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世阿弥元清 『風姿花伝』(花伝書) 【松岡正剛の千夜千冊】
http://www.asyura2.com/0505/senkyo14/msg/1296.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 9 月 28 日 22:39:22: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 【テレビ小泉劇場の次の役者(杉村太蔵)を創建した、世耕弘成(せこう ひろしげ)】 「それならば党本部で」 【世耕日記】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 9 月 28 日 22:23:50)

世阿弥元清

『風姿花伝』(花伝書)
1978 岩波文庫・1979 講談社文庫 他
岩波文庫(野上豊一郎・西尾実校訂) 
講談社文庫(川瀬一馬校注)
transelater

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0118.html

こんな芸術論は世界でも珍しい。ぼくがヨーロッパ人なら詩学とか詩法と名付けたい。

 なにしろ600年前である。ブルネッレスキがやっとヴィトルヴィウスを発見し、ヴァン・アイク兄弟が出てきたばかりのときだ。アルベルティの絵画論ですら、『花伝書』の25年あとである。

 それも建築論や絵画論なら、まだしもわかる。『花伝書』(風姿花伝)は人の動きと心の動きをしるした芸能論である。教育論である。証拠がのこらないパフォーマンスの理論であって、しかもそこには楽譜のようなノーテーションやコレオグラフはひとつも入っていない。ただひたすら言葉を尽くして芸能の教えを述べた。

 それでいて、ただの芸能論でもない。観阿弥が到達した至芸の極致から人間を述べている。

 それを世阿弥が記録して、省き、言葉を加えて、さらに磨きをかけた。したがって、これは世界史的にもめったにあらわれぬ達人の世界観でもあって、かつ極上の人間観にもなっている。それがまた人後に落ちぬ秘伝であることも珍しい。

 ちなみに「達人」という言葉は『花伝書』の序にすでに用いられている言葉。観阿弥・世阿弥の父子はあきらかに達人を意識した。


 実は『花伝書』は長らく知られなかったのである。

 明治42年に安田善之助の所蔵の古伝書群が吉田東伍にあずけられ、それが世阿弥十六部集の校刊となって耳目を驚かせたのであって、それまでは数百年にわたってあまり知られていなかった。

 ということは、『花伝書』はそれぞれの能楽の家に口伝として記憶されたまま、半ばは文字のない文化の遺伝子として能楽史を生々流転していたのだということになる。『花伝書』は現在では各伝本とも7章立てに構成されているが、その各章の末尾に秘密を守るべき大事のことが強調されているのが、その、文化の遺伝子を意識したところである。「ただ子孫の庭訓を残すのみ」(問答)、「その風を受けて、道のため家のため、これを作する」(奥義)、あるいは「この条こころざしの芸人よりほかは一見も許すべからず」(花修)、「これを秘して伝ふ」(別紙口伝)といった念押しの言葉が見えるところだ。

 こうした秘密重視の思想の頂点にたつのが、別紙口伝の「秘すれば花なり、秘さずば花なるべからずとなり」である。これはやたらに有名になって人口に膾炙してしまった言葉だが、その意味するところは、いま考えてみても、そうとうに深い。まずもって「花」とは何かがわからねばならないし、そのうえで「秘する」の実際が感受されなければならない。「家」を伝えようとしないわれわれには、とうてい表面的にしかわからない内実である。

 加うるに、このあとにすぐ続いて、「この分目を知ること、肝要の花なり」とあって、この分目(わけめ)をこそ観阿弥・世阿弥は必ず重視した。このこと、すなわち「秘する花の分目」ということが、結局は『花伝書』全巻の思想の根本なのである。そのことに思い至ると、ときどきふいに戦慄をおぼえる。


 本座に一忠がいた。これが名人で、観阿弥は一忠を追って達人になる。そして52歳で駿府に死んだ。

 だから世阿弥には達人のモデルがあったということになる。一忠が観阿弥の名人モデルで、観阿弥が世阿弥の達人モデルである。生きた「型」だった。

 そのモデルを身体の記憶が失わないうちにまとめたものが『花伝書』である。観阿弥が口述をして、それを世阿弥が編集したことになっている。きっと観阿弥がわが子世阿弥に英才教育を施し、死期が近づくころに、何度目かの口述をしたのだろうとおもわれる。それを世阿弥はのちのち何度も書きなおす。


 『花伝書』は正式には『風姿花伝』といった。世阿弥の捩率の効いた直筆「風姿華傳」の文字も残っている。

 それにしても『風姿花伝』とは、おそらく日本書籍史の名だたる書名のなかでも最も美しく、最も本来的な標題ではなかろうか。風姿はいわゆる風体(ふうてい)のこと、『花伝書』には風姿という言葉は見えないが、その本文にない言葉をあえて標題にした。

 その「風姿の花伝」、あるいは「風姿が花伝」なのである。風姿が花で、その花を伝えているのか、風姿そのものが花伝そのものなのか、そこは判然としがたく根本化されている。

