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まんず、日本経済新聞小説大賞応募は、大変だんべ (1)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 11 月 19 日 00:44:33: ogcGl0q1DMbpk
 

       ディアラ物語
        
       1

 追われていた。大人の女に追われていた。女は少年の名前を連呼している。少年は山道
を逃げている。山道は丘の野原に出たが行き止まりだった。下は崖だった。向こうから大
人の女が走ってくる。女は少年を育ててくれた母の姉だった。その叔母を少年はばあちゃ
んと呼んでいた。叔母の長い髪は怒髪天のように風に乱舞していた。少年は叔母に追われ
る理由がわからなかった。優しい叔母が突然、恐ろしい鬼になって、少年を追ってくる理
由がわかならかった。叔母の名前はミツと村から呼ばれていた。夢だった。

 増録村にある日、巨大な壁ができた。村の少年たちは里に出ようとよじ登っている。誰
かがボウジボッタッレの仕業だと言った。村は暗黒につつまれていた。いやオカンジメの
仕業だと誰かが言った。村を閉じこめる壁ができたのは、山頂のデイアラ神社、裏外壁と
横の木枠の中に一列の並んで納まっていた神社の刀を盗んだからだと少年は思った。それ
はブリキでつくられた刀だった。山頂は村のこどもたちの遊び場だった。おらたちが村に
呪いを呼びこんだんだべか? 神さまの罰だっぺか? 高くでかい壁ができたのは、おら
たちのせいなんだべか? くりかえし、何度も夢をみた。

 そこからは暗い山道だった。幼児は後ろ髪を引かれるように里をふりかえる。なだらか
な三月の田園、大地が遠くの山並みまで広がっていた。さあ、とミツが幼児をうながした。
急な山道を登る。道の幅は狭かった。樹木の根っこが階段になっていた。だいじょうか、
ミツが幼児に声をかける。幼児がうなずく。登りきったところからは、なだらかな山道が
暗い奥へと続いている。陽光は高い樹木の群れ、枝と葉の繁みによって閉ざされている。
山は静寂が広がり独特の音を発していた。木と木が話している音だと幼児は思った。幼児
はまだ四歳であったが考えていた。ばあちゃん、おらを連れて何処へ行くんだべか?

 このあいだ里にきて、母ちゃんだよとおらの前に笑顔で立った人のところだんべ、そう
幼児は予測していた。突然、上空で不気味な音がした。枝と枝の間を黒いものが飛ん
でいく。猿か、むささびだんべ、そうミツが幼児に声をかけた。山に呑まれていく……
恐怖の信号が幼児のからだに走った。幼児は叔母の手をにぎった。

 女と幼児が増録の山に入ったという知らせはすぐさま、猿火に伝えられた。ついに来た
か……鬼怒一族の舎人、猿火は、この一帯の山の猿王だった。猿火は監視を続行しろと家
来に命令する。家来とは山の獣たちだった。猿火はゾーンの頂、デイアラ神社のイチョウ
の大木に頭をこすりつける。樹木が小刻みに振動し枝がゆれる。葉がざわざわと音をたて
る。音信は高原山中腹にある寺山観音寺のイチョウの大木に送られた。

 はるか遠い昔、高原山には鬼人が住んでいたという。鬼人とは縄文人の蝦夷だった。高
原山は黒曜石の生産地であり工房があった。黒曜石は天然のガラスで、矢尻やナイフへと
加工される。狩猟にはなくてはならない道具だった。高原山の黒曜石は坂東各地や峠を越
え会津地方にまで行き渡っている。

 大和朝廷は坂東各地や下野国に、新羅人、高句麗人を送り込んでいった。
江戸時代に那須津上村で発見された那須国造碑には、先祖が公氏という滅んだ中国後漢王
朝の血統にあり、持統三(六八九)年、直韋堤が野国那須評(こおり)の長官に任命された。
持統天皇が藤原京に遷都した翌年の文武四(七〇〇)年、直韋堤が死去し、その子、意斯
麻呂が建碑したと彫られている。

 下野国は渡来人国造によって、律令制度が整備されていった。天武二(六七三)年には、
すでに下野薬師寺創建されたとされている。続日本書紀には持統元(六八七)年に新羅人
が朝廷から下野国開墾に送りこまれている記事がある。霊亀二(七一六)年には、下野国
などの高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置という記事がある。 渡来人は国造りの屯田兵
だった。

