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「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/535.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 20 日 08:25:13: SO0fHq1bYvRzo
 

「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)

写真は2004年3月27日に、パレスチナの旗を手にヤシン師の暗殺に抗議する「正統派ユダヤ人」たち(英国、Leicester)
http://www.nkusa.org/activities/statements/LeicsterAhronCohen-Apr04_files/image001.jpg


【シオニズムとユダヤ研究の一助として・・・】

これはNaeim Giladi著『イラクのユダヤ人』の続編(第2部)です。

第1部は
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http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/454.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)
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(参照)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/257.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)
(ホロコーストにおけるシオニズムの役割)


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http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm


1941年の暴動

私が言っているように、私のイラクの家族が個人的に迫害を受けているわけでもなく私が少数民族ユダヤ人メンバーとしての損失を受けてもいないのに、何が私をシオニスト地下活動のメンバーとして絞首台への階段に導いたのだろうか。その疑問に答えるために、1941年の6月にバグダッドで起きた大量殺人の文脈を確認しておく必要がある。そのときに何百人ものイラク・ユダヤ人が、イラク軍の下士官たちも参加した暴動の中で、殺されたのだ。私は12歳だった。そして私の友達が数多く殺された。私は怒り混乱した。

私がその当時知らなかった点は、この暴動が英国によって画策された可能性が非常に高い、ということである。結果として親英国的なイラク指導部が生まれた。

第1次世界大戦が起こりオスマン帝国が参加したことによって、イラクは英国の「保護」の元に入った。オスマンのスルタンに対するアラブ反乱を率いたシャリフ・フセイン(Sharif Hussein)の息子であるアミル・ファイサル(Amir Faisal)は、英国人によってメッカからつれて来られ、1921年にイラクの国王になった。多くのユダヤ人たちが経済大臣を含め多くの重要な閣僚に指名された。英国は内外の政策に関して決定的な権威を保持した。しかしながら、パレスチナにおける英国の親シオニスト政策は、イラクでの反シオニスト的な反動が広がる引き金となった。これは他のアラブ諸国でも同様である。1934年の終りにバグダッドの英国大使フランシス・ハンフェリーズ(Francis Humphreys)卿が次のことを書き残した。第1次大戦前にはユダヤ人たちは他のどの少数民族に比べても良い地位を手に入れていた。そのとき以来「シオニズムがユダヤ人とアラブ人の間の不和を植えつけてきた。そしてこの2つの民族の間にはかつては存在しなかった苦々しさが育ってきている。」と。

ファイサル王は1933年に死んだ。彼の跡は息子のガーズィ(Ghazi)が引き継いだが、1939年に自動車事故で死亡した。王位はガーズィの4歳の息子ファイサル2世に継承され、叔父のアブド・アル・イラー(Abd al-Ilah)が摂政に指名された。彼は首相としてノウリ・エル・サイード(Nouri el-Said)を選んだ。エル・サイードは英国を支持し、反英感情が盛り上がると、英国からのイラクの独立を求める軍の4人の士官たちによってその地位を追われた。彼らは自らを「黄金の四角形」(the Golden Square)と呼んだが、摂政に対して、国民兄弟党(the National Brotherhood party)の党首であるラシド・アリ・アル・キラニ(Rashid Ali al-Kilani)を首相にするように迫った。

時は1940年であり、英国は強力なドイツの攻撃に苦しめられていた。アル・キラニと「黄金の四角形」は、英国を追い出してしまうチャンスだと思った。彼らは慎重にドイツの援助を求めて交渉し始めた。そこで親英派の摂政アブド・アル・イラーは1941年1月にアル・キラニを解任した。しかし、4月までに「黄金の四角形」の士官たちはこの首相を復権させていたのだ。

これが英国を刺激し、1941年4月12日に、英国はバスラに軍隊を送った。バスラはイラク第2の都市であり、ユダヤ人人口は3万人であった。大部分のユダヤ人たちは輸出入、換金業、小売業、空港や鉄道、港の職員、あるいは上級の国家公務員として生計を立てていた。

