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死を遠ざけたのではなく、生が色褪せてしまった結果ではないでしょうか?
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/173.html
投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 16 日 12:58:27: uiUTTMWMO8Vq6
 

>日本人は余りにも死を遠ざけてしまいました。
>ニュースで死にまつわる話題があふれているにもかかわらず
>死の実感が湧かないのです。身近に死を見る機会が余りないからです。
>これは、人間生命の軽視にもつながる様な気もします。

・・・

http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/660.html

これは、暫く前に小生が投稿した、中谷剛さんのコラムです。
中谷さんは日本人で唯一人、ポーランドのアウシュビッツで国家公認ガイドとしてご活躍されている方です。

>この<自由>の尊さを感じる背景には、人々の良心、正義感があるように思える。
>今、生きているポーランド人でさえ、幾度となく選択を迫られてきた。
>戦時中、占領してきたナチスに抵抗するか否か、迫害されているユダヤ人を助けるか否か、
>戦後、ソビエトのシステムに同調するか否か。
>生死をかけた良心の選択である。

・・・・

>占領されたポーランドで、ナチスドイツと戦いながらユダヤ人を救い、強制収容所へ連行されながらも奇跡的に生還し、
>この英雄的な行為が戦後の共産主義体制下では危険人物と見なされ、たいした職にもつけず、
><自由>を手にした今、資本主義体制化で貧しい国家予算の中、わずかな年金で生活をしている英雄もいるのである。
>その彼らが私たち外国人に口を揃えてにこやかにおっしゃることが、<穏やかに悔いなく死ねる。>である。
>ポーランド人同士の会話としては、あまりにもデリケートな話題なのかもしれない。

・・・

私事ですが、小生の家族について話します。
小生の義父は20年以上前に鬼籍に入っていますが、この<英雄>の一人でした。

小生の義母は純粋なユダヤ人で、戦時中はドイツにあった強制収容所で過ごし、奇跡的に生還した少女でした。
彼女の両親はドイツ軍に惨殺され、終戦の段階で既に「孤児」でした。

長じて彼女は小生の義父と出会い、恋におち、結婚し、ほどなくして子宝に恵まれます。
二人の女の子を産みますが、下の娘が現在の小生の妻です。

当時、ポーランド人がユダヤ人と結婚するということは、どういうことだったのか。
これを現代に生きる日本の若い人たちに説明できる言葉を、小生はもっていません。

ユダヤ人を妻に娶った義父は過酷な迫害を受け、さまざまな嫌がらせを受けた後、職場から放逐されます。
義母はタイピストとして働いていましたが、二人の幼児を抱え、共産政権下の貧しいポーランドにおいて、義母一人の稼ぎで一家が生きてゆくことは容易なことではありません。
義母から聞いた話ですが、義父が職場を放逐された後、一家はなけなしの金をはたいてミシンを購入し、義父は近所から「つぎはぎ」の繕いを請け負う仕事をしながら、義母とともに細々と一家を支えてきたようです。
当時としては数少ない、ポーランドの最高学府に学んだ義父でしたが、人生の半分は自宅でせっせとミシンを踏み、屈辱と赤貧に甘んじて暮らしてきたようです。
そんな両親に育てられた家内は、穏やかで優しく人類愛に満ち、小生の二人の子供らにとり最愛にしてかけがえのない母親として、今を生きております。

二十数年前、義父はその数年後に祖国が解放される瞬間を見ることもなく、ガンで亡くなりました。
その死に顔は安堵と誇りに満ち、穏やかなものであったと末期の水をとった家内は申しておりました。
命をかけて<良心の選択>をし、自分が愛した一人の女性に、そして彼女とともに築いた家族の為に己がすべての人生を捧げ、そして彼は天国に旅立っていった。

・・・

以下は、小生の文章ではありません。
かつて小生がある掲示板で読み、鳥肌がたつような感銘を受けた投稿です。
まだ皆さんのご記憶にあると思いますが、香田さんという青年がイラクに入っていって拉致され、首を切り落とされた直後に投稿されたものです。
全文ではなく一部、抜粋します。


昨日の某地方紙の朝刊にて、集団自殺とイラク人質事件を並列してとりあげ、論評している記事がありました。タイトルは『寄る辺ない現在と自己抹消への圧力』です。
その中にこんな文章がありました。

・・・「将来の夢は」と聞かれ、たとえば、「完ぺきな化石になりたい」と答える中学生がいる。他人が絶対手を出せないよう、確実に自分を「消したい」という願望は、自殺サイトに集うような若者たちだけが抱いている例外的な感じ方では決してない。普通にただこの場に「いる」ことさえ苦しい─ それほど深く自分の存在を否定されつくす感覚について、私たちは想像できているだろうか。
 
(中略)
 
