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「最後の人間」とは、主体性を失った消費を繰り返すだけの存在に落ちた人間を意味するニーチェの言葉である
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投稿者 TORA 日時 2005 年 12 月 13 日 13:43:55: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu108.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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フランシス・フクヤマ著、渡辺昇一訳 『歴史の終わり』
「最後の人間」とは、主体性を失った消費を繰り返すだけ
の存在に落ちた人間を意味するニーチェの言葉である

2005年12月13日 火曜日

◆「歴史の終わり」と「最後の人間」をめぐって 長野一哲
http://homepage2.nifty.com/20seiki/gold.html

万人に受け入れられる本など、この世に存在しない。どんなに言葉をつくしても、人には伝わらないことがある。でも、そんなことを気にしていたら、とても本など書きあげることなど出来ないだろう。自分の考えを信じて、ただ言葉を紡いでいく。物を書くとはそういうことだ。著述という作業は、もしかしたら「命がけの跳躍」とも言える、偉大な行為なのかもしれない。あらゆる批判・誤読への恐怖を振り切って、えいやっ!と跳ぶ。あらゆる本がそうであるように、この『歴史の終わり』もまた、フランシス・フクヤマが果たした、そんな跳躍の記録である。

1989年の夏、ひとつの論文が発表された。フランシス・フクヤマによる「歴史の終わり?」(『ナショナル・インタレスト夏季号』)である。歴史とはイデオロギーをめぐる争いであるから、その闘争が終わる時に歴史は終わる――。ソビエト連邦を筆頭とした共産圏が息も絶え絶えだった状況下におい て発表されたこの論文は、フクヤマが当時アメリカ国務省の政策立案スタッフであった事も関係し、自由主義陣営の(もっとはっきりと言えばアメリカの)勝利 宣言として世界に受け止められた。

その後の世界情勢は、まるでこの論文をなぞるかのように変化していくことになる。発表直後に東欧諸国が民主化へと進みだし、1991年にはソビエト連邦がついにその姿を消した。そんな状況を予見したとして、このインパクトのあるタイトルを持つ論文とそれを著したフランシス・フクヤマという名前は世界を席巻していく。その論文をさらに深めていったものが、本書『歴史の終わり』である。(中略)

では、ならばこの『歴史の終わり』というフクヤマの仕事は、まったく無駄なものだったのだろうか?そう問いかけられたら、僕は、そんなことはまったくな い、と答えるだろう。それどころか、僕はこの本は今日にこそ十分読みこまれるべき価値を有していると考えている。

今日にこそ十分読まれるべき価値を有しているものとは何か。それは、本書の中で「歴史の終わり」とともに論じられている「最後の人間」に対する論考の中に ある。本書の原題は『The end of history and the last man』、つまり『歴史の終わりと最後の人間』である。邦訳のタイトルが『歴史の終わり』だったこともあり、当時から「歴史の終わり」ばかりに注目が集ま りがちで「最後の人間」の部分は論じられる機会もまた少なかったが、僕はいまこそ、ここに注目してみたいと思う。

冒頭でも触れたが、「最後の人間」とは、主体性を失った消費を繰り返すだけの存在に落ちた人間を意味するニーチェの言葉である。フクヤマは歴史が終焉した 後の世界において人間はこの「最後の人間」の段階に達し、ただ自分の快楽を追い求めるだけの存在と成り果てると分析しているが、この歴史の終焉の後に最後 の人間が出現するというこの考えは、フクヤマの師筋にあたるフランスの思想家、アレクサンドル・コジェーブの考えにもとづくものである。
冷戦終結後の世界を概観してみると、この「最後の人間」に限れば、フクヤマの分析はズバリ現状を予見したものではないかと思えてくる。ここでは手近な例と して、現代日本社会を取り上げて「最後の人間」が出現したさまを確認してみよう。
日本社会がいままでになく閉塞感に満ちたものとなってしまったと論じられるようになって、もうずいぶんになる。それは長引く不況が原因というよりももっと 本質的なもの、言うなれば日本人そのものの性質が変わってしまったことによって生まれたものであるような気がしてしまうのは、僕だけだろうか。