その4月12日に、親英派の摂政支持者たちはユダヤ人の指導者たちに、摂政が合いたがっていると伝えた。ユダヤ指導者たちは彼らの習慣に従って摂政に贈る花を持って行った。ところがその習慣とは裏腹に、彼らを会合の場所に運ぶはずだった自動車は、英国軍が集合している場所に彼らを降ろした。

次の日の新聞には、そのユダヤ人たちの写真が『バスラのユダヤ人たちは英国軍に花を贈る』という見出しと共に、掲載されることとなった。その4月13日に、怒ったアラブ人の若者たちは、ユダヤ人に対する報復攻撃を始めようとした。バスラの多くのイスラム指導者たちがその計画を聞き事態の沈静化に務めた。後になって、この摂政がバスラにはいなかったこと、そして、このことが彼の親英派の支持者たちによって英国軍に介入の口実を与える民族間戦争を引き起こすための挑発であったことが、明らかにされた。

英国はバスラの周辺により多くの軍隊を集め続けた。1941年5月7日に、インド人兵士から成るグルカ(Gurkha)部隊が、バスラのエル・オシャール(el-Oshar)地区を占拠した。そこはユダヤ人たちが多く住んでいる地域のそばだったのである。英国人士官に率いられた兵士たちは強奪を開始した。商業地域の多くの商店が略奪を受け、個人の住宅は押し入られた。レイプの報告も為された。地域の住民たちは、ユダヤ人もイスラム教徒も、ピストルと古いライフルで応えたが、その弾丸は兵士たちのトミー銃の敵ではなかった。

後になって、その兵士たちは、喜んでというよりらいやいやながらでも、英国の司令官の命令で動いたことが分かった。(インド兵は、特にグルカ部隊は、規律の厳しいことで有名であり、命令無しで暴動のように振舞うことなどほとんどありえなかった。)英国の目的は明らかにカオス状態を作り出してバグダッドの親ナショナリスト政権のイメージを貶めることにあった。それによって英国軍が首都に進軍しアル・キラニ政府を打ち倒す理由を得ることであった。

バグダッドは5月30日に陥落した。アル・キラニは「黄金の四角形」の士官たちと共にイランに逃げた。英国によって経営されるラジオ局は、摂政アブド・アル・イラーがこの都市に戻ってくること、そして何千人ものユダヤ人たちなどが彼を歓迎する計画をしていることを知らせた。しかしながら、ユダヤ人に対して若いイラク人たちをもっと怒らせたのは、ドイツのラジオ局ベルリンのアナウンサーであるユナス・バアリ(Yunas Bahri)であった。彼はアラビア語で、パレスチナのユダヤ人たちが英国人に伴われてファルージャ(Faluja)市の近くでイラクに対して戦っている、と告げたのであった。この報告は嘘だった。

6月1日の日曜日にバグダッドで、シャボウツ(Shabuoth)を祝っていたユダヤ人たちと、それを親英派の摂政が戻ってくるのを祝っていると考えたイラクの若者たちとの間で、火器を持たない喧嘩が始まった。その夕方にイラク人たちのグループがバスを止め、ユダヤ人の乗客を放り出して、一人を殺しもう一人に瀕死の傷を負わせた。

次の日の8時半に、30人ほどの軍人と制服警察官がエル・アメン街で銃を放った。そこは狭い下町の通りで宝石屋や仕立て屋、野菜屋などはユダヤ人が経営していた。午前11時までにはイラク人の暴徒が刀やナイフやこん棒を持ってその地域のユダヤ人の家を襲っていた。

暴動は6月2日の月曜日も続いた。この間に多くのイスラム教徒たちがユダヤ人の隣人を守るために立ち上がった。一方で一部のユダヤ人たちは何とか守りきった。党にイラクにいたユダヤ人委員会の報告者によって書かれた記録によると、124名が死亡し400名が負傷した。他の推測では、やや信憑性に欠けるが、使者の数を500名、負傷者を600から2000名にまで増やしている。500ないし1300の店と1000以上の家やアパートが略奪された。


