★阿修羅♪ > 国家破産43 > 801.html
 ★阿修羅♪
石油文明の黄昏の中で くぬぎ山 埼玉に残る江戸以来の三富農業 【蘇我畦太郎・管野いちこ】
http://www.asyura2.com/0510/hasan43/msg/801.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 12 月 21 日 06:07:49: ogcGl0q1DMbpk
 

石油文明の黄昏の中で

くぬぎ山 埼玉に残る江戸以来の三富農業

グリーンアクションさいたま(蘇我畦太郎・管野いちこ)


http://www.bund.org/culture/20060101-1.htm

 埼玉県はくぬぎ山の一部約120ヘクタールを、都市緑地法にもとづく「特別緑地保全地区」に指定する方針を決め、保全のための費用を05年度予算に組み込んだ。平地林としては全国最大規模の保全地区である。地元住民の「煙を止めろ」の運動が実を結んだのだ。江戸以来の三富農業が内包した里山は、樹木の伐採や建物の建設が規制されることで守られることになった。三富農業の歴史をふりかえる。

 埼玉県川越市・狭山市・所沢市・三芳町の境界線が入り組んだ地域は、かつて上富村・中富村・下富村と呼ばれる3つの村からなる共同体があった。今からおよそ300年前、時の川越藩主、柳沢吉保によって開墾されたこの地域は三富新田と呼ばれる。ヤマの落ち葉を堆肥にして作物を育てる農法は「三富農法」と呼ばれ、現在でもこの地域の多くの農家で続けられている。ヤマを守る生活を続けている人々を訪ねた。

落ち葉の土は真綿の布団みたい


  江戸時代から始められた「三富農法」はヤマと共存する農法だ。開墾当時、短冊型に区分された各農家の割り当ての一部に人々はナラの木を植えて、そこから生活に必要な薪をとったり、落ち葉を集めて堆肥にし、畑にすき込んで麦やさつまいもなどをつくってきた。このような農法はこの地域の農家によって、昭和で言えば30年代頃まで続けられてきた。しかし化石燃料が普及するようになると薪の需要が減少し、化学肥料が登場して以降は、落ち葉を集める農家も少なくなってきた。

 落ち葉堆肥づくりは手間のかかる仕事だ。化学肥料に切りかえれば、ヤマ掻きや堆肥づくりに費やしていた時間と手間を畑仕事に費やせる。そんなふうに考える農家も少なくなかった。それでも落ち葉堆肥は優れているというので、ヤマを守って落ち葉堆肥を作りつづける農家もあった。

 コナラやクヌギの枯葉を堆肥場で一年間寝かせる間、土の中の昆虫や微生物によって分解された落ち葉堆肥は、畑の土に栄養を与えるだけでなく、土の粒と粒の間に隙間をつくり空気や水を適度に溜める効果もある。現在でも毎年欠かさず落ち葉堆肥をすき込んでいる畑の土はフカフカ。

 「落ち葉の土はやっぱりちがうね。野菜にとっては真綿の布団のようなものだよ」と語るのは、もう50年以上落ち葉掻きを続けてきた農家のおやじさん。案内された畑で大根の種まきを手伝わせてもらった。晩夏の日照りの下で乾燥した土の表面を数センチもすくうと、適度に湿り気を帯びた黒い土が現れる。手で握り締めると団子ができるほどだ。

 落ち葉の土は単に保水力があるだけではない。実に優れた水分の調整機能を持っている。地球温暖化に伴う気候の不安定化は今日では誰もが実感するところだろう。今年の夏、首都圏は記録的な集中豪雨に襲われた。まるで熱帯地方のスコールのような雨で、世田谷区では床上浸水する住宅が相次ぎ住民が避難するまでになった。その時の集中豪雨がこの下富地区を襲い近隣の畑が水浸し。しかしその中で、落ち葉堆肥をすき込んでいた畑は、わずか半日で水がひいてしまったという。


  畑には芽を出したばかりのホウレンソウが植わっていた。もしも水が引くのにもっと時間がかかっていたら、せっかく撒いたホウレンソウは腐ってだめになっていただろうという。落ち葉の土はただ土地の保水力を高めるだけでなく、適度な水はけの良さも兼ね備えている。ヤマを管理しながら、土を改良するための養分になる堆肥を計画的に造りつづける「三富農法」は、持続可能性の強い性格を有している。それだけではなく、気候変動という環境の激変に対しても強い耐性を有しているのである。

