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昭和天皇とマッカーサー会見の時〜日本を動かした一枚の写真〜
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/711.html
投稿者 乃依 日時 2006 年 1 月 17 日 19:42:10: YTmYN2QYOSlOI
 

http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaiken/sub_kaiken.html より


昭和天皇とマッカーサー会見の時
〜日本を動かした一枚の写真〜

 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾から2週間後、日本の運命を握る人

物が厚木飛行場に降り立った。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーである


 終戦直後、連合国には、天皇に対し厳しい処罰を要求しようとする勢力があっ

た。一方、日本政府は、たとえ連合国に占領されても、何とか天皇制を維持してい

きたいと望んでいた。
 敗戦から1ヵ月半の後、昭和天皇はマッカーサーを訪ねた。会見の2日後、発表

された1枚の写真、それは日本国民に、敗戦の現実をまざまざと実感させるもの

だった。そこには、昭和天皇の会見を、できるだけ印象深いものとして発表しよう

という思惑があった。会談のあとマッカーサーは、周囲の圧力を退けて、天皇制

の維持を心に決め、以後さまざまな占領政策を実施する。
 戦後の出発点とも言える、昭和天皇とマッカーサーの会見にまつわる、かけひ

き、内容、反響など敗戦直後の歴史的な事実を、当時の関係者の証言を交えて描

く。

マッカーサーの来日と終戦処理


 昭和20年8月15日、昭和天皇のラジオ放送によって、日本の敗戦が国民に

知らされた。「耐えががたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平

を開かんと欲す。」この頃、天皇が愁いていたのは、占領軍の方針だった。天皇は、

自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸

内大臣に天皇はこう漏らした。「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわ

けには、いかないだろうか。」

 8月28日、日本の運命を握る一人の男が、フィリピンの飛行場を飛び立とう

としていた。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーである。太平洋戦争中

は、極東軍司令官として、日本攻撃の責任者。一度は日本に奪われたフィリピン

を奪回した。そして、日本の敗戦と共に、日本に対する占領政策を遂行する権限を

、手にすることになった。
 8月30日、マッカーサーを乗せた飛行機が、厚木飛行場に着陸した。マッカ

ーサーは丸腰だった。悠然とタラップを降りた。この時、飛行場で整備担当をして

いた芦沢さんは、「彼が敵の総大将かと思うと、悔しさと悲しさ両方で、思わず涙

が出ました。これからの日本はどうなるのかなあと、絶望的な気持ちになりまし

たね」。

 マッカーサーとその一行は、宿泊地の横浜に向かった。沿道には、24kmにわたっ

て一定の間隔で、マッカーサーを護衛するための日本の憲兵が立っていた。同じ

日、横須賀に、アメリカ艦隊が姿をあらわした。そして、アメリカ海兵隊第1陣13

,000人が上陸を開始、こうして日本占領が始まった。木戸内大臣の記録。「厚木

へ米軍進駐の状況を聞く。事故もなく、和やかな空気の中に行われたる模様なり。

厚木進駐の状況を言上す」。

 マッカーサー到着の3日後、9月2日、この日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦

上で、日本軍の降伏調印式が行われた。午前9時4分、天皇および日本国政府を代表

して、重光外務大臣が調印、続いて、マッカーサーと連合国代表8人が調印。日本は

ポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏することが正式に承認された。

マッカーサーの占領政策

 マッカーサーは、日本政府に対し、今後の政策立案は、連合国軍総司令部GHQ

が、直接行うと通告してきた。当時マッカーサーの秘書官だったフランクサット

ンさんは、「当初、米国政府の計画では、日本に軍事政権を置くはずでした。実

際に、米国で軍事統治の訓練を受けた部隊が、いつでも日本に出発できるように

なっていたのです。」GHQが行政、司法、立法すべてにわたって、日本を統治す