 日本書紀には景行天皇の項に、武内宿禰による日高見国の蝦夷報告がある。
「武内宿禰東國より還りまゐきて奏言(まう)さく、東夷中、日高見國有り。其の國人男
女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇桿(いさみたけ)し。是
を総べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠し。撃ちて取るべし」

 撃ちて取るべし、それは蝦夷の土地を奪い、そこに渡来人による水田稲作を広げ、土地
を奪ばわれる原住民の抵抗という荒魂を静め、無抵抗な良民とする精神支配の仏教を布教
させることであった。水田稲作には労働力が必要である。律令制度とは水田稲作開墾と仏
教布教の国づくりだった。

 原野を開墾し水を土地に流すためには集約労働力としての奴隷が必要だった。水田稲
作開墾とは徹底して人間の労働による自然への造形である。山野と原野を切り開きそこに
水の排水と排出をコントロールするという人工と工作の強靭な意思貫徹である。軍事と造
作の律令制度とは社会主義制度でもあった。坂東と陸奥そして出羽には屯田兵が送り込ま
れ、奴隷となった蝦夷は水田稲作開墾の労働力として大和朝廷の支配地へと送り込まれた。
スターリンの命令によって住民まるごと遠地へと国替えさせられる、それと類似したこと
が展開されていった。

 和銅2(七〇九)年、右大臣藤原不比等の命令で、高原山の鬼人たる蝦夷を退治したの
が、下野国府軍と派遣された大和朝廷軍だった。総大将は下野国造の渡来人下毛野古麻呂
だった。彼は大宝一(七○一)年、「日本」という国号を定めた大宝律令を、藤原不比等
とともに編纂している。彼は天武天皇死後、持統天皇に仕え、藤原不比等の信任あつく、
陸奥国建設の前線基地下野国を統治すると同時に兵部卿に任命され、東国である坂東を律
令制度の要として抑えていた。

 朝廷軍との戦に敗北した高原山の蝦夷は、再び高原山に暮らすことを許されず、下毛野
古麻呂によって帝都に連行され、奈良平城京建設のための奴隷労働の俘虜とされた。
帝都に凱旋した下毛野古麻呂は元明天皇から、式部卿正四位下という、現在でいえば国務
大臣級という高い地位を授かった。しかしまもなく平城京建設を指揮するおり、突然倒れ、
病死してしまった。朝廷内で下毛野古麻呂式部卿の病死は、坂東蝦夷の聖地である高原山
の怨霊に呪われ祟られたという噂が流れた。

 和銅三(七一〇)年、元明天皇が平城京に遷都すると鬼怒一族は、九州、四国や西国の
水田稲作造りの奴隷俘虜として各地国造に引き取られていった。

 蝦夷や隼人の奴隷俘虜労働によって建設された奈良平城宮は、和銅3(710)年から
延暦3(784)年までの大和朝廷の帝都となった。奈良は百済語で故郷を意味する、渡
来人の都だった。

 藤原不比等が六十三歳で死去した養老四(七二〇)年、不比等の子、二男の藤原房前は
高原山の怨霊を封鎖するため祈願したという。そこで神亀元年(七二四)年、行基が寺山
観音寺の起源である法楽寺を建てたとする伝説がある。

 不比等の長女宮子は文武天皇の側室となり聖武天皇を生んだ。若い女に産ませた不比等
の娘、光明子は聖武天皇の妃となった。長男の武智麻呂(南家)、次男の房前(北家)、
三男の宇合(式家)、四男の麻呂(京家)はいずれも朝廷の要職に着いている。

 不比等が死去し、房前が高原山の怨霊封鎖の祈願勤行をした年、九州で隼人の反乱、
東北で蝦夷が反乱した。行基が高原山に法楽寺を建てた年には、東北日高見の蝦夷が再び
反乱をした。藤原不比等の三男藤原宇合が持節大将軍に命ぜられ、坂東から三万人の兵士
を徴用し、朝廷派遣軍は陸奥国建設、蝦夷討伐の前線基地として多賀城を設置した。大和
朝廷の藤原一族は高原山の怨霊を恐れていた。藤原不比等死去の真相は、平城京に潜入し
ていた高原山の鬼怒一族による暗殺であったからである。鬼怒一族は平城京建設に奴隷俘
虜として従事していたので、藤原不比等邸の構造を把握していた。

