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沈黙を破る長崎の怒り    【長周新聞】        
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 6 月 19 日 05:48:56: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 原爆60年 米テネシー州で記念行事 日本人との間に溝 【毎日新聞】 Yahoo!ニュース 投稿者 愚民党 日時 2005 年 6 月 19 日 04:58:40)

原爆展キャラバン隊座談会
沈黙を破る長崎の怒り
                「祈り」の教会」は少数派     2005年6月16日付


 「原爆と峠三吉の詩」長崎原爆展へむけて、長崎市民の賛同が広がっている。これまでに下関原爆展事務局によって山口県からのべ200人の参加で、ポスター依頼、原爆展案内チラシと長周新聞号外「すべての声は訴える」(峠三吉)の戸別配布がとりくまれ、原爆展全国キャラバン隊が市内各地の街頭や公民館などで展示をし、市民の意見を聞いてきた。この特徴はどうなっているか、長崎で行動をしてきたキャラバン隊メンバーによる座談会を開いた。
   
 最初は抑えて語る被爆者

 司会 長崎における原爆展の宣伝活動はひと月ほどになるが、長崎市民の反響はどうなってきたか、その特徴を描いてほしい。

 A 長崎とのかかわりでは、4年まえくらいから峠のパネルでの街頭原爆展をやってきた。今度のとりくみとしては、直接の宣伝をはじめたのが先月の中旬ぐらいからだ。最初に入った印象では、会場の管理者も市や県、そして市内の自治会など、ひじょうに協力的なことだ。広島では「何者か」「禁(原水禁)か協(原水協)か」とどこでも激しく問いつめられ、「峠三吉の時期の原点に返った運動をするのだ」ということが納得されたらひじょうに協力してもらえるようになった。長崎では「何者か」というのがほとんどなかった。

 チラシは、市教委が市内の小中学校に、県が私立学校におろしてくれて、公立高校とあわせて5万枚ほどが渡された。市内の電車沿線を中心にした戸別配布で5万枚ぐらいやり、10万枚ほどが配られた。あわせて峠三吉の詩「すべての声は訴える」の長周新聞号外4万枚ほどが配られている。またキャラバン隊が市内に入って、展示活動をはじめてから2週間になる。

 はじめは、被爆者があまり語らないか、静かに語るという印象が強かった。広島がもっと激しいのとは対比的だった。しかし、しだいに被爆への怒りが激しく語られはじめ、広島と同じ雰囲気になってきた。キャラバンの展示を見た人や、峠の号外を見た人の親近感が明らかに違ってきた。

 B 最初の出だしのころは、「よくやってくれます」という反応はあるが、被爆体験も「被爆しました」というだけで、あまり広島のように事細かにいう人は少なく、署名も自分からやっていこうという人がほんとうに少なかった。印象としては原爆そのものの影が薄いという感じだった。

 C 最初のころは被爆者だと思われる人たちが黙ってとおり過ぎることが多かった。話しても抑えてというか、感情をあらわにして話すというより、「原爆のことは大きい声で話すことじゃない」という印象があった。

 B 1回目に長崎駅前でやったときは、「わたしは被爆しているからわかっている」とか、さっととおり過ぎる人が多かった。それがいまでは吸い寄せられるように来て、むこうから話してくる。

 C 最近やったふれあいセンターや市場では、1人と話していたら、別の人がそれに加わったり、という形で、見知らぬ人同士が自分の体験を語りあって、パネルを指さして熱心に語りあったり、そんな雰囲気になってきた。

 D 中央橋で賛同人になったおばあちゃんは、ポスターとチラシを持って帰って、電車や老人会でまいたら、すぐなくなった。どうしようかと思っていたところで、原爆展とまた出会って、またポスターを持って帰った。何とか原爆展ができないかと自分が通っている老人センターの所長にかけあったりした。すごく行動的でびっくりする。

 B ポスターの写真に出ている少年の母方の親せきと、父方の親せき両方が名乗り出てくれた。背中の弟は10日後ごろに亡くなり、背負っている兄も早く亡くなったこと、こんなに大きく引き伸ばしてくれてありがたいと語っていた。その人は興奮して、チラシに名前を書いて、これがいいたくてしかたがなかったという感じだった。

 C 「最後のおっぱい」の写真の人が、「主人のお母さんだ」という人がいた。原子雲の写真は「わたしの教え子がとった写真ににている」という人もいた。

 D ああいう、市民が写っている写真を展示しているところがないから、みんな知りあいが写っていないか、亡くなった家族が1枚でもどこかに写っていないかと必死で見る人が多い。「こんな大きなものをはじめて見た」「よく見せてくれた」とか。