る。それが、米国政府の計画だった。

 調印式の翌日の9月3日、外務大臣の重光が、マッカーサーを訪ねた。GHQ

が、直接日本を統治するのは、国民は混乱するだけだから、政策の実行は、日本政

府を通して行うよう申し入れた。重光の作成した文書によれば、マッカーサーの

答えは、「自分は、日本国を破壊し、国民を奴隷にする考えは全くなし。要するに

、政府と国民の出方一つにて、この問題はいかんともなるものなり」。マッカー

サーは、日本の政府を介した、間接統治を行うと約束した。この報告を聞いた、昭

和天皇の様子を伝える重光の手記「陛下より、それは誠に良かったねと、一方な

らず、お言葉があり」。

 しかし、占領軍の動きは、予断を許さなかった。9月8日、進駐軍は、横浜から

首都東京に進駐した。同時に、日本政府の意向を無視して、GHQ本部を皇居の

隣に移した。マッカーサーは、この場所から、次々と日本統治の施策を実施して

いく。
 9月11日、GHQは、事前通告なしに、元首相東條をはじめ、37人を戦争犯

罪人として逮捕、拘留した。昭和天皇の恐れていたことが、発生したのである

。日本政府には、いずれ、天皇や皇族も、戦犯として逮捕されるのではという

危機感がつのった。

 マッカーサーに、大きい影響を与えた人物がいる。軍事補佐官ボナーフェラ

ーズである。フェラーズは、太平洋戦争が始まる前から、日本軍と天皇につい

て研究していた。フェラーズは、天皇は日本人の精神的なよりどころであると

して、天皇の意向を利用した統治を進言したのである。秘書官は「マッカーサ

ー元帥が、日本に到着した当初から、日本政府が大変協力的で、天皇が出した

勅令「武器を捨てて占領軍に協力せよ」が実際に、非常に効果のあることがわ

かったんです」。

 しかし、GHQにとって問題だったのは、昭和天皇がどういう人柄なのか、

全くわからないことだった。「昭和天皇を呼び寄せて、面会してみてはどうか

」と進言があった。マッカーサーは、答えた。「いや、私は待とう。そのうち

、天皇の方から、私に会いに来るだろう」。昭和天皇とマッカーサー会見の半

月ほど前のことだった。

マッカーサーと天皇の会見をめぐるかけひき

 9月10日、昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策であるとの

決議案が、アメリカ議会に提出された。この決議案の背景には、アメリカ本国

と連合国とに沸き起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。
9月中旬、新たに外務大臣になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ、皇居を訪れ

た。昭和天皇の用件は、マッカーサーに会いたいということだった。

 9月20日午後、吉田は、昭和天皇の意向を伝えにマッカーサーを訪れた。

吉田は、マッカーサーにこう聞いた。「閣下は、陛下がお訪ねになることを、

期待されていますか」。マッカーサーは答えた「天皇にお目にかかることは、

私としても、もっとも喜ばしいことと考えている。しかし、私は、天皇の自尊

心を傷つけたり、困らせるようなことになっては、良くないと考えている」。

このあと、マッカーサーは、場所は、GHQよりもアメリカ大使公邸のほうが

良いと告げた。天皇の対面を慮り、プライベートな訪問の形にしたかったから

だといわれている。

 この頃の昭和天皇の考えが、内大臣の記録に残されている。「天皇に対する

米国側の論調につき、すこぶる遺憾に思し召され、自分の意志を、新聞記者を

通して明らかにする」と。このあと、昭和天皇は、アメリカ人記者2人を招き

、「日本の将来は英国のような立憲君主制がよいこと、日本は、再び戦争を起

こさないための、必要な手段をとりうること」を伝えた。

 9月26日付け、ニューヨークタイムズの見出し、「天皇、今は戦争反対だ

と語る」だった。その頃マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあら

ゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。秘書官は、「我々は、昭和天皇

について、徹底的に調べました。例えば、彼は、海洋生物学の権威でした。昭

和天皇が、タバコ好きなことも知りました。そこで、マッカーサー元帥は、タ

バコを持っていくことにしました。こうして、元帥は、昭和天皇についての十

分な知識を持って、臨むことができたのです」。

昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見
 9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に

