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投稿者 デラシネ 日時 2005 年 12 月 09 日 09:41:55: uiUTTMWMO8Vq6
 

法廷編

覚せい剤密売イラン人グループ事件(1)
 
1997年2月24日、東京・霞が関にある裁判所ビル。7階の東京地裁721号法廷では、被告のハミッド(28歳)が証言席の前に立ち、判決を聞く。
「懲役12年、罰金500万円に処す」。求刑は懲役15年、罰金700万円だったから、予期していた内容だろうが、主文を読み上げた裁判長を見つめるハミッドの顔がこわばった。
 
各種薬物は没収し、「未決算入500日、罰金を支払えないときには、8000円を1日と換算して労役場留置」などと、判決は続いた。
 
ハミッドは、1年前の96年2月12日、東京拘置所で発生した7人のイラン人脱走事件の主犯格だった。この判決でも、「計画を中心になって練り上げた」「一貫して、主導的役割を果たしている」と断定されている。
 
東京拘置所からの脱走は、55年以来41年ぶりのことであり、安眠をむさぼっていた日本社会に大きな衝撃を与えた。

55年の脱走事件は、同年5月11日午後8時過ぎに発生した。一家4人殺しで死刑判決を受け、上告中の男(28歳)が、北1舎3階の独房に収容されていた。
 
脱走の準備は、2カ月前の3月、金ノコ2本を入手したことからはじまる。金ノコは、この男から依頼された親戚の男が、別の未決死刑囚あてに差し入れた雑誌の背とじ部分に隠されていた。受け取った未決死刑囚は、雑誌を読みおえたので死刑囚仲間に回覧したいと申し出る。雑誌はそのような経緯で、この男に届く。
 
雑誌から取り出した金ノコを使い、窓にはまっている鉄格子に切れ目を入れ、すぐにはずせるようにした。
 
そして、5月11日、鉄格子1本を折り取り、体を斜めにしてくぐり抜け、窓の外へ出た。隣接する建物の屋根づたいに歩き、逃走防止用に張ってあった金網を金ノコで切る。さらに、屋根をつたい、管理部門のある2階建ての拘置所本部庁舎から地面に飛びおりた。
 
その後、拘置所の外塀を乗り越えて、脱走に成功したのである。脱走は、翌朝発見された。「おわびの申し上げようもありませんが、暫日の命を許してください」という担当刑務官あての書き置きが独房に残されていた。
 
緊急手配された男は、13日後に逮捕される。「母親に会いたかった」と脱走の理由を述べたという。

 
ハミッドらも脱走には成功したものの、96年11月までには全員が逮捕され、加重逃走の罪を加えて裁判が行われた。7人の裁判から、脱走事件の全容をたどってみよう。

 
脱走事件で中断されたハミッドの裁判は、96年6月4日、再開された。721号法廷にあらわれたハミッドは、長身でやせている。緑色の長袖シャツに青いズボンをはき、あごひげをはやしている。通常2人の刑務官が被告を腰縄、手錠つきで連れてくるが、逃走を警戒してか、4人もいる。
 
再開公判は、この日から判決公判までに8回開かれた。証人調べ、被告人質問、論告・求刑、最終弁論が行われ、ハミッドの犯罪が浮き彫りにされた。
 
ハミッドは、67年、10人兄弟の3番目としてテヘランで生まれた。高校2年で中退し、3年間、兵役につき、イラン・イラク戦争に従軍する。その後、2年間、父親の経営する食肉店で働き、結婚してこどももいる。
 
90年11月、妻子を残して、出稼ぎ目的で来日した。90日間の短期滞在資格であったが、逮捕される94年12月まで不法に残留する。
 
イラン人の来日ラッシュは、90年ごろからはじまった。当時、ビザなしで入国できる先進国が日本であった。そのため、短期滞在で入国した後、不法残留するイラン人が急増する。
 
91年5月時点で約1万人だったのが、同年11月で約2万2000人、92年5月では約4万人とピークに達した。以後、漸減していく。
 
さて、ハミッドは、この間、東京・赤羽の印刷関係の工場に3カ月半勤め、その後、埼玉・蕨、同・三芳のプラスチック工場で短期間働き、最後は鉄工所で2年半、寮に住み込んで、日曜日も働いた。この3年間の平均月給は約25万円。短期滞在の資格で働いてはいけないとも知らず、「仕事してくれればいい」と、雇い主も問題にはしなかったそうだ。
 
ところが、鉄工所の仕事がなくなり、鉄工所周辺でアルバイトをしたが、94年中ごろには完全に失業する。「日本語の読み書きができないから、ほかの仕事を探せなかった」ので、手を出したのが、「ヤクザから覚えた。そんなに大したことではない」変造テレホンカードの売買である。
 
