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(回答先: 長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収 (毎日新聞) 投稿者 彗星 日時 2005 年 6 月 19 日 17:15:21)
長崎原爆ルポ:
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その1
ジョージ・ウェラー記者原稿(1)
【9月8日長崎】原子爆弾は無差別に使用可能な兵器として分類されるかもしれないが、長崎への投下は選別された妥当なもので、これほどの巨大な威力が予想されていたにしては十分慈悲深いものだった。
次に述べることは、廃墟を取材するために初めて訪れた記者の結論であり、詳細に調べたものだが、この戦争による荒地の検証はまだ不完全だ。
長崎はその大きさと形から大雑把に言ってマンハッタンと似ており、南北に入り江がある。
ニュージャージーとマンハッタン側に相当する場所には、三菱と川南家が所有する巨大な軍需工場が立ち並んでいる。
従業員約2万人がいた川南造船所は、バッテリー・パークとエリス島に相当する港の入口の両側に建っている。ここは爆発の現場から約5マイル(約8キロ)の地点。原爆投下前に襲撃したB−29は造船所破壊に失敗し、ほとんど無傷のままだ。
ハドソン川のように両岸に埠頭のある長崎港を上って行くと、奥に向かうにつれ両岸の幅が狭くなっていく。川の両岸に長く立ち並ぶ工場はすべて三菱のもので、その工場の向こうには、手に取るような近さに美しい緑の丘がある。
川南の工場から2マイル(3・2キロ)離れたジャージー側に当たる左側には、三菱の造船所とモーター工場があり、それぞれ2万人と8000人を雇用している。この造船所は原爆投下前の空襲で損害を受けたが、被害は大きくはない。モーター工場は被害を受けていない。ここは原爆の爆心地から3マイル(4・8キロ)で、修復可能だ。
港が250フィート(76メートル)の幅に狭まるのは、高さ1500フィート(457メートル)だった原爆爆発地点から2マイル(3・2キロ)にある浦上川で、原爆の威力の跡をこの付近から確認することができる。この地区は長崎の中心街の北に位置し、建物はところどころ破壊されているが、ほぼ正常な状態だ。
鉄道はプラットフォームを除いて破壊されているが、既に営業をしている。普段は破壊された浦上谷への玄関口と言えるところだ。南北に平行して、両岸に三菱の工場がある浦上川が流れ、町から鉄道と幹線道路が走る。線路沿いには住宅地と鉄やコンクリートの工場が密集し2マイル(3・2キロ)にわたって広がっている。その中に落下した原爆は両側を完全に破壊し、住民の半数を直撃した。判明している死者数は2万人で、日本の警察は推定約4000人が行方不明と語った。
日本の役人の見積もりによると、負傷者数は死者数の約2倍になるとみられるが、死者数がこれほど多い理由には二つの要素がある。一つは三菱の空襲シェルター(防空壕)がまったく機能せず、一般市民のシェルターも遠く離れて限られていたこと。二番目は、日本の空襲警戒警報システムがまったく機能しなかったことだ。
私は三菱社がシェルターにしていた谷の岩壁にある短くて粗雑な6つのトンネルを調べた。また、私は込み入った鉄の桁とカールした屋根のメーン工場を通り抜けて、厚さ4インチのコンクリートのシェルターを見たが、数の上ではまったく不十分だった。事務職員が働いていたサイレンが上に備え付けられた灰色のコンクリート製の建物にだけ、強固な地下シェルターがあったが、PREVIO(建築資材か)のようなものは皆無だった。
2機のB29が現れる4時間前の朝7時、通常の空襲警報が鳴ったが、従業員やほとんどの住民は無視した。警察は原爆投下2分前にも警報が鳴ったと主張しているが、ほとんどの人は何も聞かなかったと言っている。
誇張された話を排除し、証言を検証していくと、原爆はすさまじいものであるという印象が増して行く。しかし、特別な兵器ではない。日本人は米国のラジオから、地面には極めて有害な放射能が残っているという説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃墟の只中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。
この爆弾が、これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では誰もまだ、この爆弾が他のどの爆弾とも異なるという証拠は見つからない。
三菱の工場の周辺には危害を与えたくなかっただろうが、一帯は廃墟となっている。記者は、長崎医療研究所病院にあるひと気のない15の建物で1時間近くを費やした。がれきでいっぱいのホールにはネズミ以外は何もいない。谷と浦上川の反対側には、「Chin Jei」と呼ばれるコンクリート製3階建てのアメリカン・ミッション・カレッジがあるが、ほとんど破壊されている。
日本の複数の当局者は、米国の爆弾によって焼け野原となった地域は、伝統的にキリスト教カトリック信者の日本人が住んでいたと指摘した。
しかし、こうした地域や、装甲板製造工場の隣に日本人が設置した連合軍捕虜収容所に被害を与えないことは、1016人の労働者の大部分が連合軍捕虜だった三菱の船体部品工場、また、隣接する1750人の従業員がいた砲架工場にも被害を与えないことになっただろう。浦上川の両岸にあり通常3400人が雇用され、あの日は2500人がいた3つの鉄の鋳物工場にも被害を与えないことになっただろう。さらに今は焼け野原となっている多くの下請け工場に被害を与えないことは、原爆が炸裂した場所にもっとも近く、7500人を雇用していた三菱の魚雷と弾薬の工場を手付かずに残すことを意味したであろう。
これらすべての工場は今日、叩き潰されている。しかし、死の兵器工場の中に工作員が忍び込んだとしても、手で原爆を綿密に仕掛けることはできなかっただろう。
原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html
毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040167000c.html