 藤原不比等の死は病死として朝廷内で発表された。
 不比等死後、不比等の地位だった右大臣になり名実共に政権トップとなった長屋王は、
行基と藤原一族の陰謀に陥れらてしまった。天平一(七二九)年、長屋王は聖武天皇を呪
術で呪ったという嫌疑をかけられ、自決した。不比等の子、光明子が妃から聖武天皇の皇
后となることによって、藤原四兄弟による宮廷での地位は固まり、藤原一族は権力を把握
した。そして藤原一族の陰謀に加担した行基は大和仏教の統帥僧侶へと上昇していった。

 東北、出羽国と陸奥国の蝦夷を統治するためには、坂東、下野国の蝦夷反乱は壊滅され
ている必要があった。下野国の北部は陸奥道への入り口であり、朝廷軍が東北へと遠征す
る東山道から陸奥道へのルート、ここが安全でなくては、多賀城に万余の軍隊を派兵する
ことはできない。下野国は奥州侵略の前線基地だった。各村からは家族ごと農民が、蝦夷
の領域であった地帯へ、屯田兵として入植させられていった。蝦夷への遠征のたびに、若
い男は兵士として動員され、下野国は疲弊し、たびたび飢饉に襲われていた。前線基地で
の百姓反乱は、どんな小さな動きでも許されなかった。百姓を監視する役割が高句麗・新
羅から移植してきた渡来人屯田兵だった。屯田兵によって河川周辺の土地を奪われ、山奥
へと蝦夷は追われていった。渡来人にとって蝦夷は意味不明の不気味な山岳の鬼だった。

 鬼とは古来から日本列島に居住していた縄文人だった。そして朝廷軍の軍神、坂上田村
麻呂のルーツは、「おもいかね」として神話に登場する公孫氏だった。2世紀後半、後漢
の地方官だった公孫度が遼東に国を築く。公孫氏は朝鮮半島まで浸透していくが、やがて
公孫氏は魏に滅ぼされた。逃れた一族は朝鮮半島の南部へとやってきた。そこで伽耶諸国
を創建する。公孫氏は金属の生産と加工に優れた技術を持っていた。さらには軍事技術が
あった。やがて公孫氏は伽耶諸国から日本列島に移住を開始する。そして歴代朝廷軍の主
力勢力となっていった。公孫氏坂上田村麻呂の系譜は、アテルイの反乱から二百五十年後
に勃発した前九年合戦で、安倍貞任、藤原経清ら安倍一族軍を鎮圧した、陸奥守源頼義と
その子八幡太郎義家に流れていた。渡来人系譜源氏の奥州征伐への執着は、源頼朝による
奥州藤原氏平泉炎上によって帰結した。

 雄大な高原山を拝める盆地には木幡神社があった。延暦14(七九五)年、蝦夷征伐に
向かう坂上田村麻呂によって創建されたという。この地と古代那須国を結ぶ佐久山街道の
豊田には坂上田村麻呂の将軍塚がある。豊田将軍塚は、坂上田村麻呂将軍が宿泊したと伝
えられる、由緒ある場所とされている。しかし、そこで坂上田村麻呂は、延暦14(七九
五)年、鬼怒一族に暗殺されたという異史がある。その伝承によると将軍塚は田村麻呂の
墓であるというのだ。田村麻呂の暗殺に驚愕した朝廷は、田村麻呂の死を隠蔽し、彼の弟
を田村麻呂将軍として祭り上げたらい。朝廷の自作自演が必要だったのは、東北蝦夷征服
の最後の切り札が田村麻呂将軍であったからである。朝廷軍は東北蝦夷征伐の遠征軍を派
兵するたび敗北していた。この地は東北反乱の蝦夷と切っても切れない関係にあった。木
幡神社には朱色の業火に焼かれ、逃げ惑う鬼たちの地獄絵が本殿の内壁に描かれている。
その鬼こそ高原山の縄文人である鬼怒一族とされている。木幡神社は大和朝廷軍が滅ぼし
た鬼怒一族の怨霊を永遠に封じ込めるための呪術神社とされているが、異史によると木幡
神社も鬼怒一族の社であったというのだ。鬼怒一族は社を未来永劫に残すために、坂上田
村麻呂将軍によって創建されという風説を下野全土に流した。蝦夷の知恵だった。