変造テレカを売りながら、さらに、同年10月ごろから薬物密売にも手を染めはじめる。
 
薬物密売を開始してから3カ月もたたない、94年12月24日、東京・北千住で、コカイン約30グラム、大麻約40グラム、そのほかに、ビニール袋入りの小分けした大麻、覚せい剤、LSDを所持していたところを、現行犯逮捕された。別のイラン人に密売するものだった。
 
これとは別に、94年11月9日、東京・新大久保のファミリーレストランで、コカイン200グラムをイラン人に密売しようとした事件でも逮捕される。
 
この二つの事件で、麻薬及び向精神薬取締法、大麻取締法、覚せい剤取締法、出入国管理及び難民認定法の各違反で東京地裁に起訴されたのが、95年1月だった。さらに、ハミッドは東京・足立のウィークリーマンションを借り、そこに覚せい剤、大麻、コカイン、LSDを隠していた事件でも、95年3月、追起訴された。
 
押収された薬物は大量で、全部をあわせると、覚せい剤558グラム、コカイン375グラム、大麻587グラム、LSD3グラム、末端価格は約1億3400万円といわれた。
 
ハミッドは、逮捕直前の11月、12月のわずか2カ月間で数百万円をイランに送金したのを含め、送金総額は約1000万円に達していた。後に、「以前、送金業もやっていたし、これは自分の金だけではなく、ほかのイラン人たちの金も一緒に送ったので、多額になっている」と反論した。
 
薬物を売った相手は、密売人であるイラン人だけではなく、日本人もいた。ハミッドは、新大久保にあった日系ペルー人の「彼女のアパート」に住み、その周辺で日本人相手に密売も行う。

「私の方から客を見つけたのではない。イラン人が売っていることを知っていて、向こうから声をかけてくる。チョコ(大麻樹脂)ありますかと聞かれ、ありますと答える」と弁明した。
 
その上、「私はヤクザとつきあうような大物じゃない。単なる末端の密売人」などと、現行犯で逮捕された北千住の事件では営利目的を認めず、ほかの事件は全面的に否認した。
 
ハミッドが警察の留置場から東京拘置所に移されたのは、95年5月1日だった。
 
半年後の11月21日、ハミッドあてに、テヘランからペルシャ語の本の差し入れがあった。脱走後、拘置所当局が、この本の背表紙の裏に隠された4本の糸ノコを発見した。糸ノコの長さは約13センチ、幅1ミリ。隠したままの状態で、ほかに何か取りだした形跡はない。
 
ハミッドは捜査段階ですでに逃走を試みていた。
 
当時、取り調べを担当した捜査員は、「94年12月26日、足立のウィークリーマンションを捜索したことがあった。ハミッドも手錠をかけて立ち会った。私たちが捜索していると、いきなり、大声を出して、窓のほうに飛びかかろうとした。みんなで手足をとって押さえつけ、落ち着け、落ち着けといった出来事があった」と、再開法廷で証言したのである。
 
ハミッドは今回の脱走の動機について、「証人や証拠を探し、冤罪をはらすため。それをしたら、また拘置所に戻るつもりだった」と供述した。
 検察官が問いただす。

──脱獄を最初にいい出したのは、あなたではないのですか。
「全員一緒になって考えました」

しかし、取り調べ中、懲役10年か15年の可能性があると、捜査員からいわれたこともある。イランから糸ノコ入りの本も送られた。共犯者の供述からみても、脱走の中心人物と思われた。
 
逃げたい一心のハミッドは、95年12月28日、ほかの房から北1舎1階1房に移る。

東京拘置所は葛飾・小菅にある。現在は老朽化した拘置所を逐次新築中だが、イラン人の脱走事件当時、約21万7000平方メートルの敷地に、舎房、本部庁舎、刑務官宿舎などが建っていた。裁判中の未決者を主体に、服役囚も含め約2000人が収容されていた。

そのうち、外国人は約320人で、イラン人は約60人。原則として、外国人は独房に収容するが、言葉、風俗、習慣の違いなどから、情緒不安定になる者が多く、職員に対する暴行、ハンスト、自殺をはかるなど、トラブルが多発した。
 
そこで、数年前から、外国人の精神的安定をはかるため、凶悪犯ではなく、共犯関係もない者同士を雑居房に収容することになった。
 
当時、中国人の雑居房とイラン人の雑居房があった。その一つが、北1舎1階1房である。

北1舎は60年以上も前に建てられた古い舎房だが、ハミッドらの雑居房の広さは13畳ほどで、南側の壁の中央にドアがあり、左右に窓もついている。北側には細長い窓が3カ所。房内の窓側には、洗面台、テーブル、食器棚、私物箱があり、便所もドアから見て右手奥に備えてある。
 
96年2月11日午後8時ごろから、北1舎1階1房では、紅茶パーティーが始まった。かねてから準備していた脱走の前祝いだ。かれらは、この脱走を"ゾルファガル作戦"と名付けた。ゾルファガルとは、イスラム教シーア派の開祖が手にしていた剣の名前だという。

