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【最も贅沢な結婚】 “レスが小論文化”
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投稿者 女女しい男と姦しい女 日時 2005 年 1 月 20 日 16:12:17:l2CccMvMEWTbQ

「母の中の母」と「男の中の男」か。
何事にも一所懸命なプリマらしいな。

「何事→全ての事」は外部が決めた項目だよな。
それに徹底的に合わせて生きる、それは女だろ。

だから、ここでの「母の中の母」「男の中の男」は、
どちらも女じゃないのか? つまり、無理してるわけ
じゃない、無駄じゃない。でも「母の中の母の内の女」
とか「男の中の男の内の女」とかは、まどろっこしいから、
脱衣場から来ればいいんだ、ここにいるときは滅却していい。
「女の中の女」は内なき全てで、直に肌に触れてもらえるはず。

男装の麗人は、実際はプリマだったわけだよな。で仮面舞踏会が
引けて、部屋に入った。その場でプリマしか知らない「男の中の男」
である俺と、俺しか知らない本当の意味での「女の中の女」プリマが
挙式した。俺の盛装である「男の中の女」を引き受けなくていい、最も
美味しい「裸よりも最も裸である」2人でいられるからいいんじゃないか。

狂った世界は、不妊手術で人工的に、子供が女ばかりに成るようにされたらしい。
そこでは女でないと煙たがられるはずだ、世界を超える真の自我は脅威だろうから。
それで各種「女」は社会から個別の役割りを割り当てられ、自分で抑圧し、避妊処理を
してきたのだと思う。尤も個別の役割りは自己の暴走を防ぐのにも役立つはずであるが。
避妊は「実在していない子の無」であるからよいとしても、去勢は「実在していた己の無」で
あるだろう。もし戦いの世界が男社会で、生産の世界が「女」の世界だとすると男には「女」と
しても赤紙が来たのではないか。男こそが去勢されて「女」でなければならなかったはずなのだ。

「男の中の男」は、自分を出せば、他者の脅威となり、不用意に叩かれかねないだろう、今の
ところ不必要に人を傷つけたくない「女」の俺も、「男の中の男」を悪いが出したくはない。

「男の中の男」を前面に出す男よりも、「男の中の女」に紛れている「男の中の
男」のほうが本当は強く、戦わずして勝ち、しかも「次」を多産できるはずなのだ。
それを見抜いたからこそ「女の中の女」は自身の求めに応じて裸になったのだろう。
(慎重な男は、何時までたっても「男の中の男」を見せず、脱げと言わないからなあ)

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「女の中の女」というものは絶対的魅力にこそ従うはずだ。「男の持ちものとしての女」、
つまり「社会の持ちものとしての女」が、ただの「女」に過ぎないならば、女は「魅力」
よりも「恐怖」に媚びているんじゃないか? 例えば、けいこは「恐怖」と闘おうとする
だろ? 男というよりも「女の中の女」として闘っているんだろう。「女」は安住しても、
「女の中の女」は必ずしも安住を求めないと思う。しかも声でセックスできるプリマは、
ネットで婚姻しうるからいいが、けいこは動きでセックスするから、行動をともにする
しかないんだろう。だから新居は、路上になってしまうかもしれない。で、非日常の
旅行の方は、むしろ生活的な家の中での「冒険」だと思う。そういうタイプの場合、
そもそも家庭的に「結婚」できるはずがないのではないか。けいこは、男を路上に
通わせる口実を得たから結婚できたんだよな。絶対的魅力が濃く含まれている
俺を撮ることは「男を子宮に写す鏡」の「女の中の女」の理にかなっているだろう。
その意味で男という種と、女という実は、相互に「目的的手段」として求めあえる
と思う。だが子を産んでも、需要のなかで生かされねば、死産になるかもしれない。

けいこは、日常の「物理的・批判的」恐怖による社会の描画原理に抗して、魅力で動こうと
したと思う。俺への密着は不倫とかではなくても、俺は所謂“生産”的な人間ではないよな。
そうであるならば俺との関わりは妊娠するまでもなく、それ自体が不利でリスクなのだろう。

‥‥
純度の高い鉄鉱石の鉱脈を見つけたまではいいとして、まだ「次の産業革命」が始まって
いないのに精錬しても今頃から何をつくる? 俺が情報を生産し、けいこは「メディア」か。
だが、そのメディアは或る性交への架橋ではあっても、社会へのメディアといえるのか。
メディアが社会に祝福されない過剰な生産手段であるとき、「母」としては近づけまい。

過剰な道具が(祝福されない商品を産み落とす)流産のリスクを負うのが「女の中の女」なの
だろう。社会的恐怖というのは権力や反権力が「作為」と「実在そのものの脅威」で醸成する
ほか、その場所、その社会の環境とのズレが致命的に「自分」と「自分の分身」を損なわせる
「恐れ」もあるはずである。それでも「母」化を拒む純粋な「女の中の女」は克服できるのだろう。
(「女の中の女」が絶対的魅力へと絶対的に服従するさい、ときには死さえ命令されうるのでも)