 「落ち葉はお金じゃ買えないね」とおやじさん。「ヤマの葉っぱは夏の間お天道様の光をいっぱいに浴びてたっぷりと栄養を蓄えるんだ。お日様の光はお金じゃ買えないでしょ。だから落ち葉はお金じゃ買えない宝物。オレはオヤジにそういうふうに言われた。ヤマはお金じゃ買えないんだよ」。しかし毎年落ち葉堆肥を作りつづけるのは並大抵の苦労ではないようだ。

 このあたりの各農家が持っているヤマの広さは平均1町歩(1ヘクタール)。ヤマの落ち葉掻きは全て手作業なので、その手間は大変なものである。近隣の農家が化学肥料に切り替えていく中でも落ち葉堆肥にこだわりつづけるおやじさんは、奥さんと2人で何箇月もかかって落ち葉掻きを続ける。

 落ち葉掻きは毎年、農閑期の冬場に行なわれる。それが終ると、前の年に集めて1年寝かせた落ち葉を畑に入れるが、忙しい年には最後の落ち葉を畑に入れ終るのが、9月のお彼岸ギリギリだったこともあったという。

 そんな苦労までして落ち葉堆肥を作りつづける理由は、「できる野菜の味が違う。地産地消っていうでしょ。どこでどうやってつくられたかわからない肥料じゃなくて、同じ土で育った木の葉を使った堆肥のほうがここの土地に合うんだよ」という答えが返ってきた。実際に落ち葉の堆肥で作られた作物の味は評判で、わざわざ遠くから買い求めに来るお客さんも少なくない。落ち葉の野菜はちょっとした高級品なのだ。

江戸を支えたのはヤマの文化


  このように現在では豊かな土壌が美味しい野菜を育む三富地区ではあるが、これももともとは天の恵みではない。この地域は元来地味が薄く、農耕には適さない土地といわれてきた。関東ローム層の土は酸性で地力が低く、雨が降れば水を含んでぬかるみ、風が吹けば土壌が舞い上がって飛ぶ。冬には霜柱が立ちやすい。それが300年の永き年月にわたる人とヤマの営みによって、今日にみられるフカフカの真綿の布団のような土に生まれ変わってきたのである。

 三富農業のはじまりは江戸時代の中期、元禄年間にさかのぼる。それはエコロジー都市・江戸の台所事情を支えるための新田開発の中から生みだされた。

 戦乱の時代の終焉を決定的にした関が原の戦いから約100年、徳川家康によって幕府が開かれた江戸は、時代の安定の中で急速に繁栄していった。近松門左衛門らが活躍する華々しい町人文化が栄えたこの時代、江戸近郊の農村では都市住民の生活を支える食糧生産拠点として、空前の「開発の世紀」を迎える。幕府は旗本ら直参に江戸に隣接する領地を与えて、大規模な新田開発を奨励した。そして時の将軍綱吉の側近で、幕府中央の政治にも大きな影響力をもっていた柳沢吉保を川越藩の藩主に任じ、武蔵野台地の開墾に着手させたのである。

 幕府の重鎮として赤穂浪士の討ち入りに際しては全員切腹を命じ、時代劇などでしばしば悪役として登場するこの人物は、一方で入間武蔵野の農村では、新田開発を成功させた実務派の名君として今でも語り継がれている。

 柳瀬川と新河岸川とに挟まれたこの広大な北武蔵野の台地は、もともと農業用水の確保が困難な地域であった。大きな河川から遠く離れており、井戸を掘ろうとしても地下水の水位は低い。掘っても掘っても水が出ず、ついには「掘りかねた」が語源の「堀兼の井」は、清少納言の枕草子にも登場する。


  そのため、一部の湧水地周辺に拓けた古村をのぞくほとんどが、万葉の詩に謡われた古の時代より、鋤鍬の入らぬ葦原の原野であったという。しかしこのような原野も、周囲に生活していた人々の営みと無縁であったわけではない。「入会秣場」といって、近隣の農民が生活に必要な薪や、肥料・飼料にするための草や芝、屋根葺きの材料にする萱や、食糧としての山菜などを採取する場でもあったのだ。入会秣場となっていた台地を中心にして、その周辺部に流れる河川や湧水地の周りに開けた古い村々が、その資源を共有している。これが開発以前の北部武蔵野の風景であった。

 その入会地が江戸時代以降の新田開発によって次第に狭められていくなかで、その資源の利用をめぐる村どうしの対立が激しくなっていった。やがて川越藩が残された入会地全域の開発に向かうと、そこを利用していた周辺60ヶ村が結束してこれに対抗し、一大争議に発展した。当事者どうしによる事態の収拾を断念した川越藩は幕府に裁許を仰ぎ、1694年(元禄7年)7月、幕府裁定所は入会地を川越藩の領地とする裁定を下した。地元住民の主張が全面的に斥けられた恰好だが、同時に当時の川越藩主であった松平信輝は罷免されて古河に移された。

