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規制緩和 何をもたらすか(内橋克人ほか、横浜市大永岑研究室編)---「市場原理」の反動的本質(1)
http://www.asyura2.com/0505/senkyo13/msg/887.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 9 月 10 日 02:23:33: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 凶悪な市場原理政治  政治は独裁、食えない市民  【長周新聞】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 9 月 09 日 23:10:10)


http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20030310MSDokUchihashiBassui.htm


規制緩和 何をもたらすか(内橋克人,ジェーン・ケルシー,大脇雅子,中野麻美 著,1998年)より

---------------------------以下、貼り付け---------------------

すり替えられた規制緩和 内橋克人


規制緩和に反対すると非国民扱い


 私は、ジャーナリスト生活を始めて四〇年になります。その間に、一九六〇年代半ばの資本・貿易自由化もありましたし、一九七三年秋に始まったオイルショックもありました。また、それにつづく第一次の円高が、日本経済を直撃するなど、さまざまな困難に見舞われる日本を見てまいりました。しかし、その都度、多くの人々が汗と知恵をふりしぼって、何とか、危機を乗り切ることができたと思います。

 ところが、九〇年代を迎え、バブル経済が崩壊致しましてから、私たちの社会はきわめて深刻な不祝に突入しました。この不況は、一般にいわれる資本主義経済に特有の、循環型不況とは趣を異にしているということです。危機の真因は、きわめて構造的なものであり、過去、日本をして経済大国たらしめた構造そのものが、今度は、日本の行き詰まりを招いているということです(私は従来より、私たちの国は生活大国になれない道を選んだからこそ、経済大国にたり得たのだと主張してまいりましたが)。


 私は、九七年より、公正取引委員会の「政府規制研」に参加してまいりました。そこで議論されていることは、再販価格維持制度の存続の是非をめぐる検討です。再販価格維持制度というのは、書店あるいは新聞販売店が、新聞杜あるいは出版杜から最終の消費者に、予め決められた値段を守って販売する制度のことです。この制度のあるお陰で、遠隔の過疎地や地方で新聞を宅配してもらう料金と、便利な都市での購読料金が同一に保たれ、戸別配達が維持されているわけです。けれども、再販廃止論者たちは、地方と都市での値段が同じであるのはけしからんと、主張します。これはつまり、私たちが、民主社会に生きて、たとえば代表としての政治家を選ぶに際してその判断を下すのに必要な情報の対価が、地方に住めば住むほど高くなってもそれはやむをえない、コストが高く付いたところで高く売るのが正当な市場原理である、という理屈です。


 再販制度が廃止されれば、中小零細な書店はなかなか経営が立ち行かない。本当にいい本が、世の中に流通しない。新聞についても、全国同一水準での戸別配達制度が成り立たない時代の到来が当然予想されます。

 それでもなお、市場原理の例外なき貫徹こそが正義だ、日本人の幸せになる、と彼らは主張をつづけています。そうした彼らの論理からすれば、今日、ここにお集まりになっているみなさん方は、古い「既得権」にしがみつくけしからん人々だ、ということになります。

 もう二、三年程前になりますか、『なぜ規制緩和は進まないか』というテレビ討論番組がありました。番組には私も登場致しましたが、要するに、規制緩和はすべて正しく、望ましいものだ、それがどうして進まないのか、というアングルでした。

 新聞、テレビ、公共放送など、ほとんどのメディアがこうしたアングルで制作され、世の中を覆ってしまったわけです。最近の番組を拝見しておりましても、登場する経済学者あるいはエコノミストらはいずれも強烈な規制緩和論者です。とりわけ、行政改革委員会の規制緩和小委員会のメンバーなどが、金融ビッグバンについての解説、あるいはまた規制緩和に関連するメディアに相次いで登場しております。規制緩和をやらなければ日本は世界に遅れていく、国際競争力が弱くなってしまう、景気は回復しない、新しい産業フロンティアも開けない、そういう雰囲気がどんどん作られております。

 恋愛は美しき誤解によって成立し、結婚は真実を見る目によって破壊されるといいますが、日本におきましては規制緩和に関しましても、美しき誤解によって、一世を風靡しやがて地獄を見ることによって初めて人々はその本質を知ることになるのではないでしょうか。