ハミッドを筆頭に、"ゾルファガル作戦"前祝い紅茶パーティー参加者の2人目は、ボゾルギ(39歳)である。妻とこども3人がイランにいる。数回の来日歴があり、今回は偽造パスポートで入国した。
 
95年4月14日、東京・池袋駅で、警察官から職務質問受けた。偽造パスポートを提示したが、警察官から、洋服の左胸のあたりが膨らんでいることを指摘されると、右手で下に着ていたシャツのポケットからビニール袋を取り出し、放り投げ、逃走しようとして、逮捕された。ビニール袋の中身は、覚せい剤であり、約46グラムと大量であった。5月2日、東京地裁に起訴される。
 
さらに、同年4月、東京・巣鴨で、自動車内にいた密売人のイラン人と運転手役の日本人の2人が大麻、覚せい剤、アヘン、コカイン、LSDの所持で現行犯逮捕された。ボゾルギが、このイラン人にそれらの薬物を売ったことが判明し、8月18日、追起訴された。
 
同日、警察の留置場から東京拘置所に移され、12月18日、北1舎1階1房に移動した。
 
この間、公判が進み、12月15日、懲役7年、罰金100万円を求刑された。
 
年長のため、雑居房のイラン人からは、「ダイレザー(おじさん)」と呼ばれていた。「求刑が予想より重かった」し、「ペルシャ語で書かれた拘置所の規則も読んだが、脱走しても、拘置所でちょっとしたペナルティーを科せられるだけだと思った」ので、脱走計画に"参謀格"として参加した。
 
ボゾルギは、公判で検察官に聞かれる。

──日本から出られると考えていましたか。
「考えていました」
──具体的には、日本から出してくれる人がいたのですか。
「いえ、とくにそういう人はいません。以前、ほかの人を日本から出した人をしっていました」
──その人を尋ねていけば、出れるということですか。
「はい」

紅茶パーティーに参加した3人目は、メマンド(29歳)である。91年11月に来日し、鉄工所、レストラン、植木屋、ガソリンスタンドなどに勤め、1カ月に平均20万円から25万円の収入があった。94年8月ごろ、フィリピン女性と同棲するようになり、95年2月、男の子が生まれる。出産費用に30万円かかったが、ヤクザから借りたという。
 
そのヤクザから、「金がたくさん入る」と薬物密売の仕事を紹介された。「今から考えると、出産費用を貸してくれたのも、薬物密売に誘い込む手段だった」とメマンドは思ったそうだ。

95年8月、覚せい剤、アヘンなどの薬物、それに拳銃と実弾を所持していたので逮捕される。当番弁護士を呼んでもらい、「自分の罪について、相談した」が、裁判になってから、「ヤクザの名刺を持ってきた弁護士」に弁護を頼む。
 
脱走11日前の96年1月31日、東京地裁で、懲役7年、罰金200万円の判決を受けた。控訴することを考えていたが、「長期間服役したくない。自由になりたい。逃げられたら逃げよう。成功しなくて捕まったら、控訴しよう」と考えて加わった。

紅茶パーティー参加者4人目のシャロッキー(26歳)は、イランに両親と弟、妹がいる。91年3月、来日し、家屋解体工、中古車販売店で働くが、そのうち、薬物密売にかかわるようになる。95年9月22日、覚せい剤、大麻の所持、不法残留で逮捕され、同年11月15日、東京地裁に起訴され、翌96年1月8日、北1舎1階1房に収容される。同房には、逮捕されて留置された警察署で知り合ったメマンドがいた。
「薬物は営利目的ではなく、大麻も覚せい剤も自分で使うために持っていた」などと弁解したが、脱走2日前の2月9日、懲役4年、罰金30万円の求刑があった。
 
裁判所から帰ってきて、求刑のことを話したら、「4年なら執行猶予はつかない。お前は絶対に3年か2年半、刑務所に入れられる」と同房のイラン人にいわれ、判決公判は3月7日に予定されていたが、脱走を決意した。

紅茶パーティー参加の5人目はバンザーデ(28歳)である。テヘランで生まれ、母親は死亡し、父親と兄弟が5人。「イランにも働き口はたくさんあったが、収入は少ない。月給は、日本円で5000円。日本で働くと1カ月の収入で1000ドルぐらい貯金できると、日本で働いたことのあるイラン人から聞いて」、91年10月に来日し、埼玉・八潮の鉄工所で、95年5月まで働くが、給料が少ないのでやめる。
 
その後、8月から、私鉄の駅で知り合ったサミーというイラン人と一緒に薬物の密売を行う。報酬は1日1万円。日本人の客から携帯電話で注文を受け、薬物取引に向かうサミーを乗せて、自動車を運転する役目だ。同年11月、サミーの密売事件に関連し、その関係場所の家宅捜索が行われ、バンザーデのアパートも捜索された。アヘン、コカイン、紙片にしみ込ませた覚せい剤、大麻、電子計量器、携帯電話4台などが発見され、逮捕される。
 