そんな日本人を変質させた大きな要因として考えられるのが、この何年かのこの国の政権が行ってきた政治手法である。近年、多くの議論を重ねてしかるべき重 要法案が満足な審議もされないままに成立してしまうという状況が、あまりにも目につきはしないだろうか。そこには一度選挙で多数の支持を得た後ならば、た とえどんなに世論が反対しても自らの政策をゴリ押ししてもなんら問題はないという、権力者の驕りがはっきりと見える。そのため、議会における審議など、 あったものではない。審議とは少数意見を少しでも政策にくみ上げるために必要な行為であるにもかかわらず、今日においてはまったくその機能は果たされてい ない。議会がただのセレモニーとしての場所でしかないような気がしてならないのは、僕だけではないだろう。

そのような政治状況下において、国民は自分たちが政治決定の過程から切り離されてしまったと感じるようになり、政治への不信はいつしか無関心へと変化し まったことは、想像に難くない。今日の政治はすべてが出来レースのように見えてしまった日本人は、それゆえにそれぞれが好む小さな世界、居心地のいい空間 へとひきこもり、それぞれの無風状態の空間で場当たり的な消費に興じることで現実から目をそむけていくという、そんな傾向が強くなってきたのではないだろ うか。無力感から意図的に社会との関係を絶ち、ただ消費に明け暮れる。これこそが今日の日本社会の姿であり、またフクヤマの言うところの「最後の人間」の 姿に他ならない。

また、この数年の間、日本社会はタコツボ化が進行したと言われることが多いが、このタコツボ化の進行こそ、この社会が「最後の人間」で溢れていることを証 明するものであると思われる。何故なら価値を同じくするもの同士が集う空間=タコツボは、「最後の人間」にとってもっとも居心地のいい空間であるからだ。タコツボ化の進行は、「個」を必要なときだけつなぎ合わせるインターネットの存在によってさらに加速が加えられていると見るべきであろう。アクセスした先 には常に自分と価値を同じくする人のみが存在するから、より徹底した情報の消費を行うことが出来るインターネットという空間は、まさに「最後の人間」が生 きる空間である。フクヤマは「歴史の継続」を予見することは出来なかったが、一方ではしっかりと未来を予見していたのだ。

だが、ここでひとつ問題が浮上することになる。それは、確かに最後の人間は出現したけれど、その出現に至る過程がフクヤマの予想とは決定的に異なるもの だったということである。

フクヤマは歴史が終わった後の社会に「最後の人間」が出現すると論じていたが、今日の社会に溢れる「最後の人間」が出現したのは決して「歴史が終わったか ら」ではなく、民主主義の機能が暴走し、政策決定の場と国民の世論が乖離してしまった結果から生まれた政治的無力感によるものである。「歴史」が終わらなかったにもかかわらず、今日の世界は「最後の人間」で溢れている。この事実をどう評価するべきなのだろうか?人によって意見はさまざまであるだろうが、僕としては「最後の人間」の出現を指摘し、それを論じたことだけでも、このフクヤマの著作は大いに評価すべきで あると思う。論文においては、問いを立てることそれ自体が根源的な行為である。また、冒頭にも述べたとおり、書くという行為は間違いや批判を恐れない「命 がけの跳躍」なのだ。多少その姿が不恰好であったからといってそれを批判するかのような読みかたは、研究者でもない一読者である僕の場合、しなくてもいい のではないかと思うのが、僕の正直な感想である。

『歴史の終わり』はヘーゲル的歴史観に貫かれて書かれたものだが、そもそも書くという行為そのものがヘーゲル的な行為であることに、いまさらながら気付く。問いを立て、それを立証していく。反対の批評が出て、それを受けて論を深め、あるいは自説を修正し、新たなる著作に向かっていく。この動きは書くということとともに、僕たちが本を読むときの姿勢にも通じるものだ。いうまでもなく、読むことと書くことは、密接に関係しているのだ。

書くことと読むこと。それは、自分の考えを深めるため、また問題点をはっきりさせるために必要な行為であり、言い換えるなら、僕たちは物事を純粋化するた めに繰り返し書いたり読んだりするのだ。またそれは人間には備わっているが他の動物にはない本能、探究心に立脚したものであり、その意味で人間が人間であ ることの証明とも言える深遠な行為であるといえよう。

