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「日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する」 小室直樹 著 大東亜戦争は自衛の戦争であり侵略戦争ではない
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投稿者 TORA 日時 2006 年 1 月 01 日 17:37:38: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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大東亜戦争は自衛の戦争であり侵略戦争ではない
小泉首相は「東京裁判史観」を肯定した中道左派だ

2006年1月1日 日曜日

◆「日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する」 小室直樹 著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898310850/249-1225200-3206718

◆東京裁判とは何であったか

◆負けれぱ犯罪人か?

ケネディ政権下で、フォード社の社長から、米国防長官になったマクナマラ氏が証言するドキュメンタリーフィルム『フォッグ・オブ・ウォー』(二〇〇四年)で、八十五歳になった氏は、「私の人生は戦争と共にあった」と驚くべき告白をしている。

「第二次大戦中、私は統計管理官として、東京大空襲で如何に効率的に日本人を殺戮できるかを仲間と共に研究した。その結果、一晩で子供を含む十万人を殺した」

上官ルメイ中佐(後に将軍)は、「負ければ戦争犯罪人だ!」と言っている。それでは「勝てば許されるのか?」とマクナマラ氏は自問自答する。更に「日本全土、六十七都市を爆撃し、その上、原子爆弾を落とす必要があったのか?」「私は戦争にも目的と手段の釣り合いが必要だと考える」。

またこうも語っている。「原爆投下を許可した好戦的性格のルメイや、ケネディ亡き後、私と意見を違えて、ヴェトナム戦争を拡大、泥沼に落ちたジョンソン大統領も選ばれて『国家と国民のために』と称した行為である事を思う時、『人は善をなさんとして、如何に悪をなすものなのか』(パウロの「ローマ人への手紙」)という言葉を思い起こすL

◆列強の外交と弱小国の外交

非常に公平に観て、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったということば明らかである。大東亜戦争の前までは、有色人種は殆ど白人の植民地人、独立国といえばタイと日本しかなかった。タイは、名目上は独立国ではあるが、イギリスやフランスに圧迫され、痛めつけられて植民地寸前というような状況だった。

インドは十九世紀後半に既にイギリスの植民地になっている。中国はそうはならなかったが、国際法では対等に扱って貰えないで、租界というものがあった。租界というのは中国の中に勝手に、外国が植民地のような土地を作ることである。戦前、約五十の国々があった。その中でも列強といわれる白人の幾つかの国だけが大使を交換する。それ以外の国々は、外交の代表は公使である。

例えば、日本からシナに送る代表は中国公使だ。それ以前はヨーロッパ諸国から日本にくる外交の代表も公使であった。その当時、まともな外交ができるのは列強だけだった。その他の国も公使を派遣されるのは未だマシな方で、条約も列強だけが平等で対等な条約を結べた。列強以外の国は不平等条約が普通に結ばれていたのである。

不平等条約とは何かと言うと、一つは治外法権を伴う条約、もう一つは関税自主権を伴わない条約である。関税白主権というのは、列強だけが勝手に自分の国に対する輸入関税の税率を決めることができる。それ以外の国はできない。こういう条約が結ばれたら大変で、イギリスとアイルランドの力関係みたいに、下手すると忽ちその国の経済的属国になってしまうのである。

治外法権というのは、列強とそれ以外の国が条約を結ぶと、列強の国民は犯罪を犯しても、その当事国の裁判を受けなくてもよろしいという大変な権利である。このような不平等条約というのを列強以外の国々と自由に緒んでいた。これはどういう事かというと、列強以外の国々は、列強がその気になればいっでも植民地にしてやるぞという前提で、このようなヨーロッパ列強の植民地になっていないのは日本だけだった。

日本でも不平等条約を跳ね返すには、明治時代に大変な苦労をした。不平等条約を完全に脱却したのは明治になってから三十年近くたった明治二十七年、日清戦争が起こる前日である。ところが関税自主権にいたっては、それからもなかなか許してくれなかったので、完全に獲得したのは日露戦争に勝ってからだ。