アヘンは自分で吸っていた分もあり、ほかの薬物は預かっていただけと弁解したが、同年12月15日に起訴され、96年1月22日、北1舎1階1房に収容され、初公判を待っていた。
「死んだ母親のことを夢によく見た。母親の墓参りをしたいのと、父親にも会いたかった。イランに帰りたい」と、参加する。

紅茶パーティーの6人目は、アーマド(26歳)である。94年5月、イラン航空の乗員がアヘン約5キロを密輸しようとして、成田空港で税関に逮捕された。その後、日本での共犯として逮捕され、95年7月5日、千葉地裁で、アヘン密輸などで懲役4年、罰金100万円の判決を受けた。アーマドが東京高裁に控訴したため、東京拘置所に移り、北1舎1階1房に入った。「逃げるのは権利だ」などと声高に主張していたという。

薬物事件ではなく、ただ一人、約4年の長期不法残留で起訴されたのが、紅茶パーティー7人目の参加者であるラゾギ(24歳)である。96年1月12日、起訴され、同年1月18日、北1舎1階1房に収容された。「オーバーステイで強制送還されると、好きになった日本人女性に会えなくなる」と仲間に加わった。

収容者の出入りはあったが、事件当時、この雑居房にいたのは8人だった。残りの1人は、ラスール(25歳)である。ラスールは、95年6月、約4年の不法残留で逮捕され、家宅捜索で、多量の大麻とアヘンが発見された。薬物所持と不法残留で起訴され、前橋地裁で懲役3年の実刑判決を受けた。これに不服で、東京高裁に控訴し、脱走事件3日前の2月8日、北1舎1階1房に入ってきた。ラスールは日本人女性と結婚するつもりで、正規の手続をして日本で住みたいので、脱走に加わるつもりはなかったと、脱走者たちは供述している。
 
その女性はしばしば面会にも通っていた。弁護人は、「執行猶予を目指して頑張ろう」と励ましていた。事件後の7月12日、東京高裁で開かれた判決公判では、傍聴席の最前列中央に、その女性の姿が見られた。

脱走計画はハミッドとボゾルギを中心に練られた。15分ごとの巡回があること、休日には警備が手薄になることはわかった。2月11日は建国記念日で日曜日、12日は振り替え休日。決行日は2月11日の深夜と決めた。
 
房の中からは、外のようすはわからない。北側の窓から約30センチ離れたところに、目隠し用の板が立っているからだ。「外のようすは、ハミッドやメマンドから聞いた。面会や医者のところに行ったとき、資材置き場に梯子があるのを見たといった」(シャロッキーの供述)。
 
塀を乗り越えるには、その梯子を使うことにした。外には監視カメラもある。ハミッドは、「カメラではなく、問題は電流だ」(シャロッキー)と考えていた。
 
電流というのは、外塀の上に横に3本張ってある"防犯線"のことだ。この線に一定以上の圧力がかかると、線が切れ、同時に、庁舎内の監視セクションで警報がなる仕組みになっている。脱走計画の最終関門ともいうべきものだ。
 
最初の関門は房から抜け出すこと。55年の脱走事件のときは、外側の窓の鉄格子を金ノコで切った。ハミッドたちの計画も、やはり、外窓の鉄格子を切る以外になかった。
 
外窓は半円形の回転窓で、外側に鉄格子が縦に8本、横にも数本通っている。縦横十文字になっている鉄格子だが、縦の鉄格子の一部分を切断すれば、縦約47センチ、横約22センチの隙間ができる。房内にあったテーブルの高さがちょうど同じぐらいだった。かれらはそれを使って実験してみた。やせているため、全員通過できた。
 
さて、残る問題は切断道具である。鉄格子の太さは直径約2.4センチ。テヘランから差し入れの糸ノコは使わなかった。ハミッドは別の金ノコを入手していた。2月に入ってから、ハミッドが長さ20センチほどの金ノコを仲間に見せている。「金ノコを見た時点で逃げられると思った」(ボゾルギ)。
 
2月5日、メマンドの内妻であるフィリピン人女性から、ツナ缶3個の差し入れがあった。鉄格子を切るとき、「金ノコで削る音を消すのと、金ノコの歯を保護するため」(シャロッキー)、ツナ缶の残り油が必要だった。
 
この女性は不法残留だったが、以前からメマンドにしばしば面会にきた。本も差し入れしている。脱走後、この本も調べられたが、何か隠してある物を取りだしたような跡が見つかった。もしかすると、ここに金ノコが隠されていたのかもしれない。
 