こころの奥から、声が聞こえてくる。純粋化せよ!高みへと上れ!そんな本能の願いを受けて、書き手は再び著作へと向かい、僕たちもまた新しい本に手を伸ば すのである。


(私のコメント)
私はまだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と言う本はまだ読んでいないのですが、書店で探しても見つからない。名著なのにどうして見つからないのか不思議なのですが、出版社の事情でもあるのだろう。「株式日記」でも本の紹介がてらに書評も書いていますが、次々と事件が起きるために、読み終わった本は机にうずたかく積まれているのに本の紹介はなかなか出来ない。

書店に立ち寄るたびに新刊本の山が出来ており、とてもではないのですが全部に目を通すわけではないのですが、どうしても買いたい本が出てきて買ってしまう。買ってはみたものの読む時間が無いから電車の中で読む事が多いのですが、現代人は必要が無くとも本を読み続けなければ時代の変化を読みぬく事はできなくなって、自分の好きな趣味だけの世界に閉じこもってしまうのだろう。

ネット上のサイトやブログなどを見ても書評を書いている人は少ない。現代人は忙しいから本を読む時間もないし、学生なども小遣いが無いから本が買えない。しかし本は買って読んでおしまいではなく感想文などを書いておくようにしておかないと、ほとんど全部の本の内容は忘れてしまうだろう。また読み直す暇はないし時間の無駄遣いに終わってしまう。

このような場合にネット上で本の感想文などを交換しあえばいいのでしょうが、ベストセラー小説の感想文はあっても、社会科学系の本の書評はあまり見当たらない事が多い。たまたまフランシス・フクヤマのことを調べていたら「歴史の終わり」の書評が見つかったので紹介します。とくに「最後の人間」については現代社会の批評として見逃せない指摘です。

フランシス・フクヤマはアメリカ人ですからアメリカ社会の事を念頭に書いているのでしょうが、日本にも当てはまるのだろうか。別の「歴史の終わり」の書評においては日本が西洋化するのではなく、西洋が日本化する可能性を論じている。つまりは民主主義社会の究極の理想社会は日本の江戸時代に原型が見られるのではないだろうか。


◆フランシス・フクヤマ著、渡辺昇一『歴史の終わり』 メモ
http://www31.ocn.ne.jp/~memo/memo/the_end_of_history.htm

(前略) ところで、コジェーブはヘーゲルの解釈を通じて、人は人間であることをやめて動物性に戻るだろう(つまり「最後の人間」になる)と述べていたが、1959年に日本を訪れた際、この見解を訂正したという。どういうことだろうか。

 コジェーブによれば、日本は豊臣秀吉以降の数百年間にわたり、国の内外とも平和な状態にあったが、それはヘーゲルが想定した歴史の終わりと酷似しているという。そこでは上流階級も下層階級も互いに争うことがなく、苛酷な労働の必要もない。しかし日本人は、そのような時代にあって、(「最後の人間」がそうするように)セックスや遊戯を追い求めるようにならず、その代わりに能楽、茶道、華道など、永遠に満たされることのない、記号と形式(道)がひたすら洗練・反復されるだけの芸術を考案し、人が人間のままでいられることを証明した、というのである。つまり、たとえば茶道は、政治的・経済的な目的を何ひとつ持たないうえ、時代とともに象徴的な意味さえ失った。それでも純粋な貴族崇拝(スノビズム)という形をとった「優越願望」のはけ口となっていたのである。そこでは、さまざまな流派が競い合い、師匠と弟子の伝統があり、出来の良し悪しを判断する価値規範が存在した。コジェーブは、スポーツと同様、このような形式主義の中に、歴史が終わった後における人間的な活動の可能性を見出したのである。

 コジェーブは、日本が西洋化するのではなく、西洋が日本化すると述べたことがあるというが10、これはフクヤマによれば、歴史的に大きな懸案事項がほとんど終了してしまった世界では、純粋に形式的なスノビズムが「優越願望」の主要な表現となる、ということである。つまり、民主主義社会は、それ以前の貴族社会と違い、「優越願望」が地下に追いやられているのである。