つまり日本が完全に独立したのは、日清日露戦争に勝ったからというわげである。アジア諸国は日清日露戦争なんてやってないので、依然として列強ヨーロッパの植民地だった。そのような事態を一変させて、国際法というまともな基準に変革し、世界の国家が完全に平等になったというのは大東亜戦争の結果である。これだけ見ても、大東亜戦争が如何に大きな意味を持つているか、世界史に特筆すべき大事件だったかという事は明らかである。

◆開戦に至るまで。

昭和の動乱の始まりは、昭和六年の満州事変である。日露戦争で日本は勝ったが、最大の利益は南満州鉄道の獲得であった。日本は、これを守るために関東軍を設立したが、中国側の反撃も大きかった。

中国は、日本人を虐待し、或いは、殺しさえもした。満鉄に並行線を引く計画までたて、その営業を多く妨害した。そのため、日本が得た満蒙の利権は怪しくなりそうであった。この満蒙の危機を打開するために、決然として起こしたのが満州事変である。これは石原莞爾、板垣征四郎を中心とする軍人達の計略であった。

石原は、作戦の名人であり、当時、満州は張学良の率いる、およそ五十万の軍隊の支配下にあったが、石原は、密かに十一インチ留弾砲を持ち込み、僅か一万人ほどの軍隊で張学良の大群を追い払ってしまった。

これは、石原、板垣などの独断で行ったことであり、日本軍の幹部も知らなかった。しかし、満蒙の危機を実感し、早く何とかしなければとは誰しも感じていたことであったから、輿論の支持を得た。初めは知らなかった軍の幹部も、同意して協力せざるを得なくなり、当時の政府(若槻内閣)も、口には不拡大方針を唱えつつも、結局同意して、予算も出した。

しかし、これは日本の中国侵略に違いないと、大騒ぎになった。国際連盟も関与してきたが、日本は、この反対を受け付けなかった。国連は、十三対一、四十二対一で、日本反対を可決したが実際にはどうしようもなかった。ただアメリカだけが、日本の軍事制裁を決意したが、海軍力が不足していることに気付いて、止めた。

国連は、英国のリットン卿に報告書を作らせた。これは、よく見ると日本に好意的ではあったが、日本は、これに気付かずに、跳ね返してしまった。日本は国連が日本のやり方に反対するなら止むなしと、脱退してしまった。

この時の、国連とアメリカのやり方は生ぬるいものであった。日本の満州政策に反対はするものの、「侵略国」呼ばわりもせず、何の規制をも設けるものでもなかった。これと昭和十一年のイタリアに対する態度と、十五年のソヴィエトに対する態度とも比較してもみよ。日本は自信を強め、中国は益々、反日的となった。

次いで昭和十二年七月七日、支那事変が起きた。上海では、少しモタついたが、第十軍(柳川兵団)が、抗州湾に上陸すると、その後一カ月足らずで南京を攻略した。蒋介石は、もうダメだと、講和も決意したが、日本の近衛内閣は逆に、「蒋介石を相手にせず」との態度をとり、事変は果てしなく長引くことになった。アメリカなどは益々、援蒋(蒋介石を援護すること)の臍を固めた。

アメリカは、早くから対日戦の決意を固め、レンパウ五号計画で、戦艦を日本近海に集中して決戦で日本を屈服させるのだと思っているふりをしていた。(P334−P340)

◆東京裁判は何を裁いたか

東京裁判(極東軍事裁判)は、満州事変、支那事変、大東亜戦争における日本の指導者の戦争責任を問うた裁判である。その直前に、ナチスドイツの戦争責任を問うた「ニュルンベルグ裁判」が行われた。ナチスの「責任」のうち最大のものは、「ユダヤ人の大虐殺」であった。戦争末期、連合軍は虐殺に気付いてはいたが、何もしなかった。この埋め合わせは、戦後の「戦犯裁判」に繰り越したのであった。

ところが、日本には、ユダヤ人の虐殺という犯罪はない。仕方がないので、その代わりに連合国が史実を歪曲して創作したのが、南京事件である。昭和十二年十二月十三日、日本軍は、中国の都、南京を攻略した。この時、日本軍は中国人三十万、或いは四十万人を殺した、というのが「南京事件」である。中国人好みの白髪三千丈の類の話であるが、東京裁判は、このような証拠の歪曲の上に成り立っている(例『史実の歪曲』畝本正己著参照)。