金ノコと油を入手し、窓の鉄格子の切断にとりかかったのは、2月9日の夕方からだ。北側には三つの窓があるが、狙ったのは真ん中。
 
ハミッドが金ノコで切りはじめる。外窓側を向いて一生懸命に切っているハミッドの姿を隠すため、メマンドやラゾギがその前に立つ。削る音を消すために、水道の水を出したり、トイレの水を流すのは、バンザーデやシャロッキー、看守の巡回を見張るのはボゾルギなど、それぞれが役割を分担した。シャロッキーはシーツを歯で切り裂いて、長いローブもつくった。
 
切断作業は、2月10日、11日と断続的に続けられ、11日の夕方、切断作業を終えた。といっても、鉄格子を全部切り離したわけではない。上の部分は完全に切断したが、下部はほんの数ミリ切り残した。完全に切断すると、脱走前に発覚するおそれがあったからだ。
 
予定どおり鉄格子の切断が終了し、前祝いの紅茶パーティーとなったのである。

紅茶パーティーの最中、ラスールが顔をしかめた。「苦い味で頭がふらふらした」と、ラスールは後に公判で供述した。それを、ハミッドとアーマドが笑って見ている。「脱走に気がつけば、ラスールが看守に知らせると思った」(ボゾルギ)ので、睡眠薬を入れたのである。睡眠薬はメマンドらが拘置所の医師から処方されたものを使った。
 
午後9時、消灯の時間だ。紅茶パーティーを終えて、8人は布団に入った。睡眠薬を飲まされたラスールは、そのままぐっすりと寝込む。あとの7人は寝床で決行の時を待つ。
 
刑務官の巡回は15分ごとだ。ボゾルギは巡回の回数を数える。「1回、2回、3回、……7回、8回、9回」。看守はドアについている視察孔から房内の様子をうかがう。11回を数えると、時間は、午後11時45分を回ったころ。「もうすぐ12時だ。いまから逃げるぞ」とボゾルギが声をかける。
 
ハミッドが窓に駆け寄り、窓を開け、下の部分をわずかに切り残した鉄格子を手でひきちぎる。真っ先に頭から抜け出す。ところが、地面までは1メートル以上もあり、ハミッドは頭をうって危ないところだった。二番手のラゾギからは足から抜け出す。
 
アーマド、メマンドと続いたところで、巡回を警戒していたボゾルギが、ストップの合図。巡回が去ってから、シャロッキー、バンザーデ。最後にボゾルギが出る。寝ているように見せかけるため、毛布を丸め、その上に掛け布団をかけておいた。
 
窓を抜け出て、右へ十数メートル行くと、左には内塀を背にして雑居房収容者のための運動場があり、フェンスで囲まれている。少し離れた右手には平屋の保護房棟がある。運動場と保護房棟の間は空き地になっているが、手前に金網のフェンスがある。かれらは、このフェンスを乗り越えた。
 
空き地の先は、高さ約5メートルの内塀だ。
 
ところが、内塀の右手をみると、保護房棟と内塀の間は渡り廊下で壁になっているが、その渡り廊下の壁と内塀の間に、わずかに隙間がある。そこをすり抜けて、北側に約40メートル行き、目指す資材置き場に出る。資材置き場といっても、プレハブ小屋を新設するため、さまざまな資材を地面に直接置いておいたものだ。目をつけていた梯子はあった。
 
しかし、「梯子の上に鉄のようなものがのっていた。それをどけようとすると、大きな音がするかもしれない」(シャロッキー)。この梯子の利用を断念する。
 
そこで、そこにあった4、5メートルの鉄パイプ2本と鉄筋、角材、持ってきたシーツを使って梯子づくりに取りかかる。シャロッキーはイランでソファをつくる仕事をしていた。慣れているだろうと、梯子づくりのリーダーに指名される。梯子が完成したのは、午前2時ごろだったという。
 
資材置き場の東側は3階と4階の舎房棟、南側は庁舎もあるし、内塀に囲まれている。西側と北側も内塀だ。西側を乗り越えても、元の北舎に戻ってしまう。行く先は北側の内塀だけ。
「内塀に梯子をたてかけ、梯子の上部につけたロープを反対側にたらし、1人ずつおりた」(シャロッキー)。最後に梯子を引き上げ、アーマド、メマンド、ラゾギが運ぶ。
 
内塀を越えて見回すと、長い外塀がある。手分けして、脱走経路を調べることになった。外塀にそって身を潜め、どこから逃げるべきか、長時間周辺を探った。結局、越えた内塀の反対側は、「とても暗く、木がたくさんあり、みんなそちらのほうに行った。後ろ側には壁があり、建物もあって明るかった」(シャロッキー)。
 
かれらが向かったところは、広さ約900平方メートルの刑場区画である。刑場の建物が木の生い茂る真ん中にある。処刑はほぼ半年に1回のペースで執行され、1カ月半ほど前の95年12月21日、群馬県内で女性2人を殺した死刑囚の絞首刑があったばかりだ。
 