 B 宣伝隊の宣伝が浸透し、キャラバン隊の原爆展を見たという人がふえていくにつれてだんだん語り出した。「峠三吉さんの原爆展」という感じで、知っている人も意外と多くなった。「峠三吉は本物だ」という反応も思いのほかあった。

 C 「なつかしい」といって峠の原爆詩集や「わだつみのこえ」を求める人もいる。50年代の学生だった人たちかもしれない。

 D 「下関から来てやってくれている」というのもだいぶ聞くようになった。「わたしらがやらないといけないのに」という感じで、広島のような雰囲気になってきた。「このあいだも来ていたね、署名を書いたら、いろいろ送ってもらって、返事を出さないでいるんだけど」というおばさんも、「なにもできないけど、1日ぐらいは西洋館に行かないといけないと思っている」といっていた。

 C 中央橋でも「このあいだ、若い人が下関から来て、話を1時間ぐらいしたんだ」というおじさんがいた。スイカ食わしてやったとか話す人もいた。「中央橋で見た」とか、あっちで見た、こっちで見たとか、話題になりかたが早い。広島と比べたら狭いし集中していることもあると思う。このまえ市場でやったときも、市場の漬物屋の店主が「中央橋でやっていたね」といって親近感を寄せてきた。

 D 賛同人になっているふれあいセンターの人も、号外を受けとってまたベンチで読んで、「これはやらんといけん」と署名しに来て、カンパを入れていった。自分で署名に来る人が出てきたのもこの最近だ。
   
  「悔しい」と口口に 「祈り」のイメージ嫌悪

 B 「祈りの長崎」といわれることは多くの人が嫌な顔をした。「カトリックは長崎では一部だけだ」といって、自分たちの思いは違うといっている。1人1人の体験を聞いたら、どこに怒りをむけたらいいのかというのが充満している。それが表面には出てこないで「長崎はいかん。悔しい」という。

 A 被爆者は、親兄弟を殺されて、その後も難儀して、怒らないわけがない。山口から行ったスタッフが、寺町に行って驚いたのは「長崎にこんなにたくさんの寺があるのか」ということだった。全国の人から見たら長崎は教会しかないような印象がある。外国から見てもそうだろう。だが長崎では、「カトリックは少数だ」といわれている。

 D 8月9日にテレビで映すのはいつも教会だ。ベールをかぶった人とか、そんなのしか見てない。寺にそういうと、「やっぱりそうですか」といっていた。8月9日は寺の方が大忙しだ。市内中が命日だから、かけずり回っていてテレビに映るどころではないといっていた。

 B 長崎の寺はとくに忙しい。仏教というのは寺には頭をそった坊さんしか入れないところで、法要などは全部家に行ってやっていた。長崎ではとくにキリスト教にはないものとして、大事にしているといっていた。これがテレビに映ることはほとんどない。
   
 表面の姿と違う実際 教会だけを宣伝するGHQ

 C マスコミなどでつくられたイメージと長崎の実際が相当に違うことがわかった。全国からの修学旅行も、資料館自体がキリストからはじまってキリストで終わるという感じだ。あと、浦上天主堂とか、永井隆の記念館とか、コースのつくり自体が長崎の原爆はキリストしかないような形になっている。大多数の市民のほんとうの声は、よそからわかるような形になっていない。

 B 爆心地公園の塔がつくりかえられて、上にマリア様の像が乗っている。地元で「おかしいじゃないか」といって裁判になったそうだが、裁判所が「あれはマリア様ではない」といってごまかされたという話も聞いた。だが人が見たらマリア様だ。平和祈念像も長崎県出身のプロレスラー力道山がモデルらしいが、日本人の雰囲気ではなくローマ人かなにか西欧人の雰囲気だ。

 D 資料館自体が「お祈り」基調だし、永井隆コーナーができていて、そこだけ敬語遣いだった。しかし市民に尋ねても「召されて妻は天国へ」などと思っている人はいなかった。永井が「懸命に被爆者の救護に当たった」だろうけれども、ほかの医者も、何万という人も懸命な救護に当たっている。永井はもともとから白血病だったが、ほかにも健康な多くの人が救援に入って放射能で死んでいる。

 C 終戦直後の占領軍が「原爆は公表してはならない」という厳重な検閲・プレスコードで弾圧していた時期に、永井隆だけは占領軍が出版用の紙を提供して全国的に売り出していた。GHQの政策に一致していたのだ。峠はGHQとたたかって原爆詩を出した。これが広島と長崎の象徴的な違いだ。

