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Re: 長州支藩・岩国出身の河上肇の漢詩 
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投稿者 gataro 日時 2005 年 10 月 30 日 19:59:49: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: 革命的行動を支えた思想 高杉晋作の漢詩に見る 【長周新聞】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 10 月 30 日 04:18:26)

長州本藩ではないが、その支藩があった岩国出身のマルクス経済学者、河上肇も漢詩をつくっている。江戸末はもちろん、明治生まれのインテリはみんな、漢学のたしなみがあったようである。漱石、鴎外、子規、漱石の弟子である芥川、革命家の幸徳秋水にいたっては7歳にして、祖母の誕生を言祝ぐ漢詩を読んだという。河上肇もそういう世代の一人であった。

河上肇はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に次のように記されている。

河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党に参加して検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳や、死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。

経歴
山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に岩国藩士の家に生まれる。東京帝国大学法学部政治科に入学。足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902年(明治35)大学を卒業。その後農科大学講師などになり、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。

1908年(明治41)、京都帝国大学の講師となって以後は研究生活を送る。1913年(大正2)から15年にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。帰国後、教授。1916年(大正4)から新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年出版。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、全体の主張は「金持ちは贅沢を止めよ」といった倫理的な教訓に留まっていた。

その後、マルクス経済学の正しさを認め、研究を進める。1921年(大正10)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文はのちに虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1922年、櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判を行うが、河上は批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。1928年(昭和3)、京都帝大を辞職し、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加。1930年(昭和5)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。

1932年、日本共産党の地下運動に入る。1933年、中野区で検挙され、治安維持法違反で小菅監獄に収監される。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明を発し、その内容の率直さなどもあって大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。1937年(昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。第二次世界大戦終戦後の1946年に逝去。1947年、『自叙伝』が刊行される。

河上の生涯は若い日の無我苑、研究生活、労働農民党、日本共産党と幾多の思想的転向をしている。しかし、ひとたび自己が真理だと認めると、ひたすら突き進んでゆくという態度では一貫しており、ある意味でいさぎよい。

【河上肇の漢詩】

▼ 1933年治安維持法にて逮捕され拘置所から妻にあてた手紙の端に書かれた詩。
  
[無題] 

年少夙欽慕松陰
後学馬克思礼忍
読書万巻竟何事
老来徒為獄裏人

年少夙(つと)に松陰を欽慕(きんぼ)す
後に馬克思(マルクス)礼忍(レーニン)を学ぶ
読書万巻竟(つい)に何事ぞ
老来徒(いたずら)に獄裏の人と為る

若い頃早くから松陰にあこがれ慕った。後にマルクス、レーニンを学んだ。万巻の書を読んだが何の役にも立たず、年老いてただ徒(いたずら)に獄中の人となってしまった。

これだけ読むと、非合法活動に身を投じ、逮捕されたことを後悔しているかに見えるが、そうではない。典故としての「読書万巻」という言葉に河上肇の本心が込められている。吉田松陰から塾生にあてた松下村塾塾聯をひいたものである。

[松下村塾塾聯]

自非読万巻書、寧得為千秋人。
自非軽一己労、寧得致兆民安。

万巻の書を読むに非ざるよりは、寧(いずく)んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

万巻の書を読まないで立派な人物になることは出来ない。労を惜しんでいては、民を指導することが出来ない。

河上肇の、この詩の漢詩としての出来はどうかというと、一海知義・神戸大学名誉教授によると、「韻」についてはまったく駄目ということだ。陰、忍、人の発音は日本の音読みでは「韻」をふんでいるよう見えるが、中国語としてはまったく「韻」をふんでいないそうだ。さらに七言絶句の詩は、1行が2文字、2文字、3文字で区切られる7文字で構成されるものだが、最初の2行は、その形式がとれていない(年少夙/欽慕/松陰=3・2・2 後学/馬克思/礼忍=2・3・2)。またレーニンは「礼忍」ではなく、「列寧」でないと中国語の発音では通じないそうだ。

特高監視下で中国語辞書が使用できない。また漢学の素養があるとはいえ、漢詩をつくりはじめるのは晩年近くになってから。こうした条件を考えると、漢詩としての体裁が整っていないのはやむを得ないだろう。

▼ 出獄後、京都帝大・吉川幸次郎教授の指導で本格的に漢詩を学ぼうとするが、1、2回通って、特高警察の尾行に気付き、吉川教授に迷惑をかけると危惧し、断念する。あとは独学で詩作に取り組む。次は1938年の59歳の誕生日に読んだ詩。

[天猶活此翁]

秋風就縛度荒川
寒雨蕭蕭五載前
如今把得奇書坐
尽日魂飛万里天

[天猶(なお)此の翁を活かす]
秋風縛に就きて荒川を度(わた)りしは   (*「渡る」の誤字ではない)
寒雨蕭蕭(しょうしょう)五載の前
如今(じょこん)奇書を把(と)り得て坐せば
尽日魂は万里の天を飛ぶ

[天運は今もこの老人を活かしてくれている]
秋風の吹く頃に捕縛され荒川を渡ったのは、寒い雨が淋しく降る五年前のことだった。
只今奇書を手にして座っていると一日中魂は万里の空を飛ぶ。(河上肇が収監された小菅刑務所は荒川を渡ったところにある。)

5年も経つと、河上肇の漢詩も本格的なものになったようだ。「韻」は川、前、天とふんでいる。七言絶句の形式は、秋風/就縛/度荒川 寒雨/蕭蕭/五載前 如今/把得/奇書坐 尽日/魂飛/万里天、整っている。

ただ表面的な解釈はできても、これだけではこの詩の意味は分からない。「奇書」が何を指しているかが重要である。京都帝大時代の愛弟子、堀江邑一氏によると、「奇書」とはエドガー・スノーの「中国の赤い星(邦題)」のことだという。そして「万里」とは中国を指す。特高警察監視下での河上肇の苦闘がしのばれる。エドガー・スノーの著作を持っていることだけで、逮捕されるという時代だったから。

▼ 四言詩もつくっている

[閑臥]

欲耕無土
有土力疲
不作米藷
不弁農時
万骨枯処
一事無為
惟抱微倦
閑臥作詩

[閑臥(かんが)]

耕さんと欲するも土無し
土有りても力疲る
米藷を作らず
農時を弁ぜず
万骨枯るる処(ところ)
一事為す無く
惟微倦を抱きて
閑臥詩を作る

解釈はしない。Wikipediaでは、「1946年に逝去」となっているが、これは獄中での衰弱と戦中・戦後の食糧事情悪化の中で「栄養失調」で死んだものである。もって瞑すべしである。

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