 木幡神社には八幡太郎義家も奥州征伐へ向かう途中、戦勝祈願している。
「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろし
や」(白河法皇)
 白河法皇は源氏の頭角を恐れた。八幡太郎義家は白河法皇の陰謀によって、力を削がれ、
孤立化していった。最後は病死した。鬼怒一族の怨霊にやられたのだろうと白河法皇は、
院政の御所で薄く笑ったという。
「下野の高原山、その山が見下ろす里、木幡神社は源氏の軍神、坂上田村麻呂が奥州蝦夷征伐
祈願のため、建てたというが、実はのう……鬼怒一族が建てた怨霊社であるとか、結界に入っ
た蝦夷討伐の覇者は、復讐の霊に呪われるという、恐ろしや、木幡神
社の云われをけして源氏に教えてはならぬ、宮廷の公卿にも知らせてはならぬぞえ」
 白河法皇は言葉に出さす自分を戒めた。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝も那須野が原の狩のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願したと
いう。その後、源頼朝はある日相模川から鎌倉への帰途落馬し、御所で死んだ。
「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」源実朝
 兄、頼家が追放されたあとを継ぎ、鎌倉幕府三代将軍になった源実朝も那須が原での狩
のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願した。
 その後、実朝は、兄頼家の子である公暁に、鶴岡八幡宮の社前で正月拝賀の際暗殺され
た。公暁は、北条義時ら幕臣に実朝が父のかたきであると聞かされていた。兄弟を皆殺し
にした源頼朝の征夷大将軍系譜は消滅した。院政の後鳥羽上皇は、鬼怒一族の怨霊とは恐
ろしや、木幡神社に祈願するたび源氏が死んでいく……鬼怒一族を味方に引き入れなけれ
ばならぬ。かつて朝廷が滅ぼした山の民蝦夷を味方にせねばならぬと胸で誓った。そして
後鳥羽上皇は、今が鎌倉幕府打倒の好機と、京都守護伊賀光季を討ち、執権北条義時追討
の宣旨を発令し承久の乱を起こしたのだが、鎌倉幕府軍に敗退してしまった。後鳥羽上皇
は隠岐に流された。後鳥羽上皇の意思を蘇らせたのが後醍醐天皇だった。

 奈良時代に高原山から農耕奴隷として西国各地に流された鬼怒一族の末裔は、鎌倉時代
末期になり、後醍醐天皇による北条鎌倉幕府打倒の綸旨に応じ、後醍醐天皇の王子である
大塔宮が指揮する山岳ゲリラ軍に参加し、安芸の山の民である有留一族と共に、みごと北
条鎌倉幕府軍を敗退させる一翼を担った。しかし、山岳ゲリラ軍の将軍である大塔宮は朝
廷内の陰謀により、足利尊氏軍に引き渡され、鎌倉に送られてしまい、足利尊氏の弟であ
る足利直義の命令によって暗殺されてしまった。大塔宮を鎌倉から奪還し、山岳ゲリラ軍
の再建を計画していた鬼怒一族と有留一族は、大塔宮の死により展望を喪失し、西国に帰
還した。やがて朝廷が分裂し後醍醐天皇と足利尊氏の内戦が勃発した。鬼怒一族と有留一
族は吉野の山に入り、今度は楠木正成軍に加わる。しかし楠木正成軍は足利軍に敗れてし
まう。生き残った有留一族は一度四国に逃れ、そこから安芸の故郷に帰還。鬼怒一族は足
利軍による敗軍残党狩りを恐れながら流民となって西国を脱出し、坂東下野北部に向かっ
た。坂上田村麻呂将軍塚があり鬼怒一族の聖地高原山を拝める豊田村を開拓し住み着いた
という。豊田村の東には裏高原山の塩原から箒川が流れていた。箒川は那須国の那珂川へ
と合流する。


 デイアラ神社には巨大なイチョウの幹がふたつあった。そのイチョウの大木は、北鎌倉
の縁切り寺、東慶寺境内にある後醍醐天皇皇女用堂尼の墓、それを見守るイチョウの銀杏
を、東慶寺の尼僧が広い集め、旅に出て、日本各地の寺院や神社に植えたひとつであると
いう成田村の伝説がある。豊かな田園地帯の成田村は増録村の隣にあった。増録村は豊田
村の人間が、第2次世界大戦後、開墾していった地図には載っていない山に閉ざされた
ちいさな村だった。

 山はひとつの国境でもあった。成田村の子供たちの遊び場は平地の田んぼや畑だった。
誰も山に遊びに入らなかった。デイアラ神社は増録村の子供たちに占有された遊び場とな
っていた。東に那須郡野崎の豊田村、西に塩谷郡矢板の成田村があった。豊田村も成田村
も豊かな田園地帯だった。戦後、豊田村と成田村は町村合併で矢板市に編入された。