刑場だとはまったく知らず、手前にある2メートルぐらいの仕切り塀を乗り越え、外塀にたどりつく。
「外塀についたら、梯子が少しこわれていた」(シャロッキー)。修理のリーダーは、やはり、シャロッキーだ。外塀は内塀よりも少し高い。修理だけでなく、鉄パイブに角材を継ぎ足して、梯子を長くした。
 
もう一つ、"防犯線"対策として、梯子の一番上の踏み段に、短い角材を直角に取りつけ、"防犯線"に梯子が触れないように細工した。
 
最後の関門である。次々と梯子をのぼり、ロープを使って壁を滑りおりた。雑居房から直線距離で約200メートルを3時間以上かけて進み、外塀を乗り越えたが、そのとき、"防犯線"が切れたのである。

午前3時22分、東京拘置所庁舎内の監視セクションにある"防犯線"警報装置のブザーが鳴った。ただちに、担当者が切断個所に向かう。3時27分、外塀に立てかけてあった梯子を発見した。
 
後に、国会で脱走事件が取り上げられたとき、法務省の矯正局長は、「まさか逃げられたんじゃないだろう」と、脱走については考えも及ばなかったと答弁した。
 
梯子が内側に立てかけられていたが、「外部からの侵入といいますか、あそこは公安関係の被告人、あるいは死刑確定者も含めまして、かなりたくさん預かっているということで、これはいたずらも含めまして、外部から奪還するぞという情報も相当頻々と寄せられております」ので、外部からの侵入を想定した。死刑確定囚では、爆弾テロを引き起こした東アジア反日武装戦線の大道寺、益永、連合赤軍の坂口、永田らが収容されていた。
 
そのため、まず、内部点検を行った。しかし、外部からの侵入者は見当たらず、午前4時5分、7人の脱走が確認された。警察に脱走を通報したのは、4時10分。警報が鳴ってから48分経過していた。

この間、7人は800メートル離れたJR綾瀬駅方面に必死で逃げた。その後、三つのグループにわかれる。
 
シャロッキーはつきあっていた日本人女性に会うため、電車に乗り、千葉・行徳方面に向かった。行徳駅から日本人女性の家に電話すると、その女性と母親がやってきた。「どうして、こんなばかなことをしたのか。自首しなさい」といわれたが、食料などを買ってくれ、別に1万円を渡される。その後、上野公園に行き、イラン人の友人に会い、泊めてもらう。
 
翌日、その友人に連れられて名古屋に向かう。名古屋でもイラン人に匿われ、各地を転々とする。イランの母親に電話して事情を話すと、泣きだしたという。
 
アーマド、メマンド、バンザーデの3人は綾瀬駅南口近くでタクシーに乗り、東京・東尾久に住んでいる知人のイラン人宅を目指した。そのイラン人から1万円を受け取ったバンザーデは、以後、単独で逃走する。
 
埼玉・草加のイラン人のアパートに数日間匿われ、名古屋、埼玉では自動車の中で寝泊まりする。生活費はパキスタン人の友人から援助してもらった。「手配の顔写真がいたるところに張られているのを見て、すごく怖かった。夜はあまり眠れなかった」。
 
一方、メマンドとアーマドは、東尾久からメマンドのフィリピン人の内妻が住んでいる家にいき、携帯電話と50万円を受け取る。千葉や神奈川などで匿ってくれそうな知人を必死に探し潜伏し、5月ごろからは、山梨の知人方に移る。「共犯者が次々と捕まったことは、新聞やテレビで知った。結局、自分も捕まるだろうと思った」(メマンド)。その後、2人は別行動をとる。
 
ボゾルギ、ラゾギは、「たくさんの友だちがいる新宿へ逃げよう。そこで、知り合いを見つけて匿ってもらおう」と、綾瀬駅北口付近からタクシーに乗り、新宿・歌舞伎町のディスコに行く。午前4時40分ごろだった。ここは、イラン人のたまり場だ。少し遅れて、ハミッドもタクシーで乗りつけて、合流する。
 
ラゾギがディスコで見つけた知り合いに、タクシー代金を借りる。友人に連結が取れ、ハッサンが迎えにくる。
 
ハッサンは、90年11月、正規のイラン政府発行の旅券で初来日したが、窃盗未遂で逮捕、強制送還されたのを手はじめに、日本に3回入国し、3回とも強制送還された。イタリアの偽造旅券で入国した前回は、95年5月、入管法違反で懲役2年執行猶予2年の判決を受けたが、その1カ月半後には、本人の説明によると、「入国ゲートで係官のすきを狙って」、4回目の入国に成功していた。
 
