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記憶戦後60年新聞記者が受け継ぐ戦争―「東京新聞」特集
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投稿者 天木ファン 日時 2005 年 12 月 19 日 14:44:31: 2nLReFHhGZ7P6
 

BC級戦犯 <上>収監8年 『自分の愚かさ』責める


 「わが師団の戦友は、こやつらのために虐殺された。血祭りにあげ、亡き戦友の霊を弔うのだ」

 一九四四年十一月、オーストラリアの北方に位置する西部ニューギニア(現インドネシア)の密林で、日本軍の兵士たちが黒い肌の男性を取り囲んでいた。

 男性は日本軍の師団参謀らを惨殺した地元ゲリラの首謀とみられていた。「血祭りに」と叫んだ中尉が、一番若い兵の名を呼び「一歩前! つけ剣!」と命じた。

 名を呼ばれた兵が青ざめた顔で銃剣を構え、掛け声とともに剣先を四、五回突き出す。すさまじい形相でくの字に体を折った男性は腹部から血を滴らせ、よろめきながら、当時二十一歳の海軍理事生だった飯田進さん(82)=横浜市在住=の方へと近づいてきた。

 飯田さんが軍刀を抜いた。数歩前に出て、肩をめがけて一気に斜めに斬(き)り下ろす。鈍い手応えがあった。人を斬ったのは、これが最初で最後だった。胸のむかつきを抑え、刀を鞘(さや)に収めた。

 この時の行為などによって飯田さんは戦後、「BC級戦犯」として罪に問われることになる。

          ■ ■

 山口県に生まれた飯田さんは少年時代から、「植民地支配からのアジア解放」を夢見ていた。十九歳で海軍を志願。すぐに軍の民政府調査局調査隊のスタッフとしてニューギニアに赴任した。インドネシア語が話せたことから、案内役も兼ねて、オランダ軍の討伐作戦に同行することもあった。

 戦況の悪化に伴い、陸軍第三五師団歩兵二二一連隊第一大隊に配属される。情報要員として戦闘に参加、大本営の無謀な指令によって密林を何百キロも右往左往させられるうちに、多くの兵士が飢えやゲリラの襲撃で死んでいった。捕虜となったゲリラの処刑は、その間の出来事だった。

 ニューギニアの最西端ソロンで敗戦を迎えた飯田さんは、日本への送還船を待つうちに戦犯としてオランダ軍の駐留軍に拘束された。送られたのはホーランジアの収容所。「一冊の本もないまま、ただ銃口の前に立つために、毎日を生きてきた」と振り返る。

 衛兵は、かつての日本軍の捕虜たちだった。復讐(ふくしゅう)のように、飯田さんら戦犯容疑者は昼も夜も、こん棒や銃の台尻で殴られた。体中が赤黒く変色しても、容赦されることはなかった。

 四八年六月、飯田さんら九人の被告に対する戦犯裁判がホーランジアの法廷で始まった。飯田さんの起訴理由は、ゲリラ処刑を含めた三件の捕虜虐待。法廷では発言の機会は与えられず、日本から呼ばれた弁護士が求めた証人も、一人も喚問されないまま三十分で審理は終わった。求刑は死刑だった。

 二週間後の判決。有期刑を言い渡された三人の中に飯田さんがいた。重労働二十年。後に入手した公判記録には、弁護人の意見として「最年少者であり、大して重要な地位にいなかったことが認められ、死を免れたものとみられる」とあった。

          ■ ■

 判決を受けて、飯田さんはジャワ島のチピナン刑務所に収容された。インドネシアの独立を機に、五〇年一月に東京の「スガモプリズン」に移送。仮釈放されたのは五六年の初夏だった。

 戦後は社会福祉の仕事に身を投じた。そうした活動に携わっていることを理由に、戦場で体験した「死」の意味を問い直すことをなおざりにしてきた。「その意味を問うことは、自分の愚かさ、醜さを暴き出すことになるから」と飯田さんは言う。

 だが、戦後四十年の節目の年に飯田さんは、かつての戦場を訪ねる。戦友を慰霊し、現地の人々に謝罪をしたいという気持ちを抑えきれなくなったからだ。そこで衝撃的な事実を知る。あの時、斬りつけた男性は、ゲリラの首謀者とは別人だったのだ。

 「痛恨の思いだった。戦いの中でのことであっても私の責任を感じずにはいられなかった」

 それでも処刑に反対することはできなかったと、今でも思う。

 「上官の命令は絶対だったし、ゲリラに捕まった戦友が切り刻まれるのを目の当たりにすると、体が震えるほどの憎悪がこみ上げてくる。この気持ちは、戦場に立った者じゃなければ理解してもらえんでしょう」。やらなければ、やられる−。それが飯田さんにとっての戦争だった。

 戦犯として処刑されたのは、自分のような現場の士官や下士官、軍属がほとんどだった。だが、彼らを戦争に駆り立てたのは誰だったのか。「本当の戦争責任を負うべき者は別にいた」と飯田さんは思う。

 戦後、軍の中枢にいた者たちは次々と公職復帰している。そうやってうやむやにされてきた責任。その延長に、今の社会があるように飯田さんには思えてならない。

     ◇

 占領地の住民や捕虜の殺害、虐待などにより、戦争犯罪者となったBC級戦犯たち。問われた罪の内容は、人や地域によって大きく異なる。裁判では何が裁かれ、何が裁かれなかったのか。彼らの「罪」は戦後を生きる私たちにとって、どのような意味を持つのか。元戦犯らの記憶から探った。

(メモ)戦争犯罪 第2次世界大戦の敗戦国の戦争犯罪は、連合国による国際軍事裁判所条例に基づき、「平和に対する罪」(A級)「通例の戦争犯罪」(B級)「人道に対する罪」(C級)に分けられた。日本では東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれ、戦争を指導した政府や軍責任者の「平和に対する罪を含む犯罪」が裁かれた。この被告がA級戦犯と呼ばれる。

 一方、B、C級を対象にした戦犯裁判では、捕虜への残虐行為や住民虐待・殺害など個々の行為が問われた。これらの被告がBC級戦犯と呼ばれる。A−C級の名称は分類上の区分であって、罪の重さを示すものではない。関東学院大の林博史教授(現代史)によると、BC級裁判は7カ国8つの政府によって約5700人が裁かれ、約900人の死刑が確認されている。

社会部 沢田一朗

 (2005年12月18日)

http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/index.html

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