企業行動完全自由化要求運動

 そこでまず、日本における規制緩和はどういう特徴をもって進んできたのか、項目に分けながらお話をしたいと思います。

 戦後、わが国におきましては、経済民主主義が大変強調されてまいりましたけれども、現実には、今に至るまで官僚独裁、行政独裁の構造が大変長く続いてきました。何事も官僚、行政の裁量下にありまして、民は官のお伺いを立てなけれぼ物事を成すことができない状況です。こうした現実へのアンチテーゼとして、真の意味での民主的な社会を再構築するには、何よりもまず、行政官僚が掌握しておりました権力を民に再配分することが至上命題であり、規制緩和はそのための方策なのだ、と私たちは説得されてきました。

 ところが、官から民へ、という権力の再配分の向かう先は、民は民でも市民ではなく巨大な民間企業に権限を移そうという方向であり、それがあっという間に進んでしまいました。国家権力の再配分先には市民はいうまでもなく、中小零細企業も、中小零細な商店も入っておりません。つまり規制緩和によってダメージを受ける当事者がすべて排除されたまま政策プログラムは進んでいるのです。その本質を一言で申しますと、いま進みつつある規制緩和とは経団連傘下にある巨大なる企業にとっての企業行動完全自由化要求運動にほかならないというべきです。経団連とは、いうまでもなく、五五年体制下の自民党支配を政治献金などによって支えた財界の組織です。私はこの現実を「すり替えられた規制緩和」と呼んでおります。

 四〇年間、日本経済を見てまいりました私には、長らく経団連が主張してきたことが今、規制緩和の名の下に、一挙に、あれもこれも実現されようとしていることが、とてもよく分かります。権力の多くが、官から民へと移る代わりに、官から業へ移っているというのが偽らざる実態です。

 これまで日本社会の大きな弊害として、鉄のトライアングルと呼ばれる構造がさんざん取り上げられてまいりました。政、官、業の癒着です。今、これを打破しなければならないのに、政から官へ、官から業へと、その三者の仲間うちで権力、権限が回されている。

そうした中で、今、ショウケツを極めておりますのが、「規制元凶説」というものです。日本経済が活力を失い、成長力を衰弱させているのも、すべて規制が悪い、という議論です。そこから「例外なき規制緩和」というキャッチフレーズが飛び出してきました。

 最近では、私どもの議論に影響を受げて、規制緩和一辺倒は必ずしもよろしくない、経済的規制は撤廃しろ、社会的規制は置いておけ、というふうな議論も出てきてはおりますが、こうしたささやかな抵抗などはすでに規制緩和推進論者があっさりと論破しておるところです。先般、NHKのETV特集で、三日間にわたって評論家の堺屋太一さんが規制緩和、構造改革について論じておりました。その中で主張されているもっとも大きな柱は、経済的規制も社会的規制も区別は無い、社会的規制という名の経済的規制がはびこっているんだから、という議論でした。いまは要するに「例外なき規制緩和」こそが社会正義なのです。

 次に、二番目の特徴に移りたいと思います。

 現代日本社会を覆っている行政、官僚に対する反感と反発、批判、これを追い風としているということです。要するに日本の行政組織と官僚が悪いんだ、これを征伐しなければならないという。こうした一般社会の雰囲気を追い風として、いつの間にか規制緩和は社会的正義となった。規制緩和に反対をすると、社会正義に刃向かう輩、ということになるわけです。いってみれば、戦前、戦時の国民精神作興運動に同じでしょう。日本において、何か出来事が起こりますと、たちまち精神運動に高められていく。

 それとともに、行政独裁に代わって、アッという間に市場競争原理至上主義が登場し、今度は「自己責任原則」というスローガンが掲げられるようになりまた。この二つは、むろん裏腹の関係です。いま進みつつある規制緩和のもとで、庶民に強要される「自己責任」とはどういうものか。

 たとえていえば、従来ですと、自宅が強盗にやられたと致しますと、悪いのは強盗だと誰もが考えた。ところがそのうち今度は、いや、鍵を掛け忘れたお前も悪い、ということになり始めた。お前も悪いといっている間はまだよかったのですが、今ではさらに、鍵を掛け忘れたおまえが悪い、と被害者の方が責められる社会が来ようとしています。[2]

