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重複投稿をしてしまったようで、申し訳ない。(汗)
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/145.html
投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 09 日 11:59:33: uiUTTMWMO8Vq6
 

(回答先: Re: 関連した投稿が「日本の事件17」にあり。 投稿者 gataro 日時 2005 年 10 月 09 日 09:52:31)

エリート家庭に起こった事件で、いやが上にも思い出すのは以下の事件。
ただ報道内容を比較してみると、似て異なる気がします。
立大教授の息子は長いこと引きこもっていて、凶行時には分裂病の様相を呈していたように思えるし、器質的なものがあったのかもしれません。
本人の成育歴、生活歴についての報道と、今後行なわれるであろう精神鑑定の結果が待たれるところです。

小生は以下の事件の主人公、一柳展也に同情します。

・・・・・・

予備校生金属バット殺人事件(無限回廊)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yobikousei.htm

【 事件発生 】

1980年(昭和55年)11月29日午前2時半ころ、川崎市高津区の自宅で、受験浪人2年目の予備校生の一柳展也(いちりゅうのぶや/当時20歳)が就寝中の両親を金属バットで殴打して殺害した。

110番があって現場に一番乗りした高津署の捜査官はドアを開けて寝室をのぞきこんだ瞬間、息をのんだ。
和室6畳の寝室には、父親の幹夫(46歳)はどっぷりと血を吸った布団の中で、やや顔を左に向けて横たわっていた。額の上から頭頂部にかけ、頭蓋骨がパックリと口を開け、血しぶきが天井まで達していた。さらに、奥の8畳間には、母親の千恵子(46歳)の死体があったが、こちらは脳漿までが辺り一面に飛び散っている。

父親の幹夫は東大経済学部卒で、旭日硝子東京支店建材担当支店長。大学時代はヨット部主将。ソツのない、きびきびした人柄で社内の評判も上々だった。母親の千恵子は山口県下の名門の酒造家の娘であった。展也には3つ年上の兄がおり、早大理工学部卒業後、大手電気メーカーに入社した。

犯行前日の11月28日午後11時半ころ、この日は24回目の結婚記念日だったが、酔って帰宅した父親は、展也が自分のキャッシュカードを盗んだことを知り、そのことで、応接間に呼んできつく叱った。さらに、受験のことでもうひと言言ってやろうと思い、自室に引き上げた展也を追って、2階に上がっていった。ドアを開けたとき、目に入ったのは、ウイスキーをラッパ飲みしている展也の姿だった。

父親は、椅子ごと押し倒して足蹴りにした。

「バカ、一人前に大学にも入れないくせに、このざまは何事か。お前のような泥棒を家に置いておくわけにはいかない。お前はクズだ、出て行け!」

これまで味方だった母親も、このときは冷たくあしらった。

「あんたはダメな子だ」

その約3時間後に凶行が起こる。

【 本人歴 】

1960年(昭和35年)、一柳展也は東京に生まれた。
1973年(昭和48年)、展也は区立の小学校を卒業し、区立の名門中学に入学する。その中学校は、かつて、都立日比谷高校が東大進学率トップを走っていたころ、その日比谷高校への近道といわれ、越境入学があとを絶たなかった中学校である。
この年、長男は早大の付属高校に入学する。

次男の展也も長男と同じ早大の付属高校への進学を志望していたが、クラスの担任は進路指導の個人面談で展也の母親に「あそこを狙うなら、もうひと踏ん張りしないといけませんね」と言われ、夫と相談した上で、受験科目である英・国・数の3科目については付属高校の教師のところへ通わせることにした。生徒の方から通って行く家庭教師である。

1976年(昭和51年)、だが、結果は駄目だった。早大付属高校の試験に落ち、慶応付属高校にも失敗した。合格したのは私立の海城高校だった。それでも都内では有数の進学校として知られた高校だった。

この年、長男は早大の理工学部に入学する。また、一家は都内の社宅を出て川崎市高津区に新築した家に引っ越す。小・中学校を通じて家から歩いて数分という通学だったが、高校には電車通学することになった。

展也にとって、進学した高校は一段下のレベルという意識があった。
1年の1学期の中間試験は、高校に入学して初めての試験だったが、「赤点」(30点未満)を4つも取ってしまう。総合点ではクラスでビリから2番目だった。
この頃、無気力、無感動、無関心の三無主義ということが盛んに言われた時代で、展也もそういった感じであったと両親は心配していた。

「一体どういうつもりなんだ」「あなた、何してたの」 両親に叱責され、展也は返す言葉がない。

1週間後、展也は家出をする。それは1週間で終わるのだが、その間、大阪に1日だけ行って、<バーテン募集>という貼り紙を見つけたが、どうしても店の中まで入ることができず、戻っている。

クラブ活動は中学のころからしていなかったが、クラスの仲間の間で野球チームができ、展也はキャッチャーをやった。野球は好きだったようだ。

2年に進むと進学コース別のクラス編成になり、展也は私立文科系コースを選択した。海城高校には他に東大コースもあった。

1979年(昭和54年)春、展也は高校を卒業後、早大の法・商、上智大、成城大、明治学院大、中央大を受験するが、いずれも失敗する。一流私大を目指す予備校に通う。

1980年(昭和55年)春、早大、立教大、明治大、法政大、日大を受験するが、またも、ことごとく失敗する。

「一体、お前は何を目標にして勉強しているんだ。それをはっきり考えてやるのでなければ勉強に集中できるわけがない。もういい。大学出るだけが人生じゃない。こんな調子ではいくらやっても同じだから、大学へ行くのは諦めて就職しろ。そのほうがずっと身のためだ」