 編集部 原爆で死んだ人のほとんどは寺の世話になっているのだから、特定の宗教団体だけに肩入れする行政やマスコミの扱いは、「政教分離」に反し「信仰の自由」に反している。もちろんキリスト教信者が、その宗教を信仰するのは自由だが、新聞、テレビしか見ない人、修学旅行などで来た人に、永井隆やカトリックしか長崎の被爆者はいないかのように思わせるのは偏っている。人の怒りを抑え、悲しく暗い気持ちにさせる意図を持った、外むけ用のショールームみたいだ。

 A 戦後マッカーサーは、日本の1000年の伝統文化をくつがえすといって、キリスト教に改宗させると意気ごんだといわれている。いろんな援助物資といっしょに、アメリカ人宣教師をたくさん送りこんだらしい。長崎は、400年の昔から日本におけるキリスト教布教の拠点だ。バチカンのパウロ法王も長崎に来た。市内の私立高校などキリスト関係がつくった学校が多い。本島市長もバチカンに行っている。

 編集部 しかし、キリスト教は日本で成功していない。信者数は戦前からふえていない。日本ではキリスト教は上流階級の宗教という印象が強く、大衆性に乏しい。戦後首相になった吉田茂や社会党の片山哲などはクリスチャンだ。いまの美智子皇后もそうだ。自分たちの教義で信者をふやすというのでなく、GHQのお抱えからはじまって、行政やマスコミ依存が強いといえる。アメリカの意向となると、政教分離の民主主義も超越するというのではおかしい。

 A 駅前の「26聖人」の像は、GHQが「ここはキリストの土地だ」といって真宗のお寺を追い出してつくったらしい。これもなぜ聖人なのかわからない。長崎駅では「長崎の鐘」の音楽が流れ、ある時期には天草四郎の歌をはやらせ、ムード的にキリスト親近感、「お祈り」が組織されている。
   
 潰される原爆の跡 原爆賛美へと続く

 B 長崎では原爆は語ってはならないという空気が、サンフランシスコ講和のあともずっとつづいた感じで、「終わったこと」「忘れよ」という力が働いてきた印象だ。本島市長の時期、長崎の教育委員会は、「原爆を平和教育の原点にしてはならない」という方針だった。原爆遺跡もどんどんつぶした。仏教界も戦後50年で、「宗教色はいけない」とか行政からいわれて、記念式典にも出なくなったといっていた。

 C 長崎の20代の人で、はじめて見て、「見たこともない」という人が多い。いつこんなことがどこであったのかという人もいる。

 B パッと見て原爆の写真とわからない人もいる。「これは終戦直後のですか」と聞いてきた。

 D 長崎の町のなかで原爆の痕跡がない。ある真宗のお寺に1万体以上の無縁仏が埋められているというが、あまり知られていない。平和公園も美しいばかりになってしまったといわれていた。最近も救護所になっていた新興善小学校が壊されたといわれていた。

 C 広島と比べて、慰霊碑が目につかない。町内とか学校、職場、周辺の市町などの被爆記録集なども広島よりあまり目立たない。原爆についてふれるのはタブーというのがずっとつづいているように思う。

 編集部 永井隆の論は「原爆を落とされて幸せでした」というものだった。「原爆が神の摂理で落ちてきた」「天皇もその啓示を受けて終戦の聖断を下した」という。アメリカ占領軍は「原爆は無謀な軍部をして戦争を終結させるためであった」「それによって幾百万人の生命を救った」と、「無謀な戦争をした日本人は反省をせよ」というひびきで宣伝して被爆した者を押さえつけていた。永井はそのGHQの主張を、被爆した側という格好で主張したわけだ。「原爆を受けて幸せです」というのが、ひどい目にあった市民感情と対立するのは当たり前だ。

 D 戦後はじめのころの長崎市の平和宣言でも、「長崎の原爆は世界戦争に終止符を打った土地であり、この原爆の未曾有の惨禍を一転機として明るい希望がもたらされた」と、いっている。