 まもなく、「ぺイオフ」の時代が始まります。個人が一つの金融機関に一〇〇〇万円を超えて預金をしておりますと、万一その銀行が倒産に陥つた場合、一〇〇〇万円を超える分は戻ってきません。二〇〇〇万円までは預金保険機構の保険によってカバーされるけれども、それ以上は自己責任だ、そんな銀行に預けたお前が悪いんだ、とそういう社会になろうとしている。これが、自己責任であります。

 このように、いまになって声高に叫ばれる自己責任論というものについても、私たちは、真の意味というものをきちんと見抜くことが大事だと思います。

 いうまでもなく、真の意味での、規制緩和は進めなけれなりません。あまりにも過剰に行政官僚の手に集中した権限、すなわち規制というものを取り払つて、権限を市民の手に移していかなけれなりません。そのための規制緩和は、必要です。しかし、残念ながら、その規制緩和があっという間にすり替えられて、政、官、業の内輪の、権力の仲間回しの規制緩和が進んでいると指摘したいのが私の二番目の主張です。

 それから、三番目です。いま、私たちの社会で進みつつある規制緩和については、光の部分、いわゆる薬の効果の面だけが強調され過ぎている。規制緩和さえすれば不況から脱出できる、新しい技術が開発され、産業フロンティアが開ける、人間の自由な創造力が解放され、これまで個人を縛ってきた桎梏からも自由になれる、そういうイメージで語られます。けれども、たとえ官から業への規制緩和でありましても、その中にはもちろん、薬でいいますと副作用がある訳です。その副作用についてはほとんど全く触れられていない。

 たとえば、私たちは、力の大と小の間の公正な競争とは何か、公正な競争を確保できる制度のある社会を望んできたわけです。たとえば、巨大な資本もあれば、同時に中小零細な地方の商店街もある。そういう商店街の零細な自営業と、欧米の資本とも十分対抗できるような巨大な流通資本とが、同じ土俵の上で、剥き出しの競争をすればどうなるかについて、多くの経験を持っています。ですからこそ、作り上げてまいりましたのが、「調整」の精神を軸に据えた、社会的調整のための各種の制度でした。

 大規模小売店舗法(大店法)もその一つとして生まれたものだと思います。その大店法も、今や市場の自由をそこなうということで、完全撤廃に向けて進んでいます。

壊滅する商店街

 ところで、そうしたことの結果、いま日本社会で何が進んでいるのでしょうか。もう少し具体的な現実をみていきましょう。

 みなさん方は多分、本日は雇用・労働という、限られた分野に限っての問題意識でもってお集まりになっている方が多いのではないでしょうか。しかし、雇用・労働は重要なテーマではありますが、その雇用・労働における規制緩和に異を唱えようとするみなさん方は、同時に消費者なのであり、その消費者であることの中身とはいったいどのようなものでしようか。仮にみなさん方が日々、単にモノの値段が安ければいいのだという消費行動、あるいは、何かといえば便利な車で行動する、というような生活スタイルを日常のものとしておれば、そのような生活行動が「消費者主権論」を勢いづかせている訳です。

 ここに、『岩手日報』という地方紙の全面広告があります。九七年六月三日の紙面です。私はここのところ全国の商店街をずっと歩いており、むろん、この盛岡の街にも行ってまいりました。いまその盛岡で何が起こっているでしょうか。

 この全面広告は「盛岡の街を守りたい」、という訴えです。いったいだれから街を守りたいのか。巨大ショッピングセンターの進出からです。みなさんも消費者として日常的に買い物なさるでしょう。クルマを飛ばして郊外の超マンモスのショッピングセンターへ出かけるでしよう。その巨大ショッピングセンターがいま境制緩和の名の下で、日本全国で何をしようとしているでしょうか。

 この全面広告には、樹と水の都、盛岡を守りたいと書いてあります。「みんなが育んできた美しい町が巨大ショッピングセンター(SC)の進出で失われようとしています」「あまりにも無謀な大きさです」「言わば、既におなかが満ちている赤ちゃん、その口に、無理やり三本の哺乳瓶を突っ込むようなものです」、と書いてあります。内容を読みますと、とてもいい文章です。