誰がこのユダヤ人地区での暴動の背後にいたのか

シオニスト地下運動の最も輝かしい活動家の一人でありィエホシャファット(Yehoshafat)として知られていたヨセフ・メイア(Yosef Meir)は、それは英国人だった、と主張している。メイアは、現在イスラエル防衛軍で働いているが、あの摂政が法と秩序を確立する救済者として戻ってくることを明確にさせるために、英国人がこの街で最も無防備で目に付きやすい部分であるユダヤ人を対象にして、暴動を煽り立てたのである。そして、別に驚くようなことではないが、その暴動は正規軍が首都に入ってくると同時に終了した。

私自身のジャーナリストとしての経験は、メイアが正しいと私に思わせる。さらに言えば、彼の主張は、彼の本を出版したイスラエル防衛軍の資料にある記録に基づいているはずである。しかし、彼の本が現れる以前に、私は40年代後半にイラクで会った一人のイラン人から独自に確信を得ていたのだ。

彼の名前はミッシェル・ティモシアン(Michael Timosian)、イラク系の米国人である。私が彼に会ったとき彼はイラン南部のアバダン(Abadan)にある英国とイラクの合弁石油会社で看護人として働いていた。しかし1941年6月2日に彼は、多くの暴動被害者が運ばれたバグダッドの病院で働いていた。被害者の大部分がユダヤ人だった。

ティモシアンは、振る舞いが地元のものとは異なる2人の患者に特に興味を引かれた、と語った。一人は肩に、一人は右ひざに銃弾を受けていた。医者が弾丸を取り出した後で、看護人たちは彼らの血に染まった福を脱がそうとした。しかし二人は聾唖者のふりをして抵抗した。彼らの耳が聞こえることは確かめられていたのだが。彼らを静めるために医者は鎮静剤の注射をし、彼らが眠ったときに、ティモシアンはその服を着替えさせた。そして彼は、その一人が首に英国軍が使う形の識別票をつけており、もう一方が右腕にグルカの剣といっしょにインドの文字の刺青をしているのを発見した。

次の日にティモシアンが仕事に着いたときに、一人の英国軍の士官と外科医、二人のインド人グルカ兵が朝早く病院にやってきたことを聞いた。看護人たちはグルカ兵が負傷者と話をしているのを聞いた。彼らはそのふりをしていたが聾唖者ではなかった。患者たちは訪問者たちに挨拶をし、シーツで身をくるみ、退院許可も取らずに訪問者と一緒に病院を去った。

現在私の心の中では、1941年の反ユダヤ暴動は英国の地政学的な目的によって演出されていたということに疑いは無い。ダヴィッド・キムチェ(David Kimche)は間違いなく真実を知りうる立場にいた人間である。彼は公に英国の責任について語っている。キムチェは第2次世界大戦中には英国の情報機関と共におり、戦後はモサドにいた。後にイスラエルの外務省の総責任者となった。彼はその地位に就いた1982年に、ロンドンにある英国国際問題研究所の討論会で話をした。

キムチェは、イスラエルのレバノン侵略とベイルートの難民キャンプでの殺戮に関する敵意に満ちた質問に答えて、英国のグルカ部隊が1941年にバグダッドの街で起きた500名のユダヤ人殺害に参加したとき、英国の外務省はほとんど関心を示さなかったことを聴衆に思い起こさせながら、反撃を続けたのだった。


1950〜1951年の爆弾攻撃

1941年の反ユダヤ暴動は、親英派摂政と彼の親英派首相ノウリ・エル・サイードを復権させるためにバグダッドに入る都合の良い言い訳を作ったばかりではない。それは同時に、パレスチナのシオニストたちにシオニスト地下運動をイラクに作り上げる格好の口実をもたらした。最初はバグダッドに、続いてバスラ、アマラ、ヒラー(Hillah)、ディワニーア(Diwaneia)、アブリル(Abril)、カルコウク(Karkouk)といった都市に、であった。