ハッサンは3人を連れて、ラゾギの友人の住む千葉・船橋に向かう。そこは、「東京よりも監視の目が薄い」と思われた。代々木駅までタクシー、代々木駅から船橋まで電車。船橋からタクシーで友人のアパートへ行く。アパートの2DKの部屋は、友人と別のイラン人が住んでいた。この友人は、ハミッドとボゾルギとは面識がなく、「すぐ、2人をどこかに連れていけ」という。
 
そこで、再び、ハッサンがハミッドとボゾルギを連れ、13日午前0時30分ごろ、アパートを出る。東京・中野のマンションで外国人専門の理髪業をしているコロンビア人男性の家に向かう。そこで、ハミッドとボゾルギは黒い髪を金髪に染めてもらい、青いコンタクトレンズも入れて、目の色も変えた。その後、2人はハッサンの紹介で、埼玉・草加のイラン人の住むマンションに匿われた。

"ゾルファガル作戦"は成功したものの、早くも脱走5日後の2月17日、千葉・船橋のアパートに潜んでいたラゾギが逮捕された。「テレビや新聞にも脱走のことがのっていたので、心配で、とても不安だった。外に出ると警察に捕まるので、アパートの部屋にずっといた」。
 
2月23日には、埼玉・草加のアパートで、ハミッドとボゾルギが逮捕される。そのとき、変装していたハミッドは、「自分はハミッドじゃない」と叫んだという。
 
3月13日、愛知・豊田で、シャロッキー、5月4日、埼玉・草加で、バンザーデが逮捕される。
 
7月10日、埼玉・新座で逮捕されたアーマドは、新たに脱走に関して加重逃走罪に問われ、9月10日、東京地裁で懲役1年2カ月の判決を言い渡された。すんなり閉廷かと思ったら、アーマドは、証言席の前に立ったまま、裁判官に話しかけた。

「今回の事件で、拘置所でかなりの仕打ちを受けています。これで、また送り帰されるのは大変つらい。まだ逮捕されていないメマンドのことについて情報を提供する用意があります。どうか、私のことを調べてください」

取引を持ちかけたのである。

「裁判所にはそういう権限はありません。拘置所職員にいうように」

裁判官は退けた。しかし、必死に訴える。

「メマンドの居場所を知っているので、取調官を派遣してください」

裁判官はとりあわない。傍聴席にいた刑事らしき男性が2人、にやにや笑いながらこの話を聞いている。閉廷後、2人は廊下にある公衆電話の受話器を握る。
 
それから2カ月もたたない、11月19日、ただ1人逃走していたメマンドが山梨・富士吉田で逮捕された。
 
脱走計画の中では、「フィリピンに行く、中国に行く、イランに帰るとか、いろいろ話していた」(シャロッキー)。出国する手はずも、「偽造パスポートで逃げられる」(メマンド)はずであった。しかし、逃げ切れなかった。
 
メマンドは逃走中に、懲役7年の刑が確定した。2月3日、加重逃走の初公判が行われ、弁護人の被告人質問に答えた。

 ──9カ月の逃走期間中、どうでしたか。
「非常につらく、1カ月が1年もの長さに感じられました。ばかなことをしたと思っています」
 ──いま一番つらいことは何ですか。
「東京拘置所で、1人で房に入れられていることです。非常にきつい。懲罰というので、この寒さの中、この服装(濃いネズミ色の作業服のようなもの)で、朝の7時半から夕方5時まで座っています。立ったり、新聞を読むこともできません。東京拘置所の係の人からは、『お前はばかだ。みんな逃げたために、ここの規則が変わった』などといわれています」

 
7人の裁判で、「これまでの良好な拘禁規律をあざ笑うかのように、巧妙に計画し、やすやすと脱走」などと検察官は異口同音に論告した。
 
これに対し、「古典的、稚拙な手口だ。なぜ、やすやすと逃走できたのか。当局の警備が驚くほど甘かったといわざるを得ない。常識的警備をしていれば、未遂で終わった」と反論する弁護人もいた。ハミッドは、「日本の法律に無知で、逃げるのが罪になるかならないのか、だれも説明してくれなかった」とも言い張った。
「元々の容疑からみると、有罪の確定と同時に本国に強制送還されるだけで済んだはずで、逃走は割にはあうまい。集団逃走は加重逃走罪にあたり、5年以下の懲役という重い犯罪だ。送還の前に、実際に刑期を務めなければならない者も出てくるだろう。『厳正な規律』に耐えられなかったのか、それとも脱走がそれほどのおおごととは思わなかったためか、7人にぜひ、尋ねてみたい」と、イラン人脱走事件を論評した新聞記事を目にした。
 
しかし、強制送還ですむのは、ラゾギぐらいだった。

イラン人脱走事件の4カ月後、96年6月27日午後8時過ぎ、東京・中野にある中野警察署の留置場から、不法残留などで裁判中の中国人の男(29歳)が、収容されていた2階にある雑居房の窓の鉄格子の錠を壊し、45センチほど開いた隙間から逃走した。
 