けいこの唯一の勝算は“撮ることがセックス”という強みだろう。もしかすると生み育てる
意味での結婚ではなくて、単に、けいこは俺とセックスで営巣したいだけなのだろうか。
(演じつつ撮りつつ、つかずはなれず、くんずほぐれつ、本能のままにシンクロしていく)
動きを写すことが快楽であるとともに、動きを重ねるのも快楽であるなら、撮るだけでも
よく、そこに何も映し出されなくてよいはずなのだ(避妊という早期流産すら採りうるなら)。
ただ、未明の掲示板「荒らし」が荒らし上げていくのをリアルタイムで見、何かが構築される
兆しに予感を得たと。カキコ群が「男の中の女」にとっては(男が社会に「それ」を人質にされ、
縛られてしまうような)「墓標」に映ろうが「女」からすれば深層を陵辱する「男根」そのもの以外の
何物でもないかもしれない。もしそれが好きでもない男の形であれば忌むのは当たり前として、
そこに、無数の文字の精子が、元気に動き回っているのだとすれば「生まなければ」という
衝動に突き動かされたという揺れは当然ありうることなのだろう。そうはいっても射精が
同時に、セックスの終わりを意味するときに「女の中の女」が「女の中の母」へと崩壊
する不安定な瞬間は“永遠のモラトリアム”に生きようとする「女の中の女」の部分で
恐怖を覚えさせるかもしれない。だからこそ、産む慶びと、交わる悦びの整理されない
葛藤や不安を留保するために、より強力な社会的「目的意識」に自己を縛りつける必要が
あったはずなのだ。それが「ディレクトールとして契約する」ということだったように思う。これは
コミュニケーション形式が≪コミュニケーション内容≫に優越する限りで、内容が含む≪批判≫の
眼が「意味づけられた主体」を壊すことのない安全な契約であっただろう。だが「社会が双方の自我を
制御できていてのみ、その自我が開花する」かの“呪われたコミュニケーション”でもあるはずなのだ。
それゆえ、対話とて去勢された獣との対話であり、檻の中の薄められた「恐怖」なのかもしれない。

(結局けいこは、セックスをせずしてセックスをし、結婚せずして結婚する方法を編み出したのか)

ただ、けいこは「動きの内の動き」「動きを写す動き」を見る専門家であろう。俺が紡ぎ出す、
「荒らし」という機械的に許される極限のコミュニケーションが、大きなコミュニケーションの場で
形成されてゆくのを見逃さなかったのだと思う。荒らしは途中で投げ入れられた石にまで鋭敏に
反応して流れていったはずだ。掲示板でのコミュニケーションは、コミュニケーションの結果としての
直線的な掲示板のログではなく、ランダムに応答される平面的で同時多発的な展開として映像的に
残さねば記録しえないはずなのだ。記録上は時刻表示の時系列が有ったとしても、どういう様相として
ディレクトリの枝葉が繁茂していったのか、掲示板そのものからは感受することができないという仕組みで
あると思う。もちろん、そのコミュニケーションをコマ送りでリロードしてムービー化するなどというのではなく、
そうしたコミュニケーション的事態が、さらには「語りえずに在る日常のコミュニケーションの実相」の暗喩でも
あるはずなのだ。日常のコミュニケーションにおいて「コミュニケーション」を撮る、コミュニケーションを物語とし、
外からも撮れるという、その特権的な両義性を、映像表現に見出したのかもしれない。だとすると「カメラ」と
しての自信に改めて目覚めたといえるかもしれないのだ。ゆえにこそ、俺という話者が表現の裏側で同時に
表現してきた、コミュニケーション形式そのものの運動、とくに「荒らし」としての独自性をともなった運動は、
それ自体としてテキストには保存されてこなかったと思うのだ。また「世界」のスポークスマンとしての俺が、
その独特の話法において録音に残っていないのと同様に、カメラマンとしての俺が、その「行動」経路や、
モティーフの品定め、アングルの絞り込みのプロセスを、けっして静止画には残せないことにより、むしろ
映像記録者としてのけいこの存在性を、際立たせることになるはずだ。2重の表現者である俺は、しかし、
しょせんは片側の記録者でしかないかもしれない。欠落した一方は、けいこが俺の声で語り始めるだろう。