第2次世界大戦に続いて、イラクでは短期間しか権力が続かない一連の引継ぎがあった。シオニストのパレスチナ征服、特にデイル・ヤシン(Deir Yassin)村でのパレスチナ人虐殺は、イラクでの反英運動を激化させた。1948年1月にイラク政府がロンドンで新たな友好条約を結んだとき、暴動が国中で起こった。条約はすぐに廃棄されバグダッドは27年間イラク軍を指揮していた英国の軍事使節の引き揚げを要求した。

1948年のもっと後になって、バグダッドはシオニストと戦うためにパレスチナに分遣隊を送った。そして5月にイスラエルが独立宣言を行ったとき、イラクはハイファの製油所に石油を送っていたパイプラインを閉じた。しかしアブド・アル・イラーは相変わらず親英の売国奴であり、ノウリ・エル・サイードは首相に戻っていた。私は1948年にアブ・グライブ【原文ではAbu-Greibとなっている:訳注】刑務所にいた。1949年にイランに向けて脱出するまでそこにいたのだ。

6ヵ月後、詳しい日付は1950年3月19日だが、バグダッドのアメリカ文化センター図書館で一つの爆弾が爆発し、施設の被害と多くのけが人を出した。その施設はユダヤ人の若者が好んで使っていた所だった。

ユダヤ人に対する最初に直接の爆弾が投げられたのは1950年4月8日、午後9時15分のことだった。3人の若者を乗せた一台の自動車が、バグダッドのEl-Dar El-Bida【次の一語は文字化けのため判読できない:訳注】に手榴弾を投げつけたのである。そこではユダヤ人たちが過ぎ越しの祭りを祝っていたのである。4名が重傷を負った。その夜、ユダヤ人はすぐにイラクから出て行け、と書かれたチラシがまかれた。

次の日に多くのユダヤ人たちが、その大部分は貧しく失うものは無かったが、市民権を捨ててイスラエルに向けて出国する許可を求めて、移民局に殺到した。実際にあまりにも多かったために警察はユダヤ人学校やシナゴーグに登録用の事務所を作らなければならなかった。

5月10日午前3時、ユダヤ人が経営するベイト・ラウィ(Beit-Lawi)自動車会社のショーウインドーめがけて手榴弾が投げられ、建物の一部が破損した。死傷者は報告されなかった。

1950年6月3日、イラクの大部分の上流・中流のユダヤ人が住むバグダッドのエル・バタウィン(El-Batawin)地区で別の手榴弾が走る車の中から投げられた。誰も怪我はしなかったが、この爆破のすぐ後でシオニスト活動家はエルサレムに向けて、イラクからの移民の割り当てを増やすように要請する電報を送った。

6月5日の午前2時30分、エル・ラシド(El-Rashid)街にあるユダヤ人所有のスタンリー・シャシュア(Stanley Shashua)ビルの隣で爆弾が爆発したが、死傷者は出なかった。

1951年1月14日午後7時、手榴弾がMasouda Shem-Tovシナゴーグの外で投げられた。爆発は高圧電線を直撃し、3名のユダヤ人、内1人は幼い少年のItzhak Elmacherであった、が感電死し、他の30名以上が負傷した。この攻撃の後で、ユダヤ人の脱出者数が1日に600人から700人に跳ね上がった。

シオニストのプロパガンダ要員たちはいまだに、イラクでのこれらの爆弾がユダヤ人を追い出そうとした反ユダヤ・イラク人によって仕掛けられたものであると言い続けている。恐ろしい真実は、イラクのユダヤ人を殺し不具にし彼らの資産に被害を与えた手榴弾が、シオニスト・ユダヤの手によって投げられたものだった、ということである。

私の本の中で最も重要だと思う資料は、ユダヤ人にイラクを去るように呼びかけるシオニスト地下活動者によって作られた二枚のビラである。一つは1950年3月16日、他は1950年4月8日の日付がある。

