝」となって現れ、不作の時の「あきらめ」となって「あきらめと待ち」の民族性は「個人の努力と挑戦」による自己責任の生き方を失わせていったのかもしれません。 自分には責任がなく、運が悪かっただけだと「あきらめと待ち」の人生を考えるような日本人であれば、21世紀の厳しい能力戦争には日本人はついていけません。「どんなことにもあきらめないし、挑戦しつづける」21世紀の人生を日本人は初めから放棄しているようにも思えてきます。

現実に、日本の大人は子供に対して自己責任の「個人の努力と挑戦」の人生を真剣に教えてきたとは思えません。大人になって学ぶことを忘れた大人達は子供達の勉強も教えられない学力で、子供に勉強することを要求しました。自分達の勉強していることを理解もできず教えもできない大人達が、子供の教育を学校と教師に任せてしまってからは、親の言うことを子供は無視するようになりました。子供の親達に理解できない勉強がなぜ将来子供達に必要なのか。親達は勉強が社会生活に役に立っていない見本として子供達には存在します。親達の姿が子供達にはすでに「勉強が将来役に立つ」ということが嘘である証拠となってしまいました。

このように考えてくると、日本人がほんとうに大切にしているのは「21世紀の個人能力の熾烈な競争による進歩」ではなく、「単なる個人生活のささやかな安定」であるような気がします。

かつての米国では奴隷開放で奴隷が自己責任で生きていく自由を手にすると自己責任で生きていかねばならないから路頭で餓死するよりは、自由はないが生きていくには心配のない奴隷の生活に戻る者が多くいたことを歴史に残しています。

日本人が身分と職能階級から開放されたのは明治時代ですが、その後にどんな身分であれ「単なる個人生活のささやかな安定」を地域にも日本社会全体でも守ろうと言う気持ちがある時代は、日本人は幸せであったと思います。地域の助け合いや企業の終身雇用制があれば、日本人は少なくとも「単なる個人生活のささやかな安定」が過去ですが確保できたのです。

世界の大都市東京には、地方自治体にも見捨てられ、地域社会からも見捨てられ、孤独に「餓死」する孤独死という現実が存在します。 また、地域の協力があれば昨年1年間で6233件にもおよぶ「未成年者の子供に対する大人の強制わいせつ行為」や415人の「大人による性的目的の未成年者誘拐」も未然に防げたのかもしれません。2002年だけで親の子供に対する虐待で、児童相談所は「親の過度の虐待」から一時的にでも子供を保護した件数は約8700件にもなり、「親の虐待疑いの通報や具体的な虐待」はその数倍にもなります。さらに親から見捨てられ誰にも助けられず、昨年だけでも45人の子供が「親による虐待」によって孤独に死亡することなどもなかったでしょう。

学校でも未成年者に対する性的行為で1年間に175人の教師が処分され半数以上は自分の学校の生徒に対する行為による処分でした。学校内体罰でも1年間で451人の教師が処分されましたが、これらの教師は、3年後教師資格が自動的に復活して学校の教壇に復帰します。暴力が否定されず、ドラッグが平気で売買される学校で、不祥事を隠す学校も教師も信頼できない時代に子供の教育は大変な負担です。日本人はこんな教育に、大学までに学生ひとりに約1500万円の教育費を税金から補助しています。 自己責任の努力と挑戦でも到底対処できない社会で、日本人は自己責任の大きさと重さに潰れてしまいそうです。

受験勉強のような勉強が一生要求される21世紀の自己責任の競争社会は、大人であっても子供以上の勉強が一生涯要求されます。休むことなく続く「努力と挑戦」の日々に日本人は絶えられるだけの覚悟ができているのか、本当に疑問です。

さらに、自分や家族の安全まで自己責任で膨大なコストをかけなければならない日本人の21世紀は悲惨です。日本の警察は、被害者にならなければ相談には乗ってくれません。被害が出てはすでに遅いのですが、被害がないと動けないのが日本の警察であり法律なので、日本人は被害防止を個人の努力で乗り切るしかないのです。

生きている間は永遠に続く21世紀の「努力と挑戦」と「自己責任のリスク回避」の日々を戦い抜く覚悟が日本の大人にも子供にも十分に理解されているのかといつも考えます。

日本人全体を考えると、日本は世界でその日の食事に困る人類が24億人以上いる中で、先進国の人類の勝ち組20%に入ります。日本のレストランや家庭やコンビニなどから排出される食品廃棄物は年間1940万トンと試算され、全世界の食糧援助の総量と同じ食品を贅沢にも日本人はその大部分を産業廃棄物として捨てています。日本人は世界平和を願いながら、一方では世界全体を飢えから開放できるくらいの食料を自分達の贅沢のために廃棄している現実があります。

