投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2005 年 11 月 10 日 19:26:05: WCbjO5fYf.pMQ
足腰の不自由な老神父を介助している青年が、その老神父に自分は人を殺したと告白し、さらにシスタ―が間もなく妊娠するだろうと告げる。おだやかな老神父の表情は怒りと苦悩にゆがむ。以上は、大森立嗣監督の映画「ゲルマニウムの夜」(十二月公開予定)の一場面である。
青年には自分の言葉が涜神であり破戒であるという認識はある。なければこんなむごい言葉を老神父にわざわざ告げることなどしない。意図的な残酷さ。私はこの映画を見て、子供を何人も殺傷して刑死した宅間守を思い出した。なぜ、青年は信仰厚い老神父を苦悩へと追い込んだのか。青年は老神父に父を見ていたのだと思う。
青年がなした残酷さには二つの側面がある。一つは子供時代に自分に暴力的であった父親への復讐。青年の破戒に対する冷感症的態度は、子供時代に父親より受けた手ひどい暴力に根があるといえる面があるからだ。このような子供期を送った青年には、幸福そうな人を苦しめたいという加虐感情も表れる。宅間もこの例外ではなかったろう。
もう一つが精神的な「父殺し」というテ―マ。父に向けて自分はもうあなたの支配下にはない、あなたの従順な息子ではないと告げる儀式だ。青年は老神父に父を見ることができたゆえに、この儀式を通過した。宅間はこの儀式を父に力で拒まれた。だから人を殺したのだ。
若い映画作家は比喩として、優れた「父殺し」の場面を描いた。日々報道される凶悪犯罪を見て思う。今の子供たちは、どれだけ自立の通過儀礼を乗り越えて社会に出ているのだろうか。
産経新聞 2005 11 09
断 評論家・芹沢俊介
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