これら二つの間に見られる相違は決定的である。どちらも出版の日付を書いているが、4月8日のものだけに「午後4時」と時刻が記されているのだ。なぜ時刻が書かれているのか? ここまでの詳細さは前例が無かった。捜査判事のサラマン・エル・ベイト(Salaman El-Beit)もこの疑問を見出した。「午後4時」を書いた者はその5時間後に起こるであろう爆破を知っていてそのアリバイがほしかったのか? もしそうなら、どのようにして爆破について知ったのか。判事は、シオニスト地下活動者と爆弾を投げた者との間に関係があったからこそ、彼らがそれを知っていた、と結論付けた。

これはまた、中央情報局(CIA)の元上級局員であるウィルバー・クレイン・イーヴランド(Wilbur Crane Eveland)の結論でもあった。私は彼にニューヨークで1988年に合う機会があった。CIAがその出版に反対した本「砂のロープ(Ropes of Sand)」の中で彼は書いている。

『イラクを反米として演出しユダヤ人を恐怖に陥れる試みの中で、シオニストたちは米国情報サービス図書館とシナゴーグに爆弾を仕掛けた。すぐにユダヤ人にイスラエルに逃げるようにせきたてるビラが現れ始めた・・・。後でイラク警察が我々の大使館【米国大使館:訳注】に、シナゴーグと図書館の爆弾、同様に反ユダヤと反米のビラ作戦が、地下活動中のシオニスト組織の手によるものであることを示す証拠を提供したにも関わらず、世界の大部分は、アラブ・テロリズムがイラクのユダヤ人に逃げ出す動機を与えそれをシオニストが「救った」、という報道を信じた。それは実際にはイスラエルのユダヤ人人口を増やすだけの目的だったのだが。』

イーヴランドはシオニストと爆弾攻撃を結びつける具体的な証拠を詳しくは挙げていない。しかし私の本の中では挙げた。例えば、1955年に私は、いまだにイラク国内に財産を持っていたイラク系ユダヤ人の要求を取り扱うために、イスラエルでイラク出身の弁護人による調査団を組織した。ある有名な弁護士が、彼は自分の名前を出さないように私に求めたが、米国文化センターで見つかった反米ビラは、4月8日の爆弾攻撃の直前にシオニストによって配られたビラと、同じ型のタイプライターで打たれ同じ謄写版輪転機で印刷されたものであることを、イラクでの研究室の研究が明らかにしていた、ということを私に打ち明けたのだ。

研究は同時にベイト・ラウィの攻撃で私用された爆発物のタイプが、弁護士のヨセフ・バスリ(Yosef Basri)と靴屋であるシャロム・サリイ(Shalom Salih)というユダヤ人のスーツケースの中で発見された爆薬の名残と一致したことを明らかにした。彼らは1951年12月の爆弾攻撃の犯人として裁判にかけられ、次ぎの月に処刑された。この二人の男はシオニスト地下軍事組織であるハシュラ(Hashura)のメンバーだった。サリイは結局、彼とバスリともう一人ヨセフ・ハバザ(Yosef Habaza)が攻撃を実行したことを白状した。

彼らの処刑が行われた1952年1月までには、6千名を除いて、12万5千人と推測されるイラクのユダヤ人がイスラエルに逃げていた。その上に、親英、親シオニストの操り人形エル・サイードが、ユダヤ人たちの現金を含むすべての資産を凍結するように取り計らった。(イラクのディナールを持って出る方法もあったのだが、移住者たちがイスラエルで換金するときにイスラエル政府がその値打ちの半分を差し押さえてしまうのだ。)移住出国の登録をしたのではなくたまたま外国に行かなければならなかったイラク系ユダヤ人でさえも、もし彼らが所定の日時までに戻らなかった場合には国籍を失うハメになった。古い、文化の高い、豊かな共同体は根こそぎになっていた。そしてその人々は東ヨーロッパのユダヤ人たちによって支配される土地に植え替えられた。東ヨーロッパ・ユダヤ人の文化はイラク系ユダヤ人にとって、異質なものであるばかりではなく、全面的に有害なものであったのだ。

【続く】

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