4日後の7月1日、東京・杉並の友人宅に潜んでいるところを逮捕される。
 
相次ぐ外国人脱走事件に刺激されたのか、96年12月下旬の未明、福岡市内の福岡拘置所でも、脱走未遂事件が発生した。死刑判決を受け、最高裁に上告中の男(30歳)が、独居房の鉄格子を金ノコで切断していたのである。
 
鉄格子を切る物音を聞きつけた巡回中の刑務官が駆けつけて、未然に防いだ。長さ約30センチの金ノコのほかに、拘置所の略図も発見された。金ノコの入手方法は、この男の担当刑務官の1人だった。
 
再び、イラン人の逃走事件が発生したのは、98年8月7日だった。同日午前0時5分ごろ、東京・調布の路上で、無灯火でヘルメットをかぶらず、2人乗りしているバイクを、巡回中の2人の警察官が見つけた。
 
運転しているのは、中近東風の男性、後部には日本人女性が乗っていた。停止を求めて、職務質問を行う。
「2人乗りはだめ。免許証を見せてください」というと、腰につけていたウエストバッグから、外国人登録証と国際運転免許証を差し出した。登録証を見ると、国籍はイランだが、「在留資格なし」と書いてある。国際免許証はイラン政府発行で、有効期限が切れていた。
そこで、不法残留と無免許運転の疑いで、調布警察署まで任意同行し、さらに詳しく調べることになった。
 
パトカーで調布署についた男は、2階の会議室で所持品検査を受ける。ウエストバッグの中身をあけ、そこに入っていた黒色の小物入れのチャックをあけるとき、男が突然立ち上がり、その小物入れを奪おうとした。すぐに制止され、小物入れは男の手から机の上に落ちた。
 
小物入れの中には、白色の粉末の入った小さな袋がかなり入っていた。その直後だった。
 
今度、男は開いていた会議室のドアに突進し、廊下を走り、突き当たりの部屋に入り込み、その窓ガラスを割り、ベランダから飛びおりたのである。ただちに、周辺を捜索したが見失う。
 
小物入れの白色粉末を調べると、覚せい剤だった。さらに、バイクのヘルメット入れにあったショルダーバックの中からも、覚せい剤、大麻、コカイン、アヘンなど多量の薬物が発見された。
 
イラン人は、2週間後の8月21日午前2時過ぎ、東京・国分寺の路上で逮捕される。このときも、パンツの中に、覚せい剤、大麻、アヘンなどを多量に所持していた。また、任意提出された尿を検査したところ、覚せい剤が検出され、自分で使用していたことも判明した。
 
初公判は、98年12月14日、東京・八王子の東京地裁八王子支部で開かれた。被告はわずかに白髪まじりの短髪だが、暖かそうなジャケット、濃紺のトレーナーを着ている。スマートな男だ。
 
イラン人男性の通訳がいるのに、裁判長から生年月日を聞かれると、「1962年6月30日」と日本語ではっきりと答える。36歳だ。テヘランで生まれ、母親がいる。91年5月に来日し、90日間の滞在期限が切れても日本にとどまり、土木、塗装などの仕事をし、その後、覚せい剤、大麻などの薬物密売を行う。
 
調布で、日本人女性と同棲していた。傍聴席の一番後ろに女性が1人座っているが、この人かもしれない。この男は、薬物事件に関しては全面的に否認し、「取り調べた警察官の口調が詰問調だったので逃げた」などと述べた。しかし、2000年7月12日、懲役10年の有罪判決を受けた。

ところで、死刑囚が中心になって編集、発行している『希望』という季刊の交流誌がある。2000年12月に発行された第33号で、東京拘置所在監者から、次のようなたよりが寄せられている。
「(東京拘置所の)運動場の上に鉄条網がついたのは、たしか、98年の末ごろでしたね。あそこから、通路の屋根の上に登って逃げた外国人がいたからです。所内を走り回っただけで捕まっています。
 
そして、その後、再びその上に鉄条網がぐるぐる巻かれたり、通路の屋根の上にも、ところどころ鉄条網の壁ができたのは、また、屋根の上に登って走った者がいたからです。99年ごろ、これは目の前でした。これも所内を走り回っただけです。
 
そして、同じころ、面会連行職員がトランシーバーを持つようになりましたが、これは、イラン人3名が連行中に逃走したからです。面会連行職員1人で、イラン人3人を連れていて逃げられたのですが、所外には出ていませんが、何かその際、職員にも不手際があったようです。担当職員は皆20代から30代前半なのに、そのときの職員は、昔からやっていた人でしたが、年配で体の小さい人でした」
「その人は、その責任をとらされて、外の新庁舎の工事現場の門番のような閑職に飛ばされてしまったそうです」
 
まだ、懲りない男たちもいる。

http://members.aol.com/Tetsu220/006.html

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