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ワーグナー&ニーチェ問題に対する更なる社会学的分析(MIYADAI.com)
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/441.html
投稿者 まさちゃん 日時 2005 年 12 月 14 日 20:15:17: Sn9PPGX/.xYlo
 

(回答先: 前期ロマン派と後期ロマン派の微妙な関係に関連する文章(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2005 年 12 月 14 日 20:11:55)

ワーグナー&ニーチェ問題に対する更なる社会学的分析
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=318

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パク・チャヌクの復讐三部作によるギリシア悲劇やモーツァルト歌劇の引用に、「俗悪な群像に聖なる奇蹟を見る態度」と「俗悪と峻別された聖性を追う態度」の差異化を見出す
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■前回、〈世界〉の未規定性へと開かれた実存を賞揚するニーチェが、自らは〈世界〉へと開かれた者が〈社会〉の汚れにまみれて生きることを推奨しつつ、〈社会〉に汚れて「民族」や「キリスト教精神」に全体性を見出すワグナーを批判した、と述べた。

■そこには思想問題よりも、むしろ実存問題が見出される。全体性の真実を知る筈の者が、なぜ「民族」や「キリスト教精神」の如き低劣を描くか。ワグナーに見出されるのは不誠実さや不真面目さか。或いは真実を知ると見えて、実は知らなかったということか。

■1987年から1993年にかけてワグナーを記念するバイロイト音楽祭でローエングリンを演出した映画監督ヴェルナー・ヘルツォークは、映画『フィツカラルド』(82)において、オペラの歴史の何たるかを踏まえた上で、今述べた問題に、事実上の回答を与えた。

【俗悪な群像に聖なる奇蹟を見る貴族】
■前回の復習をかねて紹介する。アマゾン河口から1400km上流のマナウス。20世紀初頭、空前のゴム景気に沸き、成金たちが華美なオペラ劇場アマゾナスを建立した。上流のイキトスから三日三晩かけて、観劇に訪れる実業家フィツカラルドが、主人公だ。

■鉄道事業で破産して製氷業を営む彼は、ジャングル奥地にオペラ劇場を建てる資金のために支流のゴム園開発を企てる。娼館を経営する愛人の金で、急流が阻む支流奥地に、隣接の支流から大型汽船を運び込もうと、首狩族を率いて汽船の「山越え」を敢行する。

■山越えには成功したが、寝静まった夜中に首狩族に舫綱を解かれた汽船は、沈没寸前になりつつ急流を下り、結局一文にもならず終い。主人公は、残りの金をはたいてオペラ一座を雇い、船上でベルリーニ『清教徒』を上演させつつ、マナウスに戻る──。

■主人公は伝説的テノール歌手カルーソに心酔している。彼は貧民の子らにカルーソを聴かせ、首狩族にカルーソを聴かせる。首狩族の《この世は幻。別の世こそ真実》という世界観に、自分の世界観そのものだと共感する。オペラは別の世(〈世界〉)へと通じる扉だ。

■だがそのオペラたるや……。冒頭、終演間際のアマゾナス劇場へと駆け込んだ主人公が、ヴェルディ『エルナーニ』を歌うカルーソに聞き惚れる。舞台は場末のニューハーフショーの如き俗悪さだ。山賊の恋人エルナーニ役は男が演じ、化粧はまるでチンドン屋。

■だがこれは17世紀半ばまでに誕生したオペラの始源そのものだ。19世紀に確立したコンサートと違い、悪趣味こそが命だ。イタリア起源のオペラはそもそも貴族の蕩尽。蕩尽自体が「この世は儚き幻」というカトリック的精神の発露だ。歌劇の内容にさして意味はない。

■オペラ劇場の作り自体が象徴的だ。アリーナ席と天井桟敷は下層民。アリーナを囲むボックス席は貴族。食事と密会の個室だ。個室からは向いの個室群が見渡せ、互いに見せ合うスキャンダリズムが基本になる。アリーナの下層民だけが舞台を注視する(しかない)。