 デイアラ神社は成田村の神社だった。成田村には矢板と喜連川を結ぶ街道が通っていた。
成田村と喜連川の河戸村の境付近にに宮田という地点があった。その宮田からデイアラ神
社に登る山道がある。入り口には石の草木塔があった。その草木塔に刻まれた文字から判
別すると、デイアラ神社は、江戸時代の安永九(一七八〇)年十一月に、干支庚子の「二
十三夜供養」とし成田村の女たちによって創建された。女たちが造作した神社なので、掘
っ立て小屋だった。二十三夜供養とは、村の女たちの講でもあり、デイアラ神社は講の場
所でもあった。よく旅の尼僧が宿泊し、講に集まってきた村の女たちに、古来からの言い
伝えや、江戸の様子などを伝えたらしい。

 天明元年(一七八二年)秋が深まり、山が紅葉に染まった日、北鎌倉の東慶寺の尼僧が
デイアラ神社に訪れた。その夜、村の女たちは、尼僧の歓迎に食べ物を持ち寄り、二十三
夜講を開いた。尼僧は村の女たちに、昔の話をした。

 村の女たちが尼僧から聞いたところによると、遥かな昔、高原山の鬼人を、元正天皇の
時代、藤原不比等さまの命令で大和朝廷軍が退治したそうな。しかし、日本書紀が完成し
た年、藤原不比等さまは、平城京に密かに潜入していた高原鬼人である鬼怒一族の毒矢に
よって殺されてしまったそうな。朝廷は大いに悲しんだが、都に潜入していた鬼怒一族は、
坂上田村麻呂将軍さまの先祖である朝廷軍の東漢氏によって、ことごとく捕まり処刑され
たそうな。不比等さま死後、隼人と蝦夷という鬼退治戦争は、朝廷と平城京安泰の柱とな
ったそうな。
 
 不比等さまの子、藤原房前さまは高原山の怨霊を鎮めるため、平城京の僧を鬼怒一族の
里である高原山に派遣し鬼人の怨霊を封じ込めるための大祈願を勤行したそうな。奥州国
造りの最大拠点たる多賀城(宮城県多賀城市)が完成した724年、平城京の僧侶行基さ
まは、高原山周辺に国家仏教と水田稲作を普及させる精神的支配の拠点として高原山に観
音寺の起源である法楽寺を造営したそうな。

 寺院と神社は鬼の怨霊を封鎖する霊的結界であると尼僧は村の女たちに話した。そして
寺院と神社を子孫代々至るまで守ることが、家を守る女の勤めです、と説教した。

「どうか、国の安泰祈願のため各地にある寺院・神社の境内に私が育てたイチョウの木
の種を植えておくれ、これが後醍醐天皇皇女用堂尼様の遺言でありました。鬼の怨霊が地
獄から復活しないように、日本各地にあるお寺では早朝から毎日、日本安泰祈願の勤行を
しています。朝廷と仏教こそが日本を毎日、守っているのです。私ども鎌倉の東慶寺の尼
僧は後醍醐天皇皇女さまの遺言を守り、こうして日本各地の寺院と神社の境内に銀杏を植
える旅に出ているのです。また下野国は東慶寺を開山されました北条時宗夫人覚山尼さま
と縁が深い場所でした。どうか、皆々様方、家の安泰は天皇様と仏様が毎日、守っている
と念じていただき、信仰の礎が何処にあるかを、一日に一回は思ってくださいますよう。
生きとし生きるもの、草木、ひとつひとつに神と仏は宿っていますに、皆様方の心のなか
に神と仏は宿っております」
 村の女たちは、月夜の晩の二十三夜講で、ありがたく尼僧の教えを聞いた。
 
「これは後醍醐天皇皇女様の松ヶ岡御所の銀杏です。地に植え、オスとメスの木が生長す
れば銀杏が実り食べられます。明日の朝、食と泊まらせてもらったお礼に、この神社の境
内に植えましょう。どうか大切に育ててください」
 尼僧は村の女たちに言葉を残し、翌朝、行基ゆかりの高原山へと向かっていった。尼僧
の旅の目的は高原山の観音寺の境内に銀杏をを植えてくることでもあったらしい。

 デイアラ神社境内に植えられた銀杏は、奇跡的に芽出し、やがてオスとメス、二本のイ
チョウの木となって成長していった。デイアラ神社は泥荒神社と漢字で書く。泥の水田に
つかっての田植えや草取りは、百姓にとってつらく骨がおれる荒い重労働だった。「泥荒」
の意味は労働にあると村人は思っていた。

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