向かって、皇居を出発した。シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の

表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
 作家の工藤さんは「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。

陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運

命がかかっていましたからね」。

 午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。

大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だ

けだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたの

である。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だ

けで奥の部屋に向かった。

 10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇

を部屋の奥へと案内した。米国バージニア州のマッカーサー記念館に、会見時

の写真が3枚残されている。1枚目はマッカーサーが目
を閉じているため不採用、2枚目は昭和天皇の口が開いているため不採用、3

枚目は、ゆったりと腰に手を当てたノーネクタイのマッカーサー、モーニング

姿で直立不動の昭和天皇が、映し出されている。採用されたのは、この写真だ

った。

 写真撮影のあと、2人の会見が始まった。その場で、どのような会話が交わ

されたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。しかし、マッカ

ーサーは、回想記にこの日の模様を記している。
 「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気

がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
 天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政

治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、

私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。



 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最

上の紳士であることを感じとったのである」。
 35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度

は変わっていた。マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送

った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

 翌日、日本の新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道したが、

写真は、不敬にあたるとして掲載が禁じられた。GHQは、直ちに禁止処分を

取りやめさせて、写真の掲載を指示した。会見の翌々日、写真は、新聞の一面

に掲載された。そして、日本中の人々に衝撃を与えた。作家高見順は「かかる

写真は、誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。昭和天皇とマッカーサーの

記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだったのである

 写真掲載の3日後、マッカーサーは軍事補佐官から、天皇について進言を受

けた。「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで、裁判にかけられれば、統治機構は

崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」と。この年11月、アメリカ政

府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。マ

ッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
 敗戦から1年余りの昭和21年11月3日、それまでの大日本帝国憲法に代

わって、GHQの改正案を元に政府が手を加えて、日本国憲法が公布された。

その第1条にこう書かれている。「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合

の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。


マッカーサーと昭和天皇のその後
 会見の後、GHQは、財閥解体、農地改革、婦人参政権の確立など、次々と

政策を推し進めた。マッカーサーは、日本人について、こう語っている。
「現代文明をもって測定するなら、我々が45歳だと

すると、日本人は、12歳の少年のようなものである。日本人は、新しいモデ

ル、新しい考えを受け入れることができる。日本に基本的概念を、植え付ける

ことは可能である。彼等は、生来、新しい概念を柔軟に受け入れるだけの素質

に恵まれている」と。

 1950年、朝鮮戦争勃発、マッカーサーは、朝鮮戦争に乗り込み戦争の指

揮をとった。しかし、戦争の方針をめぐって、大統領と対決、総司令官を解任

された。1951年、4月16日、マッカーサーは日本を離れることになった

。日本を占領するため来日してから、6年後のことだった。そして、1964

年、マッカーサーは84歳でこの世を去った。


 1946年1月、昭和天皇は人間宣言を行った。その年の2月から9年かけ

て、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用

邸で記者会見を行い、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの

初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令

官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。

男子の一言の如きは、守らなければならない」と。
 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の

内容について語ることはなかった。

作成者所見:
 1945年9月27日、マッカーサーと昭和天皇は2人だけで会見した。そ

の会見内容は、当時も今も公式に発表されていない。マッカーサーの回想記に

よれば、昭和天皇は、政治、軍事の全責任は私にあり、私自身を連合国に委ね

ると申し出たと言う。 これに、マッカーサーは感激し、日本最上の紳士と評

価して、その後、一層好意ある態度を示したようだ。昭和天皇とマッカーサー

の人物像の一端を示す、意義ある話題だった。これが、今の象徴天皇の発端と

なった。
 一方、マッカーサーは、会見写真の新聞公開を指示し、日本国民に敗戦を実

感させる才覚も示した。
 いずれにしても、終戦直後、占領軍と日本政府の間で、天皇自身の扱いとマ

ッカーサー会見をめぐるかけひきが、真剣かつ必死の覚悟で行われていたこと

は、あまり知られていないだけに、歴史的にも興味深いものがある。

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