 世阿弥はよほどの才能をもっていたとおもわざるをえない。とうてい観阿弥の言葉そのままではないだろう。川瀬一馬をはじめ一部の研究者たちは、世阿弥は観阿弥の話を聞き書きしたにすぎないことを強調するが、聞き書きをしたことがある者ならすぐにわかるように、そこには聞き書きした者、すなわち世阿弥の編集的創意が必ずや入っている。その創意、とりわけ世阿弥は格別だった。そんなことは『花伝書』を読みはじめれば、すぐわかる。

 
 ところで『花伝書』は現代語で読んではいけない。もともと古典はそうしたものだが、とくに『花伝書』にはろくな現代語訳がないせいでもある。けれども、もっと深い意味で『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。

 キーワードやキーコンセプトは実にはっきりしている。際立っている。第1に、なんといっても「花」である。ただし、何をもって「花」となすかは読むにしたがって開き、越え、迫っていくので、冒頭から解釈しないようにする。

 この「花」を「時分」が分ける。分けて見えるのが「風体」である。その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年ならばすぐに「時分の花」が咲くものの、これは「真の花」ではない。けれども能には「初心の花」というものがあり、この原型の体験ともいうべきが最後まで動く。それを稽古(古えを稽えること)によって確認していくことが、『花伝書』の「伝」になる。


 第2のコンセプトは「物学」であろう。「ものまね」と読む。能は一から十まで物学なのだ。ただし、女になる、老人になる、物狂いになる、修羅になる、神になる、鬼になる。そのたびに、物学の風情が変わる。それは仕立・振舞・気色・嗜み・出立(いでたち)、いろいろのファクターやフィルターによる。


 第3に、「幽玄」だ。この言葉は『花伝書』の冒頭からつかわれていて、観阿弥や世阿弥が女御や更衣や白拍子のたたずまいや童形を例に、優雅で品のある風姿や風情のことを幽玄とよんでいる。

 しかし、それは芸能の所作にあてはめた幽玄であって、むろんその奥には俊成や定家に発した「無心・有心・幽玄」の余情の心がはたらいている。その“心の幽玄”を見ていくのは、『花伝書』の奥に見え隠れするもので、明示的には書かれていない。われわれが探し出すしかないものなのである。もし文章で知りたければ、世阿弥が晩年に綴った『花鏡』のほうが見えやすいだろう。


 第4には、おそらく「嵩」(かさ)と「長」(たけ)がある。

 これは能楽独得の「位」の言葉であって、「嵩」はどっしりとした重みのある風情のことで、稽古を積んで齢を重ねるうちにその声や体に生まれてくる位である。これに対して「長」は、もともと生得的にそなわっている位の風情というもので、これがしばしば「幽玄の位」などともよばれる。

 けれども世阿弥は必ずしも生得的な「幽玄の位」ばかりを称揚しない。後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれる才能を、あえて「闌けたる位」(たけたるくらい)とよんで、はなはだ重視した。『花鏡』にいわゆる「闌位」にあたる。


 第5にやはり「秘する」や「秘する花」ということがある。すでに述べたように、これは「家」を伝えようとする者にしかわからぬものだろうとおもう。しかし、何を秘するかということは、観世の家のみならず、能楽全体の命題でもあったはずで、その秘する演出の構造を、結局われわれは堪能させられているということになる。このことは、別の「千夜千冊」の項目で、あらためて謡曲論あるいは能楽論として、ふれてみたい。


 こうして「花」「物学」「幽玄」を動かしながら、『花伝書』はしだいに「別紙口伝」のほうへ進んでいく。

 そして進むたび、「衆人愛嬌」「一座建立」「万曲一心」が掲げられ、その背後から「声の花」や「無上の花」が覗けるようになっている。それらが一挙に集中して撹拌されるのが「別紙口伝」の最終条になる。これがおもしろい。

 この口伝は、「花を知る」と「花を失ふ」を問題にする。そして「様」ということをあきらかにする。問題は「様」なのだ。様子なのである。しかしながら、このことがわかるには、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義であること、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」ということを知らねばならない。そうでなければ、「花は見る人の心にめづらしきが花なり」というふうには、ならない。そうであって初めて「花は心、種は態(わざ)」ということになる。

 ここで口伝はいよいよ、能には実は「似せぬ位」というものがあるという秘密事項にとりかかる。物学をしつづけることによって、もはや似せようとしなくともよい境地というものが生まれるというのである。そこでは「似せんと思ふ心なし」なのだ。
 かくて、しだいに「花を知る」と「花を失ふ」の境地が蒼然と立ち上がってきて、『花伝書』の口伝は閉じられる。

 ぼくは何度この一冊を読んだかは忘れたが、いつも最後の「別紙口伝」のクライマックスで胸が痛くなっていた。


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