■俗悪そのものに聖性を見出す。或いは、俗なる濃密に聖なる平安を見出す。こうした二重性ないしメタ性こそオペラの本質だ。自らは俗悪にまみれつつ、俗悪に聖性を見出すオペラの招致に奔走する主人公フィツカラルド。劇場招致に奔走するワグナーの化身だ。

■因みに、近代社会の到来で、舞台を注視する下層民=市民が「神の代理人」化したので(アドルノ)、コンサートが生まれた。貴族らによる「俗悪に宿る聖性」の享受を、市民らは「ベタな聖性の享受」と取り違えた。それを象徴したのが19世紀後半の後期ロマン派だ。

■19世紀前半までは、オペラ(俗悪に聖性を見る貴族趣味)とコンサート(ベタに聖性を見る市民趣味)の間に、まだ落差があった。それが、とりわけドイツで、下層民(市民)がオペラまでをもコンサート的に享受しはじめる。後期ロマン派を支える社会的文脈だ。

■こうした事情を踏まえれば、ワーグナー(1813〜1883年)に対する三十歳年少のニーチェ(1844〜1900年)の違和感には明白な社会的文脈があると分かる。ワーグナーはオペラの貴族趣味的側面を弁えているが、ニーチェはどうか(とハナ・アレントは批判する)。

■今日の日本人も、「オペラ」ならざる「オペラ劇場」が、俗悪な階級社会の縮図(であることによってカトリシズム的な意味で聖性を表示する場)であるのを知らない。着飾った田吾作が「オペラ劇場」ならざる「オペラの演目内容」に、ニーチェ的に固着する。

【俗悪と峻別された聖性を追う田吾作市民】
■社会の縮図はいつも悪趣味だ。オペラにつきもののイカガワシサもそれに由来する。それを愛でてなんぼ。灰の中のダイヤモンドの如く、俗悪な社会の「中」に希少な聖性を探すのでなく、俗悪な群像そのものを聖なる奇蹟と見做すこと。それこそがオペラ的だ。

■これはカトリック的感受性と一体だ。キリスト教を巡る俗悪な群像への反発から宗教改革が興った。プロテスタントの方が純粋だというイメージを抱きやすいが、それはどうか。「俗悪な群像そのものを聖なる奇蹟と見做す」ラテン的感受性は高度に成熟している。

■このラテン的感受性は、一次的には聖職者ないし貴族のもの。階級社会的エリート主義を前提とする。宗教改革はキリスト教の市民社会化に繋がるが、それが俗悪と峻別された聖性の探索という幼児的強迫を帰結し易いのは、今日の米国を見るまでもなく明白だ。

■「俗悪と峻別された無垢な聖性を愛でる態度」を幼児性だと見做すラテン的感受性は、「〈世界〉の根源的未規定性を超越神という特異点に帰属する態度」を依存性だと見做す初期ギリシア的感受性からの、(ルネサンスを経由した上での)文化的派生物だ。

■その意味でオペラとコンサートの対立は、カトリックとプロテステントの対立、貴族主義(的なエリート主義)と市民主義の対立、ルネサンス的前近代と宗教改革的近代の対立、初期ギリシア性(プラトン以前)と中世性(アリストテレス以降)の対立と、緩く重なる。

■因みに、初期ギリシア性に母源を見出す前期ロマン派には、俗悪な群像そのものに聖なる奇跡を見出すカトリシズム的感受性の響きを聴き取り得る。『フィツカラルド』は後期ロマン派的に頽落しがちなオペラ享受を、前期ロマン派へと引き戻す試みでもある。

■こうした意味論の変遷を踏まえて漸く表現における悪趣味を論じ得る段取となる。先日、パク・チャヌク監督『親切なクムジャさん』(05)の日本公開に先駆けた復讐三部作連続上映会で、「監督に代わって」復讐三部作を観客たちに解説する機会を得た。