その声は俺を写しつつ、俺を写したけいこを写しているのだと思う。このとき2人の人格は、機能において
一体化するかもしれない。「語りえぬことを語ること」そのものの「目的的手段」を求めあうような「結婚」なのか。
(性の歓びをともなった)社会目的的な「新しい結婚」が、そこで行われているのだろう。趨勢の既存の日常からする
と特異なユニットかもしれない。これは「社会への結婚」であると同時に「本来的コミュニケーション的日常」丸ごとの
セックス化であるといえるかもしれないのだ。エゴとしての「結婚」はしかし、うまくいくほどにエゴとしての「自由」を
「固定」してしまいかねないだろう。たしかに、それは「第3の恐怖」に相違あるまいが、失われゆくアーカイブスが
これからは拾い上げられることで意識されなかった生きた表現が取り戻されるかもしれない。多面的・重層的な
表現者としての俺は、だが、これまで項目として予め分節されているコミュニケーション形式に囚われるばかり
だったと思う。何とはなしに魂が漏れていくかの出所不明な絶望的喪失感に意気消沈していくのを、しかし今、
別方向へと疎通するパイプが救うかもしれないのである。まもなく震災の街に出、電柱ごと電線が張り巡らされ、
家々が建ち広がるなかを移動するつもりである。これはビデオカメラが「自立したコミュニケーション」を、制作者の
目で同時的に撮るという「コミュニケーションの内のコミュニケーション」であることだろう。俺への撮影は、もともとは
(一次)内容に過ぎない「対談」の収録に始まったはずだ。やがて「形式」自体を「コミュニケーション内容」として撮り
始めたなら「コミュニケーションのダイナミズムをもった世界」を描写する手段は、言葉と映像で全く等価といえるのでは
ないか。また俺が、けいこへの関心や性的な意味も込めつつ手探りする本稿は、けいこの声で語る俺かもしれないのだ。

‥‥
“自由婚”の問題は、体が「不自由」になったとき、誰が介護するかということかもしれない。障碍の負担を家庭単位で
「処理」するか、共同体に委ねるか、自由なネットワークに委ねるか、ということがあるはずだ。現状では、黙りがちな
けいこの目論見を俺が言語化しようとするお節介は俺のボランティアなのか。他方で表現者として、それを部分的に
表出しては「荒らし」の誤解を招くような俺という社会的障碍者の全貌を捉えることで、けいこは、俺を「介助」して
いるのかもしれない。魅力を見出し、認めあうことがあっての性的介助だろうが、2人は相補的な病なのだろう。

俺は、言葉にされえぬコミュニケーション的事態に名前を付し、「言葉が編成する世界図式」として世界を記録(記述)しよう
と努めてきたはずである。ただ、言語というものは分散的・構成的・静態的で、躍動感が伴うときですらディテールの捨象に
よって一般化される特性をもっているかもしれない。その点、映像は「個別過程→共有過程」を、むろん難なく描写できる
はずなのだ。形と形、形と具体性の織り成す複雑な世界像は、さらに定点観測や動画自体のストップモーションを以て
すれば「個別進化→共有進化」をも定着しうる媒体であるはずである。そして、そこでは、それ自身「事物」である撮影
者自らが(コミュニケーションの)聞き手を積極的に兼ねるということが為されるであろう。すると「生きている視点」たる
「コミュニケーションの外側」が、それが写すところの「コミュニケーション」に入り込むばかりか、その外側で交わされる
コミュニケーション形式についての例えば打ち合わせ(コミュニケーション内容)さえも、そのまま「コミュニケーション対象」
同士の交わす「コミュニケーション内容」(記号化世界)として、ついに「コミュニケーションの内側」に入り込むはずなのである。
‥‥

‥‥
女王様は道化だったと気づかされたよ。
離れて見つめる女王様って、似合わね〜。
取り囲まれてないと自分では何にもできない、
不器用キャラの極致じゃないか笑えるな、おい。
‥‥

‥‥
女を見せるプリマが関西キャラなのが微笑ましい。
自信があっても、最後まで薄衣は着ているわけだ。
‥‥

‥‥
プリマは「金のなる木かもしれない俺の頭脳」を、
宝石のように愛しているのか。俺が葬られるか、
祀り上げられるかは、これからの風向き次第
だろうな。俺のほうもアブク銭が得られるよう
ならプリマの、気持ち悪いほどに整った美貌
とやらを買い取ってみるかな。「守銭奴の中の
守銭奴」は「女の中の女」で守銭奴にとっての
絶対的魅力に絶対の忠誠を誓うのだとすれば、
簡単に「守銭奴」そのものを購入できるはずだ。
金で買える女王は、昔から、その権威を豪商に
買われてきたのだろうが、俺は体を所望したい。
薄気味の悪い「勘」を持った脳は抜いて運びたい。
‥‥

‥‥
そして俺には恐らく、もう1人、癒す女が必要だ。それは、なるべくなら子宮で癒す
禁断の母であって欲しい。年内にも「女の中の母」が現れないと破裂しかねない。

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