 何が起ころうとしているのか。状況を紹介しましよう。計画によりますと、東北自動車道のインターチェンジに沿って、三つの巨大なショッピングセンター、が生まれようとしているということです。たとえば、その内の一つ、ダイエーのショッピングセンター計画の大きさは、売り場面積だげで一〇万平方メートルです。残りの二つのSC(ショッピングセンター)を合わせまして、合計実に一八万平方メートルです。一八万平方メートルの売り場面積が、どれほど大きいものか。少しでも事情に明るい人ならたちまち仰天するでしょう。これまで、盛岡の商圏において営業を営んできた小売店は全部で四〇〇〇店を超えます。その四〇〇〇店の売り場面積の合計が、一五万平方メートルです。四〇〇〇店の合計面積を二割以上上回るほどの巨大なショッピングセンターが、しかも車を使わなければ行けないような郊外に、三拠点もできる。私は、そのなかの一つに、現地まで行ってまいりました。

 盛岡の方々は、岩手山(盛岡市北部、標高二〇四〇メートル。岩手富士とも呼ばれる)を、とても愛しています。私たちがまいりましたときも、山の頂上の辺りは、黒味を帯びた夏の雲ですね、夕立でも降るんでしょうか、夕立雲の垂れこめる風景の中の岩手山は大変に美しい姿でした。その岩手山を遠望しながら広い国道に沿って、豊かな田んぼがどこまでも広がり、いまを盛りとばかり早稲が、頭を垂れて黄色く色付いておりました。こんな素晴らしい風景の、そのどまん中に巨大ショッピングセンターができる訳です。その田園地帯は実は巨額の税金を投入して育んできた農業振興地域です。その田んぼをすべてアスファルトで埋め尽くし、最低五〇〇〇台の駐車場を造る計画になっております。盛岡市街地から車でわずか一五分位の地点です。

 市民は、盛岡には盛岡の伝統がある、宮沢賢治の碑が至る所に見られるような街の、そして独特の雰囲気をもつ商店街が危機感に襲われ、一般市民もまた、これに歯止めをかけたい、街を守りたい、と訴えるのは当然のことではないでしょうか。


 規制緩和を主張する人々は、「消費者主権」、「消費者の利益」という言葉を大々的に叫びます。零細な小売店が複雑な流通経路を経てモノを売るから日本は高コスト体質になるんだ。だから、中小零細な小売店の集合体である商店街など早く潰してしまえ、大規模ショッピングセンターに集中するほうが、日本の高コスト体質の解決にプラスになると広言しています。その論拠の一つが、小売店の生産性の低さだということです。

 やはりNHKの番組で、私はある規制緩和論者と討論致しましたけれども、その時、彼が持ち出してきたデータは、多くがこの生産性。国際的に見て、日本の流通業界の生産性がいかに低いか、というものでした。

 私は、では、あなたのおっしゃる生産性の数値の中に、何が入っていて、何が入っていないでしょうか、と反論したわけです。たとえば、地域の商店街は、過去、どのような形で地域社会とつながってきたでしょうか。たとえば祭りをやる、お御輿を担ぐ、これなど生産性の数値からすれば、マイナスばかりです。私が今住んでおります地域におきましては、いまだ御用聞きがあります。電話によって、御用聞きをする、あるいは奥さんが午前中、住宅街のお得意さんを歩いて、その日の注文をとってきます。そして、魚の半身一枚、夕刻に届けて来る。私は別にその事だけが大事だといっているのではありません。そのような地域社会をケアする、という営みは、生産性という数字の中のどこにカウントするのか。地域杜会に貢献すればするほど生産性などという数値はマイナスになってしまう。地域の商店街の果たしてきた社会的役割について、そのような経済学者はどう考えているのか、それを問うているのです。以上のような現実は、経済学者のいう生産性という数字のどこに入ってくるのでしょうか。