東京裁判で裁かれた罪の中には、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という考え方がある。こんな罪は、大東亜戦争が始まった時点に於いては、国際法的には、確立されてはいない罪である。

刑法には、罪刑法定主義という重要な概念がある。事前に法に明示されている罪だけを裁く事ができるという大原則である。この大原則に照らして考えるとき、東京裁判が基礎を置く国際法は、どう考えても合法的ではない。このことは、国際法を少しでも知る者には全く明白なことである。

◆ただひとり「日本無罪論」

この不合法を明らかにすべく、パール博士は、「日本無罪論」を展開し、今や、世界中の学者の支持を得ている。東京裁判に参加した多くの判事は、世界的に認められている法律家でもなく、国際法の専門家は殆どいなかった。例外はインドのパール博士だけで、彼一人だけが日本無罪論を展開した。

「ハル・ノートを突きっけられたらルクセンプルグの如き小国でも、アメリカに宣戦したであったろう」講理明白、主旨厳正、堂々たるものである。比喩も巧みであった。これが全世界を唸らせ、東京裁判は間違っていた、というのが、専門家の問でも定説となった。

この考え方に対しては、批判もある。東京裁判は不合法であり無効ではあった。しかし、この裁判によって新国際法が生まれたのであり、これらの働きによって、侵略にく戦争は不合法となり、今後、起き難くなるであろう。

この反論に対する再反論は、東京裁判の結果として新国際法は生まれたのか? その国際法は機能しているのか? 侵略戦争は起き難くなったのか? 世界史のその後の発展は、よく観ればそんなことは少しもなかった!侵略戦争は、益々行われるようになった。例えば「平和に対する罪」「人道に対する罪」だけでも現時点でも頻繁に行われているではないか!例えばチベットに突如、侵入した中国解放軍。現在も侵略中である。

また、ニュルンベルク裁判と東京裁判では根本的に違うことがある。ニュルンベルク裁判の時、ドイツという国家はなかった。ドイツは戦争に負けたが、大負けに負けたので、ドイツ国が連合国に降伏したのではなく、なけなしのドイツ軍が仕方なしに降伏したという形をとった。

ところが日本は、最後まで国家は解体しなかった。国家権力は存在した。そしてポツダム宣言を受諾するという形で降伏したわけである。だから日本軍は降伏したが、日本国は降伏していないとも解釈できる。

◆戦いに負けれぱ皆殺し

ポツダム宣言というのは、連合国が集まって、ドイツのポツダムで相談して作ったのだが、「我々は日本国民を皆殺しにするわけでもないし、奴隷にするわけでもない」とはっきり書いてある。こういう所は日本人は読み落としている人が多い。日本はそれを受諾したので、奴隷にもされないし、皆殺しにもされなかった。

戦争末期に、相手国に対して、奴隷にもしないし、皆殺しにしないということを何で言ったのかというと、それまでの欧米の慣行では、戦争に勝った国は、敗者を奴隷にするのも皆殺しにするのも自由だったからである。アメリカはインディアンと盛んに戦争し、インディアンに勝利すると、皆殺しにしたり奴隷的な状態に落としたことが度々あった。

日本に対しては、「それだけは許すから降伏しろ」ということである。また、アメリカが犯した致命的犯罪は、日本人は誰もが知っている原爆を用いたことである。原爆というのは、禁止されていなかったように見えるけれども、精密に国際法を見ると一九〇七年のハーグにおいて開かれた、陸戦協定においても、残虐な兵器を使用することを(敵か味方かわからず全てを殺傷してしまうような兵器のこと)、禁止されていた。

アメリカには原爆を使用するのは止めておこうかという議論があった。人種差別ではないかという議論まであったのだが、結局、ドイツには用いずに、日本に使用した。これが国際法違反であるというのは、その後、どんな国にも原爆は用いられていない、ということからも、わかるはずである。