 かわって争議の事後処理と、新田開発推進の任に当たったのが柳沢吉保であった。幕府の裁定から2ヶ月後、吉保は現在の三富地区の開発に着手する。入植者は主に争議の当事者であった近隣の北武蔵野周辺の村々から集められ、わずか2年後の1696年(元禄9年)には検地が行なわれた。上富村143戸、中富村48戸、下富村50戸の合計241戸からなる三富新田は、このようにして生まれたのである。

 もともとは農耕に適さない土地を、時代のニーズに合わせて半ば強引に開墾を進める。これが新田開拓の最前線であり、かつ「最後のフロンティア」であった三富新田開発の実状であった。検地の結果から、土地の生産性の低さは明確であった。当時入植した各農家には1戸あたり5町歩(約5ヘクタール)の土地が割り振られた。


  現在の日本の農家の平均耕作面積が約1ヘクタールであることを考えると、かなり広い割り当てであるが、それは単位面積辺りの土地の生産性の低さを補ったものである。営農のためには土壌を改良して生産性を上げる必要があった。そのためには堆肥の確保をどうするかが課題だったが、「入会秣場」を潰して開墾された三富新田では、それを自前で創り出さなければならない。畜産が盛んだったヨーロッパでは、家畜のフンを肥料にする伝統がある。それにたいして武蔵野台地をはじめとする当時開墾された洪積台地では、人工の落葉樹林を造成し、そこでとれる落ち葉を堆肥にする方法がとられた。

 これがヤマと共生する三富農業の始まりである。入植者達は割り当ての5町歩の約半分を耕作地に充て、残りは農業林の用地とした。各戸に楢の苗木が3本づつ配られ、これが三富のヤマの始まりとなったという。堆肥場の確保をめぐる争いの果てに飽和状態に達した新田開発の新しいランディング先が、堆肥の供給源である平地林の造成を内包させた農業だったのである。

 この時代、肥料供給を目的とした農用林の育成は三富のみでなく、かなり広範囲にわたって行なわれていた。江戸を取り巻く関東地方周辺は、その8割が洪積台地と呼ばれる台地を形成している。常陸台地、下総台地、相模原台地、そして三富新田が位置する武蔵野台地などである。これらの地域は、農業に必要な土の養分が山岳地帯から水の流れに乗って不断に供給されつづける河川地域と異なり、地味に乏しい。そのため江戸時代に入るまで開墾の及ばない地域であった。それらの土地を豊かにする手段として、三富に見られるような農用林の造成はかなり活発に行なわれた。獨協大学の犬井正教授の調査によれば、関東平野の平地林はそのほとんどが洪積台地の上に分布している。常陸台地、下総台地、相模原台地、そして三富新田が位置する武蔵野台地。これらは関東平野の約8割にも及ぶ広さである。その地域にひろがるヤマのほとんどが、このような事情のもとに生み出された人工林であるといわれる。

 明治以降に開墾された那須野原台地を除く、ほとんどの台地の平地林=ヤマは、この時代に造られたのである。ヤマと共生する安定した持続可能な食糧供給システムの確立が、エコロジー都市江戸の底辺を支えていた。

落ち葉堆肥を使う農法


  今日でもこの地域で見られる短冊型の農地の区割りは、開拓当時の面影をしのばせている。柳沢吉保による区画整理は実に整然としたもので、開拓当初に菩提寺として建てられた多福寺と、祈祷所としてつくられた多門院を中心にして縦横に伸びた幅6間(約11メートル)のメインストリートの両側に、1軒あたり間口40間(約72メートル)、奥行き375間(約675メートル)が割り当てられた。

 各農家は道路に面した部分を屋敷とし、その奥に畑を作り、さらに奥に楢の苗木を植えてヤマをつくった。このような地割は、中国の宋代の政治家である王安石が考案した新田開拓法を新井白石が日本で紹介し、当時新田開発が進んでいた関東一帯に広まったものだという。

 しかし実際の開墾作業はかなりの困難が伴った。今日と異なり江戸時代では農民の移動が自由ではなかった。耕作地を放棄することは厳しく制限されており、特に三富新田のように幕府の肝いりで開墾された地域は尚更であった。それにもかかわらず、開墾の困難からやむなく離農した農家もあるという。今でもヤマのなかを丁寧に歩けば、苔むした墓石の群れに出会うことがある。何世代にもわたってこの地に踏みとどまりながら、ついには営農を断念した農家のものだそうだ。