最近は「勝ち組」や「負け組」という言葉が使われますが、「勝ち組」は社会全体の0.5%程度です。どんな状況であっても「負け組」に転落しない「真の勝ち組」は0.5%で、「勝ち組」と思わされている人々が、約20%ほどいます。「勝ち組」とおもわされている人々は実は状況が変われば「負け組」や「言い訳組」に転落する人々です。また、「勝ち組」ではないが「負け組」でもないと言い訳する「言い訳組」が50%ほどいます。さらに「負け組」と感じている20%ほどの人々がいて、「大負け組」とも言える残りの約10%は生活に本当に困窮している人々です。「勝ち組」と「負け組」の話は最終的には0.5%の「絶対的勝ち組」と「転落の可能性ある負け組」99.5%のことなのです。先進国を見ても大富豪家の経済支配は絶対的です。資本主義とはそんなものだと覚悟もなしに先進国並みの競争社会を実現するということは米国並みの100万人のホームレスはないと思いますが、欧州各国並みの日本でも50万人レベルのホームレスを生み出すかもしれない恐ろしいことなのです。

日本人は明治維新でやっと、身分と職能階級と地域から開放されました。個人の名前を持ったのも武士や貴族階級以外の日本人は明治からです。身分と職能階級と地域から開放された日本人は企業という終身雇用制の新たな拠り所を見つけましたが、21世紀はもはや企業からも追い出され身分や職能や地域や企業から解放され、個人だけが拠り所となりました。自己責任の時代はこれまでに経験しなかった負担と責任を国民ひとりひとりに要求しています。 本音を言えば、日本人は21世紀の競争社会には不向きな国民ではないかと私は考えています。

正確に言えば、日本人は21世紀の世界的な競争社会の覚悟ができていない国民と言えます。 日本人は「単なる個人生活のささやかな安定」欲しいだけですが、社会の仕組みとして実現できるのではなく、永遠に続く「個人の努力と挑戦」の結果として実現できるものとなりました。21世紀は「楽をして休む」ことは他人に追い抜かれて転落ということになりますから、一生楽をすることはできない時代になったのです。日本人が21世紀の世界的な競争社会に適応していくことはまだまだ多くの時間がかかります。日本人自体の意識改革にまだまだ時間がかかるということは、日本の政治や社会の改革もまだまだ永い年月がかかるということです。

日本人は「安定を望む民族」ですから既得権益を確保しようとします。「職業の世襲制」を確保し、家族の安定を実現するためには業界ともども既得権益の確保を望みます。無限の競争により、いつでも「個人の努力と挑戦」で変動する社会的地位など、日本人は望んでいません。一度手に入れた地位や権益は手放したくないのです。現在でも日本企業の組織で地位の逆転が日常であれば、組織として機能しません。日本企業でさえ競争社会に対応したものにはなっていないのです。他人の業界や組織の改革は望み、自分の地位や権益が激変する業界や組織の改革は望まないのが日本人の本音ではないでしょうか。 一度手に入れた地位や権利を競争によって手放したくないと考える日本人は多いと思います。

秘書給与の件で起訴された辻元清美議員の罪の重さを考えると、日本の大学医学部医師の名義貸し問題はなぜ問題にならないのか不思議です。病院の医師の数が足りないと医療報酬が減額されるからと言って、国公私立大学医学部医師が全国で1161人も病院に名義貸しを行っていました。厚生労働省から名義貸しによって減額されずにすんだ病院の診療報酬から名義義貸し料を全国の大学医学部医師が組織的に貰っていたのですから驚きです。国民の税金から支出される病院の診療報酬を不正に請求し、日本の大学病院医師がその不正請求に組織的に加担して、報酬まで医師が受け取っていたとは信じられない事実です。しかも違法な行為として、病院も大学病院も医師も起訴されることも処分もないとはさらなる驚きです。

アジアの国家経営者や企業経営者が急速に21世紀型の競争社会の教育を実現し始めているのを考えると、日本の国家経営者や企業経営者だけでなく、21世紀型の世界的な知性競争社会の覚悟が日本人には必要だと心から感じます。

中国のエリート大学の清華大学に留学した遠山氏は、中国は数千年の科挙の国家試験による人材登用の歴史があると語っていました。能力によって、身分や人種を超えた人材登用制度の歴史は、欧米や日本なんかと比べ物にならないと言います。 また、中国の貧富の格差は問題にならないとも言います。中国人全体が裕福になっていっており、貧しくなる人間がいないのが現在の中国だというのです。貧富の格差は日本人が感じるのとは違うと言うわけです。年収1万円もなかった国民がこれからどれだけ世界的な富の獲得のために努力し挑戦してくるかは、中国精華大学の秀才の多くは貧しい農村出身者であることでも分かります。「世界の富に対する永遠の努力と挑戦」を継続するだけの貧しい農村がある限り、富を求める中国人の勢いは衰えないと言うのです。都市の裕福さに満足しない農村出身の秀才達の今後100年以上は続くだろう「世界の富に対する努力と挑戦の情熱」が中国急激な発展を支えつづけるのです。

日本には「成り上がり」という言葉があります。身分的な考え方ですが、「成り上がり」は中国や韓国では千年以上も前からあたりまえです。全国的な科挙による身分や人種を超えた選抜試験による人材登用制度は、自己責任による「努力と挑戦」であり、中国では数千年の歴史があります。中国や韓国では個人の能力による「成り上がり」という言葉が無意味であると感じさせます。「単なる個人生活のささやかな安定」を求める日本人の身分的な発想や世襲制による安定への願いなどを引きずる日本は、21世紀の世界的な競争社会の中で、今後大きな国民的発想の転換が必要なのかもしれません。

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > 政治・選挙・NHK13掲示板



  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。