 B 「全身やけどして成人になるまでアメリカに恨み骨髄だったが、大人になって日本が戦争をしたから原爆が落とされたといって納得させてきた」という人もいた。

 A 身内が殺され自分が難儀したという個人的な怒りを乗りこえて、幾百万の命を救うことになったことの喜びの境地に到達した人が、「深い思想の人」「聖人」というわけだ。

 D アンジェラスの鐘など、カトリックを使って「原爆=悲しげ」という雰囲気をつくっている。お寺の住職も「あの鐘の音がくせものだ」とおこっていた。
   
 怒りの気持ち発動 米国の犯罪暴露に共鳴

 編集部 大衆の実体験としては怒り以外のなにものでもない。みな腹を立てるが、そのことが個人的な怒りだけではなくて、歴史的社会的に見て正しいことなのだという確信がいる。そこのところが、「原爆は戦争終結には必要なかった」「ソ連の参戦に焦って日本を単独占領する目的のために、無辜の非戦斗員を無惨に殺した」「アメリカの原爆投下は人類にとって許し難い犯罪である」ということをハッキリといっている峠の詩やパネルを見、またそれが世界的な支持を得た運動になったんだということを、はばかることなく主張する行動に出会うと、怒りの気持ちが発動される。

 C パネルを見た人が、「広島をやっても降伏しないから長崎に落としたと聞いていたが違うんですね」と驚いていた。「原爆投下は必要なかった」という部分はものすごく見る。

 B 最初チラシを受けとらない人がいた。市場の肉屋のおばちゃんで、「そんなの外国に行って見せろ」といっていた。聞いたら、自分の親せきふくめて17、8人死んでいる。「お父さんも死んでお姉さんもいまだにどこで死んだのかもわからない」といって声をつまらせていた。「いまの政治家がつまらんのだ、小泉がつまらんのだ」といって、「わたしはああいうのを見せられたら、思い出して腹が立って、だからいらん」といっていた。だが号外だけは受けとって、帰り際には笑顔で「ご苦労さん」といっていった。ほんとうは激しい怒りを持っているのに、原爆といったら反省するものというような印象があって表に出なかったのが、励まされている。

 D 最近ではこちらの宣伝が伝わってくるにつれて、「峠三吉さんの原爆展ですね」と親近感を寄せる人がふえてきた。そういうところに新鮮な魅力を感じていると思う。

 編集部 原爆については語ってはならないというのが、ずっとある。そのなかで、これだけあからさまに峠三吉をやってまわったのは、戦後60年の長崎ではじめてだ。

 C みんなが語るのが最近のNPTのことだった。長崎と広島の市長がわざわざいったが、全然あしらわれて、アメリカは開き直ってしまっているということだ。世界の核廃絶の約束をホゴにして、「先制使用する」といい、実戦用核開発はするといって、またも原水爆を使おうとしていることへの怒りだ。また国連で市長が行って演説したが、休息時間の人がいない議場でやらされたことに腹を立てていた。

 D そんなあつかいしかされていないことに「はがゆい」とみんないっていた。イラクでもアメリカはデタラメやっているというのはどこでも語られる。

 教育にも強い問題意識

 B たくさん語られるのは教育問題だ。「原爆で占領されて、いまでは心まで占領されている」というおばあちゃんもいた。長崎では大変な少年事件が連続している。ああいうことがどんどん起こって、いまの若い人に伝えないといけない、という。自分たちがもう少し若かったら、決死隊でアメリカに文句をいって、日本から出て行けといいたいぐらいだ、という人もいた。若い者を鍛えないといけないとみんないっていた。

 D 原爆資料館に連れて行っても、きもち悪いで終わってしまう。連れて行くところがなく、子どもが知るところがない。原爆の話をすると「また昔の話、戦争の話は嫌」といって聞かない。「今回のにはなんとか連れて行きたい」という。

 B 退職教師が、「平和教育、原爆の話をできなかった、やったら白い目で見られた」といっていた。89歳だが、伊良林小学校の校庭で被爆した人を焼いたという女の先生だった。それでもがんばってやってきたが、平和教育をするのはたいへんだった、ほとんどなかったといっていた。

 C ある被爆者が、自分の息子から「軍国主義教育を受けただろう」「鬼畜米英といっただろう」といって、まともに聞いてくれなかったといっていた。「自分は、教育を受けて鬼畜といったのではない。東京空襲や原爆を体験したから鬼畜といったのだ。それがしゃべらせてもらえなかった」と憤慨していた。戦後の教育に問題があるという。

 B 長崎の経済状況もいっている。漁船員だった人が、イワシがぜんぜんとれなくなって、内航船に乗りかえたがだめで、トラック運転手になったという人もいた。大型店がどんどん出て市場などが寂れたという人がいた。長崎は水産と造船が基幹産業で町を支えていた。以西漁業などつぶし、水産物は外国から輸入すればよいという調子で寂れ、水産とつながっていた中小造船も衰退する。観光というが、どうにもパッとしない。政治はアメリカのいいなりで、アメリカ型の規制緩和、自由化がひどくて、植民地のようになっているという。「長崎は和洋折衷だ」というおばあちゃんもいた。

