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「小泉首相もお参りを」:記憶戦後60年―「東京新聞」
http://www.asyura2.com/0510/war76/msg/297.html
投稿者 天木ファン 日時 2005 年 11 月 20 日 13:37:37: 2nLReFHhGZ7P6
 

<上>4500柱、公墓に眠る開拓民

枯れ草をかき分けると、風化した無数の白骨が散乱していた。

 一九六三年四月。中国東北部の黒竜江省ハルビン市方正県にある炮台(ほうたい)山のふもと。中国人の夫とともに荒れ地を開墾していた松田ちゑさん(86)には、それが何かすぐに分かった。

 方正県では四五年から四六年にかけて、避難所で暮らしていた旧満州開拓団員とその家族約四千五百人が、帰国を望みながら、寒さと飢えの中で死んでいった。見つけたのは、その遺骨だった。

 あの冬−。

 山形県天童市から開拓団として満州に入植した松田さんは敗戦を知ると、家を捨て、六歳の娘を抱えて逃げ出した。侵攻してきたソ連軍や、「匪賊(ひぞく)」と呼ばれた武装集団に襲われるのを恐れたからだ。日本人の夫は徴兵され、生死も分からなかった。

 山をかき分け、たどり着いたのは、方正県の別の開拓団の入植地跡。倉庫や民家を改造した何カ所もの避難所に、各地から集まった数千人の日本人が身を寄せた。畑に実った穀物は一カ月で食べ尽くされ、冬を迎えた時には深刻な食糧不足に陥っていた。

 松田さんは、持っていたわずかなお金で、中国人が売りにきた食料を買っては「私の命」と大事にしてきた娘に与えた。だが、間もなくそれも尽きた。

 子どもやお年寄りが毎日、何人も死んでいく。娘も冬を越せぬまま短い生涯を閉じた。「私も病気でね。娘が亡くなった時は立つことさえできませんでしたよ」

 埋葬しようにも凍土は固く、遺体は凍ったまま積み上げられた。疫病の流行を恐れた地元政府は春になると、約四千五百の遺体を炮台山のふもとに運び、三つの山に分けて、ガソリンをかけて燃やした。炎は三日三晩続いたという。

  ■ ■ 

 松田さんの唯一の望みは、生き延びて日本に帰ること。そのためには結婚して、避難所を出るしかなかった。

 「中国人の家に行きます」。避難所の部屋長に頼み込み、紹介された同い年の中国人男性と結婚した。翌年、長男の崔鳳義(さいほうぎ)さんが生まれたが、夫は六年後に事故死。生きるために三人目の夫と再婚した。

 六三年。大飢饉(ききん)に見舞われた中国では、農民以外の労働者にも食糧自給を呼びかけた。つてをたどって夫と開墾に訪れたのが、あの炮台山だった。

 十八年間風雨にさらされ、犬やオオカミに荒らされた遺骨。「国のためにと満州に来たのに−」。悔しくて涙も出なかった。ほっておけず、「日本人の手でお骨を拾いたい」と願い出た。

 国交正常化はまだ先だったが、中国の対応は早かった。要望は中央政府に諮られ、翌五月には地元政府による墓の建設が決まる。「方正地区日本人公墓」と記した墓碑が建てられたのは六四年秋。後に松田さんは、県の幹部から聞く。「この話を耳にした周恩来首相(当時)が、『日本とは戦争をしたが、亡くなった開拓民は犠牲者だ』と言ったのです」

  ■ ■ 

 松田さんは中国に取り残された孤児たちに日本語を教え、親捜しを手伝った。そのためか、六〇年代後半に始まった文化大革命では「日本のスパイ」と疑われ、三年半も投獄された。

 家族との手紙のやり取りすら許されず、いわれのない“反省”を強いられる日々。密告したのは松田さんと同様、戦後、中国に残らざるを得なかった日本人女性だったという。

 波乱の人生を送りながら、それでも、盆や彼岸には公墓のお参りを続けた。「一日も忘れたことがない故郷」という日本に永住帰国したのは九一年。現在は、五十八歳になった鳳義さん夫婦と三人の孫、四人のひ孫に囲まれ東京都内で暮らす。「夢のよう。長生きして本当によかった」と何度も繰り返した。

 公墓のことは今も忘れない。「戦争だから無理ないけど、日本人は中国で悪いことをしましたよ。その日本人のお墓が立ったのは中国政府のおかげ」と言う。「あの時、満州で亡くなったのは兵隊さんに食糧を送っていた人たち。日本魂があればこそ犠牲になった。だからね、小泉(純一郎)首相にもぜひお参りしてほしいですよ」

 公墓を知る中国残留孤児や婦人は高齢化し、体力的な理由から、墓参を取りやめる日本の親族らも出てきた。

 でも希望がある。公墓の維持管理費を日中で分担することを目的に、今年六月、都内で開かれた「方正友好交流の会」の総会に、数人の若者が参加してくれた。松田さんは、それがうれしい。

 「いろんな人がお参りしてくれれば、公墓の歴史は消えない。私の願いですよ」

      ◇

 五族協和・王道楽土を理念として日本は一九三二年、現在の中国東北部に「満州国」を建国。傀儡(かいらい)政権を樹立させた。昭和恐慌下にあった日本の農村の土地不足と人口過剰、満州の治安維持などを目的に、国策として進められた満州移民。だが敗戦後は混乱の地に取り残され、悲惨な逃避行の中で、多くの残留孤児、残留婦人らを生む。その人々の戦後を追った。

<メモ>

 方正地区日本人公墓 1945年から46年にかけ、敗戦の混乱の中で亡くなった旧満州開拓団員ら約4500人のために建てられた中国で唯一の公墓。日中国交正常化に9年先立つ63年に仮墓標が、64年に高さ3・3メートルの墓碑が建立され、地元政府が維持管理している。隣には集団自決した530人の遺骨を納めた「麻山地区日本人公墓」、残留孤児が建てた「中国養父母公墓」があり、周辺は中日友好園林として整備されている。

社会部 林 涼子

http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/index.html

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