 開墾当初の、まだヤマが出来るまでの間は燃料も堆肥になる草も乏しく、また水の不足も深刻だった。開墾当時の、特に水の不足による苦労を今に伝える逸話はあまたある。そのなかの一つが「武蔵野の茅湯」だ。入浴はおろか飲料水の確保にも骨折った当時の人々は、カヤを刈って日陰に干し、これで手足を拭いて入浴代わりにしたという話だ。

 当時多摩川から引水した玉川上水、そこからさらに台地を北に向けて引水した野火止用水などの灌漑工事は、武蔵野台地南部の開拓事業に拍車をかけた。しかしこの水をさらに台地北部に引き込むための用水づくりはことごとく失敗した。用水路建設を断念した柳沢吉保は代わりに深井戸堀りを命じ、合計11本の井戸を掘ることに成功したという記録がある。しかしこれらの「元禄の井戸」のなかで、現在まで残っているものは一つも無い。すべて涸れてしまって、僅かに多福寺に井戸の跡が残っているだけだ。他は現在ではその所在さえも不明である。

 そうした事情のため人の移動は実際には少なくなかった。分家を出したり、生活苦から農地を他人に譲ったり、それらの形での農地の割譲は、この300年の間にかなり行なわれている。それでも三富地区は短冊型の農地とヤマを有した、かつての景観をだいたいにおいて維持している。農地の割譲がほとんどの場合ヤマとセットでおこなわれたからだろうと言われている。落ち葉で作られた畑は人から人へと受け継がれながらも、常に新しい担い手によってヤマからの落ち葉をすき込まれつづけてきたのだ。三富の落ち葉の土は、300年に及ぶ人々の営みの産物なのだ。


  「武蔵野の雑木林」は明治以降、自然主義を名乗る文学者達によって広く世に知られるようになった。国木田独歩はツルゲーネフがロシアの白樺を美しいといったのと同じような眼差しを武蔵野の楢の林に向けて、それを美しいものといった。楢の木の葉が風に吹かれてカサコソいう様を心地よいものといった。ヤマを守る農家の人々は、このような文学者によって描かれたヤマを誇りにしている。

 しかし同じような言葉がこの人々の口から出るとき、ちょっと違ったニュアンスが感じられる。ヤマを守ってきた農家の人達にとって、夏の暑い日に涼しげな風を送ってくれる林や、木々の葉を豊かに茂らせてくれるお日様の光は、生活の糧そのものなのである。或る農家を訪ねた折にたまたま同席した新聞記者は、おやじさんの言葉に耳を傾けながら「まるで詩のようだ」と評した。その通りだと思ったが、その詩的な言葉で語られる自然には、土づくりを通じた300年にわたるお付き合いを通じた、ある種の現実的な趣きを感じるのだ。  

 化学肥料が出まわり始めてから、落ち葉堆肥づくりを止めてしまった農家もある。落ち葉が撒かれなくなった畑でも、化学肥料の力で野菜がとれてはいる。しかしそれは今までの300年分の貯金を消費しているようなものである。

 「この辺りでも随分くたびれた畑が出てきた。いつまでも幾年も化学肥料を使いつづけてきてもう土は限界だ。いつまでもごまかしつづけることは出来ないだろう」

 落ち葉堆肥を使っている農家の言葉である。  このことは何も三富だけで進行している事態ではない。化学肥料が普及してから間もなく半世紀をむかえようとしているこの国全体の問題である。ここでは短冊状に区割りされた畑の中で、落ち葉の土の畑と、そうでないものとの地味の対比がはっきりと見えるだけのことである。ほんの数メートルしか離れていない場所でも、作物の出来が全然違う。雨が降ったときには、落ち葉をいれていない畑はすぐに水びたしになってしまう。

 しかしもともとは、日本全国のほとんどの丘陵地帯で落ち葉堆肥を使った農法は実施されていた。これが30年前位から取り組まれなくなってきているのだ。いったん止めた落ち葉の堆肥を再び入れ始めたとしても、もとの土に戻るには、少なくとも10年はかかるだろうといわれている。

森林資源再活用の見本


  20世紀後半に拡大した石油文明と大量消費社会。その申し子である燃料革命と化学肥料の普及が、300年続いてきたヤマの文化に大きな打撃を与えたのである。薪は化石燃料に、落ち葉は化学肥料にとって代わられ、農業はヤマと切り離されていった。ヤマと人の関わりは希薄化していったが、そのしっぺ返しは高いものについた。少なくともこの地域では、ダイオキシン問題という深刻な問題を抱え込むことになったのだ。

 多くの農家にとって深刻な問題は、ヤマの高い相続税である。それを払うためにヤマを売ったり、あるいは物納したりする農家は少なくない。落ち葉の堆肥を作りつづけたくても、それができない状況が生まれているのだ。