父親に叱責され、展也は狼狽する。長男の兄と母親は父親を必死で説得し浪人することを許してもらう。

2浪目は別の予備校に通うことになった。試験のある早大専科コースに合格ラインすれすれで通る。

予備校の早大専科コースの前期テストで、111人中、展也は英語で80位、国語は最下位だった。

父親は、家に帰ると、必ずポケットの中の物を居間のテレビの上に置く。展也は父親の定期入れに入っている銀行のキャッシュ・カードを抜き取り、1万円を引き出しては父親が気づかない内に、定期入れに戻しておく、という手を3回やった。

そのお金で、予備校にはあまり行かずに、映画やパチンコ、喫茶店で過ごしていた。予備校には月平均7日しか行っていなかった。

展也はある日、2階から下りてくるなり、母親に向かって「オレ、相撲取りになろうと思う」と言い出した。母親は「あら、あんたなら体重もあるし、いいんじゃない」と言って笑おうとしたら、展也は少しも笑っていない。冗談ではないと知って黙り込んだ。別の日には「自衛隊に入ることにした」と言う。このときもニコリともしなかった。

11月5日、展也は久しぶりに予備校に顔を出した。早大受験模擬試験。コンピューターが採点して、戻ってきたプリント・アウトには「英語44点、国語36点、偏差値43.7」とある。早大の合格圏内とされる偏差値は65以上。絶望的だった。早大はおろか、明治、中央も見込みなかった。

11月25日の深夜、展也はテレビの上の父親の定期入れから銀行のキャッシュ・カードを抜き取り、26日の朝、銀行から1万円を引き出し、ウイスキーを買った。そのあと、カードをいつものように、元のところに戻そうとしたが、26日の夜に限って、テレビの上に定期入れが見当たらない。仕方なしに、戻す機会を待って、ひとまず、カードを自分の部屋に隠すのだが・・・。

【 その後 】

1984年(昭和59年)4月25日、犯行から3年半ほど経ち、赤ちゃんのように、ふっくらとしていた展也の頬は明らかにこけた。未決拘置所暮らしのうちに、75キロあった体重は23キロも減って、52キロになっていた。この日まで、17回の公判があり、福島章上智大学教授(専門は犯罪精神医学、精神分析学)と徳井達司精神科医による精神鑑定は1年余りに渡って行われた。

横浜地裁川崎支部は、検事の求刑は18年だったが、それよりも5年軽い、懲役13年(未決勾留900日通算)の判決を下した。弁護人は「温情ある判決であり、控訴はしない」とただちに表明した。

裁判長が判決理由を述べる。

「父が『明日出て行け』と言ったのは冗談ではなく、確実に追い出されるものと感じ、2浪中で、情けない身分の自分に対しあまりにも冷たい仕打ちであると恨めしく思うとともに・・・・・・両親に対する憤懣や憎悪が募り、2浪中の不安定な心理状態にあり、心理的圧迫感を抱いていたうえに、酒に酔った勢いも加わっていよいよ押さえ難くなり、かくなるうえは、いっそ父も母も殺してやろうという気持ちになり・・・・・・殺害したものである。殺害方法は残忍きわまりないうえに、何らためらいを見せず、父を殺したあとすぐに、母を殺害すべく行動していることはきわめて冷酷、非情というほかはない」

「被告人は本件にいたるまで、前科・前歴・非行歴がまったくなく、当時20歳3ヶ月の青年で成人に達して間がなかった。元々、性格が未熟で情動が刺激されやすいうえ、2浪中の不安定な心理状態にあり・・・・・・反省、悔悟しており、今後の教育・更生に期待するところもなしとせず・・・・・・」

「スパイ粛清事件」の実行犯として1982年(昭和57年)の秋に逮捕され、長く千葉刑務所に入っていた見沢知廉(ちれん)の著書『囚人狂時代』(ザ・マサダ/1996)に、この展也が登場する。

『囚人狂時代』

所内では、休憩時間になると、大体2組に分かれて野球を始めるのだが、そのとき、展也は置いてあった金属バットを持って無心に振りまわし出した。久しぶりの好きな野球で、ブンブン音がするほどの素振りだ。

それを見て、殺人犯や強盗犯の凶悪犯が落ち付かなくなる。そして、遂に、中のひとりが、担当の刑務官に向かって、直立不動で帽子を取り、「先生! 大変ですっ。展也が金属バットを振りまわしています! 大丈夫なんですか?」

これには担当も困ったが、囚人には原則として運動を奨励しており、展也だけを例外とするわけにはいかなかった。

「まあ・・・・・・ははは、いいんじゃないの・・・・・・」

ということで、展也の金属バット振りまわしは禁止されることはなかった。だが、実際のプレイはまるでダメだった。金属バットを振りまわしても当たらないし、捕球もヘタ。あまけに足も遅い。やがて、補欠になり、そのうち老人たちとベンチに座って茶飲み話をするようになってしまった。

『囚人狂時代』によると、著者の見沢(懲役12年/1994年12月8日、満期出所)自身が出所する2〜3ヶ月前に、一柳展也は満期出所したという。
 
・・以下略

参考文献・・・『金属バット殺人事件』(読売新聞社/佐瀬稔/1997)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『囚人狂時代』(ザ・マサダ/見沢知廉/1996)

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