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内山節『「里」という思想』を読む:@
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投稿者 縞 日時 2005 年 12 月 07 日 13:17:14: 0VsXfrsMPtJ9g
 


内山節『「里」という思想』を読む:@


12/05: 内山節『「里」という思想』を読み始める。
       下の、森田氏による紹介記事をよむまで、この人の名は全然知らなかった。



2005.11.29(その1)
2005年森田実政治日誌[472]


いま「哲学」を考えるべきとき/「転換期の苦しさ」/『「里」という思想』(内山節著、新潮選書)に学ぶ


「歴史の何かが終ろうとしている。その『何か』の正体は明らかではない。はっきりしているのは、それが根源的な何かだ、ということ だ。自分が身を置いてきた根源的なもの。それが崩れていく。この現実が、私たちに、自分の存在に対する厭(あ)きを感じさせる」 (内山節=立教大学教授、哲学専攻、『「里」という思想』「はじめに」より引用)


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  定年退職後、山に籠もった友人I氏が久しぶりに訪ねてきた。現役時代は大変すぐれた政治記者だった。探求心旺盛な記者だ った。勘もよかった。普通の記者なら見送ってしまうような問題も見逃さなかった。驚くほど深い人脈をつくり、皆から信頼されていた 。ある時期、10年ほど前のことだが、彼は現場の勤務から地味な仕事に移った。「移った」というより移されたのだろう。I氏を支える 社の体制が崩れたことが原因のようだった。
 この頃からマスコミは変質した。優秀な記者が十分に働くことができなくなったマスコミ、凡庸だが上役のご機嫌取りだけが上手い 、パフォーマンス記者ばかりが目立つようになったマスコミ。ミーイズムに染まった記者ばかりのマスコミ。そして、ついに小泉政権 になって、マスコミは、政治権力の「犬」になってしまった。
 I氏が山に入ってから半年以上が過ぎた。「あの優秀な男はいまごろ何を考えているのか?一度、彼の山小屋に訪ねてみようか」 と思っていたとき、I氏のほうから電話があり、11月27日に久しぶりにあった。I氏は1冊の本を私に贈ってくれた。それが内山節著『「 里」という思想』(新潮選書、2005年9月20日刊)である。
 「ぼくが山に入った考えと同じことがこの本に書かれています。読んでください」
 I氏とはお互いの近況について話し合った。この間I氏は「哲学」研究を行っていた。I氏がただ者でないことを改めて感じた。


 話を本筋に戻す。内山節氏はわれわれに向かって、同時に自分自身に問いかける。
 《経済が発展したからこそ、私たちはただの消費者になり、雇用されなければ生きていけない人間になった。市民が生まれ、人間 が個人になったからこそ、私たちは自分の居心地のよさにしか関心を示さなくなり、連帯や関係性を失った。そして民主主義の定 着が、衆愚政治やデマゴーグの政治を成立させる。自由という理念が、今では「自由を守り、ひろげるための戦争」を生み出す。
 私たちが呼吸しているのは、こんな時代である。とすると、この状況のなかで、哲学は何をしなければならないのか。》(「はじめに 」より)


 内山氏は「世界のアメリカ化として進行するグローバル化する世界とそれに対する抵抗」を概観した上で、こう述べる。
 《私たちは、歴史、あるいは歴史性を回復しなければならないのかもしれない。》《おそらく歴史性の回復とは、それを可能にする 場所をもたなければ実現しないだろう。過去の自然の営みがみえる場所。過去の人たちの営みがみえる場所。その場所が、歴史 を現在のなかで再生させる。
 とすると、このような場所を国土と呼んでもよいし、「里」と呼んでもよい。》
 そして、著者は、本書の目的を、次のように述べる。
 《世界に普遍性を求めるのではなく、それぞれの自然があり、歴史があり、関係性があるローカルな世界から思想を組み立てなお す。あるいは、多元的な認識と多元的な世界像をつくりなおす。それを経由しないかぎり、私たちは普遍的世界のなかの無力な個 でいるしかない。
 私たちは、自分が存在する「里」をもち、その「里」からすべてを組み立てなおす必要があるのである。「里」というローカルな世界 から、である。ここから、「近代」を解消させるリアリズムを手にすることはできないか。》
 《「里」とは村を意味していない。それは自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所である。》
 本書は、生きるべき目標を見失い「日本の米国化」という愚劣な道に向かって暴走している小泉政治に浮かれてきた日本国民に 、根元的な反省を迫るすぐれた著書である。
 本書が全国民に読まれ、本書の問題意識が全国民のものになったとき、ブッシュ・小泉の乱暴な政治は日本から消えていくだろ う。国民必読の書として推薦したい。





       略歴を写しておこう。


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       本書p。65に次の記述がある。




   一九六五年



 もしかすると、一九六五(昭和四十)年は日本の大きな転換点だったのではないか、と思うと
きがある。もちろん、政治や社会、経済上の年としては、一九六五年は特別な年ではない。それ
は、戦後の高度成長がはじまって十年がたったころであり、ボツボツ自家用車が出回りはじめた
時代である。そんな戦後の一ページにすぎない年に私が関心をいだくのは、次のような理由から
である。