 C 長崎は華僑も多く、中国とは仲良くしなければならないのに、小泉はアメリカの言いなりばかりになってなんだというのもあった。「中国や韓国の反日デモは当然だ。日本もあのように歴史教育をしっかりやって、反米デモをしなければならないぐらいだ」という声も多い。

 B 被爆から60年たったいまの日本社会の実際を見て、原爆はなんのためだったかというのが改めて考えられている。60年たった現実から見て「原爆は数百万人の生命を救う慈悲深い行為」などといえるわけがない。そこに峠の原爆展が新鮮にひびいている。
   
 日本発の運動に力 存在感ない既存の運動

 司会 既存の長崎の運動はどうだろうか。

 A 最近めだったのでは、高校生1万人署名運動というのがある。高校生を平和大使として国連に派遣するというものだ。新聞ではかなりとり上げられてきたが、長崎の市民のなかでは案外存在感がなかった。「高校生ががんばってますよ」という声があまりない。自分たちのじいちゃん、ばあちゃんの被爆の体験に学んで、それを仲間にも世界にも伝えるという要素が弱いのが、広がりが小さい要因だと思う。また市長が最近、世界NGOナガサキ大会というようなものをやったが、「市長ががんばってますよ」との声も少ない。

 C 街頭原爆展の場所を探しているときも、とくに爆心地周辺では、「原爆といってもいろんなのがあるから一概に賛成できない」という慎重な対応がめだった。ある1万人署名経験者が「原爆という過去のことをとり上げるのではなく、オランダに行って高校生たちが平和を訴えたら理解してくれた」といっていた。被爆者の感情とは離れているようだ。

 A 高校生の1万人署名運動は、反核ネットが高校生の平和大使ということで、はじめたようで、教職員組合の教師などが世話して、バチカンに行ってパウロが会ったりしており、それを長崎新聞が本にして出している。前の市長の本島氏など反核勢力といわれる部分では、インドネシアで日本がどんな悪いことをしたかの展覧会などをしているが、「加害への反省をしなければアジアでは通用しない」ということを論議している。

 痛みを知っているのは広島と長崎

 編集部 峠の原爆展は外人も相当に見たが、アジア人もヨーロッパ人もアラブ人も、いちばんいうのは、「日本は原爆を受けているのにどうしてアメリカが好きなのか」ということだ。峠の原爆展を見て、日本人がアメリカを批判することに驚いているほどだ。海外から帰った人たちも、「世界は反米が大多数で、原爆のことを聞かれてこたえられないので恥をかいた」という人が多い。世界の常識はそうなっており、「日本人は反省せよ」というのはアメリカの影響のある少数の部分からだ。

 核廃絶をする運動というとき、外国のまねごとをするというのでは、力あるものにはならない。なぜなら、原爆を投げつけられ、その痛みを知っているのは広島と長崎だけだ。そこの新鮮な怒りから出発しなければ力にならない。しかも核兵器はどこからか自然につくられて飛んでくるのではなく、人間が製造も使用も命令し、運んできて投げつけるものだ。だれが原爆を使用したのか、いまからだれが使用しようとしているかをハッキリさせ、それを縛りつけるような世界中の平和愛好者が力をあわせるというのでなければ力にならない。

 外国にお願いに行くまえに、広島と長崎、日本で、原爆を製造し使用することは人類に対する許し難い犯罪だという力を強めることであり、そうすることで、外国からも味方が参集するし、悪い奴らはゴマをするようになる。

 1950年8月の広島からはじまる原爆反対の運動が、5年後には世界大会になった。世界中から広島に集まって平和大会をやるようになった。それまで平和の世界大会はみなヨーロッパでやっていた。そして「原爆を使用することが正しい」などとはいわせない力をつくった。原水禁運動はもともと日本発の運動で、世界的な権威を持っていたのだ。

 A 長崎市民のなかには、語らないではおれないという強い機運があらわれている。原爆投下はアメリカの犯罪であったということと、現在の子どもの教育をはじめデタラメな植民地状況になった日本の現状、そのうえにまたも原水爆戦争が近づいているという怒りが重なっている。しかもこのままでは、被爆体験をした者がみな死んでしまうぞという思いもある。

 編集部 長崎原爆展は、長崎の被爆市民がその本音を思う存分語って大交流しあう場になりそうだ。このような長崎の人人の機運は、広島、下関の被爆者の大きな関心を呼んでおり、ひじょうに激励している。


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