■復讐三部作とは『復讐者に憫れみを』(02)『オールドボーイ』(04)『親切なクムジャさん』。『オールドボーイ』の高度な娯楽性を期待して訪れた観客の多くは、他二作、特に『クムジャさん』の圧倒的な悪趣味ぶりに、かなりゲンナリしていた。

■『オールドボーイ』日本公開の際、私は監督にインタビューした。彼によれば92年頃までの肩書きは「映画評論家の大学教員」。三部作完結編を計画中だと話していたが、そんなインテリ経歴もあってか(?)ギリシア悲劇の教養を踏まえた確信犯なのは間違いない。

■まず『復讐者〜』の「因果は巡る糸車」モチーフ。松本俊夫監督・唐十郎主演『修羅』(71)の如き趣きだが、人の命を救うための誘拐に発する復讐が復讐を招く。まさに「世の摂理は人知を越える」。誰にも悪意がないのに、復讐連鎖が一巡した暁に全員が死滅する。

■このモチーフだけでも十分ギリシア悲劇を髣髴させるが、『オールドボーイ』では原作の日本漫画にないモチーフは全て、ソポクレスの『オイディプス王』からの借用だ。主人公のオ・デスの名がオイディプスの欧語表記のアブリビエーションなのも明らかだ。

■『オイディプス王』の元ネタは複数の異本を含めたギリシア神話だ。『オールドボーイ』が参照するのは、映画ラストのエピソードを見る限りソポクレス版。これをベースにパク監督は、土屋ガロンの原作を「復讐者が設計したオイディプス悲劇」へと仕立て上げた。

■例えば「(悲劇の)無自覚な引金」モチーフ。「オ・デスの無自覚な告げ口」が「オイディプスの無自覚な父殺し」に対応する。同じく「悲劇的な結末」モチーフ。「オ・デスと娘の無自覚なインセスト」が「オイディプスと母の無自覚なインセスト」に対応する。

■「無自覚な引金」と「悲劇的な帰結」の間を、『オイディプス王』では「人知を越えた世の摂理」が繋ぐのだが、『オールドボーイ』では復讐者(イ・ウジン)の「人知」が繋ぐ。故に映画では「人知を越えた世の摂理」を「人知」が担うことが、もう一つの悲劇を招く。

■映画ラストは、しかし再び『オイディプス王』との対応を取り戻す。オ・デスは愛する女が自らの娘だと識別できないように、記憶消去の催眠術に挑戦する。オイディプスは、冥府で父と母を識別できないように、妻(母)のプローチで目を突いて自ら目盲となる。

■因みにソポクレス版『オイディプス王』からの明白な引用が、やはり松本俊夫監督・ピーター主演『薔薇の葬列』(69)に見出される。パク・チャヌク監督が松本作品を見ているか否かは定かでないが、ギリシア悲劇の参照がこうした符合をもたらすのは不自然でない。

■だが松本と違いパク監督は復讐三部作の全てで、悲劇とは裏腹の軽妙な語り口に徹する。そのせいで、観客を小馬鹿にしているのではないかと一部で揶揄される程だ。これは彼の教養主義的態度を背景とした誤解だが、しかしそうした印象には「真実」を突く部分がある。

■俗悪な理不尽を軽妙に描く。そこには俗悪と峻別された聖性を追求する生真面目さを嗤おうとするオペラ的な意思が働いている。その証拠に、三部作の全てで、敢えて荘重なクラシック系の映画音楽が用いられる。パク監督の意図が明らかだという他ない。

【悪趣味なのは、犯罪者か、社会か】
■復讐三部作の完結編『クムジャさん』でも「世の摂理は人知を越える」というギリシア悲劇のモチーフが反復される。そこでは、復讐が裁きに似るが、裁きが狂気に似るが故に、罪人が正気だと映る。或いは、正義の裁きが、裁かれる悪より大きな悪を体現する。

■冒頭、クムジャが禊ぎの豆腐を拒絶する。刑務所内で親切なクムジャとして知られた彼女が、出所後豹変した。無実の罪で服役した13年間に練り上げた復讐計画を実行するべく。親切は出所後の協力者を作るため。自らを陥れた高校時代の恩師ペクへの復讐が始まった。