実際、陸戦協定においては、毒ガスだとかダムダム弾だとかも残虐だということで禁止した。原爆はそれと比べようもないくらい残虐である。だから当然、禁止されたものであると解釈しなければならない。ところがアメリカはこれを用いたので、当然、その時の責任者は戦犯として裁かれなければならなかったはずである。

◆いちぱん図々しいのはソ運

原爆ほど残虐ではないが、明らかに不当だというのは、潜水艦による無警告撃沈である。アメリカは、第一次世界大戦では、ドイツによる潜水艦の各商船に対する無警告撃沈をいけないと言った。その絶大な効果によって、ドイツはアメリカを敵としてしまった。つまり、無警告撃沈に猛烈に反対して第一次世界大戦までやったというのがアメリカなのである。

ところが第二次世界大戦の時は、アメリカ自身が無警告撃沈をした。病院船攻撃までやっている。しかし、裁かれなかった。裁判では、一般市民の無差別爆撃を、重慶において日本がやったというのを盛んに攻撃したが、それを言うならアメリカの絨毯爆撃は正しく無差別爆撃であると言える。だが、東京裁判では何の問題にもしなかった。

東京裁判というのは真に不公平な、「勝者による敗者の裁判」であって、アメリカがインディアンの酋長を裁判したり、家康が石田三成を裁判したようなものである。一番図々しいのはソ連で、大戦の末期には、日ソ不可侵条約が未だ半年の期限を残していたが、ソ連は勝手に攻めてきてしまった。そのことは一言も東京裁判では触れられなかった。そして、条約侵犯については一言もないまま、満州にいた日本人を六〇万人ソ連に連行し、虐待した。

だから東京裁判というのは、原理、手続きにおいて、非常に不公平だと言える。東京裁判において不思議なのは、満州事変の真の主謀者、石原莞爾が、法廷にも呼ばれず、起訴もされていないことである。何故これほどの不公平が行われたのか。東京裁判は、公平な国際法に基づいたのではなく、多く、マッカーサーの任意によるものであるとは、明らかにされている所である。

石原莞爾を特に省いたというのも、マッカーサーの故意による。それは、どんな「故意」なのか? つまり、マッカーサーは、戦略の天才、石原の能力を恐れていたのであろう。若くしてドイツに留学した石原は、なぜ、第一次大戦でドイツが敗北を喫したのかを研究し、シュリーフェン元帥のプランは、有能な指揮官を得ていたなら、必ずや成功していたであろうと断言した。

その卓見には、元ドイツ参謀本部の面々も困惑するほど見事なものであった。この戦略の怪物を東京裁判に出廷させたら、石原の性格からして、マッカーサーの軍人としての力量を、遠慮会釈なく、昂然と批判し、「あなたの作戦で、評価出来るものなど殆どない」と平然として言い切ったろう。マッカーサーの嗅覚が、石原を喚問せずが得策と読んだのであろう。

それにもう一人、東京裁判に呼ばれるべきなのに呼ばれなかった天才がいる。平泉澄である。平泉氏は軍人ではない。歴史学者である。学者で戦犯に問われた人としては、大川周明博士がいるが、平泉博士は、学者としても人物としてもずっと大物である。

平泉博士は、山崎暗斎、山鹿素行、吉田松陰、橋本景岳(左内)の学説を高く評価し、これらこそ、日本の真の学問であるとした。維新後の日本は、国史の国定教科書においても、神話を史実とし、教えたのである。

歴史教育と歴史研究は違うから近代国家形成を急ぐ日本に於いては歴史教育と研究が違って当然だとし、那河通世博士と同意見であった。アメリカの学校教育は、この両博士の主旨と同じである。しかし、日本には戦後教育に於いて、そうはさせなかった。マッカーサーは、この様な高い学識に裏付けされた本物の大物は石原莞爾と同じく面倒で無視した方が得策と考えたのだろう。