 1975年に生まれた「相続税納税猶予制度」は、相続による農地の細分化防止を目的にしたものだ。相続人である農業経営者が20年間農業を継続することを条件に、納税が免除される制度である。だがこの制度はヤマには適用されないのだ。しかもヤマの相続評価額は農地の評価額と比較して、7割から8割も割高になっている。ヤマを守ることは各農家に実に重い負担となっているのだ。このような事情が、今までであればたとえ農地が割譲されても、切り離されなかったヤマと畑の絆を絶ち切る要因の一つとなっている。

 一度売られたり、あるいは税金の代わりに物納されたりしたヤマには、もう人の手が入らない。クヌギやコナラなど萌芽力の強い落葉広葉樹の寿命は、20年から30年といわれる。薪の需要があった時代には約20年に1回、コナラは切られて燃料になった。切られたコナラの切り株からはヒコばえが伸び、やがてそれが新しい幹となった。これを萌芽更新というが、これが繰り返されることによって、ヤマの木々はいつも若々しく、ヤマが老いることはなかった。

 しかしこのサイクルが絶ち切られて、30年も40年もヤマが放置されると、やがて木々は老い、そして倒れて朽ちてゆく。朽ちたクヌギやコナラからは、もうヒコばえは生えてこないのだ。こうした里山の老化現象は三富に限らず、全国で深刻な問題になっている。朽ちて倒れた木々は害虫の温床となり、周囲の生態系に大きなダメージを与える。また荒れ果てたヤマにはゴミの不法投棄も増える。 

 首都圏から30キロメートル圏内であり、関越自動車道の所沢インターのすぐ近くのこの場所は産廃業者の目にとまった。畑と切り離されたヤマが売却され、そこに建設廃材をはじめとするあらゆるゴミが持ち込まれて焼却された。この時焼却された建築廃材の多くは、現在ではシックハウスの原因になる為に使用を禁止されているものだ。化学物質が塗料や防腐剤として使われていた時代の建築物の破片だった。

 自動車のバンパーなどのプラスチック製品も大量に焼却処分されていた。このような石油化学製品を燃やして発生する真っ黒な煙は、周囲のヤマの木々、特にアカマツに決定的な打撃を与えた。周辺地域に深刻な土壌汚染と健康被害がもたらされたのである。

 束の間の快楽をもたらした資源消費型の石油文明の一つの帰結を、私たちはここに見ることが出来る。数百年という時間単位で眺めたとき、現在私たちが選択しているかりそめの文明は、資源再生を根本としたヤマと人の絆を基礎とする文明のオルタナティブ足りえなかったのである。

 ダイオキシン騒動の最中に発生した所沢野菜の「風評被害」について、ある農家は次のように語ってくれた。  「勿論、生産者に対する配慮に欠ける報道には腹が立ちましたよ。でももっと頭に来たのは所沢だけが汚染されていると受けとめられても仕方のない報道の仕方だったことだよね。大量生産大量消費を続けている限り、産業廃棄物の問題は無くならないし、化学物質汚染もなくならない。今では日本中が化学物質づけじゃないですか。それこそが問題なのに、そのことには触れずに所沢の野菜だけが攻撃されるのには我慢できませんでしたね」

 ヤマを守りつづけてきた農家の口からでたこの言葉を、私は忘れることが出来ない。この言葉の中に、所沢のダイオキシン騒動とは一体何だったのかを捉え返す重要な鍵があるように思う。

 一方で石油文明は地球規模での気象変動を引き起こしつつ、資源枯渇という深刻なデッドロックに乗り上げつつある。資源浪費型の文明の宿命だ。石油の減耗はすでに現実的な日程にのぼってきている。私達には僅かな、しかも悪質な原油しかのこされていないのだ。石油産業に依存している化学肥料づけの農業は、近い将来その現実的基礎を喪失してゆくだろう。 

 すでにヨーロッパでは森林資源の再活用が始まっている。これは非常に現実的な選択肢である。すでに見てきたように、日本には大規模かつ資源再生型の森林資源活用の歴史があるのだ。いま私たちの前に開かれているのは、石油文明との心中の道か、あるいは持続可能な社会への転換への模索かという大きな選択肢である。

 私たちにとってヤマを守るということ。それはとりもなおさず人を守ること、そして自分自身を守ることを意味する時代になりつつあるのだ。


--------------------------------------------------------------------------------

(2006年1月1日発行 『SENKI』 1199号6-7面から)


http://www.bund.org/culture/20060101-1.htm

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ       HOME > 国家破産43掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。