・・・死を軽く考えるからではなく、自分自身の生をそれにふさわしい重さで感じさせない、肯定させない力がはたらくからこそ、死が誘惑になるのだ。
 
自死へ向かうのとは逆だが、イラクで殺害された青年の無謀とみえる行動の背後にも、「いまいる現実」を絶えず空虚に感じさせ、違う世界を求めてさまよわせる日本社会の頼りなさ、寄る辺なさが感じられてならない。私たちの社会は若者たちを生きながらにして生かしていないのではないか、とさえ思える。

(中略)

・・被害者が自責の念に駆られ、悩みに立ちすくむ者が弱いとみなされ、「甘えるな」「負けるな」とだけしかられる現実をそのままに、「生きる勇気を出して」「若いのだから夢を持って」などと一方的に呼びかけるのは空々しい。
自分に切実な事情や屈託を抱えて立ち止まったり試行錯誤を重ねる若者達に応え、歩調を合わせ、支援のできる社会なのかどうか─ それこそが問われているように思う。
(横浜市立大教授、中西 新太郎氏による記事より)


思えば、この世の中は自分にとって生きる価値があるのか・・・という問いかけをすれば、世代によって全然違う答になるのではないかと思うのです。
若い人ほど今在るこの世の中に対しての価値は低く感じられているのではないかと推測します。そのために積極的に生きようという気持ちになれず、なんとなく日々を過ごし、空虚さばかりが感じられたりするのです。

「夢がない」という状態を以前の私は想像出来ませんでした。
でも、今は少しわかるようになってきました。
未来に希望が持てない・・・故に夢もない、そういう状態なのではないでしょうか?

香田さんについて、私は彼自身が全く無事に帰って来れるという自信をもってイラク入りをしているわけでもなく、生への執着もただ漠然とした弱いものではなかったかと想像します。あのビデオでも、「何が何でも生きたい」という意志は伝わってきませんでした。声にも表情にも「諦め」とは言わないまでもどこか生に対するやる気のなさを感じたのです。
 
以前、あちこちの内戦に傭兵として出かけていく日本人の青年を取材した番組を見たことがありますが、彼は「日本にいても生きていると感じられず、戦場にいてこそ自分は生きているのだと実感出来るのだ」と仰っていました。
 
感覚の鈍い人が増えているように思います。精神的なものだけではありません。
実際に触覚が鈍くなって、痛みが感じられなかったり、暑さ寒さがよくわからなかったり、ある日突然味覚がなくなるという人もいるようです。
 
現代人の体までもが外界の変化を感じ取ることを拒みつつある状況は、ある意味自己防衛本能がなしているものかもしれません。自分で自分に麻酔をかけ、外界の変化に対しての自分の肉体的精神的影響を少なくし、或は無関心でいられるようにしむけているようにも思われます。
それ程までに、今の世の中には目を背け、耳を塞ぎたくなることが多すぎるのかもしれません。

静謐な文章です。
投稿者は若い女性ですが、生の本質を見つめようとする、深い深い洞察を感じます。

死を、獏全とは恐れる。
だが同時に、生の実感がない。
おぼろげな、生と死。

自らの命の終末において、その状況が如何なるものであるかを恐れる人々の心理というものは、即ち生の輝きを喪失した現代人の末路という気がします。
香田青年は自らにおいて「死」というものを曖昧に捉えていたのではと小生も思いますが、それは同時に、彼にとっては自らの「生」すらも曖昧だった。
また、あのような極限状態に追いやられた経験のない我々においてすら、生を実感できぬ現実を生きているが故に「死」すらも実感できず、実感できぬが故に「未知なる闇」としての死を恐れ、また恐れることによって辛うじて生き長らえているのではないだろうか。
表現を変えて言えば、漠然たる死の恐怖に縁取られた生を生きている。
残酷な言い方をしたかもしれませんが、自らの生を支える尊厳を頑なに手放さなかった人々は、生きているあいだも死を恐れることもなく、同時に「命」を惜しむこともなかったのではないでしょうか。
自らの生を、命を、尊厳に捧げていたからです。
そして遂に死を迎えるにあたっては、<穏やかに、悔いなく>死んでいけたのだろうと思うのです。

生きて、そして当然のことながら迎える死の床において、我々は最後の審判を受けるのかもしれません。
穏やかに、そして悔いなく旅立つことができるのかどうか、これは誰にも立ち入ることのできぬ領域での話です。
最後の審判を下すのは、他ならぬ自分自身の尊厳であるからです。

死の淵において見つめる自らの死を、価値ある命の喪失と捉えて恐れるのか。
たまさかの輝きたる生を生き、<穏やかに、悔いなく> 生に終止符を打てるのかは、生あるうちの我々の生き方次第なのかもしれません。

「尊厳ある死」と人は言う。
だが「尊厳ある死」などというものはなく、死の後に残るのは「尊厳ある生」の美しき残滓なのではないかと思うのです。

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