◆国会が東京裁判を全面否定

最後に、日本国民が全員、思い出さなければならないことは、国会が日本国の名に於いて、東京裁判の判決を全面的に否定したことである。この明白な事実を忘れてはいけない。

我が国は主権を回復したサンフランシスコ講和会議後、自らの意思により昭和二十七年以降の国会で「戦争犯罪裁判での受刑者の全面的赦免」を決議した。受刑者のうち、終身刑を受けた者も、既に釈放されていたが、国会で全員に対して、この決議があったのである。この点、ニュルンベルグ裁判とは全く違う。

更に注目すべきことは、恩給法、遺族等援助法の改正を通じて、「死刑」や「獄死」した被告の死は、「戦病死」と同じ「公務死」であると見なすことにしたことである。ついこれは全く「戦犯」の否定である。終に「東京裁判」は、日本では「存在しない」ことになった。その後、更に政府が「厚生省通達」という形で、戦犯裁判で死刑になった人々も、靖国神社へ合祀されることを明らかにしたのである。

東京裁判の開廷は、マッカーサーの命令以外に如何なる国際法的根拠も持たなかった。他方、ニュルンベルク裁判は、"ロンドン議定書"の国際法的根拠のもとに開かれた。

トルーマン大統領に解任された直後の一九五一年の五月三日に、マツカーサー自身、、が日本のした戦争は、ABCD包囲網(経済制裁)の結果、安全保障に迫られた自衛のための戦争だったという趣旨の証言を、上院軍事外交合同委員会でしている。東京裁判は報復裁判であって「茶番」と言わずして何と言うのか。(P343−P352)


(私のコメント)
明けましておめでとうございます。本年も「株式日記」をよろしくお願いいたします。

元日は恒例のテレビ朝日の「朝まで生テレビ」を見ていましたが、対中国外交で相変わらず靖国問題の話が出ましたが、大東亜戦争が侵略戦争であるという決め付けが行なわれて、アジアの解放戦争であるという意見を否定していたが、いわば欠席裁判のようなもので右翼の論客が「朝生」に出なくなってしまったのか、出られなくなってしまったのか分からない。

いわば左翼と中道と親米派だけが参加する討論会と言うのは、放送局としては放送法に触れるのではないかと思うのですが、いわば「朝生」は右翼の欠席裁判でプロパガンダをしても、世論からしてみればだんだん力を持ってきた東京裁判批判派を恐れているのだろうか。

大東亜戦争が侵略戦争だと最初から決め付けたところから議論をしても結論は出ないだろう。大東亜戦争肯定論はあったが一部の意見として片付けて、小泉自民党が大東亜戦争を侵略戦争と言っているのだから議論の余地はないとしているのだろうが、小泉首相はもともとは中道左派なのだ。だから8月15日に靖国神社を避けて参拝しているのだ。

また靖国神社の記念館の内容を批判していたが、東京裁判を批判しているのであり、アジアの解放戦争であると主張しているだけだ。つまりは日本は戦争に負けただけであり、主義主張は正しかったと主張して何が悪いのか。歴史的に見れば大東亜戦争前と後ではアジア・アフリカ諸国は独立して世界は大きく変わった。

もちろんこのような歴史の見方は日本からの視点であり、旧敵国であったアメリカやイギリスやオランダなどから見れば異論はあるだろう。むしろアメリカ政府が沈黙している事のほうが不自然なのですが、ブッシュ政権自体が先制的自衛権を認めてイラクと戦争したのだから東京裁判を行動で否定している事になる。

戦後間もない頃の自民党は東京裁判の刑を全面的に赦免しましたが、最近の自民党政府は村山談話を引用して大東亜戦争を侵略戦争として繰り返し謝罪しているが、真の社会主義者である田中角栄政権の頃から自民党は中道左派政党になり謝罪外交を行なうようになった。だから小泉政権も中道左派の内閣であり、戦後間もない頃の自民党とは異なり東京裁判の見方も左派的になった。

国内的には東京裁判のA級戦犯は存在しないのですが、対外的に外国に対して説明責任を果たさないのは論争を避けているからですが、学者も政治家も無責任だ。つまりは東京裁判を批判をする学者は政界や学会から追放されるような状況では、日本には言論の自由が完全ではないという事だ。だから「朝生」にも右翼は出られないのだ。{朝生」に出ている右翼は私から見れば中道右派でしかない。

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