 フクヤマは、現代人が「最後の人間」になってしまうことを懸念している。社会状況もプライベートな慰安のみを求める人間を作り出す方向へむかっているという。民主主義は、生活上のあらゆる選択肢を許容する。それは、特定の価値観を持つ排他的な共同体の行動を抑制する一方で、共同体の紐帯自体を弱体化させてしまう。また、資本主義のダイナミズムも共同体を細分化し解体していく。生産の場所と形態の絶え間ない変動、変化は、人々の生活や社会的紐帯を不安定にする。人がひとつの共同体にいなければ、地域にアイデンティティをもつことはない。結果、人々は、視野の狭い、私欲のみで行動することになる。このような懸念である。

 他方でフクヤマは、人々が再び「最初の人間」に戻ってしまい、無駄な血を流すことになるのではないかとも懸念している。「優越願望」は、定期的で建設的なはけ口を失うと、過激で病的な形で噴出してしまうためである。「優越願望」がいつまで比喩的な戦争の勝利で満足していられるか、これは解決されていない。リベラル・デモクラシーが達成された世界では、戦いを挑む抑圧や専制がないのではないか。とするならば、人は、今度は正義に対して、平和と繁栄と民主主義に対して、戦いを挑むだろう。彼らは、退屈から抜け出るために、戦いのために戦うようになるかもしれないのである。フクヤマは過去の事例として第1次世界大戦を挙げている。ここでは、第1次世界大戦勃発前、ヨーロッパの人々が単調な毎日と市民生活における共同体の欠如に飽きていて、その退屈を埋めるために、群集が熱狂的に戦争を求めたことについてふれられている。1914年より前の100年、ヨーロッパは物質的繁栄がもたらされ中流階級が出現し、平和が続き「対等願望」は達成されていた。しかし、退屈な日常に耐えきれず、長い間満たされなかった「優越願望」が国家レベルで吹き出したのである。

 フクヤマは、現在のアメリカには「優越願望」の暴走という問題は見て取れず、むしろ、ロースクールやビジネススクールに通い「自分にふさわしい」ライフスタイルを維持しようと躍起になる若者の中に「最後の人間」になってしまう危険をみている。

 フクヤマがリベラル・デモクラシーの最大の脅威と考えているのは、本当の意味で存続の危機にされされているものは何かという点について、我々自身が混乱していることにある、という。それは、社会が民主主義に向けて進歩してきた一方で、現代思想は相対主義という袋小路に入りこみ、人間の尊厳を形成しているものについての合意、あるいは人間の諸権利を定義することが不可能になってしまったということを意味している。このことが、一方で「対等願望」を極度に肥大化させ、他方で飼いならされていない「優越願望」を再解放していくのである。

1 「日本人ビジネスマン」がどのようなものか、フクヤマは以下のように描いている。「彼らは、自分のお金を使うひまがないほど一生懸命に働く。余暇を楽しもうにもそんな暇すらないのだ。仕事一筋の生活のなかで自分の健康を害し、安楽な隠居生活への展望も見失う。というのも彼らは、退職する前に死んでしまう可能性が高いからだ。もちろん彼らは自分の家族のために、あるいは未来の世代のために働いているのだと主張することもできるし、それが多少なりとも仕事の動機となっているのは間違いない。けれども仕事中毒(ワーカホリック)の大部分は、滅多に子供たちの顔を見ることもないし、ひたすら仕事に追いまくられているために家庭生活の大半は犠牲にされている。(『歴史の終わり』下巻、翻訳p、95〜96、渡辺昇一の訳出に従った)」。多少戯画的な描写ではあるが、フクヤマはここに不条理な「気概」の存在を見たものと思われる。


(私のコメント)
テレビを見ていると次から次へと事件や事故の報道が相次いでいますが、テレビ局にとっては視聴率稼ぎのためですが、視聴者にとっては事件や事故に夢中になる事によって考える事から逃れているのだろう。そしてテレビキャスターやコメンテーターの発言が自然と自分の意見であるかのように洗脳されていってしまう。最近のテレビは異常なほど世論調査をしては洗脳の度合いを測っているようだ。つまり「最後の人間」とはテレビ局の質問に何でも「イエス」と答える主体性の無い人たちの事だ。


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