 釣りが好きで各地の山村を釣り歩いていた私は、旅先でよく動物たちの話を村人から聞いた。
熊と遭遇したときの話。かつて川を泳いでいたニホンカワウソの話。岐阜の山中ではツチノコの
話を聞いたこともある。

 その話のなかに、キツネにだまされた話もあった。釣った魚を人間に化けたキツネにだまし取
られたり、帰宅の途中に荷物を取られたりする話が多かったけれど、かつての山村では、キツネ
にだまされた話は特別なものではなく、どちらかといえば日常のありふれた出来事のひとつであ
った。

 ところが、村人たちの話を聞いていると、一九六五年ころを境にして、どこに行っても、人間
がキツネにだまされなくなってしまうのである。このころから、「昔だまされた」という話に変
わり、新しくだまされたということがなくなる。

 私はこのことが不思議でならなかった。とすると、一九六五年ころを境にして、キツネが人間
をだまさなくなったのであろうか。それとも人間がキツネにだまされなくなったのであろうか。
はっきりしていることは、この時期を境にして、キツネが人間をだます生き物ではなく、単なる
自然の動物になったことである。キツネと人間の新しい物語が生まれなくなった。キツネが人間
の意識のなかに人ってくる「隣人」から、動物の一種類にすぎなくなった。


       私にも、「キツネにだまされた」という話が、
       けして冗談でもなく、笑い話でもない口調で語られるのを、
       確かにこの耳で聞いた記憶がある(五十年代末頃だろう)ので、
       上の話には納得できるものがある。


       ただし、それがはっきりと「一九六五年ころを境にして」なくなったという指摘は、
       初めて聞いた。


       日本では一九六五年ころ、ということだ。
       西欧、資本主義の発祥地においてはもっとずっと早くこういうことが起こっているのだろう。

       日本より早く植民地化されたインドではどうなのだろう。
       あるいはアメリカでは?


       ともあれ、これを「近代化」のひとつのメルクマールとしてみることができる。
       (脱魔術化?)


       西欧では「近代に移行する」のだが、
       その他の地においては「近代化される」。


       歴史的に見れば、「近代化される」ということは「植民地化される」ということに他ならない。


       アメリカは、原住民を排除して作られた植民地である。
       近代人がやってきて原住民を排除して建国された、はなっからの近代そのものである。


       インドは大英帝国に植民地化されることにより近代化した。
       しかし、今でも「インド教の国」でもある。

       その「近代化」の度合いは如何なるものであろうか?


       日本ではこの一九六五年ころに「近代化」=「植民地化」が、
       内実として成立した、ということであるのだろうか?


       こうして世界は、一九八〇年代にいわれたように、

       まちがいなく「近代化」した日米欧の「三極」構造をもつまでに「進歩した」
       ということか?


       これが西洋的に「実証的な」近現代史である。
       「物語として語られる歴史が実証的な歴史研究へと変わっていくのが、歴史認識の進化だ」
       とする、ひとつの歴史のみかたである。


       これに対する疑義を呈することは、
       「哲学は何をしなければならないのか。」という問いへの応えのひとつであるだろう。


       哲学者・内山節の呈する疑義のまえで沈思しようではないか。




 この変化はなぜ起こったのか。しかも、それはキツネだけにかぎられたことではなかったので
ある。かつては人々はさまざまな物語を編みだしながら暮らしていた。山の神や水神様、庚申(こうしん)様
といった神々と人間との物語。動物たちと人間との物語。そそり立つ大木もときに物語の主人公
であった。そして村の物語。わが家の物語。祖父母の物語。実にいろいろなものが物語の主人公
になり、語り維がれていた。この世界が、一九六五年ころを境にして、急速に消えていくのである。

 とすると、この時期に日本の人々の精神や精神文化に大きな変化がおきたことにはならないだ
ろうか。自然と人間や、人間と人間が結び合うとき、そこに物語が生まれ、その物語を媒介のひ
とつにしながら人間たちが存在していた時代が終わり、自然も人間も、自分にとっては客観的な
他者になっていく時代が、このころからはじまったのではないだろうか。

 「物語」という言葉は、近代的世界では、低い評価しか得られなかった。科学性や実証性のとぼ
しい「語り」と思われ、たとえば歴史学は、物語として語られる歴史が実証的な歴史研究へと変
わっていくのが、歴史認識の進化だととらえてきた。しかし、本当にそうなのだろうか。物語を
生みだす精神文化と、実証的な、あるいは科学的な精神文化とを、同列にみることのほうが問題
なのではないだろうか。

 キツネを野生動物の種のひとつとしてみる精神文化もあるだろう。そこではキツネは、人間の
外に生息している生物である。ところが、そのキツネが人間の意識のなかにもぐり込んできて、
キツネと人間の物語が生まれていくような精神文化もあってよい。そして、実際、一九六五年こ
ろまでは、農山村では、そんな精神文化があったのである。

 物語が消えたのは、人々のものごとに対する認識が進化したからではなく、一方の精神文化が
失われたからではなかろうか。そのことが妙に気にかかっている。


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