 再販制の問題を検討する公正取引委員会においても、多くの人々は、「新聞再販は消費者の利益に反する」といいます。ではいったい消費者とは誰なんでしょうか。


口を開けば、消費者の利益ということを正義の御旗として押し立てますが、盛岡の事例からも分かりますように、いま消費者と生活者、消費者と市民が、対立しているのが現実ではないのですか。

 こうした集まりで、いつも思うことがあります、行政が縦割りでタコ壷だ、といいますが、市民運動もまたタコ壷ではないのか、と。環境は環境、労働は労働、教育は教育。みんな分かれてバラバラに孤立しています。それでお互いに、俺たちだけが大変なことをやってるんだ、と思い込んでしまう。

 インテグリティという言葉があります。全体的な整合性という意味ですが、私たちの思想、行動もこのインテグリティをもたなければ、結局、やられてしまうでしょう。もし規制緩和に異議を唱えるのであれば、雇用・労働という限られた平面だけでどれほど大きな声で叫んでみても、最終的には押し潰されてしまうでしょう。


「市民主義」に対峙する「市場主義」

 終わりに、いま進みつつある事態について、さらに二点、軽視できない背景事情に触れておきたいと思います。

 第一に、一九七八年の航空自由化に始まったアメリカのディレギュレーション、つまり規制緩和の流れは、その後、「市場原理至上主義」として世界経済に決定的な影響を与える一種のイデオロギーにまで高められていく訳ですが、その論理的根拠はシカゴ学派と呼ぼれる経済学、すなわち新古典派経済学(新自由主義学派とも呼ぱれている)によって築かれた、という事実です。つまり、背景には経済学の一学派が存在するということです。


 それは、ケインズ理論を基礎とするニューエコノミックスに対立して、ミルトン・フリードマン米シカゴ大学教授らによって唱導されつつ登場し、たちまち全米の学会を席巻するに至る学派ですが、何よりも、自由な価格機能の復活、市場機能の絶対視、通貨供給量の重視、そしていわゆる「小さな政府」を最善のものとする理論において、他の学派とは決定的に違っていること、などに特徴をみることができるでしょう。


 一言でいえば、何事も市場に委ねさえすればうまくいく、市場機能の働きによって最適の資源配分が達成される、というもので、雇用・労働もまたその例外ではありません。

 レーガン政権の時代、この新古典派経済学は現実の経済政策形成の場において強い影響力、発言力を発揮しつつ興隆し、やがて全米の経済学を制圧していったといわれます。

 現在では、世界銀行、IMF(国際通貨基金)などが、経済危機に瀕した新興工業国、開発途上国を救済する、という国際的な経済活動の分野においても、新古典派経済学がべースとなって「新古典派型開発戦略」がとられるようになりました。したがって、経済援助の条件として「国営企業の民営化」「政府介入余地の縮小」「投資環境の整備」「賃金コストの抑制」などが義務づけられるようになっているわけです。


 これがすなわちビッグバン・アプローチと呼ばれるものです。


 日本の経済学と経済学者がその影響を受けないはずがありません。学問的影響どころではなく、その口移しともいえるほどの“そっくりさん”がたちまち猛威を振るうに至った、といえるでしょう。元祖を上回る「規制緩和一辺倒論者」「市場競争原理至上主義者」が多くの大学に輩出し、今日、キャンパスで石を投げると新古典派の大小の経済学者に当たる、といわれるまでになった。彼らが日本における規制緩和の強烈な唱導者となってメディアに頻繁に登場し、大衆説得に力を発揮している。当然、予測された事態であったというべきでしょうが・・・。

 第二に、重要なことはこのような理論的根拠をもつ新古典派経済学がまさに日本財界・経済界にとって好ましいばかりでなく、期せずして新しい理論武装のための最強の武器になり得たという事実です。


 この点についていま少し詳しく掘り下げておく必要があるでしょう。


 日本の財界は長い間、「自由経済を守る」という大義名分を全面に押し出すことによって、多くの日本的な経済の仕組みを保持してきました。たとえば経団連を介しての特定の政権政党に対する政治献金などは民主主義の原理そのものの否定であるわけですが、「これは自由経済を守るためのコストだ」といって巨額の献金を正当化することができたわけです。