■クムジャはペクを廃校に監禁。彼の小児性愛癖の犠牲になって殺された子供らの、親を集め、ペクが記録した犯罪映像を見せて激昂させ、メッタ刺しさせる。悪への裁きが完遂された。親らの打上げのケーキパーティに続き、彼女が禊ぎの豆腐を喰らう場面で終わる。

■この構成はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』が元ネタだ。『フィガロの結婚』と同じロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書き、1787年プラハ国民劇場で初演された。ティルソ・ド・モリナの原作(1630年)を翻案したモリエール『ドン・ジュアン』(1665年)・を翻案した同時代のベルターティ『石の客』(1787年)を、更に翻案する。

■ラテンとは異なる「キリスト教的常識」(性愛倫理)が拡がり、腐敗貴族への市民的反感が昂揚する当時。成功した性交が2065人とされる主人公の貴族ドン・ジョバンニの振舞は「神をも恐れぬ所業」で、そのまま描けば観客がパニックになりかねなかった。

■だからオペラ内で性交は一つも成功しない。旅芸人として欧州を周遊、イタリア語の通称(アマデウス)を持つモーツァルトは、俗悪な群像そのものを奇跡と見做す本場の貴族趣味をむろん熟知する。同時代に自己主張を始めた「真面目市民」向けの、マイルド化なのだ。

■主人公は制御しがたい内発性に突き動かされる。《俺が何をしているのか全く分からない。恐ろしい嵐が俺に向かってくる》。彼は〈社会〉が要求する枠に収まれず、貞節も人命も否定する。二幕もののオペラの一幕目ラストの舞踏会で、彼は《自由万歳!》を叫ぶ。

■主人公の振舞は悪趣味の極致だ。貴賤老若を問わずヤリまくる(存在として知られる)。破廉恥な所業を非難されている最中に別の女を誘惑する始末。彼の反社会的行為は劇中で登場人物らの非難を一身に浴び、二幕目ラスト近くで、地獄の奈落へと転落する。

■直後が、問題の二幕16場。「自由人モーツァルト」が大人気だったプラハでこそ上演されたが、翌年ウィーン公演で削除された。後、暫くウィーン版が上演されたが、最近はプラハ版が上演される。この問題場面で、主人公の死滅を喜ぶ登場人物らが六重唱の凱歌を唱う。

■《天が我らに代わって復讐を遂げた。我々善良な者たちは昔の歌を唱おう。罪深い者たちは同じ報いを受ける》。これはアイロニーだ。モーツァルトが、道徳的社会でなく、主人公の側に肩入れするのを表現する。悪趣味はむしろ主人公を死滅させる社会の方だと。

■「真面目市民」は主人公の死滅を喜び、「放蕩貴族」は裏メッセージを愉しむ。この意図された両義性に、18世紀までのオペラの時代と19世紀のコンサートの時代との──文化的「先進」地域(イタリア)と「後進」地域との──メタとベタの差異が折り畳まれる。

■『クムジャさん』に戻ろう。この映画にも、『ドン・ジョバンニ』と同じ「悪趣味の相転移」がある。悪趣味が、欲望のままに振舞う小児性愛者ペク先生から、犠牲者家族に代表される社会へと、移転される。「犯罪者の悪趣味」と「社会の悪趣味」が反転する。

■具体的には「ペク先生の死滅」が「ドン・ジョバンニの死滅」に対応し、「裁きを代行するクムジャと被害者家族の関係」が「裁きを代行する霊とドン・ジョバンニの被害者関係者」に対応し、そして「ケーキパーティ」が「勝利の六重唱」に対応する。

■『クムジャさん』に9・11以降の米国政府への批判を見てもいい(そういう理解が巷
に拡がる)。だが先に指摘した対応関係を前提に言えば、重要なのは、聖性を俗悪から峻別しようとする、近代に拡がるプロテスタント的な「生真面目な市民性」への批判なのだ。

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