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如往さんの投稿「同心円の中心部を成す仏性」(後半部分)に寄せて
http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/511.html
投稿者 張良 日時 2006 年 1 月 06 日 16:52:26: YeLj0JQdWAK.A
 

如往さん、レスが遅くなりましてスミマセン。外的な事情もさることながら、如往さんのお考えが深くて、どうお応えしていいのか考えが纏まらなかったのです。的確なお応えになるかどうか分かりませんが、私の“…極々個人的な思索…”によるものを以下に述べてみます。

尚、新規投稿の形を取りましたこと、ご容赦下さい。レスの対象は、この議論版上の「同心円の中心部を成す仏性」(http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/460.html)の後半部分です。


では先ず、如往さんの文章から引用させて頂きます。

“………般若心経を音に聞き、曼荼羅の世界に身をおくと、菩薩(如来)は我々が畏れ崇める存在ではなく、生命体の後背から生命そのもの(仏性)に遍照の光をあてている存在ではないかと感じられて来ます。………”(以上、引用)

このような三昧の境地をご存知の方に申し上げる資格はないのですが、公開の掲示版であることに免じて、勝手な理屈屋の言動とお許し下さい。

で、其の勝手な理屈なのですが。生命そのものと仏性とを単に(=)で結ぶのではなく、生命そのものの構造の中核にある空虚を仏性と考えられないかと思っています。ご存知の通り、涅槃寂静は三法印の一つですし、解脱を入滅とも言います。寂滅は仏教独特の境地であろうと思います。この寂滅を現代風の知的表現に置き換えると、空虚という言い方になるのではということです。

勿論、現代風の表現に置き換えてしまっては意味が損なわれてしまうとの批判は避けられません。しかし、それは仕方のないことだと思っています。末法の世に入って既に一千年が経過した今日、仏教の真実はもとより、其の外観さえ損なわれることは、はるか昔に説かれているところです。

現代風の表現の中に移し変える作業を恐れず、寧ろ積極的に、西洋の知的伝統との融合を目指してはどうかと思います。西洋だけではありません。中国の陰陽思想や老荘の説くところ、さらには孔子の言葉までも視野に入れた思想形成が今日の課題ではないでしょうか。

実際、老荘に言うところの道もまた、其の極まりに於いて寂滅と近いものが有ります。違いは、老荘に於ける究極が現象界との結びつきを断ち切られていないのに対し、涅槃は現象界からの解脱であることです。解脱の一歩手前で立ち止まり、現象界への道を閉ざすまいとするのが老荘ではないかと思います。


さて、空虚です。何故空虚なのかと言えば、我々悟り得ぬ者にとって涅槃は、あらゆる認識の外に在ることだからです。私達には、その何たるかを知ることが出来ないからです。カントの言葉に「物自体」というのがあるそうですが、物、つまり認識の対象それ自体には、いかなる認識も及ばないという意味に理解しています。人間の知的認識の限界を見定めたことは、ソクラテス以来の知的伝統に於けるカントの大いなる功績でしょう。

という訳で、空虚とは何も無いこととは違います。カントの場合、認識し得ない何かが確かに在るのです。認識と存在の分離は、それを極限まで推し進めれば、絶対的な分離に至る訳です。我々の知り得ないものが存在しているのです。

では、知りえないものを指して何と言えば良いのでしょうか。土台、「在る」という表現は適切なのでしょうか。我々の了解する「在る」という言葉によって、認識外の事柄を言い表せるのでしょうか。しかし、「無い」と言っても事態は改善しません。「無い」わけではないのです。かと言って、単純に「在る」のでもありません。在るとも言えるし無いとも言える、しかし、無い訳ではなく在るのでもない。と、こう来れば、なにやら仏典の一節にあったような言い回しになります。

ところで、カントが認識の対象について考えたことを、デカルトは認識そのものに付いて考えたのではないでしょうか。認識は常に対象を持っていますが、認識自身を対象とする認識において、様々の認識の背後にいるはずの認識の主体とは何者なのか。いや、そんな者が本当に存在しているのか。物自体と同様に、認識自体は認識の外に在ります。しかし、物自体が認識の対象であるのに対して、認識自体は、認識の対象でもあり認識そのものでもあります。認識そのものが認識の外に在るとはどういう事なのでしょう。

デカルト的主体は、単に存在している者ではないようです。常に外部へ(内部へとも言えますが)と踏み出して行く思考という働きそのものなのでしょう。しかし、働きそのものとは何でしょう。此れだと取り出すことは出来ないにしても、それと指し示すことは出来るのかも知れません。デカルトの業績とはそういうことではないかと思います。


デカルト的主体はあくまでも現象界に属しています。現象の内に働き続けています。と同時に、常に現象界を踏み出して行きます。現象の外部へと世界を拡大します。老荘の道は、現象界の外部と内部を繋いでいます。そして涅槃は、現象の外部にあることです。これらを仏性の三相と考えられないでしょうか。思考は生成する働きであり、道は栄枯盛衰の理、涅槃は絶対の真実です。そして、三相の本体は我々の認識の外です。仮に、空虚としておきます。

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