 ところが、冷戦構造の崩壊によってこのような論理はもはや通用しなくなりました。「自由経済を守る」などといっても、周りの、ほとんどすべてが自由経済、市場経済化し、市場経済が世界全体を包み込む原理になってしまった以上、いったい誰から自由経済を守るのか、ということになるでしょう。冷戦構造の崩壊、旧社会主義圏の崩壊は、同時に、日本の“経団連的論理”の崩壊を意味することにたってしまったのです。

 当然、日本の経済界は新たな論理を構築する必要に迫られることになりました。

 しかし、望まれる新たな論理は次のような複雑は条件を満たしたものとして立ち現れる必要があったのです。

 何よりもまずかつての日米貿易摩擦のように、アメリカの国益に真っ向うから逆らうものであってはならないこと。アメリカ主導のグローバリズム(国際化)の波に棹さすものであってはならないということです。

 次に国内では、過去の官主導・行政独裁の政治・経済体制が、すでに限界と矛盾を露呈しつつあるなか、官僚に対する国民の反発は急激に高まっており、したがって新しい論理もそうした「反官僚」感情への同調、つまり官僚への国民の反感と反発に応える方向性に沿ったものになっている必要があったでしょう。

 それにもまして、新しい論理は何よりも昨今、急速に高まりつつある「市民主義」への対抗力を十分に備えたものでたければならなかった。市民主義というのは経済の領域に関していえば、企業行動を「市民社会的規制」のもとにおく、という思潮です。

 市民主義は、地球環境問題に限らず、街づくりから安全問題まで、広範な社会的責任を企業に迫る体質のものであり、財界からすれば、社会的コストの内部化というさらなる負荷を企業に求める「市民主義」への警戒はきわめて強いものがあったわけです。

 市民社会的規制も含むあらゆる規制の撤廃、つまり「例外なき規制緩和」という言葉こそ、以上に述べてきたような事情の集約的表現であったことがよく理解できるのではないでしょうか。

 こうして「市民主義」に対峙できる「市場主義」が時代の思潮として、日本経済の主流をなすような財界人の世界に、激しく台頭することになりました。「市場主義」こそ、以上に述べてきたような、すべての条件に適合していたからにほかなりません。

 それはまことに力強い大衆説得力をも兼ね備えた学説であり、反官僚、自由、開放、自立の代名詞として押し立てるのにもっとも好都合の思潮でもあったからです。

 加えてバブル崩壊後の、深刻な不況からの脱出を願う中小零細な企業家たち、また一般サラリーマンの人々への説得性においても抜群の力を発揮する思潮でした。

 当初、規制緩和が見事な「万能論」として登場してきたのはこういう歴史的背景によっていたということができます。

 この戦列にただちにマスコミが馳せ参じたことは繰り返すまでもありません。規制緩和はマスコミにとってもまたお誂え向きのスローガンでした。

 やがて運動は「改革」のキャッチフレーズのもとに集約化され、高揚し、結集されていくのですが、いまにして振り返ってみれば「改革」の真意とは何であったのか。

 医療改革ひとつ、改革という名の国民負担の増大にほかならなかったことが、もはや見事に証明されている、といえるのではないでしょうか。


「消費者」とは誰か

 いま、行革旋風の吹き荒れるなか、職を失う立場の、ごく普通の官庁職員の雇用・労働について、私たちはいったいどう考えるべきなのでしょうか。

 官庁職員の人数を減らし、職員の首を切って行政をスリム化しなければ、国民負担がますます重くなるばかりではないか、というような国民感情や論理に対してどう対応するのか。どう考えるのか。「国民感情」という、とらえどころのない、しかし、決して無視できない空気のなかにも人間を労働の材としてしか認識しない「市場主義」がしのび込んでいることを、私たちはシャープに洞察することが望まれていると思います。

 同じこと規制緩和をめぐる議論のなかで強調される「消費者利益」についても、いえることです。

 大店法撤廃で地方の商店が壊滅しても、郊外の巨大ショッピングセンターで安い買い物ができるようになるからいいではないか、消費者の利益になるではないか、と規制緩和一辺倒論者たちは公言しているわけですが、これに対してタコ壷型の市民運動なら多分、容易に双手をあげることでしょう。

 現にガソリン価格をもっと下げろ、クルマ社会をもっと便利にせよ、と熱心に運動を展開している市民団体、消費者団体が各地に数多く存在しているのですから。

 タコ壷型思考から脱する、とは具体的にどういうことでしょうか。

 たとえば、市場において私たちは「消費者」という言葉に還元されてしまうわけですが、しかし現実には、一人ひとりの個人は「生きる」「働く」「暮らす」の統合体として生存しています。

 「暮らす」ということの条件をより良くするには、同時に「働く」という条件が良くなってくれなげればならないでしょう。この二つの条件が良くなってこそ、「生きる」という三つ目の条件もまた充実するはずです。

 もともと三つの条件はバラバラにあるのではなく、いつも三位一体のものとして現実の中で統合的に展開しているわけですから・・・。具体的にいえば次のようになるでしょう。

 たとえば、消費者であれば、モノは何でも安く買えさえすればいいのだ、というのではなく、安いのは結構だけれども、ではいったいこれはなぜ安いのか、そう問う消費者、私はそのような人びとを「自覚的消費者」と呼んできましたが、そのような自覚的消費者を一人でも増やし、また自らも日々の消費行動のなかで目指していくこと、それがすなわち「全体的な整合性(インテグリティ)」を追及する道ではないか、というふうに思います。

 実際に、破壊的に値段の安い商品が店頭に並んでいたとして、いったいこれはなぜかくも安いのか、生産者はこれで生産費さえもまかなうことができているのだろうか、あるいはひょっとすると生活費さえもまかなうことができないような条件で、この商品は調達されてきたのではあるまいか。

 「開発輸入」の商品であれば、それを生産している第三世界の国の人々は、いったいこのような交易条件で果たしてどんな苦境に陥っているのだろうか、そう問う消費者でなければ、ということではないか、と思うわけです。

 安ければそれでいい、中小零細な小売店はつぶれてもよい、駐車場のないような商店街など不便で行けない、しかし、公務員である自分は公務員の整理だけは反対、という論理では、「全体的整合性」を求める運動とはいえず、今日、もはや国民的支持を得ることもむずかしいでしょう。

 雇用・労働の規制緩和に異を唱えるのであれば、いま述べましたような「思考の分裂」から如何にして脱却していくのか、そういう大きな課題に取り組んでいくほかに道はない、と思いますが、如何でしょうか。

 かつてアメリカではケネディの時代、「消費者・四つの権利」宣言がなされました。四つの権利とは「商品を選択する権利」「安全な商品の提供を受ける権利」「知る権利」、さらに「意見を採り入れさせる権利」というものでした。

 「知る権利」ということでいえば、先に紹介したような盛岡の市民は、巨大SCの進出によってこれから先、自分たちの生きるコミュニティがどうなっていくのか、将来の街の運命をも知る権利がある、ということになります。

 同時にまた、そのような消費者の権利の中には、巨大なSCの進出で予想される、車による騒音被害や交通渋滞などの環境悪化から、地域社会を守るため巨大流通産業に対して「意見を採り入れさせる権利」も含まれるはずです。

 ケネディの時代に行われた「消費者の権利」宣言は、いま日本で唱えられているような、モノを安く買えさえすればそれで消費者の利益は満たされる、というような「消費者主権論」、あるいは一元的な「消費者利益」論とはまったく異なっていることは明らかです。

 経済の問題を市場の問題に矮小化する、このような言説によって利益を受けるのは、結局、私たち当の消費者ではなく、巨大SCとか、市場から中小零細な「日本的自営業」を最終的に駆逐してしまう、製造業も含む巨大資本そのもの、ということになり兼ねないでしよう。

 消費者とはいったい誰なのか、を問うことが同時に「雇用・労働における規制緩和」の正体を見抜く道に通じるはずです。


 以上、まず問題提起として「いまそこにある危機」について話しました。

 私たちが、まさにその渦中に生きる一九九〇年代の十年、世界の資本主義・市場経済はどのような内実へ、と変質しつつあるのか。これからのジェーン・ケルシーさんのお話、またそれに続くシンポジウムの中で明らかにされていくことを期待しながら、ひとまず私の話は終わりたいと思います。


------------------------------以上貼り付け終わり--------------------

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